64 エピローグ(3) 殺し合うよりも


 カロル兵団では、ノルグ族とノルグ族以外は特に区別されていなかった。王国の支配から逃げだしたノルグ族もいて、ごく普通に溶け込んでいた。諸々の雑用や鳩の世話などの下働きは、ノルグ族の仕事ではなく、非戦闘員の人々が、自らの仕事の合間に率先して行っている。
 王都では、何もかもに活気がなく、ノルグ族に高圧的に接することだけが楽しみの人間が多くいた。そんな王都の淀んだ空気に長年浸ってきたイシュの目には、さまざまなことが新鮮に映った。テイニやナフドやカギラといった、魔王討伐隊で共に戦ったノルグ族たちも、同じように感じているらしく、すぐにカロル兵団の空気に馴染んでいった。
 けれど一部には根強い反感がくすぶっていた。魔族に支配されて攻撃を仕掛け、ミスティをはじめとしたカロル兵団の戦闘員に多くの仲間を殺された、元ノルグ領の兵士たちだった。
 彼らは遠方に移住するわけでもなく、かといって素直に指示に従うでもなく、ヴィラ砦の残骸に居座っている。そこを拠点に、畑を荒らし、非戦闘員たちから生活物資を巻き上げるなど、盗賊集団と化しつつあった。イシュはそんな彼らを何度か説得しようと、テイニたちとともに根城へ赴いたが、会うなり裏切り者と面罵され、説得どころではなかった。
 カロル兵団も、初めこそ、生き残った人間同士どうにか仲良くやりましょう、と下手に出ていたが、そろそろ我慢の限界を迎えるところだった。
 ついに討伐命令が下されようとしたところを、イシュたちが頼み込んで押し留め、一週間の猶予を貰った。
 魔王討伐隊に所属していたノルグ族や、ログナに命を救われたあと積極的に仲間を助けようと行動したノルグ族たちで、どうすれば説得できるかを話し合っていたが、特にこれといった案も出ないまま、ひとり、またひとりと、話し合いの場をあとにしていった。彼らも自分たちに割り当てられた仕事がある。
 一週間の猶予と合わせて休暇を貰った、イシュ、テイニ、ナフド、カギラだけが残った。
 四人は誰もいない深夜の食堂に集まり、燭台に灯をともして、顔を突き合わせていた。
「そんなに気に入らないなら、どこへでも行けばいいんだよ。あいつらの盗賊まがいのあのやり口、ほんとに気に食わねえ」
 ノルグ族であることから不当な扱いを受け続け、ノルグ族という枠組みがそれほど好きではないカギラが、投げやりに言った。
 同族意識が強いイシュとテイニですら言い返せずにいると、
「このままこうして膝を突き合わせていても、らちがあかないぞ。もう一日過ぎた。一週間なんてすぐだ」
 ナフドがやや苛立ちを含んで呟いた。
「だからって無策で行っても、いつもみたいに突っ返されるだけでしょうが、ナフドさん。だいたいなんで俺たちが下手に出なきゃいけないんだ。あいつらだって、北部城塞でたくさん殺したじゃないか。自分たちがやられた時だけ被害者面かよ? 殺された奴の中には、ノルグ族だからって差別しないで、ちゃんと接してくれた奴もいたのに」
 苛立ちの頂点を迎えつつあるのか、だんだん、熱を帯びてくる。
「カギラ」
 イシュは咎める意味を込めて名前を呼んだ。すると彼は、何も言わずに立ち上がり、仮宿舎の方へと戻って行ってしまった。
 もうすでに夜も更け、三人を照らしているのは夜警用のかがり火だけだった。
 誰も、何も言わなくなってしまった。
 しばらくして、
「もう夜も遅いし」
 と、テイニが解散を呼びかけようとしたとき、
「まだやってんのか、お前ら」
 イシュは背後からかけられた声にびくりと肩を震わせて、そちらを振り向いた。
 ログナだった。
 ログナは特にこだわりもなく、イシュの隣に座ってきた。
