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 初期からバンドのリーダー的存在だった与田が怒ったのは、バンドを組んでから初めての事だった。いつも私がミスをしても不機嫌な表情をするだけでカバーしてくれる与田が、今日は静かに怒った。言い訳はできない。全て自分のせいだ。だが、どうしても思い出せない。どうやって詞を作っていたのか、思い出せない。どうやってライブを盛り上げていたのか、思い出せないんだよ、与田。
 私は部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
「おう」
 急に、後ろから聞き覚えのある声に呼び止められて、私は慌てて鍵を開けて中に入り、扉を閉めた。
「逃げんなよ。お前、この間車に服置いてっただろ。それ返しに来ただけだ」
 深呼吸してから、言葉を返した。
「ちょっと待ってください」
 転がったままだった引越し用のビニールひもを拾った私は、部屋の奥に進んで行って、それから玄関に向けて大きめの声で言った。
「入っていいです」
 十日ぶりに見る、先輩の顔が玄関から覗いた。先輩は手にユニクロのビニール袋を持っていた。
「でも、居間から先には入ってこないでください。入ってきたらこれで首締めますよ」
 くるくるとビニールひもを解いて手に巻き付け、言った。半分冗談、半分本気だった。
「信用ねえな」
「あんなことしたの、先輩じゃないですか」
「悪かったよ」
「謝らなくていいです」
 ベランダと居間とを隔てるアルミサッシの右側を全開にして逃げ道を確保した私は、吐き捨てるように言った。平然と、何の気兼ねもなく私と喋っている先輩がそこにはいて、苛々した。お前のせいで、こっちは詞も浮かばなくなってるっていうのに。
「今日は報告があってよ」
 先輩は居間と玄関の境目の辺りに座った。
「メジャー、行けることになったわ。お前、応援してくれてたからさ。一応言っとこうと思って」
「へぇ。そうなんですか? どうして」
「俺らのデビューを蹴った会社の女子社員と付き合ってっから」
「は?」
 内心、どうでも良い報告だなと思ったが、予期せぬ言葉が次に来て私は思わず訊き返した。
「そいつ、使った」
 私は一瞬頭に血が上りその場に立ってしまったが、立ち上がっただけでどうにか堪えた。
「なるほどね。あんたみたいなボーカルがいるとこはそれくらいしねぇと上がって行けないわけか」
 皮肉めいた口調で、私は言葉をぶつけた。先輩は舌打ちした。
「あ? 誰に向かって口聞いてんだ?」
「お前だよ、お前。誰のせいで私が苦しんでると思ってんだよ。ずっと良くしてくれたあんたが、遊びであんなことしたからだろうが!」
「あれぐらいで喚くな。途中でやめただろ。レイプしたわけでもねぇのに」
「あれぐらい?」
 私は紐を握る手に力を込めた。
「沢崎、お前、勘違いしてんじゃねえの?」
 先輩はポケットから煙草を取り出した。
「お前に良くしてやったのは先の事を見越してだよ。ストック。こいつが化けたらメジャーに繋がりが出来るって思ってな。この間みたいな時のストックって意味もあったけど」
「なん……!」
「夢、見すぎだろ」
 先輩は、喉を大事にしろと散々私に言っていた先輩は、煙草を銜えて火を点け、立ち上がった。
「売れもしねぇバンドを未練がましく続けてんのが似合ってるよ、お前は」
 ビニールひもを放り捨てた私は、足もとにあった背の低くて軽い三脚机を持ち上げ、投げた。玄関に向かって歩き出していた先輩は気付かず、机の直撃を背中に食らった。先輩は床に倒れ込んだ。いつの間にか荒くなった呼吸が、肩を上下に動かす。
「他人の部屋で勝手に煙草吸ってんじゃねえよ!」
 呻きつつ起き上った先輩が、「てめぇ」と低い声を出した。右側を全開にしていたアルミサッシを通って急いでベランダに飛び出し、柵に手をかけ乗り越える。乗り越えた時には先輩も柵に手をかけていた。一階なので、先輩も躊躇なく柵を乗り越えるに違いない。先輩は、先程の会話で本性をさらけ出していたから、何をされるか分からないという恐怖心に煽られ、全速力で走り始めた。駐車場を抜けた後は土地勘を生かして住宅の庭から庭を駆け抜けて、とにかく走り続けた。後ろを振り向きもしないで、足がもつれて倒れるまで走り続けた。
 その甲斐あって、知らない家の庭、物置の手前で振り返ったときには、先輩の姿はどこにもなかった。体力を使い切った私は、喘ぎながら地面に横になった。頬を地べたに擦り付け、激しい鼓動と呼吸が収まるまでじっとしていた。この間の時のように泣きたくなったが、あんな奴のために泣くのは癪だったのでぐっと堪えた。


 暗くなるまで近所の子供が遊ぶ児童公園で過ごし、夜になってから動いた。まだ寒さの残る三月の風が、着の身着のままで飛び出してきた私に辛く当たった。鼻水をすすりながら部屋の前に辿り着くと、玄関の扉が開きっぱなしになっていた。
「帰った……」
 安堵して呟いて部屋に入り、後ろ手にドアを閉める。靴を脱ぎながら部屋を見やると、そこには変わり果てた部屋があった。煙草が数か所押し付けられた跡の残る壁に、部屋の中央に散乱しているのは、大切にしてきた数百枚のCD。中古で買って与田に直して貰ったノートパソコンはHDDごと破壊されていた。ノートパソコンのワードソフトで打ち込んだ歌詞を印刷してきたプリンターは、部品がはぎとられて中身が砕けていた。それらをどこか他人事のように眺めながら、ベランダのサッシが開きっ放しで風が吹き込んできていたのでとりあえず閉めようとすると、ベランダの外の地面で、灰が山積みになっていた。血の気が引くのを感じ、未発表の歌詞の構想や、好きな音楽の歌詞の一部、気に入った本の一節を書き"貯め"てきた十数冊のノートを慌てて探した。元々ノートの置いてあった書棚、布団の下、タンスの中、ファンヒーターの後ろ、風呂場、トイレ、水道、水道の下の収納スペース、CDが入っていた押し入れ。
 しばらく部屋を探し回った後、もう一度ベランダから外を覗いた。
 そこにはただの灰があった。私はアルミサッシを閉めた。どうして部屋に入れたりしたんだよ、お前。馬鹿か。まだどこかで先輩を信じようとしていた昼間の自分を笑った。笑うしかなかった。



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