13

「ありがとうございました!」
 観客席に向かってお辞儀をしてから、照明が落ちるまで待って、木戸と左手を合わせ、次に及川と左手を合わせた。小気味の良い音が響く。与田とも成功を喜びあいたかったが、走り気味で実力を超える演奏をした木戸と及川に引っ張られた与田はドラムセットから崩れ落ち、仰向けで床に転がっていた。次の先輩のライブも続けて行うため、スタッフが飛び出してきて手際よく後片付け始めている。邪魔になりそうだったので、怪我をしていない左手の方で与田の右手を掴んで起きるのを手伝ってやった。
「お疲れ」
 ライブ中に笑った与田が頭をよぎり、妙に意識してしまった私は彼の手をすぐに離した。ぐっしゃりと汗でぬめった手だった。
「七曲でバテるとか……」
 膝に手をついて俯いた与田は肩を上下させながら呻いた。
「だから、力入れすぎだってば」
「だな。でも……最高だった。沢崎、やっぱお前、ライブの方がいい声出すよなぁ」
 与田はそこで顔を上げ、無垢な子供としか喩えようのない笑顔を向けてきた。
「それは、どうも」
 私はすぐに目を逸らした。
 片付けの手伝いを終え、先輩のバンドのライブは見ることなく場を後にした。帰ります、と言うとスタッフさんたちは驚いていたが、右手首の包帯を示すと納得してくれた。木戸と及川は残って見て行くらしい。包帯を緩めて右手首を確認すると、ぼこりとこぶのようなものが出来て、痛みが増してきている。来た時と同じように電車で帰り、途中で駅近辺の病院に寄ろうと思っていたが、そのこぶを見て、夜八時までやっている評判のいい整形外科がある病院へ、与田が急いで送ってくれることになった。
 与田がドラムを車に運び入れているのを黙って眺めている最中、バッグの中で携帯電話が鳴った。慣れない左手でディスプレイを開けば、着信は沙希からだった。
「愛? 今、もう愛の出番が終わったみたいだから出てきちゃった。ねえ、それよりさぁ、いいんじゃないの、そのバンド。スカッドだっけ? 音楽に興味ない私でもさぁ、最後の『沸点』って曲はもうなんかぐしゃぐしゃーってきたよ。CD、買う。別に愛のだからとかじゃなく」
 興奮気味にまくしたてる沙希の声が左耳に響く。左手だと持ちにくいなと思いながら、言葉を返した。
「なら、良かった」
「今日は久しぶりにライブなんか観て疲れちゃったから、明日、会おうよ。会って話したいし」
「うん。私も会いたい。待ち合わせはどうする?」
 解体したドラムの一部分を段ボールに詰めて運び入れている与田は、それを後ろの空きスペースに押し込んだ。 