 イシュは少しだけ心音が乱されるのを感じたが、抑え込んで、頷いた。
「どうしても、説得できる方法が思いつかなくて……」
 ログナも頷く。
 彼はしばらく何も言わずに、ろうそくの微かな火に手をかざしていた。
 来てくれたのは心強いが、また、新しい沈黙者が増えるだけでは、どうにもならない。
 改めて解散を呼びかけようとしたとき、
「晩飯のとき、ルーアとトライドと会ったんだがな、ルーアが面白いことを言ってたんだ」
 それを見透かしたかのように、ログナが口を開いた。
 ルーア。
 彼女なら確かに、自分たちが思いつきもしないような、突飛な方法を思いついてくれるかもしれない。
 もう、今までのようなわだかまりは、ルーアに対してはあまり抱いていない。彼女が死にかけたあの時以来、普通に話せるようになった。
「もう徹底的にやり合っちゃえばいいんですよ、だそうだ」
 イシュは少しでも期待した自分が恥ずかしくなり、ため息をついた。
「あの子らしいと言えばらしいですね。でもそんなの、討伐と同じじゃないですか」
 ログナは笑いながら、イシュを見た。
 イシュは目を合わさないよう、ログナの首のあたりに視線をやった。
「あいつが言ってたのは、殺し合いじゃない。戦いだよ、戦い」

 それから丸四日かけて、イシュたちは、戦いの舞台を整えた。会場の設置、道具の用意、非戦闘員への周知。兵士たちまで駆り出すことにはクローセが渋い顔を見せたが、ログナが強引に押し切り、その日は、警備を除くほとんど全員の兵士に休暇が与えられた。
 準備を始めてから五日目――討伐の猶予まで、今日を含めて残り二日となった朝、物見櫓の鐘が、三度、ゆっくりと鳴らされた。
 ヴィラ砦の残骸で、一番高さのある石壁には、『大競技会』と、大きく書かれた布がぶらさがっている。
 ヴィラ砦の残骸の中で広く開いた敷地にはすでに、さまざまな競技のための道具、場所が用意されていた。
 イシュは槍投げで使う槍の強度を手で確かめながら、周りを見渡した。
 槍投げ、武装競走、短距離競走、馬車引き競走の、身体能力を競う各種競技。武術、剣、弓の技術を競う各種競技。参加者全員で綱を引っ張り合う綱引き競技。そしてそれでも決着がつかなかった場合の競技の準備が、万全に整っている。この競技大会の計画は、カロル兵団に吸収されたノルグ族たちはもちろん、ログナやトライド、そしてヴィラ砦に居座るノルグ族たちの協力も得て、進められてきた。
 カロル兵団の兵士たちと、ヴィラ砦側のノルグ族兵士たちによる競技大会。
 餌は、ヴィラ砦側のノルグ族が勝利した場合、自治領地の設立をカロル兵団が徹底的に支援する、というものだ。逆に、カロル兵団側が勝った場合には、ヴィラ砦側のノルグ族たちは大人しくレイエド砦やグテル市で生活を始めることになる。
 ヴィラ砦側のノルグ族兵士たちが、もうひとつの条件として、カロル兵団幹部の、技術競技参加見合わせを要請してきたので、それも受けた。
 幹部を除けば、それほど各種の技術に差はない。
 正真正銘の、一発勝負の戦いだ。
 まだ朝の底冷えが残る会場に、人が集まり始めた。瓦礫を再利用して作った椅子が、順調に埋まっていく。見物席は五段組みで、競技する人々を見下ろせる形になっているので、戸惑いながら、人々は階段を登る。好天に恵まれて、集客は上々だった。復興のさなかであまり目立った娯楽もなく、飢えているのだろう。革の鎧を見につけた兵士たちの姿もある。
 続いて、出場する選手たちも、ちらほらと会場に姿を見せ始めた。出られるのは一人一種目まで。一種目に出られる人数は、カロル兵団と、ヴィラ砦側のノルグ族、それぞれ三名まで。六名が七種の競技、合計で四十二名が選手として参加する。剣術競技に参加するイシュは、競走に参加する兵士たちが入念に体の具合を確かめているのを横目に、会場に人が集まり切るのを待った。
