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『まだ無名バンドですが視聴して気に入ったら手に取ってみてください。「スカッド」ボーカル、沢崎愛』
 店頭用の販促ポップの語尾をそう結んだ私は、マジックインキのキャップを閉じて、販促ポップと一緒に女の店員に手渡した。
「CDにサインは駄目でポップはいい。基準が良くわからないな」
「芸能人でもないのにサインなんて恥ずかしくて書けるかよ」
 及川にそう反論して、私は店員に向き直った。
「もう準備できてますか」
「あ、はい。出来てるはずですよ。このまま店頭の方へどうぞ」
 店の玄関の真ん前、歩行者天国になっている広い道路の隅っこへ出れば、既に与田と木戸がスタッフさんと一緒に装置を整えていた。野次馬が十数人、ちらほらと見受けられる。私と及川は視線を合わせてからそれぞれの場所に立つ。冬の終わりらしくない強い日差しが照りつける中、この道を通る人それぞれに予定がある。バンドに興味がない人も大勢いて、今日はその人たちの足をどう止め、どうCDへ興味を惹きつけるかの宣伝にウエイトが置かれている。なんだかいつものライブと違って、気合の入れ方に戸惑う。
「沢崎」
 呼ばれて振り返った。与田はマイクスタンドの隣まで来た。
「あの曲は外すように言っておいたから。三曲やって、さっさと帰ろう」
 小さく頷いた私は、与田がドラムセットにつき、木戸がギターを抱えるまで待ってから、前を向いた。
「あー……通行人の皆さんこんにちは。無名バンドのボーカルやってる沢崎です」
 その言葉に、通行人の足が緩まった。好奇の視線が集まったのを感じた。バンドの周り、邪魔にならない程度の距離に、野次馬が集まってくる。邪魔にはならないが、やりにくい。
「皆さんから見て左から、ギターの木戸、ドラムの与田、ベースの及川です。三曲やります。よろしく」
 マイクを外して下を向き「大丈夫」「歌える」と呟いたあと、一度だけ深呼吸した。


