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 ライブが終わった後、髪も服もびしょ濡れになっていた私は、持ってきていた雨合羽を着て難を逃れた与田にお金を渡し、近場のユニクロで適当な服を見繕って買ってきてもらった。お気に入りの上着は、通り雨が降り出した時にバッグへ押し込んでいたから無事だ。既に上がった雨が草木の露となった公園の木陰で着替え、ユニクロの袋に脱いだ服を詰め、与田からお釣りを受け取り、先輩にメールをして打ち上げの場所を聞いた。手早く雑用を済ませた私は与田と一緒に指定された居酒屋に入り、座敷席に先輩の姿を見つけた。
「おぉ、沢崎、与田」
 先輩は広い座敷席に一人で座っていた。テーブルの上にはビールやつまみが散乱している。他のバンドメンバーはどうしたのだろう。
「ども」
「こんばんは」
「とりあえず座れよ」
 すぐにでも今日のライブの感想を伝えようと思っていたが、いつもとは違う様子に戸惑ってしまった。辺りを見回しながら、テーブルを挟んで先輩の正面にあたる席に腰を下ろした。与田は先輩の隣。
「俺が一人でいるのが珍しいか? あいつらは帰ったよ」
「帰った?」
 周りばかりを気にしていた私はそこでようやく先輩の目を見据えた。そこにライブ終わりの幸せそうな目をした先輩はいなかった。疲れたような、眠そうな眼差しで私の方を見る。
「メジャーの話、駄目になるかもしれない」
 先輩はそう呟いて、ビールテイスト飲料の瓶を一気にあおってから、テーブルに置いた。先輩の目の前にある食器から、箸が落ちた。
「は。酔っぱらってるんすか、先輩」
 隣にいる与田に視線が移る。
「今日は車だから呑んでねぇよ。飲酒なんかで検挙されたくないしな。本当の話だ」
 煙草を取り出して銜えた先輩は、火を点けた。
「ど、どうして」
 与田が重ねて訊く。
「知らねぇ。急にだよ。急に、ダメんなった。昨日、事務所のマネージャーが。俺らを推してくれてる社員さんから電話が来たって。社内会議で反対が多くて、デビューは見送りになったって言われたらしい。今日のライブ終わりまで黙ってたんだけどよ。他のメンバーにはさっき言った。したら、ケンカんなって、これだよ」
 煙草の煙を吐き出し、顎でテーブルを示した。吐き出された煙が、空調に吸い込まれて消えた。私は小さく口を開けたが、何も言えなかった。ざわつく店内の中で、ここだけ重い静寂が立ちこめそうな気配がした。
「そこ、メジャーレーベルとしては弱小なんだよな。あんま良くないって噂も聞いてた。けど、これはねえだろ?」
 まだ大して吸ってもいない煙草を灰皿の上で捻じり消す先輩の横顔は、澱んでいる。
「なあ。俺のせいかな。俺の力が足んなくて、皆の期待、裏切っちまったのかな?」
 先輩の視線が私へ向いた。私は与田を一瞥した。当然、与田は目を伏せる。
「えと、その……」
 私が、先輩のメジャーデビューを大騒ぎしていた中の一人だったから、先輩は訊いているのだろう。だが、何も言葉が出なかった。目が泳ぎかけるのをどうにか堪え、先輩を見つめ返したまま沈黙を守った。先輩は溜息を吐き、場違いなほど綺麗な指を動かした。二本目の煙草。右手の人差し指には光沢を抑えた鈍色のリングをしている。私は先輩が人差し指と中指の間で挟んで煙草を吸い始めると、そのリングに何か大切な言葉が書いてあるかのように、じっと見つめ続けた。
 だんだんと空調に吸い込まれきれない煙が漂ってきて、むせた。そこでようやくリングから視線を外すことができた。
「夢だったんだよ。ずっと。ガキの頃、親父に連れられて大阪のでっけぇホールに行ってさ。ストラマーが歌う姿見て、あそこに立ちてぇって思って、立てることだけ信じてやってきた」
 煙草にむせる私のことなど気にかける様子もなく、重い沈黙を引きずったまま、先輩が言う。
「六年やってこれじゃ、駄目なんだよ。同じ趣味の。俺を理解してくれる仲間と。いつまでも内輪で『今日のライブ、最高でした』とかやってるようじゃ、駄目なんだよ。仲間内からも、音楽のファンからもボロクソに貶されても、そいつらを通り抜けた、家でCD聞いてる奴らに届くくらいの場所、目指さねぇと」
 二本目の煙草が捻じり消された。先輩は、ゆっくり立ち上がった。
「打ち上げは中止だな。家まで送ってく。悪いな、辛気くさくて。自分でもまだ整理ついてねぇんだ」
 私と与田は、頷くことしかできない。
 似たような打ち上げの帰りに、与田と私は送ってもらったことがある。
 車には詳しくないので車種は分からないが、中古で買ったと前に言っていた。確か、BMWというメーカーの車だ。その後部座席に与田と座り、シートベルトを装着した。手に触れる革張りのシートは、さらさらしていて気持ちがいい。ルームミラーに映る市街地では、居酒屋やカラオケボックス、ホストクラブに風俗店までが雑然としたネオンを形成している。
「与田の方が近いんだっけか?」
「そうです」
「んじゃ、沢崎が後な」
 先輩は静かにアクセルを踏んだ。
 暖房のおかげで暖まり出した車内では、エンジン音だけが響いていた。活気を失った夜の道路で、スピードメーターが八十キロ前後をうろついている。渋滞に巻き込まれでもしたら沈黙に耐えられそうにもなかったが、与田と私の二人ともが市街から離れた場所に住んでいたのが幸いして、ただ家に着くのを待つだけの沈黙だった。与田とも話すことはなく、車窓に頭を預けて外の暗闇を見つめていた。先輩がメジャーデビュー、できない。高校の時、同じ軽音部の男子に誘われ見に行ったライブが、先輩のバンドのもの。この世界に入ったきっかけの、ずっと応援してきたバンドの夢が、とりあえずはひとつ叶う。その寸前で、全てがなかったことにされた。