 そして観客が集まりきったと判断したイシュは、同じく待機していたログナに合図を送った。
 ログナは競技場の三方を囲む観客席のほうへ歩いていき、そのちょうど真ん中あたりに設置された台の上に乗った。
「今日は、前もって予告しておいた通り、大競技会を行う。ここでカロル兵団が負ければ、ヴィラ砦にいるノルグ族の独立を支援する。逆にカロル兵団が勝てば、彼らにはカロル兵団の一員として、復興に従事してもらうことになる」
 ログナは一息入れてから、怒声を張った。
「いいか、全力でやって、ぶつかって、それで終わりだ! 結果がどちらに転んでも、事前の約束を違えてはならない!」
 そして観客席を見渡したあと、さらに大きな声を出した。
「ここに、大競技会の開催を宣言する!」
 静まり返った朝の空気に、ログナの力強い声だけが響き渡る。
 観客席から、それなりに大きな拍手が起こった。
 ログナは台から降りて、その台を、トライドとともに会場の端へ運んでいく。端に置かれたその台の上には、ナフドが乗って、種目の説明を始めた。
「第一種目、武装競争。この競技は、重武装したまま、向こうの折り返し地点まで走り」
 向こうの方で、係員のひとりが手を振った。
「最も早くここへ戻って、終点へ置いた花飾りを手に取った者を勝者とする」
 いつもの革の鎧ではなく、グテル市の倉庫に残っていた重々しい鎧を身にまとった兵士たちが、床に置かれた縄の手前に足を並べる。
 その後方に花飾りが置かれて、兜の目の部分を押し上げて花飾りの位置を確認した参加者たちは、横一列に並んだ。
 兜まで被って完全武装しているので、誰が誰だかわからない。観客席からは、頑張れよ、負けるなよ、など、当たりさわりのない声援が飛ぶ。
「用意。始め!」
 ナフドが言うと同時に、鐘つき係の者が、思い切り鐘を叩いた。
 一斉に選手が走り始める。一人だけ際立って早いものがいて、それはどんどん他の参加者を引き離していく。すぐに折り返し地点までついてしまった。
 しかしさすがに折り返し地点までいって体力が厳しくなったのか、復路ではへろへろになっていた。序盤で稼いだ二番手走者との差をどんどん詰められ、花飾りの手前ではほとんど競り合うようにして走っていた。
 けれど最後までどうにか逃げ切り、一番手走者は花飾りを掴みとった。
 その瞬間、会場が予想以上に沸いた。
 走者は、兜を脱いで、花飾りを掲げた。
「一着、ヴィラ砦所属、スウェロー!」
 読み上げられた名前は、カロル兵団の者ではなかったのに、観客席は静まり返るどころか、立ち上がって拍手する者すらいた。
 二番手走者の、カロル兵団の三番隊隊長、ウィルフレドは、心底悔しそうに、うなだれている。
 これは、予想以上に、盛り上がる大会になるかもしれない。
「第二種目、弓術! 参加者は所定の位置へ!」
 空気が落ち着いたところで、ナフドが競技を進行させた。
 弓術は、用意された的の中心、あるいは中心に近い場所を、何度射ぬけたか競う競技だ。的の中心からの距離は物差しできちんと計測される。三度放って、より中心に近い者の勝利だ。この競技には、カギラが参加したが、惜しくも二番手に終わった。一番手はヴィラ砦側の兵士だった。絶対に負けたくないと思っていただろうカギラの悔しがりようは、見ているこちらも気の毒に思えてくるくらいだった。
 第三種目は槍投げだった。カロル兵団からは、槍の投擲《とうてき》を戦術に取り入れている、テルセロが選手として登録されていた。テルセロは絶叫とともに槍を投げ飛ばすと、二番手に大きく大差をつけて、優勝した。テルセロは、
