14

 朝の六時。石神井公園の近くにある、一時間千五百円で借りることができるらしい野球用グラウンドには、与田と私以外誰もいなかった。八時半集合なので当たり前といえば当たり前だ。
 先週末のライブ帰りに、与田から来週の土曜日、つまり今日の予定を聞かれた。新曲や過去の楽曲が売れ始めてバンドとしての収入が増えたぶん、アルバイトも減らしていたから、土曜日だけは確実に休みだった。そう答えると、草野球に誘われた。与田が大学時代に入っていた軟式野球のサークル仲間で集まることになったそうだ。つてを辿って十七人までは集めたらしいが、どうしても一人足りないということで呼ばれた。
 なぜ野球のルールも知らず経験もない私が草野球に誘われたのかは分からないが、運動神経には自信があるし、与田が困っているなら特に断る理由もなかった。
「ひとまず、これでボールを捕ればいい」
「それだけ? 捕り損ねたら相手に得点が入るんだっけか?」
 試合が始まると選手たちが控えるベンチという場所の近くで、与田から手渡されたグローブをはめた。少しざらついた指先部分を動かすと、グローブがしなった。
「違う、違う。細かいルールを説明するときりがないから、守備の時の沢崎は、転がって来たボールを取って、俺に向かって投げてくれればいい。やってみ?」
 学生の頃に授業でやったソフトボールをおぼろげに頭に浮かべながらグローブをいじっていたら、与田が下からゆっくりとボールを放って来た。慌ててグローブを突き出す。小さな放物線を描いたボールがグローブに吸い込まれた。ボールを落とさないように、グローブの中で手を握った。ボールの感触がグローブ越しに伝わる。
「んじゃ、今度は俺に投げて。上手で」
 与田の手首が、見本を示すように動いた。言われた通り、投げた。
「女投げじゃないな。上手い上手い。じゃ、みんな来るまで練習してっか」
 球が高く浮いた。腕を伸ばして捕球した与田は、徐々に後ろへ下がっていく。
 私は軽く息を吸った。夏の朝のこの空気は、大好きだ。気温が上がっていく前の澄んだ薫りがする。学生の頃、バスケ部の早朝練習に出た時の空気でもある。懐かしい。
 その空気を裂いて、与田の投げたボールが飛んできた。おっかなびっくりグローブを差し出し、ボールを捕まえた。
「攻撃の時は、打席に立ってるだけでいいから。軟球だけど、当たったら怪我するかもしれないし」
 そう言った与田に向かって、ボールを投げる。
「わかった」
 ボールが返ってくる。
「ありがとな、付き合ってくれて」
 ボールを投げる。
「いいよ」
 どうせ、与田が言ってこなかったら私からどこかに誘うつもりだったし。
 与田はボールを地面に叩きつけた。ボールが転がってくる。捕球した。手加減してくれているのだろうから大きなことは言えないが、グローブの扱いに少しずつ慣れてきたかもしれない。


「あれ、もういる」
「与田の隣に座ってる子、誰?」
「はよーっす!」
「与田だ! 懐かしいなぁ」
 与田に教えられて一通り基本的な動作の練習をし、少し疲れたのでベンチの中にある椅子に座ってうとうとしていた私は、その声に顔を上げた。隣に座っていた与田はその声に立ち上がり、ベンチから出た。
「おー、ちゃんと道具揃ってんな」
「俺が入ってる草野球チームから借りてきた」
 グラウンドに入って来た男は四人。それぞれに金属バットとグローブ、ボールにヘルメットなどの道具を分担して持っていた。
「ねえ、あの子、誰」
「は? ああ。沢崎。人数一人足りねえって言うから、連れてきた」
 私は欠伸を零して、立ち上がった。
「運ぶの手伝いましょうか」
 近寄りながら言った。
「あ、大丈夫大丈夫。自分の帽子とメットだけ取って」 


