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「沢崎」
 投げやりな言い方で呼び止められ、振り返った。
「なんだよ、今日のライブ。今日だけじゃねぇ。この間も、その前も。ここんとこずっとだ」
 与田は見るからに機嫌が悪い。アンプなどの後片付けをしている木戸も及川も、あまり良くは思っていないだろう。
「客から金取ってんだぞ、俺らは。もっとちゃんとやれ」
「絡むな。あれが精一杯なんだよ」
 汗ひとつ浮かべていない私に対し、与田は目付きを険しくした。
「なら、いい」
 私はその声を背に、控室を出、帰宅した。
 あれから何度か電話はあったが、先輩は一度も会いに来ようとはしなかった。私は先輩の電話番号とメールアドレスを着信拒否リストに入れ、アドレス帳からも消した。与田の話によれば、まだ先輩のバンドは続いているそうだ。余計な心配をしていた自分が馬鹿らしい。
 ただいま、と誰もいない部屋に入り呟く。荷物を放り出し服を脱ぐと、風呂場に入った。少し熱めにしたシャワーが勢いよく身体を濡らす。私は蓋のしてある浴槽に腰掛け、床を見つめてしばらくシャワーを出しっぱなしにした。裸の自分を鏡で見ると、先輩に迫られた時のことが甦って気が滅入る。いくらメジャーの話が反故になり自棄になっていたからと言って、あそこまで思い切った行動をとるからには先輩なりの確証があったのだろう。こいつは乗ってくる。こいつは多少強引にやっても体を許す。憂さ晴らしにはちょうどいい。確信して、仕掛けてきたに違いない。そう思われていたことが、何より悔しかった。先輩の歌に惚れ、先輩の事を尊敬した私は、一体、何だったんだ。
「ふざけやがって」
 呟いて、浴槽の蓋に掌を叩きつけた。天井を見上げる。鼻に温水が流れ込んできて喉に抜けた。むせた。
 次の歌詞提出予定は、三日後だ。この間の歌詞の修正と、新曲の作詞。それまでにある程度の物を仕上げなければ、随分前から立てられていた新曲を出す計画が遅れ、今回協力してくれる人たちにスタジオ入りを延期してもらうよう頼むしかない。だが、あれから、歌詞がどうしても思い浮かばなくなった。ライブをしても気分が乗らなくなった。今までに作詞した曲も、私の言葉だと自信が持てなくなった。再び俯いた私に、シャワーは温水を浴びせかける。
 髪だけ洗って風呂場を出て、服を着た。居間の電気とファンヒーターを点け、歌詞を書こうと三脚机に向かったが何も思いつかずに頭を抱えていると、机の端に置いていた携帯電話がバイブの振動で畳の上に落ちた。手を伸ばして中指の爪先を引っ掛け、引き寄せた。開くと与田のメールだった。『三日後 もし間に合いそうになかったら今言えよ 柏原さんたちにも延期要請する』。与田はまだライブの事を引きずっているのだろう。不機嫌が命令口調になって表れている。私は携帯を閉じ、またノートに向かった。何の気なしに縦棒を書く。線を書き足して四角にした。意味もなく、四角の中を塗り潰してみる。無意味だ。メール、着信、浴びる、浴む、女、シャワー、湯水、行水、歩く、歩み、馬鹿、アンプ、与田、不機嫌、怒る、怒り、ライブ、適当……。今日の出来事を思い返して一つ一つ動詞や名詞などに置き換えていく作業を延々と行ったが、何の進展もなかった。
 わけがわからなくなって、無意味な線を思い切り引いたら鉛筆の芯が折れた。そこでノートから視線を外す。ふと壁掛け時計を見れば午前四時半になっていた。鉛筆を放った私はファンヒーターを消して、布団に潜り込んだ。
 布団に入ってからもなかなか寝つけず、ようやくまどろんできた頃になって携帯電話のアラームが鳴った。午前中のバイト。髪を梳かして歯を磨いて顔を洗っただけで家を出た。普段は薄く化粧をするものの、今はそれすらもする元気がなかった。
 コンビニでの午前中のバイトは朝の出勤ラッシュをさばいた後、暇になる。その間にも、深夜のように漠然と周りの出来事からテーマを考えるのではなく、歌いたいテーマという点に絞って思い浮かべていくが、しっくりくるものが思い浮かばない。制服から私服に着替え、店を出て歩く道すがらでもそれは変わらない。自分が何を歌いたいのか、それすらも分からないなんてどうしようもないな。