 ライトに照らされた駐車場の入口で、一瞬だけ病院の看板が浮かび、車はそのあとすぐに停まった。私はバッグから財布だけを抜き取り、車を降りた。与田も車を降りて、鍵をかけた。
 診察受付があと数分で終わるということで、待合室には誰もいなかった。私は受付の女の人に言われた通りに初診のアンケートを手早く書き、渡した。
「名前をお呼びしますので椅子に掛けてお待ちください」
 そう言われてからほどなく、診察室の方から看護師の声が聞こえた。
 診察室に入って階段で激しく転倒した旨を説明するとすぐにレントゲン室への移動を促された。撮ってからはまた、診察室に戻った。
「折れちゃってますねー」
 レントゲン写真を掲示板のような所に張り付け、その右手首の辺りを指で円状になぞった医師が、
「骨に転位や変形はないみたいなので、固定して様子を見ます。骨折にしては割合軽症ですから、安静にしていれば二、三週間で治るでしょう。後遺症は残りません」
 滑らかな喋りで言った。それから、折れた骨の専門的な名前を告げられ、ギプスで手首を固定して貰った。勝手にギプスを外さない事、一週間後にまた固定のためにここへ来る事、激しい運動は絶対に避ける事、三つの注意を言付かり、帰された。
 与田がいる待合室に戻ると、彼は立ち上がって近づいてきた。
「酷かったのか?」
「ううん。骨は折れたけど、二週間くらいで治るって」
 暗い面持ちで訊いてきた与田に笑顔を向け、待合室の、一番会計に近い場所へ座った。与田もその隣に座る。
「十分、酷い」
「酷いか?」
 財布を出しておこうと思って左手でジーンズのポケットを探ったが、ポケットが小さいせいで無理やり押しこんだ財布が引っ掛かって上手く取れなかった。右手の方は、この慣れない左手よりも使いものにならなそうだ。ギプスを使っての固定のため指先はどうにか動かせるが、親指の付け根から肘の辺りまでがギプスに覆われ、器用には動かせない。
「与田、ポケットから財布、取って」
「もう支障出てんじゃねえかよ。頬の辺りにもアザ出来てるし。あー、本っ当に最低だよ、あいつ。また腹立ってきた」
「なんでお前が怒ってんだよ」
「別に理由なんかねえよ」
「わけ分かんないんだけど。なんで私にまで怒んの」
 抑えた声量で怒鳴った与田は、苛々した様子でジーンズの左ポケットに入った財布を抜き取ってくれた。
「ほら」
 抜き取った財布を私の膝の上に放り投げてから、今度は足を揺すり始めた。
「落ち着け」
 私が与田の太腿の辺りを左手で抑えると、それはすぐに収まった。本気で怒っているわけではなさそうだ。
「沢崎さん」
 受付の女の人に呼ばれ、立ち上がった。
 言われた金額を支払って、先に車に戻ろうとしていた与田に早歩きで追い付き、玄関先にある駐車場で、青い車の助手席のドアを開こうとしたところで動きを止めた。
「ありがとう、連れてきてくれて。最近与田のこと、移動手段にばっかり使ってる気がする」
「ホントだよ」
「怪我治ったら、今回やってもらった分、運転してやろうか? 免許は持ってるから。……あ、でもこれからはそんな機会、ほとんどないか」
 先輩とのいざこざがある前は、与田の車に乗ったりすることもほとんどなかった。そうだ。これからは、与田の車に乗ることもなくなるのだろう。街灯に照らされるこの青い車になぜだか愛着が湧いてきた。軽く車体を撫でた。
「この車、なんて言うの?」
「ホンダのフィット。書いてあるじゃん、ここに」
 そう言うと与田は車の後ろに回り込んで、一点を指差した。
「ホントだ」
「そんなんで運転できんのか?」
「余裕。かなり上手いって言われたよ、教官には」
「何で教官を引き合いに出す……。お前それ、免許取った時から人乗せて運転してないってこと?」
「うん」
「じゃあ無理だわ。こいつもまだ、スクラップにはなりたくないって」
 爪で叩かれた車体が高い音を鳴らした。
「いけるよ」
「万が一いけたとしても、代わる機会がないんじゃなかったのか?」
「ほとんど、ないだろうけど。……絶対ないとは、言えなくない?」
「どうだろうな」
 与田は投げやりに言い、運転席側に回った。
「適当にどっか寄って晩飯食ってくか。沢崎はどうする」
「ん、じゃあ、一緒に」
 やっぱり、もう、乗れないんだ。
「運転手さん。私、ハンバーグが食べたい」
 助手席に乗り込んで言った私に、運転席でシートベルトを着ける途中だった与田は溜息を吐いた。