 結成七年目。同時期に結成されたバンドの中には、一線級の活躍をしている者もあれば、音楽界を去った者もいる。メンバーの平均年齢も上がってきて、どうにかしなければ、という焦りは大きいはずだ。ようやくその不安が和らぎかけていたとき、報告をマネージャーから受けた先輩は、先輩から報告を受けたバンドのメンバーたちはどれだけ辛かっただろう。このまま、終わってしまうのか。あのライブが、最後のものになってしまうのか。嫌だ。後輩のボーカルからの、内輪からの『今日のライブ、最高でした』が先輩の望む答えでないとしても、私はそう、伝えたい。
「あ、これっす。このアパート」
 隣の与田が上目遣いに窓の外を覗き込んで指差し、車が緩やかに停止した。
「じゃあ、俺はこれで。わざわざありがとうございました」
「気にすんな。付き合わせて悪かった」
 深々と頭を下げた与田が、指差した方角へ歩いていく姿を、夜灯が映し出す。
 少しの間その背中を見送っていた先輩が、ルームミラーで私の様子を確認した。
「おう、前来いよ。後ろと前とじゃ、話しにくいだろ」
 場所を隔てなくとも会話は一度もなかっただろうが、先輩の勧めに素直に従い、シートベルトを外した。
「あ、先輩。私、家変わったんで」
 助手席に移り、シートベルトを着け直した私は、発進する前に、言った。
「ん?」
「この間のとことはちょっと違うんですよ。地図、ありますか」
 先輩はドアの下部についている収納スペースから、地図を取り出した。手慣れた動作で現在地近辺の拡大版のページを開いた。ページを開いたまま受け取り、転居届を出したばかりの住所へのルートを教えた。大丈夫そうですか、と言って先輩の方を見る。先輩の顔が意外と近くにあり、私は慌てて目を逸らした。微かに、煙草の匂いがした。
「前のは実家だったのか?」
「はい。家、出て、いまは一人暮らしです」
「へぇ」

 助手席が埋まった車内でも、会話はぽつぽつと途切れ途切れの世間話程度だった。
 今日のライブの感想をなかなか言い出せないまま、車は私が示した通りのアパートの駐車場に滑り込む。車止めの縁石がないので、先輩はサイドミラーと肉眼での後方確認を頼りにハンドルを切り、駐車した。
 感想を言おうか、やっぱりやめようか、少し迷って、シートベルトをすぐには外さなかった。
「沢崎」
 その間を感じたのか、先輩が、私の名前を呼んだ。無意識に先輩の方を向くと、頭を抱えられ、唇を塞がれた。左頬が鋭く痛んだが、口の中に先輩の舌が入り込んできて、それどころではなくなった。口内をなぞる舌がざらついて、唾液と唾液が絡みつく淫靡な音が車内に響く。突然のことに私は混乱して、少しの間キスに応じてしまった。冷静になって先輩のことを突き飛ばそうとすると、先輩は自ら唇を離した。解放された私の唇から、吐息が零れる。
 いつの間にかシートベルトを外していた先輩は、シートベルトをしたままで反応の遅れた私に、もう一度唇を近付けた。今度は唇ではなく首の辺り吸い付いた。私はシートベルトを外そうともがいたが、先輩の綺麗な指が私の左手首を捉え、動きを止めさせた。そのまま反対の手首も掴まれ、まとめられた腕は膝に押し付けられた。え、え、と思っているうちに、Tシャツの襟を思い切り引っ張られ、先輩は首筋から胸元へ舌を這わせ、伸びた襟から覗く乳房の上部を甘噛みした。軽く声を漏らして一瞬力の抜けてしまった私は、ライブの際の通り雨で濡れたブラジャーを外していた。
「せん」
 真正面にいる先輩に、もう一度唇を塞がれる。足を闇雲に動かそうとすると太腿の上に先輩の膝が圧し掛かってきて、続けざまに腕が真上に上げられ襟もとのたるんだTシャツは強引に私の身体から取り去られてしまった。先輩は私の両手首を左手で押し付けたまま、右手で私の乳房を優しく触り始めた。
「やめてっ……」
 唇を塞がれたまま、声を出そうと努力するが上手くいかない。それから先輩の右手がジーンズの太腿辺りに伸び、なぞった。私は形振り構わず暴れ、先輩に頭突きを喰らわせた。
「先輩!」
 一時的に解放され、ようやく大きな声を出すことが出来た。先輩の動きが止まる。どうすればいいのか分からなくて、私は先輩としばらく見つめ合っていた。
「家……上がってもいいか?」
 先輩から先に言葉を発した。私は泣きたくなってきて、無言で先輩の体を運転席に押し戻した。シートベルトを外す。
「メジャーなんて、また、目指せばいいじゃないですか……」
 先輩の目を見つめて、言った。大人しく押し戻された先輩は運転席に収まったまま何かを言おうとしていたが、私はその言葉が形になるまで待てず、静かに車から降りた。足早にアパートの自室へと向かい、鍵を開けて中に入る。そして後ろ手に扉と鍵を閉め、玄関にへたり込んだ。
 バッグから畳んでいた上着を取り出し、裸の上半身に直接羽織った私は、目に浮かんできた涙を堪え、鳴り出した携帯電話の着信音をただただ聞いていた。鳴っているのは、スカッドのライブで一番盛り上がらない曲を基に、先輩が遊びで作って送ってくれた着信メロディだった。



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