 十八人が揃った所で、試合が始まった。与田と私は同じチームになり、守備位置も近くしてもらった。野球は、それぞれのチームが表と裏の攻撃を繰り返す。攻撃側はダイヤモンド型に設置された一塁から三塁までの三つのベースを踏んで一つずつ進んでいき、三つのアウトを取られるまでに、四つ目のベースである本塁へと生還した人数を競うゲームだそうだ。与田がショートという、二塁ベースと三塁ベースの間の守備位置で、私はセカンドという、二塁ベースと一塁ベースの間の守備位置。
 試合はプレイボールと同時にお互いのピッチャーをタコ殴りにし合う打撃戦となり、八回が終わるころには十七対十五というスコアになっていた。これは普通の野球の試合ではなかなか見られない数字らしい。球が飛ぶのはもっぱら外野で、そのほかの雑事は与田がやってくれているので、私はまだ守備機会がなかった。
 そして今は私達のチームが最終回の九回表に一点を加えて、十八対十五。九回裏の敵チームの攻撃を抑えれば勝利、というところまで来ていた。私は七回打席に立っていずれも三振。守備機会なし。このまま終わったら何をしに来たのか分からない。打球がいつ来てもいいように身構えていた。
 九回裏の攻撃は四番から。ファーストストライクは落ちながら曲がる変化球。次は緩急を生かしたストレート。ど真ん中だったが空振り。打ち取れそうで少し気を抜いたが、そこはさすがに乱打戦の主役だった。膝元に落ちる変化球を打ったと思ったらもうボールが私の横を抜いていた。ライト前ヒット。
「今の、私のミス?」
 帽子を被り直して滴る汗を右腕で拭い、離れた位置にいる与田に、大きめの声で問い掛けた。
「あれは打球が速すぎる。追ってもヒットだった」
 頷いて、打者に向き直る。向き直った途端、五番打者は初球のストレートを叩いてセンターオーバーのランニングホームラン。あっという間に一点差になった。
 調子づいた敵打線は六番、七番打者も続けてヒット、ノーアウト一塁三塁。八番打者はまず同点に追いつこうとバントをしたが、速球を打ち上げてピッチャーフライ。
 打席に入った九番打者は相手チームの投手で左打ち。先程からこの打者は外野まで打球を飛ばせていない。来る確率は高いはずだ。
 初球はストレートを高めに外した。打者はぴくりとバットを出しそうになったが止まった。二球目はアウトコースにストレート。今度は空振りした。三球目は、キャッチャーがインコースに寄った。
「来るぞ。捕ったらこっちに投げろ」
 キャッチャーが構えた瞬間、与田が伝えてきたので、見様見真似で腰を落とし、ボールの行方に集中した。
 狙い通りのインコース。変化球を、バッターは引っ掛けた。打球が死んでいる。私は一塁ランナーと交錯しないように注意して走った。グローブで掴んでいる暇はなさそうだったので、ボールを直接右手で掴み、振り向きざまに与田へ向かって投げる。
 送球後、体勢を崩して地面に手と膝をついてしまったが、それは見事に与田のグローブに収まった。与田は二塁ベースを足で軽く触り、一塁ランナーのスライディングをかわしながら、ファーストへ向かってボールを投げた。
「っしゃぁ!」
 マウンドで様子を見守っていたピッチャーがグローブを叩いて吠えた。
「沢崎」
 いつの間にか近くに来ていた与田が手を差し出してきた。私はその手を掴んで立ち上がった。
 膝についた土を払うと、与田がこちらへ向かってグローブを突き出してくる。
「ほら」
「あ? ああ」
 促されてようやく気付いた。私も自分のグローブを差し出し、与田のグローブに軽くぶつけた。ハイタッチ代わりだろうか。
「沢崎さん今の守備すごかったよ! ほんとに初心者?」
 ファーストが近寄ってきて嬉しそうに言った。どうやら今のプレーで試合が終わったらしい。ノースリーブの襟を引っ張り上げて顔を拭いた。
「まぐれっす」
 べたつく汗と七打席連続三振のことも忘れ、私は笑顔になっていた。