 店に入ると、店員に人数を聞かれた。二名と答え、禁煙席を指定した。夕食時を過ぎてはいたが、部活帰りの高校生などで、ファミリーレストラン然とした店内はそれなりに騒がしい。店の一番奥の禁煙席に案内され、与田と私はそこに向かい合って座った。
 メニューと水を二つずつ運んできた店員が席を外すと、さっそく与田がメニューを開いた。ぱらぱらと一通りめくっただけの与田は既に決まった様子だった。私はツインハンバーグ&エビフライと、トマト煮込みハンバーグとで迷ったが、結局両方頼むことにした。ここ最近、ろくに使っていないから金には余裕がある。食欲は考えるまでもない。ライブ終わりは何でも入る。
 私は近くを通った店員を呼び、その二つを注文した。ライスなどのサイドメニューは頼まなかった。
「俺はチーズインハンバーグとクリームチーズのハンバーグと明太クリームパスタとライス大盛り」
 私のした二つの注文で終わったものだと思ったらしい店員が、慌てて注文用の端末を叩き始めた。それから注文を復唱した店員はタレを選んでほしいと言い、適当に答えるとそのまま厨房へ消えて行った。
「食うねぇ」
「沢崎も大して変わらない」
「腹減ったんだよ」
 私が言うと、与田は頷いた。
 少し、間が空いた。これからはこうして二人きりで話す機会も少なくなるだろうから、バンドや音楽に関係するもの以外で何か気の利いたことでも話題にしたい。最近の出来事を思い返す。
 しかしバンドや音楽の事以外で話題になりそうだったのは、飲み会で木戸に会ったことぐらいだ。これもバンドには関係している。まあそれでもいいかと思い、とりあえず話し始めた。
「そーいや、この間、友達に飲み会に誘われてさ」
「へぇ」
「したらそこで木戸に会ったよ」
「木戸? 話飛んだな。何で友達との飲み会に木戸が登場するんだよ」
「ん、男女混合だったから。陸高と丸高の出身者の五対五」
 水を口に運ぼうとしていた与田の腕が、一瞬動きを止めたが、すぐに動きが戻った。わずかな変化だった。
「それ、飲み会じゃなくて合コンじゃん。つーか、丸高とか言われても知んねぇよ」
 あ、と思ったがもう遅かった。話の流れが意図しない方へ傾いたのが分かった。
 何で五対五とか言ってんだよ。自分に対して舌打ちした。
「そっか。沢崎も出会いとか求めてんだ。もういい年だもんな」
「いや……」
「それで。相手は見つかったのか?」
「うん、だから、木戸が……」
「木戸? 木戸とバンド以外で会ったら新鮮で、また会いたくなったとか?」
「聞けよ、木戸は偶然会っただけで、だから、他の」
「さっきドラム片付けてる時に聞いちまったんだけど、会いたいとか待ち合わせとか言ってたな。携帯で」
「与田、違う」
「バンドやってると、なかなかいい奴は見つかんねぇよなぁ。見つけても同業者だとどうしても上手くいく気がしないし。そういう場所で相手見つけないと駄目なのかもな。でも、それで見つかったんなら……」
「だから違ぇって!」
 隣の席で食べていた家族連れが、全員揃ってこちらを見た。ひとりで勝手に喋る与田を軽く注意するつもりが、自分が思っていたよりずっと刺々しい声で、苛立ちを目いっぱい込めて怒鳴ってしまったような気がする。突然発せられた大きな声に驚いてしまった赤ちゃんが泣き出していた。私は家族連れの中の母親らしき人に向かって、小さく頭を下げた。
 こんなことがしたいわけじゃないのに。最後かもしれないんだ、与田と二人きりで、音楽と関係のない時間を共有できるのは。また普通のバンドメンバーに戻る前に、音楽の話をしている最中にはあまり見せない気の抜けた笑顔を、少しでも多く見ておきたい、憶えておきたいと思っただけなんだ。
 しかし私が怒鳴ったきり、与田は黙り込んでしまった。会話の糸口を見つけられないまま、遅めの夕食がテーブルに届くまでじっと、気が滅入る沈黙に耐えるしかなかった。


 いただきますと小さな声で言ってから、フォークに刺したハンバーグの欠片を口の中に放り込む直前になって、与田が口を開いた。
「ごめん」
 私はフォークを置き、与田を見た。ようやく糸口が見えた。
「……ううん。私も、いきなり怒鳴っちゃったし。それと、電話の話、あれは友達だから。飲み会誘ったのもそいつ。今彼氏いないって言うから、付き合ってあげただけ」
「あー……。そういう、こと」
「そこで木戸が出てきてさぁ、木戸、私を見つけた時、相当びっくりしてた。あの木戸が目ぇ見開いてたよ」 
「へぇ、それ、見たかったな」
 与田の顔が、徐々にほぐれてきた。よかった。
 フォークを掴んでハンバーグをばらした与田が、欠片を口に運んだ。
 私も与田にならって、ハンバーグを口に運んだ。
「あのさぁ、今度、梅、一緒に見にいかねぇ?」
「は?」
「だから、この間の公園。もうすぐ咲きそうだったから」
「そうじゃねえよ。なんで、バンドメンバーと、梅を見に行くんだよ」
「分かれよ」
 分かれよと言われても、用もないのにわざわざ梅を見に誘われた意味から考え付くのは一つしかない。
「何を」
 照れくさくて、素直でない言い方しかできなかった。
 タルタルソースのかかったエビフライにフォークを突き立て、齧った。
 しかし与田が次に発する言葉に気を取られ、味は全く分からなかった。



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