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 夜中に目が覚め、シャワーを浴びて着替えた。それから自分で買ってきておいた食材でおひたしとみそ汁を作り、三日前に冷凍したご飯の残りを電子レンジで解凍した。もし私が橙色の小さな電球の中でもそもそと食べている様子を母親に見られたら、また何か言われるに違いない。さっさと口に詰め込み、食器を洗う。あらかじめ部屋から持ってきていたバッグを肩にかけ、静かに家を出た。
 街灯を頼りに近所の小さな川沿いへ。バッグを礫の上に置き、いつもの指定席の大きな岩の上に座って身を縮めて、川のせせらぎに耳を澄ます。小さなころから、ここでこうしていると落ち着いた。初めて人前でライブをやることになった日も、一曲目の歌詞を度忘れして帰ってきたあとも、ギターとベースが脱退することになってバンドを解散しようか迷っていた時も、いつもここで川の流れに耳を澄ました。今日は、二月二十八日。夜が明けたら家に戻り、音楽を続ける旨と家を出て行く旨とを両親に伝えることになる。まだ痛みの引かない右頬のアザをなぞった。ここをまた殴られたら、痛いだろうな。
 なんとなく、先輩が唯一褒めてくれた曲を口ずさむ。ライブでは一番盛り上がらない曲だが、私の気持ちが歌詞に滲み出ている名曲だと言っていた。
 先輩の昨日のライブは、どうだったんだろう。先輩は、会場に詰めかけた観客を、どう扱ったのだろうか。大きな場所で歌った後の先輩は、いつだって幸せそうだ。今日は別の場所でのライブに観客として招待されていた。この朝を乗り越えれば、その幸せそうな横顔を、間近で見ることができる。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど、いい?」
 私は家に戻ると居間を覗き、何事か他愛ない会話を交わしていた母と父に、そう言った。
「なによ」
 昨日の怒りが引いていない様子の母が、棘のある言い方をした。
「私、今日で家、出ることにした」
 バッグから転居届を取り出し、テーブルに置いた。
「もう住む所は決めてあるから。音楽はやっぱり、やめられない」
「何、言ってるのよ……今月までにメジャーデビューの話が来なければ、やめるって言ってたじゃない」
「だから、家を出る。これ以上、母さんたちに迷惑はかけないから」
「そういう問題じゃないわよ!」
「じゃあ、どういう問題?」
 私は母親がなるべく苛立つような口調で訊き返した。
「あんな下品な音楽、私とお父さんは音楽だなんて認めた覚えはないって言っているの。ピアノやバイオリンだったら、反対なんてしないわ。でもあれは」
「下品で悪い? 人間のやることに下品も高尚もないと思うけど」
 レンタカーを使って少しずつ転居先に荷物を運び出し、今はほとんど何もない部屋に気付いたら、両親は呆れるだろうか、怒りを増幅させるだろうか。あとはベッドと中身のないタンスだけだが、持ち出せなかった場合のことも考え、近所の家具屋で目処はつけてある。
 母親と私の会話を黙って聞いていた父親がゆっくりと立ち上がった。体格のいい父親が目の前に立ち塞がり、気圧されて一歩下がったが、次の瞬間には襟首を掴まれ壁に叩きつけられていた。私は二度の喧嘩で何も反撃できなかった反省から、襟首を掴む力が増す前に思い切り右腕を振り抜いた。鈍い振動が父親の左頬から私の右手に伝わったかと思うと、父親の平手打ちがアザのある左頬を直撃し、床へ仰向けに投げつけられた。後頭部をしたたかに打ちつけ視界が揺れる。中途半端な反撃が、父親の神経を逆撫でしてしまったらしい。すぐに起き上がろうとするが、腹に容赦のない蹴りを入れられ、呻き声をあげる暇もなく連続して四度、蹴りが入った。自然に口が開き涎が垂れて顎を伝った。私が床に片手を突いて立ち上がろうともがいていると、両親の寝室へ続く扉の閉まる音が聞こえた。妊娠でもしてたら子供死んでるな、と心の中だけで呟いた。最後の連続した蹴りが時間差で痛み始め、私は泣かないようにするだけで精いっぱいで、しばらく片手を突いたままその場で固まっていた。