「お前の分もぶつけてきてやったぞ」
 と、カギラの肩を叩き、沈んでいた彼と、開始早々の二連敗を受けて動揺していた観客たちを喜ばせた。
 続いて行われた馬車引き競争は、名前そのまま、普段は馬車が曳いている車を、参加者が、所定の位置まで引っ張っていく競技だ。車には人間の代わりに、重さを均等にした岩がたくさん積まれていて、引っ張って進むには、かなりの力が要求される。カロル兵団から参加したのはもちろんログナだった。開始位置からほとんど動かすことができずに笑われる選手がいる一方、怪我が治ったばかりの彼は顔を真っ赤にしながらぐんぐん車を引いていき、カロル兵団に二勝目をもたらした。イシュは顔には出さなかったが、心の中ではそれなりに嬉しさがこみ上げ、小さく拍手した。
 剣術では、縄を編み上げて作られた、当たればあとがつく程度の、いびつな剣を使って試合が行われた。これは、突き技は禁止で、相手の首に横から一撃を与えた方が勝ち、という少々野蛮な競技だったが、特に優れた使い手も参加していなかったので、イシュは淡々と優勝した。
 三勝二敗となった第六種目は武術。十数えるまでの間、相手を地面に抑え込んで、身動きさせずに押さえつけていたほうが勝ち。ここで勝てば一気にカロル兵団の有利に傾くところだったが、そううまくはいかずに、敗退してしまった。
 勝利数が並んだなかで行われたのは、第七種目の短距離走。
 ここにはなんと、怪我が癒えたばかりのミスティが強行出場した。もちろんイシュは知っていたが、実際に参加するのかは半信半疑だった。
 ミスティの人気ぶりを示す、
「団長! 団長!」
 の大合唱の中、彼女は、ともに参加するトライドの隣に並んだ。
 落ち着いて開始の号令を待つトライドは、魔物との戦いで実力を発揮できなかっただけで、もともと、優れた身体能力をもっているらしかった。
 対するミスティは靴に手をやって右膝を曲げ、左膝を曲げた。そしてぴょんぴょんとその場に跳ねる。
 やる気は十分のようだが、単純な身体能力では、女はどうしても、男に負けてしまう。ミスティも、他の五人に大差をつけられて負ける、そのはずだった。
 けれど、膨大な魔力の恩恵を受けたミスティに、常識は通用しなかった。彼女は遅れることなく五人の男たちについていった。
「何であんなにはええんだ団長!」
「団長すげえ! 化けもんだ!」
 イシュの耳はそんな声をいくつも拾った。
 最後にはトライドとミスティの一騎打ちになったが、結局トライドが逃げ切り、優勝した。
 それでも、会場は大盛り上がりだった。
 第八種目に勝てば、カロル兵団の勝利が確定する、という綱引き競技だったが、ここでもヴィラ砦側の兵士たちは粘った。
 最初は会場の声援を味方につけたカロル兵団のほうが有利だったが、声も息もぴったり合った相手の引きに、カロル兵団は徐々に旗色が悪くなり、最後には、大きく崩されてしまった。イシュも、手がすりむけるほど力を込めて引っ張ったが、カロル兵団の先頭が、引かれた線を越えてしまった。
 四勝と四勝。
 その場合に備えて、最後の第九種目が用意されていた。
 継走だ。
 特に優れた四人の走者をそれぞれ出し合う、変則的な短距離競走。
 事前に距離を測って杭打ちをしておいた。それを目印に、土魔法の使える係員たちが、内側を走れないよう、脛の辺りの高さまで土を盛り上げて固めていく。
 いずれの辺も同じ距離の、正方形の走路が、作り出された。
 第一走者は一直線に向こうまで走り、辺の端で待つ第二走者と、はっきり音が出るように手をぶつけ合う。第二走者は向きを変えて走り始める。それからは全部同じように走り、終着点に置かれた花飾りを手に取った方が勝ちとなる。
