7

 夢は見なかった。目を開けてもまだ顔は熱かった。喉も痛む。シートベルトをしたまま眠ってしまっていたが、思ったより体は痛くない。体を起こす。よく見てみるとシートベルトは解かれていた。与田がやってくれたのだろうか。運転席にはシートを倒して眠っている与田がいた。眠っている人の顔をまじまじと見つめるのはなんだか失礼な気がして、視線を外す。外はもう真っ暗になっていた。眼前のコンビニが発する人工的な明かりだけが車内を照らしている。手を伸ばして、挿しっ放しだった鍵を軽く回した。時刻を表示させる。午前一時。午後七時過ぎに会ってから、ずっと与田の車の中にいたらしい。さっさと起こして、送って帰ればいいのに。与田はそれをしなかった。普通のバンドだったら。普通のバンドメンバーだったら、傍から見れば勝手な振る舞いをしていた私に対して、ここまではしてくれない。与田は、先輩とは違う。きっと。たぶん。おそらく。願望かもしれないけれど。
 はぁ、と息を吐いた。気だるさに押されて前かがみになって、首をもたげた。軽く目を瞑り、痛む喉に唾を押し込んでから目を開ける。足もとには細かな砂利が落ちていた。その体勢のまま何度か咳をしたところで、隣でもぞもぞと動く気配がした。
「れ? 沢崎。なんでお前がいんの?」
 思わず笑った。久しぶりに笑った気がした。
「与田が乗せてくれたんでしょ」
「ん、あ、あー……。あぁ……今何時?」
 かすれた声がだんだんと本調子に変わっていく。大きな欠伸を零した与田は、一旦ハンドルに寄りかかった。
「一時。ホントごめん、こんな時間まで付き合わせて」
「別にいいよ。どうする。まだ顔赤いけど。病院行く? 急患なんです! で通用するかな」
 与田が瞼を擦りながら体を起こし、シートを戻してベルトをはめた。私も与田と同じように、シートベルトをはめる。鍵が回されエンジンがかかり、暖房が噴き出して顔にあたった。
「何それ。家でいいです」
「家、知られたくなかったら途中で降ろす」
「ん。いい。家までお願いします」
「そうですか」
「なんで敬語?」
「沢崎が先に」
「使ったっけか」
「お前、頭に熱回ってんじゃねえの? 沢崎がぼーっとしてると、なんか、やりにくい」
 私はまた笑った。
「そうだよな。私がこんなだと、やりにくいか」
 頷いた与田はサイドブレーキを下げ、アクセルを踏んだ。
 眠る前に決めていた通り、与田の家を過ぎた時点で口頭で与田にルートを伝え始め、時折、右折や左折の指示を言った言わないの軽い口論になりながらも、どうにかアパートの駐車場に辿り着く事が出来た。車止めの縁石がないので、与田はサイドミラーと肉眼を頼りに車を停めた。与田の車でここに来た事はないのに、既視感を覚えるほど気配が酷似していた。あの夜と。与田に礼を言ってすぐ降りるつもりでシートベルトを外した。
「沢崎」
 そこで名前を呼ばれて、私は身を固まらせた。与田の方は振り返らずに、窓際に身を寄せたまま「なに」と返事をした。
「明日、様子見に来ようか? 熱が引いてなかったら、病院まで乗っけてってやるよ」
 しかし与田は、ハンドルとギアにそれぞれの手をかけたまま、そう言っただけだった。
「そこまでしなくていい」
 緊張の解けた私は苦笑いを浮かべて手をひらひらと振った。ゆっくりと扉を開けて、コンクリートに足をつける。車の外枠が邪魔をして、与田の首から下しか見えなくなった。
「風邪うつるし、私自身、色々あって苛々してるし。車んなかで愚痴るよ。行き帰りの間ずっと愚痴り続けるよ。与田のモチベーションが下がる話もあるかも」
「平気だよそのくらい」
 本当は申し出が嬉しかったが、社交辞令だと思ったので断りやすいよう投げやりに答えた。だが与田は、食い下がった。
「今まで通りバンドやりたいなら、来ないほうがいいって」
