63 エピローグ(2) あの子とした約束を


 最後の戦いで、カロル兵団は、戦闘員のおよそ八割、八百人以上の兵士を喪った。
 クローセは、さまざまな場所で崩れた石壁、石塁の残骸を、墓石として使うことに決めた。風魔法で切り出された墓石は、荷車や、闇魔法を使って運ぶ。グテル市に全員を避難させていたため、非戦闘員の人的被害はなかったが、レイエド砦の東側は甚大な被害を受けていた。あれだけ苦労して作り上げた石壁は崩壊して、生活必需品を取りそろえた店や、武器の整備所や、井戸がいくつか潰れ、兵舎のほとんどが倒壊した。おかげで、兵士たちは簡単に作った仮宿舎のなかで寝袋生活だ。
 兵士たちの苛立ちや喪失感、緊張感が伝播するのか、非戦闘員にも悪影響がある。魔物に襲われることで生まれてきた連帯意識からか、これまであまり大きないさかいが起きてこなかったはずのグテル市で、何度か暴力沙汰が起きているのだ。加えて、レイエド砦の外に広がっていた畑はすべて駄目になり、魔物の正体が人間だったということがわかった今、誰も干し肉には手をつけなくなった。冬まっただなかで、食料の質が低下するのは避けられず、さらなる治安の悪化を見込む必要すらある。
 問題は山積みだった。
 それでもクローセは、どこから手をつければいいかわからない雑務を、ひとつひとつ片付けていった。仕事に没頭している間は、何も考えなくてよかったからだ。今回の戦いで、ありとあらゆる人間が、自分と近しい人間を喪った。クローセは、自分のような忘れ方をするのが正しいことだと思えるほど、人生を達観してはいなかったが、全員に何かしらの仕事を与えて、亡くなった人々のことを考えさせないようにしてやるのも自分の役割だと思うことにした。
 手厳しい上官のことを酒の席で貶して、鬱憤を発散してもらう。その役割を演じるためには、人前で沈んだ顔を見せるわけにはいかなかったし、涙を見せるわけにもいかなかった。
 けれど、眠れない夜に、仮宿舎を抜け出して、堀の前でぼんやりするときは、別だった。夜警用のかがり火だけが焚かれた深夜、震えのくる寒さの中で地面に座り込み、ときどき、堀の水に手を浸す。そういう時は涙があふれて、止まらなくなる。
 今夜も眠れず、静まり返ったレイエド砦の東門を出て、ここへ来た。夜警の兵士は、担当が毎日同じとは限らないが、誰も、何も言わずに通してくれる。
 しびれるような冷たい水に右手をさらして、引き上げる。濡れた手を頬に押し当てて、首元に流れ込んでくる水滴も気にせず、じっとその水に感覚を集中させる。
 あの子が使っていた水は、もっと温かったような気がする。
 そうして座り込んでいると、背後に気配を感じた。
 いつでも動けるように警戒していたら、背中に、何か、布のようなものがかけられた。
 振り向くと、かがり火に照らされた小さな体が、何も言わずに背を向けて帰っていくところだった。チャロだ。
「チャロ」
 呼びかけても、聞こえていないかのように、歩み去って行ってしまった。
 チャロではなかったのだろうか。
 肩にかけられた布に手をやる。ミングスの毛皮で作られた、毛布だった。正確には、テルアダルの魔法によって人間からミングスに変えられた、彼か彼女かの体から作った、毛布。
 クローセは、毛布にくるまったまま、何も言わずに立ち上がった。暗闇の中を歩いて仮宿舎の執務室に戻ると、魔石を炎魔法用のものに移し替えて、ろうそくに灯をともした。仕事を始めようかとも思ったが、頭がまだ、働かなかった。
 ぼんやりと火のゆらめきを見ているうちに、久しぶりの眠りが、やってきた。
 起きてすぐ確かめたのは、毛布があるかどうかだった。毛布はちゃんとかかったままだった。昨日の夜やってきた少女は、やはりチャロで、あの子の夢を見たわけではないようだった。
 寝ぼけ眼を開いて、呻きながら起き上がる。
 しばらく見るともなく、執務室の扉を見つめているうちに、意識がはっきりしてきた。
 すっかり短くなったろうそくの火を吹き消し、机の上に目をやると、新兵舎の建築に必要な資材をざっと羅列しておいた紙が、濡れて、破けてしまっていた。クローセは中身を他の紙に書き写した後、よだれに濡れた元の紙を捨てた。
 引き出しから鏡を取り出して、自分の顔を見た。
 よだれの零れた跡と、机の木の模様が、顔にくっきりと残っていた。
 クローセは、笑った。なんだかやけにおかしくて、小さな声で、少しの間、笑い続けた。

 仮兵舎のそばにある井戸へ行くと、チャロが井戸の縁《へり》に腰を掛けて、ぼんやりとしていた。
「昨夜《ゆうべ》は、ありがとう」
 声をかけながら、チャロのすぐ近くにある、縄の巻かれた桶《おけ》を手に取る。チャロは笑顔を浮かべ、短い髪を揺らしながら、井戸の縁から退いた。
「いえ。このところ、深夜にどこかへ出て行かれていたみたいなので、気になって……」
 桶を井戸のなかへ放り込んで、縄に手をかけて引き上げながら、
「優しい子ね、あなたは。ヴィーヴィと違って」
 クローセはぽつりと言った。そして付け加えてしまった言葉に、自分で驚いた。あの子のことは、人前で言わないようにしようと思っていたのに。
 内心の狼狽《ろうばい》を勘付かれないよう、縄の引き上げに集中した。
 戻って来た桶に両手を入れて、冷たい水を、顔に叩きつけた。
「クローセ様。あの、わたし……」
 持ってきた布で顔を拭きながら、チャロを見上げた。
 いつの間にか、思いつめた表情になっている。
「わたし、いま、水魔法のことを勉強しているんです。ヴィーヴィ様の遺品を整理していたら、いろいろ出てきたので、それをお借りして」
 遺品、という言葉に、必要以上に反応しそうになる。
 平静を装い立ち上がって、顔を拭いた布を、腰から下げた麻袋にしまった。
「わたしでは、ヴィーヴィ様の足元にも及びませんが、きっと、お役にたてるように、頑張ります。だから、だからクローセ様」
 チャロはそこで一瞬、泣き出しそうになったように見えたが、すぐに笑顔になった。
 そしてクローセの右手を手に取ると、両手でぎゅっと握りしめてきた。
「ヴィーヴィ様が望んだ世界を……。誰も魔物に殺されずにすむ世界を、作っていきましょうね!」
 クローセは、冷たい水に濡れた自分の手が、温かな熱に覆われていくのを感じた。
 涙があふれてきそうになったが、チャロにならってどうにか堪え、チャロの正面に向き直った。
「そうね。わたしたちで作らないとね。魔物に怯えずに生きていける世界を」
 あの子が、安心して眠っていられる世界を。



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