12

 目覚まし代わりの携帯電話のアラームが鳴った。スヌーズ機能のおかげで鳴ったのは五度目だ。今日は行かなくていいよ、行かなくても与田は分かってくれるよ。四度のアラームは毛布を頭から被ってやり過ごし、這い出す機会を逃した。五度目でようやくまともな思考回路が戻ってきて、呻きながら携帯電話に手を伸ばし時刻を確認した。九時五十五分。メールが入っている。与田かな、と思ってメールボックスを開くと、一番最初は沙希だった。
『今日レイクでライブやるんでしょ(絵文字) 気合入れて行きなよ(絵文字) もうチケット買ってあるし(改行) 始まったら頑張って応援する(絵文字) だいたいさぁ、なんで教えてくれないの?(改行) 今度会ったら説明して(絵文字)』
 中身を読んで、眠気が飛んだ。前座公演の事なんてどこで知ったんだろう。沙希にはバンド名くらいは教えているが、音楽には興味がない人だから、あまりこちらから観に来てくれと言うのも気が引けて、ライブに誘った事はなかった。同性の友人は今のところ沙希しかいないから、どうしても気を遣ってしまう。もう一度メールを読み返して、『ありがとう 気合入った』とだけ入力して返信した。私は布団を退けて起き上がった。
 行きたくなくなる事を予想して枕元に用意していた服に着替え、布団にもう一度座る。与田と木戸と及川もそれぞれメールをくれた。与田は『布団から出ろ』とだけ。『もう出た』と返信した。木戸は『前座だから気負う必要はないから』、及川は『リハーサル遅れるなよ(絵文字)』。それぞれに『ありがとう、大丈夫』『ちゃんと起きました』と返した。なんだかそれぞれのメンバーに心中を見透かされているようで可笑しくなって、笑ってしまった。
 やるしかない。気持ちを奮い立たせた私は、朝の雑事を手早く済ませて部屋を出た。
 
 
 早めに会場入りして行ったリハーサルも順調にこなし、あとは開場、演奏開始を待つだけとなった。
 割り当てられた控室は会場の二階で、先輩のバンドと同室だった。同じ事務所で仲も良いということで、わざわざ別の部屋を借りて経費をかさませることもないだろうという、手配した会場の割に貧乏くさい配慮だった。今までに経験をした事のない広さの会場で出来る嬉しさと、控室が先輩のバンドと同室という最悪の状況とに挟まれながら、私は黙り込んでいた。
 私から事情を聞いた後も先輩とは普通に接している与田が、私に話を振る先輩のバンドメンバーの質問を代わりに答えてくれたり、先輩が平然と私に話しかけてきて殴りかかりそうになれば、手に持っていた携帯電話から私の携帯電話に向けて発信し、会話を遮って退席しやすいようにしてくれた。
「すいません、電話が」
 と言って厚顔無恥な先輩のくだらない質問を遮断し、私は控室を出た。出た途端、携帯電話を廊下の壁に向けて投げつけたくなったが、与田の携帯電話と回線が繋がったままだったのを思い出して堪えた。ありがとう与田、と心の中だけで思って通話を切った。
 私に平然と話しかけることができる馬鹿のためにここまで苛々させられるのは、今回の出演があくまでもあいつの前座に過ぎないという、変えようのない事実がしこりとなって残っているからだ。しかし、無人の二階席までひとりで行き、音響調整もリハーサルも終えたステージを上から覗きこめば、嫌でも気合が入った。こんな場所でライブが出来るなんて思いもしなかった。こんな所で歌う事が出来る私は、幸せなんだ。今はそう思い込むしかない。
 しばらくステージを見つめていたが、溜息を吐いてから控室に向かって反転した。確か開場まであと十分くらいだったから、早めに下に降りておきます、とでも声を掛けてから退室すればいいだろう。
 控室に戻ると、残っていたのは木戸と及川だけになっていた。気を張り詰めていた私は拍子抜けして、及川の方を見た。
「先輩たちと与田は?」
「先輩たちはもう裏に行ってるらしい。与田は下の自販で沢崎用にポカリ買って来てる」
「そっか」
「七曲じゃ倒れねぇと思うけど、念のためとか言ってた。あいつってライブ前は心配性になるよな。沢崎限定で」
「私が頼りないからだろ」
 笑いながら呟き、
「私たちも下に降りてようよ」
 と続けた。及川は同意し、ヘッドフォンで耳を塞いで目を瞑っていた木戸の肩を叩いた。木戸は欠伸を零してヘッドフォンを外す。