 私はもう一度断る機会を与田に作った。四年もバンドを組んでいるとはいえ、ライブハウスという同じ"職場"で働くだけのボーカルとドラムに、相手の体調を気遣う関わりあいはあるにしても、プライベートな愚痴を聞いたり、わざわざ風邪が治ったか顔を見に来るような関わりあいは存在しないし、片方が踏みこんでしまうとバンド全体のバランスが崩れてしまう事もある。それにまだ手をつけていない部屋の状況を訊かれたら、誰にも相談できない先輩の話も、どうしても言いたくなってしまう。私と同じように先輩と親交のある与田は、話を信じないかもしれないが、ショックは受けるだろう。
「部屋に入るわけじゃねぇんだから。様子見に行くぐらいで大げさ。そんなに俺と会うのが嫌なら家で曲作ってるけど」
「別に、嫌ってわけじゃ……」
「じゃあ問題ないだろ。正午くらいに見に来るから。昼飯はそれまで待っといて」
 口籠った私に淡々と言い放ち、与田はドアを内側から閉めた。間を置かずに車が走り出した。私は車の疾駆音が完全に消え去るまでじっと暗闇を見つめてから、駐車場の片隅に設置された外灯を頼りにしてアパートの自室へ戻った。咳き込みながら靴と上着を脱ぐ。与田は部屋には上がらないと言っていたが、この部屋を私の肩越しに見たらどう思うのだろう。CDはまだ部屋の中央から玄関にかけてを占領したまま。
 しかしCDの山の合間と合間を縫って布団に辿り着くと、そんなことはどうでもよくなった。とりあえずいまは、喉が痛くてだるい。枕元に落ちていたパーカーを掴んで羽織り、布団に潜った。


 目が覚めたのは玄関の木製扉をノックする音で、だった。最初は意識の遠くで聞いていたが、あまりにしつこく響くので起き上がった。起き上がるのは容易で、唾を飲み込んでも昨日より痛くなかった。額にも手をあててみたが熱くはない。あれ、と思った。治ったかもしれない。いくらさばさばしている与田とはいえ、寝起きで会う勇気はないから、扉越しに「今起きたからちょっと待って」と言い、顔を洗って歯を磨いた。様子を見に来るだけと言っていた彼をあまり待たせるのも申し訳ないので、化粧は下地だけを施して扉を開けた。眉毛は自前だから大丈夫だろう。
 扉を押し開けると、フェイクファーのついたジャケットを羽織った与田が、蓋との隙間からおたまの取っ手が突き出た片手鍋を持って立っていた。その姿を見てなんだか安心した。昨日と一昨日にあった出来事が遠い昔の出来事のように思えるくらい、優しい光景だった。
「おー、沢崎。やけに早かったな。化粧は?」
「うるさい」
 全開にしていた玄関の扉を引いて、細くした。
「そんな気にすんなよ。沢崎は元々薄化粧なんだし。俺はがっちりやる奴より沢崎くらいの化粧が好き」
「本当に来てくれたんだ。ありがとう」
 好みの話を無視し、礼を言った。好みに合うというのは嬉しいけれど、どう反応すればいいのか分からない。
「でもさぁ、ごめん。今起きたら、治っちゃったみたいで」
「もう治ったのか? 早いな。じゃあこれだけ置いて帰るわ。おかゆ。多めに作ったから二回くらいに分けて食べろよ」
「あー……。ありがとう。わざわざ」
 メンバーとしてのバランスを崩したくないから、風邪をうつしたら申し訳ないからと理由をつけて帰そうと思っていたが、与田の持つ片手鍋を見て、やめた。
「こんな汚い部屋でもよければ、上がってく? 多めに作ったなら一緒に食べようよ」
 さすがに部屋に上げたり上がったりした事はないが、今までも二人で曲を作ったりしてきていたから、そうと決めると、そこまでの抵抗はなかった。扉から手を離し、とん、と押す。扉が自然に開いていく。私は体を台所側に寄せて言った。
「……平気なのか?」
「うん。与田はね。水崎と中渡が抜けた後は二人で曲作ったりしてたし」