 幸い、歌っている最中に棒立ちになるような事もなく、無事に演奏を終える事が出来た。最後の曲は野次馬が邪魔で動けず、突っ立ったまま歌わなくてはならなかったのが少し不満だったが、結果として、前に作ったミニアルバムと新曲の予約、合わせて六十六枚の売り上げとなった。
 終了後は現地解散となり、木戸と及川は楽器を抱えてJRの最寄り駅に行き、私は与田のドラムセットをばらして青い車に運び入れるのを手伝った後でそのまま便乗した。
「帰りの電車代が浮いて助かるよ。色々壊されたから買い直すのに貯金しないと」
「そう。疑問に思ってた。お前さ、いきなりバイトだけで生活始めて大丈夫だったのか? あのアパート、家賃は安そうだけど……」
「安いんじゃなくて、格安。前に住んでた女の人があの部屋で自殺したとかで、ずっと借り手がいなかったんだって」
 あまり霊の存在は信じていないから即決した。与田は気味悪げな視線をこちらへ向けてからすぐ、運転に集中し直した。
「いくら安くても無理だわ、俺は」
 ハンドルを支える与田の手を見つめていた私は、外へと目を向けた。与田の手も、先輩に負けず劣らず綺麗だ。バンドを組み始めた頃はマメが出来て破れてを繰り返した部分が硬くなりごつごつして見えたのに、最近は握り方を変えたのかドラムを叩く際に受ける衝撃が外面に現れなくなっている。私も彼のように、昔と比較してすぐに分かるほど歌い方や作詞が上手くなっているのかどうか、自信はない。
 それからしばらく何も考えずにぼうっとしていたら、外の景色が段々と見覚えのあるものに変わり始めていた。最近、与田と居ると時間の流れが異様に早く感じる。
「与田、どこかに水飲む場所があったら一旦停まってくれない? 今日暖かかったから喉乾いちゃって」
 なんとなく、思い付いたことをそのまま呟いた。もうすぐ家なんだから帰ってから飲めよ、とでも断られるかもしれないと思ったが、与田は意外にもすんなりと了承して、ハンドルを切ってくれた。左折するはずだった交差点を右折してしばらく直進すると、寒さの合間に覗いた晴れやかな陽気に誘われたのか、子連れや犬を散歩させている人が多くいる公園が見えてきた。
 青い車から降り、所々に植えられた梅の木のつぼみが膨らみ始めた公園を、梅の咲いているところをそう言えばあまり見た事がないなと考えながら歩けば、それほどかからずに屋根のある休憩場所を見つける事が出来た。その近くには水道があった。蛇口を捻って軽く腰を曲げ、丸みを帯びた独特の突起から吹き上げてくる水を口に含む。ひやりとした刺激が喉を潤していく。
「梅がもう少しで咲きそう。後でまた見に来ようかな」
 顔を上げて右手の甲で唇の端についた水滴を拭き取り、ベンチに座る与田に笑顔を向けた。
「似合わねぇ台詞」
「俺さぁ、桜より梅が好きなんだよ。桜はこう、豪快に咲いて豪快に散って目立つけど、梅は静かに咲いて意識しないといつの間にか散ってるから。郷愁をそそるっていうかなんていうか」
「どこ出身だっけ。大学からこっちなんだろ?」
「そう、群馬。お前は?」
「へ? ここだよ。東京」
「あ、そうか、今まで実家に住んでたんだもんな。なんか東京って感じしねぇよ、沢崎」
「よく言われる」
 そう呟いて芝生に靴を少し沈ませたとき、犬の散歩をしている女の人が向こうから歩いて来るのに気付いた。その人の持つリードの先へと目を遣った。一瞬それがなんだか分からなかったが、黒い柴犬だった。目元の毛だけが白い。可愛い。
「珍しいですねぇ。黒柴」
 ただすれ違うのは犬好きとしてどうかと思ったので、もともとそちらの道に行く予定だったふりをして近寄っていき、話しかけた。私と同世代くらいのその女の人は、犬を連れているわけでもない私に突然話しかけられて少し驚いた様子だったが、
「そうです。よくわかりますね」
 と返してきた。それほど話すのが嫌ではなさそうだ。
「触ってもいいですか」
 黒柴は尻尾を激しく振り、両前足を地面にぴったりとつけて、お尻だけ持ち上げている。何だこれ。可愛すぎる。
「いいですよー」
 しゃがんで下手から触ろうとしたが、黒柴のほうは首を真下に向け、べろんべろんと手を舐めてきて簡単には触らせてくれなかった。
「人懐っこいですね」
 どうにか黒柴の舌をかいくぐり、首の下の皮に手を到達させた。その皮を引っ張るように撫でる。少しの間そうしていると黒柴の興奮が収まり、身体を寄せてきた。毛が柔らかで撫でている方も気持ちいい。
「そうなんです。いつもいつも、人が通り過ぎるたびに駆け寄ろうとして大変な騒ぎで」
 言いながら、女の人は目を細めて黒柴を見た。私は思わず笑顔になり、手を離して立ち上がった。
「じゃ、散歩の邪魔してすいませんでした」
「いえ。ほら、行くよ」
 女の人の明るい声に引っ張られ、黒柴は何度か振り返りながらも散歩を再開していった。私はそれを見送った後、黒柴のよだれが付いた右手をジーンズで擦った。
「かーわいかったなぁ、黒柴」
「うん。初めて見た」
 独り言のつもりで呟いたが、言った後ですぐ隣から言葉返ってきた。与田を見上げると目が合い、笑われた。
「なに?」
「なんでも」
 無理に苛立ったように訊き返してみたが、与田はまだ笑っていた。


「明日。本当に気をつけろよ」
 アパートの前まで送ってくれた与田は、私が青い車のドアを閉める直前に、小さな声で言った。
 明日か。バッグから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。店頭での宣伝や与田のおかげで今日は少し忘れる事が出来ていたが、どうあがいても明日は来てしまう。メジャーデビューが決まり、デビューアルバムの発売も決まり、何よりこの部屋をあれだけ荒らしたのだから、もう何もしてこないだろうとは思っていても、やはりなるべくなら会いたくはない。
 どうしてやられた側が、こんなに嫌な気持ちにならないといけないんだろう。



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