 外に出て木戸と及川と一緒に歩き始めてから、ジーンズのポケットに携帯電話を入れっぱなしだったと気付き、引き返した。持ってきていたバッグに押し込んで控室を出て、二人に追いつこうと早足で歩いた。階段に差し掛かったところで、誰かが上がってくる気配がした。まだ開場までには時間がある。
「与田?」
 そう思って声を掛けたが、階段を上がって来た人影は先輩だった。私はすぐに目を逸らした。控室に戻ろうかとも思ったが、先輩も控室に戻るかも知れず、私は迷った末に降り始めた。先輩は一段一段上がってきて、私は俯いたまま階段を一段一段降りていく。視線が突き刺さるが、無視して通り過ぎることだけを考え、足早に降りていく。そして階段の途中で隣合う瞬間がやってきた。何かされるかと思ったが、先輩はそのまま通り過ぎた。
 私は、溜息をついて階段を下りる速度を緩めた。そこで、だった。背中を思い切り蹴られ、私は十数段ほど階段が残った場所から飛ばされた。声を上げる間もなかった。空中で咄嗟に手を突き出したが、衝撃は吸収しきれず、顎や額を打ちつけながら階段を転げ落ちて最後に後頭部が踊り場の床にぶつかって止まった。右手首の骨が嫌な音を出して曲がる感覚がした。舌と唇を強く噛んで、血の味が口内に広がった。
「リハーサル、いい感じだったな」
 じんじんと熱を帯び始めた右手を抑えながら、階上のねちっこい男を睨みつけた。
「前座なんだから、変に張り切らねぇでほどほどにやりゃいいんだよ。それと言い忘れてたけどよ。この間のこと、警察にチクッたら殺すから」
 奴はそう言うと階段をゆっくりと降りてくる。わざわざ私にこんなことをするために、戻ってきたのか。
「アタマどうかしてんな、あんた。器小せぇよ」
 喘ぐように絞り出すと、踵が胸の真ん中辺りに蹴り下ろされた。続けて腹にも靴が食い込み、それからは幾度となく蹴りつけられ、蹴られた場所を覚らていれなかった。
 どうにか壁際を向いて逃れようとすると、今度は背中を蹴り飛ばされた。
「机ぶつけられたときに出来た傷」
 今度は小突くように蹴る。私は丸めていた身体をよりいっそう丸めた。
「痛かったなァ」
 小突く。
「寝る時うつ伏せでしか寝れねぇし」
 小突く。
「ストレス溜まったわ」
 大きく蹴り飛ばす。堪えていたが、小さく口から呻き声が漏れてしまった。私は自由の利く左手で体中を触り、携帯電話を探った。しかし見つからなかった。そういえば、戻ったのは携帯電話を置いてくるためだったと思った時、肩と後頭部の髪とが掴まれ、引っ張り上げられた。すぐに肩から手を離したと思うと、後頭部の髪は引っ掴んだまま、壁に顔がぶつけられた。寸前で顔を曲げ、頬骨が壁にあたった。そのままの体勢で抑えつけられたまま、耳元に言葉が吹きかけられた。
「お前のその、音楽に真面目に取り組んでますって態度がうざってぇんだよ。必死こいて謝れば許してやっけど?」
「絶対いやだ」
 即答すると、一度、二度、三度、四度と壁に頬をぶつけられた後で、髪から手が離れた。そのまま突き飛ばされた。また階段を転がり落ちそうになり、どうにか手すりにしがみつこうとしたが、勢いを殺しきれなかった。鎖骨を手すりに強打した。痛む右手首のせいで踏ん張りも利かずに、背中から階段へと落ちた。再び後頭部を打った。
 私は、この男に何もやり返すことができない。怖い。怖いと思っていることが悔しい。悔しいのに何もできない自分が情けない。だが、体格がいいだけの初老の父親にすらも喧嘩で勝てない自分が、ここで起きあがって何になるだろう。涙が流れるのを抑える事が出来なかった。いくら啜っても、鼻水も零れてきた。私は仰向けのまま、惨めにも涙と鼻水を垂れ流していた。堪える間もなく、喉奥から嗚咽が立ち上ってくる。
「きったねぇ泣き顔」
 先輩は私を見下ろしたまま嘲笑うと、階段を下りて行った。私は咳き込んでから鼻を啜った。大丈夫、これでもう何もしてこない。これでもう、大丈夫。心の中で何度呟いても、吐き気がするほど打ちのめされた気持ちは消えてくれなかった。
「っく……だ」
 与田の言った通りだ。断ればよかったんだ。どうして、周りに迷惑がかかるからって、平気なふりして引き受けたんだろう。これで今日のライブが、不完全燃焼で終われば、それこそ迷惑がかかるのに。床に右手をついて起きあがろうとしたが、痛くて動かせなかった。私は左手をついて起き上がった。
 しゃくりあげるのをかろうじて堪え、階段を下りていく先輩が廊下を曲がるまで見つめていた。
「あれ、先輩。何してんすか、こんなとこで。そろそろ開場しますよ」
「ん。分かってる。お前も急げよ」
 先輩が廊下を曲った後、右手と蹴られた場所の痛みとでもう一度床に体を横たえたくなったが、与田の声が聞こえどうにか手すりに左手をかけた。何か言葉を言おうとしたが、暴力に晒されたばかりの体が震え、声が上手く出なかった。左手を手すりに預けたまま、震えが収まるまでじっとしているしかなかった。
 先輩とのやり取りの後、与田が階下に姿を見せた。
「沢崎?」
 ポカリスエットのペットボトルを三本抱えた与田は、それらを床に放り出し、階段を上がって来た。私は手すりにかけていた左手に力を入れ、立ち上がった。目が合うと、与田が目を大きく見開いた。それから与田は、何も言わずに反転し、階段を駆け降りた。
 やっぱり与田は、信用していい奴だった。しかしこのままだとその与田まで、巻き込んでしまう。私が、このライブを断らなかったせいで。全身の痛みに歯をくいしばって耐え、その後を追って駆け降りた。階段を降り、廊下を曲った先では、先輩が叫び声を上げて与田の身体を蹴り上げた所だった。
「訴えるから!」
 また震え出しそうになる体を律して、私は叫んだ。
「与田にそれ以上手ぇ出したら、警察呼んで事務所に訴えるから。メジャーの話も音楽活動も、お前の生き甲斐を全部潰すまで絶対に許さない!」
 先輩が動きを止め、こちらを見た。
「もう私に関わらないなら、今日でお前の事は忘れてやるよ。私が約束を反故にしたら殺しにでもなんでも来ればいい」
 私は精いっぱいの虚勢で先輩を睨みつけた。先輩は与田から手を離した。与田が体を折ってうつ伏せに倒れ込んだ。
 それから何も言わずに睨み合った後、先輩は踵を返して歩き出した。
 すぐに与田のそばに駆け寄ってしゃがみ、肩を揺すった。
「悪い……あいつ、強いわ、喧嘩。不意打ち一発しか入れらんなかった」
 与田は呻きながら仰向けになると、手をついてゆっくりと上体を起こした。
「カッコつけんなって言ったのに」
 それしか言葉が出て来なかった。与田のTシャツの肩口をぎゅっと握り締めた。