「そうだな。今さら変に意識することもないか。……けど、本当に汚ねぇな」
 与田はそう言いながらも、足を一歩踏み出した。狭い玄関で、与田の横顔がすぐ近くにあった。与田が気付くまでその横顔を少しの間見つめてから、部屋に上がった。
「CD、踏まないでよ」
「強盗にでも入られたのか」
「似たようなもん」
 適当に思い浮かんだことを言ったはずの与田に同意した。台所近くに転がっていた三脚机を手に取り、CDを避けながら居間に入る。右手で三脚机を持ったまま、部屋の中央のCDを左手で掻き分け、空いた場所に三脚机を置いた。後ろからついて来ていた与田が、そこに片手鍋を置いた。
「沢崎が悩んでる事って、もしかしてこの状況と関係ある?」
 部品の飛び出しているノートパソコンを軽く触った与田は、続けて壁に押し付けられた煙草の焦げ跡を触りながら言った。
「うん。あるには、ある」
「親……はさすがにここまでしないよな。彼氏はいないっつってたから、元彼?」
「こんなことする奴とは付き合わない」
 だいたい、元彼がいない。言いかけ、からかわれそうだったのでやめた。
「じゃあ誰だよ。本当に強盗なのか」
「とりあえず今はおかゆでしょ。せっかく作ってきてくれたのに、冷める」
 百円ショップで買い集めてきた食器のうち、深底の皿を二つとスプーンを二つ、取り出して三脚机の上に置いた。与田が深底の皿を手に取り、おたまでおかゆをよそう。よそったものを机に置き、次の皿。なんとなくこなれているよそり方だ。料理はするほうなのかもしれない。もうひとつの皿にもおかゆをよそった与田は、片手鍋の蓋を閉めて端に寄せた。
「いただきます」
 与田に向かって軽く手を合わせて言った。実家にいたときも自分の食事は自分で作っていたから、人の料理を食べるのは、ずいぶんと久しぶりだ。それだけで、なんとなく嬉しい。
「どーぞ。ただのたまごがゆだけどな」
 おかゆは想像していたよりも少し塩気の強い味付けで、想像していたよりも温かかった。与田はスプーンを何度も往復させ、最後は深底の皿に口をつけ飲んだ。まだ多少体が重い私は、一杯一杯ゆっくりとすくって口に運ぶ。おかゆに目を落としながら食べていたが、ふと視線を感じて上を向いた。
「なに」
「なんでも」
 与田は軽い口調で言い、散乱したCDに視線を投じた。そのうちのひとつに手を伸ばした与田は、嬉しそうな声を出した。
「お、マーシーだ」
 腕を組んだ真島昌利の腰から上が写った写真の横に、RAW LIFEと書かれたジャケット。
「ヒロトと組み出してからはボーカル譲ってっけど、いい声してるよなぁ」
 頷いた。
「ジェリィロォル、石炭運ぶ、ジェリィロォル、馬が走ってくー」
 与田が突然歌い出す。歌は上手いが、ソロ曲ではなかった。
「それはハイロウズで歌ったやつ」
 スプーンで与田を指し、間違いを正した。
「そっか。ソロは俺は政治家だとかか」
「そう、そっち。だけど与田、意外と歌上手いね。私がやるより与田がボーカル張った方がいいんじゃないの」
 笑いながら言って食べるのを再開すると、与田も笑った。
「無理、無理。沢崎以外のボーカルなんて考えらんない」
 はっきりと言われ、少し顔が熱くなった。ファンデーションを塗っていないから赤みがもろに出てしまいそうだ。
「そういうこと言うのは酔ってるときだけにしろよ」
 たしなめるように言ったが、与田はもう一度笑って受け流し、彼の周りを囲うCDを丁寧に重ね直し始めた。外装の損傷がひどいものは、わざわざ中身を確認してから重ねてくれている。割れた外装を見てしまうと、燃やされたノートのことも思い出してしまった。私はおかゆを食べることだけに集中するため、視線をたまごがゆに向けた。



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