 くじ引きの結果、内側をヴィラ砦側、外側をカロル兵団側が走ることになった。
 これまでの盛り上がりが嘘のような静けさの中、第一走者のウィルフレドと、ヴィラ砦側の兵士が、所定の位置についた。
「用意はできたか!」
 ナフドが怒鳴ると、それぞれの場所に陣取る走者たちが、手を挙げた。
 イシュの目の前にいる、第四走者のトライドも、緊張した面持ちで、その手を挙げた。
「では……用意! 始め!」
 鐘がこれまで以上に大きな音で鳴らされた途端、互いに一歩も譲らない、拮抗した競走が繰り広げられた。
 静まり返っていた会場が、一気に熱を帯びていく。
 ウィルフレドの名を叫ぶ者、頑張れ頑張れとからした声をぶつける者、声にならない声を上げ続ける者。
 ほとんど差のないまま、第二走者へ繋がれる。槍投げで大活躍した第二走者のテルセロは、やや分が悪かった。懸命に追うが、少しずつ引き離されていく。見た目にもわかる差をつけられて、第三走者のミスティへ。彼女は終始安定した走りで、その差を詰めたが、結局追いつくことができないまま、ミスティからトライドへと、カロル兵団の勝利は託された。途端に、最終走者のトライドが、ぞっとするほど真剣なまなざしに変わったのを見た。
 力を尽くしたミスティが、減速できないまま、イシュの足元に転がってきた。
 ミスティのそばに寄って手を貸しながら、イシュは今更のように思った。
 このふざけた競技会には、ノルグ族の未来がかかっている。こんな競技会で、現実の未来そのものを決めるなんて、馬鹿げている。馬鹿げているが、討伐という名の殺し合いよりはずっとましだと思って、ログナやイシュたちは、この方法を選んだ。
 ここでもし負ければ、数十年後、数百年後、大きな禍根となって残るだろう。ノルグ族はまた、ノルグ族以外の民族と争う道に向かってしまう。
 そんなことは、もう、嫌だ。
 歴史は繰り返すのだとしても、絶対に繰り返させてはいけない。
 人が人を奴隷として扱い、憎悪を向け合うような、あんな歴史は。
「勝って! トライドくん!」
 イシュは、思わず、彼のその背中に向かって怒鳴っていた。
 ヴィラ砦側の兵士とトライドは、ほとんど並走しているように見えた。
 二人の走者が同時に、身をかがめて手を差し出した。内側を走るヴィラ砦側の兵士は右手を、外側を走るトライドは左手を。
 そして左手が、高々と掲げられた。
 会場の歓声はその瞬間、最高潮に達した。
 イシュも思わず、拳を握りしめた。
 ミスティが喜びのあまり、こちらに抱きついてきた。驚いて、彼女の小さな体を見下ろした。白に近い、薄い色をした金髪が、すぐそばで跳ねていた。小さな子供のようにはしゃぐその女は、これからの人類の導き手となるかもしれない女だった。
 闇魔法を使わないときに、この拳を握りしめたのは、無表情を作るようになって以来、初めてのことだった。
 ノルグ族以外に抱きつかれたのは、生まれて初めてのことだった。

 翌日――討伐の猶予として設定された最終日、ヴィラ砦の残骸を拠点にしていた兵士たちは、カロル兵団に正式に吸収された。イシュもその場に立ち会い、抵抗がある場合に備えたが、多くが素直に負けを認め、抵抗する者はいなかった。憎いロド族とはいえ、人間を殺してしまったという罪の意識に悩まされ、何らかの形で罪滅ぼしをしたいと思ってきた者も、少なくなかったようだ。
 その後、彼らが分散されて寝泊まりすることになった仮宿舎の様子も見て回ったが、特別、大きな混乱はないようだった。
 最後の仮宿舎まで確認し終え、安堵したイシュは、仮宿舎の裏手にある墓地に行き、設置された木の長椅子に腰かけ、ひとり静かに、日向ぼっこをした。