 痛みが引いた所で、私はゆっくりと立ち上がった。母親がこちらを見つめている気配がしたが、無視してテーブルの上の転居届を引っ掴んだ。ふらついた足取りのまま玄関に向かい、アディダスのスポーツタイプのスニーカーを履いた。踵の隙間に指を突っ込んで足を捻じ込むと、玄関の扉を開けて外に出て、後ろ手に閉めた。服の袖で顎の辺りを伝う涎を拭く。左頬が焼けるようだった。左耳でも耳鳴りがしている。先輩のライブが、今から楽しみで仕方がなかった。

 野外のライブ会場に着くとまず、人混みの中から与田を探した。電話で確認しておいたが、座席は隣だった。初期の頃のスカッドと先輩のバンドはよく一緒のライブハウスでやっていたから、与田も先輩とは親交がある。チケットは連番で取ってくれたのだろう。
「また、腫れてんな」
 顔を合わせるなり、雨合羽だけを持った与田は言った。
「平気、平気」
「何日か前もそう言ってたじゃねぇかよ。これ、酷いな」
 湿布を貼った頬に、与田が軽く触れた。私は思わず顔を顰めた。
「平気だっつってんの。頼むから触んないで」
「誰にやられた? 嫌なら無理に答えなくてもいいけど」
「親」
 あまり腫れている顔を見られたくなくて、俯き加減に言った。
「彼氏とかじゃなく?」
「うん。私、付き合ってる奴いないし」
「へえ、なんで、親が」
「バンドやってんのがバレて、続けるか辞めるかで揉めた。頭固いんだよね、うちの親」
「スカッドは別に格好とか普通なのに……何で怒られたんだよ?」
「何でかな」
 私は笑って言った。上着のポケットに手を突っ込み、野外会場の堅いプラスチック椅子に座った。
「さっき、同意貰って家から出たよ。ほんっとに平気だから。心配してくれてありがとう」
「や、別に……」
 それきり黙った与田も、少し経つと私の隣に腰を下ろした。
 扇状に広がった観客席から見下ろされる形になるステージでは、機材の設置を進めるスタッフさんが忙しなく行き来している。私と与田が座っているのは前から六列目の右端。座席によって価格が異なっているので野外とはいえ自由に場所を変えることが出来るわけではないこの会場は、彼らの音響調整のおかげで扇のどこにいてもほとんど変わらないパフォーマンスを享受することが出来るようになる。
 溜息を吐いた。この様々な人々が協力して生まれる熱気に満ちる場で過ごすことの、何がいけないんだろう。どうして下品だとか上品だとかに囚われて、この熱気を理解してくれないんだろう。父親のように、大企業の内部で昇り詰め社会に貢献することも一つの生き方だとは理解している。理解しているけれど、私はここに生きる寄る辺を求めたい。そして父親のことを理解しようとしている私に対して、なぜ父は私の言葉を聞きもしないで暴力的に排除しようとしたのか。考えれば考えるほど、あの父親の血が自分にも流れていることが、なんだか恥ずかしいことのように思えてくる。左隣に座る男が何度か咳をした。私は顔を上げ、右隣の与田の横顔を盗み見た。彼はじっとステージを見つめていた。私は左頬の腫れた顔を引っ提げたまま、与田と同じようにステージへ視線を向け、先輩が姿を現すのを待った。
 先輩は、いつもラフな格好で登場し、マイクスタンドまでゆっくりと歩いていく。多くの聴衆に拍手と歓声で迎えられた今日もそれは変わらず、聴き手全体に向かって「こんばんは、みんな、楽しんでってください」とだけ声をかけ、バンドのメンバーが配置に着くと早速、声を張り上げる。座席の決められた大きなライブ会場に慣れていない私は、初めはどう楽しんだものか考えながら聴いていた。しかし二曲目になると考えもせずに立ち上がり、周りの観客と同じように先輩の名前を呼び捨てで叫んではしゃぎ始めるしかなかった。どんな場所でも関係なく自分の音楽が出来るのが、やっぱり、先輩だ。



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