 控室に置いてあった応急処置セットの中の包帯を使い、与田に右手を強引に縛り上げてもらった。それ以外は唇や顎が切れたくらいで、際立った外傷はなく、そのままステージ裏に向かった。ステージに出た時のために、舞台袖にあったワイヤレスマイクを右手で握ってみようとしたが痛みに耐えきれずに落としてしまい、及川と木戸に手首の事を詰問される羽目になったが、階段で転んだという、ありがちだが事実をそのまま伝えてはぐらかした。左手でマイクを握り直す。少し違和感はあるが大丈夫だ。ワイヤレスマイクを脇に置くと、与田が他の二人の死角から、左手に軽く触れてきた。
「あんな野郎のバンドには絶対負けねぇからな。前座の方が良かったって言わせてやる」
「うん」
 私は与田の指を軽く握り返してから手を外し、その場で何度か軽く跳んだ。
 十八時半ぴったり。スカッドは、経験したことのない檜舞台に挑戦者として飛び出した。
「こんばんは。今日は私の先輩のバンドが目当てで来たのにごめんなさい。けど、全力でやるんで、見てやってください」
 リハーサルとは違う、人が入り切った会場をステージから眺めると、どこを見ていいか分からなくなった。仕方なく、ステージの上をうろうろしながら話した。
「じゃ、さっさとやって引っ込みます。全部で七曲です」
 与田がスティックで一、二、三と叩いた。「旧車」と木戸が言う。
 こう思うのは癪だが、あの男が居なければやっぱり私はこんな所で歌えるようになるまでには成長していなかっただろう。今日、あいつの目の前であいつを踏み越えることで、私はもう一つ上の場所を狙って行ける様な、そんな気がした。
「ろくでもねぇ新車はいらねぇ旧車旧車旧車が欲しい空を覆う腐ったガスは次代の夢だ人間以外は皆死ね!」
 もう考えなくても出てくるほど歌った曲のイントロで既に、私は確信していた。このライブは今までにない最高のライブになる。



*** 



「沸点」
 最後の最後で新曲のタイトルをコールした時、私は木戸、及川をそれぞれ一瞥した。二人は私が歌い始めるのを、最高の演奏で迎え入れようと待っていた。そして最後に見た与田は目が合うとふっと柔らかく笑った。既に早鐘を打っている私の心臓は、顔にまで血液を送らなければならなくなり、ますます鼓動の速度を上げて行った。
「最後の曲です」
 鳥肌が立つほど最高のメンバーとバンドをやれている。それが何より嬉しい。もう先輩への憎しみなどどこかへ飛んでいた。この瞬間があれば他には何も要らない。
 気持ちいいコトを気持ちよくやりたい。今の私を支配しているのは、その欲望だけだ。



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