 この墓地は、ノルグ族の兵士にもきちんと墓石が用意され、彼や彼女の名前が刻まれている。昨日の競技会の大騒ぎが、嘘のような静けさに包まれている。
 昨日の競技会を思い出し、思わず微笑んでしまうと、
「何一人で笑ってんの?」
 ルーアのかすれた、荒い吐息混じりの声が聞こえた。
 顔を左に向けると、彼女は仮宿舎の壁に右手をつきながら、魔法土を足の代わりとして動かす練習をしていた。晴れているとはいえ、この寒さの中だというのに、彼女の顔には大粒の雫が光っている。
 警戒心が緩みきっていて、気配に気づくことができなかった。
「かわいそうなんて思わないでいいからね。まあ、あんたはそんなこと思わないだろうけど」
 憎まれ口も忘れずに付け足したルーアの言葉の、前半部分だけ受け取り、イシュは目の前の墓石たちに視線を戻した。
「あなたが提案した昨日の競技会、みんな楽しんでたなと思って、ちょっと、思い出し笑い。あれは、いい思いつきだった」
 素直に、素朴な感情で返すと、ルーアは戸惑うらしい、というのがこのところ、掴めるようになってきた。
 そういう時の彼女は、可愛げがある。
 まともにいけば彼女に口でかなうはずがない。話すときは、繕わない素直さを武器にしようと、イシュは決めていた。
「えっと……それは、ありがとう」
 こちらに向かってきているルーアの足音が少しの間止まり、また、歩き出した。
 イシュは右端に寄った。左端に、ルーアが座った。彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、右手をかざし、魔法土を吸い取った。右足となっていた魔法土が消えた。
「わたし、見ての通りだからさ、そういうとこで、役に立たないとね」
 自虐の言葉が、ルーアの口から出た。かつて『戦闘狂』と揶揄された自分はともかく、何でもそつなくこなせる彼女でもそういうことを思うのかと、意外に思って視線を遣る。
 ルーアの横顔が、重く沈んでいるように見える。
「何よ」
「別に」
 挑んでくるようなルーアの視線を受け流す。
「トライドくんは?」
「仕事」
「昨日のトライドくん、格好良かったね」
「えっ!」
 何気なく零した言葉に、ルーアがすぐに反応した。髪を振ってこちらに目を遣ったルーアに、イシュは安心させるように言ってやった。
「大丈夫、あの子にはあなたしか見えてないから」
 それに、とイシュは内心で思う。
「よかった。そうだよね。あんたは隊長だもんね」
 振り向こうとして堪えた。ここで表情を変えてはルーアの思うがままだ。
「表情が崩れないのはさすがだね。でもわたしにはばればれだから、あんたのは。いつから? 最後の戦い? ヴィラ砦? それより前……もしかしてラシード砦から?」
 一転して明るい表情になったルーアから、それとなく視線を逃がす。
 しばらく墓石を見つめたあと、小さくため息をついて、イシュは立ち上がった。
「ログナ様に呼ばれてるから、そろそろ行く」
 答えないのは織り込み済みらしく、ルーアは頷いた。
「わたしも続きをやらないとね」
 新しい魔法土を生成し、右足の代わりを作った彼女に背を向けて歩き去りかけて、イシュは、足を止めた。
 ベンチからゆっくりと立ち上がったルーアのほうを向いて、
「ヴィラ砦のすぐあと。北部城塞に向かう途中で」
 とだけ呟き、再び歩き出した。
 彼女の小さく笑う声が聞こえ、
「イシュ! 今度、詳しく聞かせてもらうからね」
 ルーアの明るい声が後ろから追いかけてきた。
 イシュは小さく笑い、呟いた。
「頑張って、ルーア」



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