「あ、沢崎さん」
 後片付けが始まり、一塁ベースを地面から持ち上げる与田を見ていると、先程声をかけてきたファーストが近づいてきた。
「ん」
「さっき聞けなかったんですけど、沢崎さんて、与田がやってるバンドのボーカルですよね?」
「へえ、よく知ってますね。そうですよ」
「スカッドの、ボーカルですよね?」
「そうです」
「あ……握手してもらっていいすか」
「え?」
 私が発した惚けた声に、一塁ベースを抱えた与田が振り返った。
「え、吉森、スカッド聴いてくれてんの? 俺も握手してやろうか」
「お前と握手して何が楽しいんだよ。気持ち悪ぃ」
 与田の申し出を丁重に断ったファーストが、期待に満ちた眼差しを向けてきた。握手を求められたことなどないから戸惑ったが、とりあえず右手を差し出してみた。がし、と音がしそうなほど強く握られた。右手首の骨折は二ヶ月も前に完治していたから手首の痛みは全くないが、握られた場所は少し痛かった。
「あ、すいません」
 それを察したのか、すぐに力を抜いて手を離してくれた。
「握手してくれてありがとうございました。これからも作詞とボーカル、頑張ってください!」
「はぁ、どうも」
 自分が握手を求められることにいまいち現実感がなく、気の抜けた返事しかできなかった。
「曲作ってんのは俺だかんな」
 一塁ベースを抱えたままの与田が言った。
「知ってる。歌詞カードに書いてあるだろ」
「CDも持ってんのかよ」
「テープで配ってた『旧車』から、この間出た『沸点』まで全部持ってる」
「それは、ありがたいけど……テープ、誰かから受け取ってくれてたんなら、声掛けてけよ」
「なんか、お前のこと久々に見たら、声出ないほど懐かしくなっちゃってさ。一人で浸ってた」
「うわ……」
「引くなよ、ホントに懐かしかったんだから。で、俺、その時ちょっとへこんでたんだけど、『旧車』と一緒に入ってた『ろうそく』って曲聴いたら、元気出たよ。『旧車』も『沸点』も最高だけど、一番好きなのはやっぱ『ろうそく』」
「『ろうそく』か……。渋い好みだな。俺も、一番好きな曲だけど」
「だよなぁ。あれ、沢崎さんの優しさがにじみ出てますよね」
「へ?」
 先輩が、私の内面が滲み出ていると嘯いていた『ろうそく』。先輩に部屋を荒らされた翌日、ライブ中にこの曲の歌詞が飛んで棒立ちになってからは嫌いになりかけていた。だが、この吉森という人も……与田も、一番好きだと言ってくれている。
 一人でにやけそうになっていた所で唐突に話を振られた私は、また惚けた声を出してしまった。
「かっ……可愛い声出すなよ」
「あの曲で元気出たなら、よかったです」
 与田の言葉を無視して、吉森に笑顔を向けた。



***



 石神井公園の中を突っ切り、与田が車を停めていた駐車場まで一緒に歩いた。また少し汗をかいた。
「結局、このグローブ、使わなかった。練習したのに」
「そっか、今日は外野ばっかにボール飛んでたからな。中継もベースカバーも全部俺がやっちったし……最後のプレーも手掴みか」
 与田の車の後部座席にあったうちわを借り、そこへ入れ替わりにグローブを置いた。
「疲れた」
 うちわで上半身を大きく扇ぎながら、見せたいものがあると言った与田を待つ。
「ほら、これ、今月の」
 インディーズ専門雑誌を鞄から出した与田が、それを渡してきた。私はうちわを与田に渡し、目次を開いた。後ろのほうの複数のアーティストをまとめて紹介するページだろうと見当をつけて、探す。予想通り、目次の一番下あたりに『スカッド』とあった。存在を主張しない、小さな文字で書いてある。
 ページを手繰り、スカッドの所を開いた。モノクロ刷りだが、一応、一ページは確保されていた。そこにはひと月前ほどに行ったライブの様子を写した写真が上下段に分かれて二枚あり、その隙間を、日記のような形体で書かれた文章が埋めていた。
『このスカッドというバンドを最初に見たのはとあるバンドの前座ライブで、だった。前々から噂は聞いていたものの、あまり興味はなかった。そこには、前座であるスカッドについてではなく、主役のバンドを取材する目的で訪れていた、そのはずだったのだが。アグレッシブな歌い出しから、疾走感のあるギターソロまで息を吐く暇もなく襲ってくる高揚感。一見すると清楚な少女のような面立ちをした沢崎愛の、決してがなるわけでもなく、それでも激情を伝えてくるボーカル。ともすれば走り気味だった及川安信と木戸良典のラインをまとめ上げる与田雅人のドラムテクニック。僕は冒頭の『旧車』から既に』
 そこまで読んだ所で、褒め言葉の連呼に食傷気味になった私は、本を閉じた。
「ジーンズにTシャツの奴見て、何が清楚だよ」
 うちわで私を扇いでいる与田が笑った。
「けど、その書き手が言いたいことも分かる。俺も最初会った時は、そんな喋り方だとは思わなかったし」
「駄目?」
「駄目とは言ってねぇよ。まーよかったじゃん、良く書いてもらえて。写真写りもいい」
 スピーカーに足を叩きつけている場面を下から撮った写真で、写りがいいと言えるのかは分からなかったが、とりあえず頷いておいた。
 それから与田に雑誌を返して助手席側に回ってもらい、運転席に乗り込んだ。
「家まで無事に辿り着きますように」
 小さく呟いた。いつも与田に運転させてばかりいるので、今日の帰りは私が運転すると言ってあった。
「不吉な願い事すんなよ」
 与田が不安げに私の手元を見つめている。それに気付かないふりをして、私は車を発進させた。



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