 意地でも完成させようとして歌詞を探っていったが、結局、何も出て来ないまま当日になった。寝不足では浮かぶものも浮かばないと布団に入っても、歌詞の事が気になって眠れず、睡眠を取ることができなかった。目の下にできたクマはファンデーションを濃い目に塗って隠した。私は何も進展のない歌詞の書かれたノートを携え、スタジオに向かった。
 与田が予約を取った狭い部屋には、バンドメンバーのほかに、事務所つきのディレクターと、録音に関するアドバイスをしてくれるエンジニアがいるはずだ。歌詞が出来ていない事をひたすら謝るしかない。木目調の小奇麗な廊下を抜け、指定された一画に入る。
 扉を開けると、与田がドラムセットの中央に座り、木戸と及川がそれぞれギターとベースの調子を確かめている所だった。録音機材の前に置かれた椅子にはディレクターとエンジニアが座っている。
「遅ぇよ。五時間も過ぎてるぞ!」
 私の姿を見つけた途端、与田が怒鳴った。私はびくりと肩を震わせた。五時間? 怪訝に思って、慌てて携帯を取り出した。バイトの前に電源を切ったきりだった。与田からの新着メールが何通も入っていたメールの受信ボックスを下へ下へとスクロールして、一週間前あたりのメールを探す。以前与田が送ってきたメールには、しっかりとスタジオ入りは午前九時と記載されていた。午後二時だと思い込んでいたのは、次のライブの会場入りの時間だった。私は携帯をしまって与田に謝ろうと口を開きかけた。
「昨日の打ち合わせもすっぽかすし。あと二時間しかない。曲はもう決まったから、さっさと歌詞乗せるぞ」
 「打ち合わせなんてあったんだ」と言おうものなら火に油を注ぐだけだ。私はその言葉を飲み込んだ。与田が立ち上がり、スタジオの隅にあるテーブルへと移動した。楽譜が散らばっているテーブルに向け、木戸と及川ものそのそと歩く。ディレクターの柏原さんは暇そうに椅子を揺らしている。
「ご、ごめん、まだ、歌詞、出来てない」
 私はその場に立ったまま、言った。最悪のタイミングだと分かっていても、言い出すしかない。
「は?」
 言葉の意味が分からないといった様子で、強い口調で訊き返され、私はたじろいだ。
「歌詞、できてないんだよ」
「それは、しょうがない。じゃあ、修正した方を」
 与田は新曲には期待していなかったようで、少しトーンを下げて言った。しかしそれすらも、私は仕上げていなかった。
「ごめん。そっちも、まだ」
 その言葉を聞いて、与田は静かに立ち上がる。そしてゆっくりと私に近づく。
「なぁ。俺、三日前に、メール送ったよな? 無理だったら連絡くれって。俺らにだって予定ってもんがあるんだし、事務所の人たちは忙しい合間をわざわざ縫ってスカッドに関わってくれてんだよ。金もかかってる。なのに、それはないんじゃねぇのか? 悪びれもしないで気合の入ってない適当なライブばっかやって、新曲の打ち合わせには不参加、挙句の果てに連絡もなしに五時間も遅刻して、修正するだけの歌詞すらも完成してない?」
 今にも殴りかかってきそうな与田が怖くて、一歩下がった。しかし与田は、予想に反して小さな声で続けた。
「いいよ。今日はもう帰れ」
 与田は私に背を向けた。
「今日は終わりです。柏原さん、吉野さん、今日は本当にすいませんでした。次のスタジオ入りが決まったら、また連絡しますんで……」
「私は別にいいが。このままだといつまで経っても変わらないぞ」
 柏原さんはそう言って、立ち上がった。みんな、溜息混じりに帰り支度を始めている。
「よ、与田っ……」
 声をかけたが、無視された。私は与田の肩に手をかけた。こちらを向いた与田は、私の手首を掴んで、肩から外した。言葉はなかった。それが何より与田の心情を表しているように思え、私はそのままスタジオを後にした。



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