61 人類史の終わり(終) 最期


 テルアダルと入れ替わるようにして出現したのは、ヴィラ砦を襲った大型魔物と同じくらいの、巨大な繭《まゆ》だった。
 血管のようなものが交差しあい、不気味に脈打つ赤黒い繭は、いくら魔法剣で攻撃しても、闇魔法で攻撃しても無駄だった。
 トライドを含めた八人は、いつでも戦えるように準備を整え、その様子を見つめた。
 やがて繭の中から、何かが、現れた。
 そこから現れたのは、光だった。
 形容すべき形をもたない、光る霧が、漂っている。
 大型魔物や、人型魔物のような、実体を持った存在を想像していたトライドは、虚を突かれたが、すぐに気を取り直して、炎弾をとにかく乱射した。
 遠距離魔法の使える七人の攻撃が、一斉に光る霧に振りかかる。
 すると光る霧は、分裂しながら攻撃を避け、空中に浮きあがった。
 その瞬間、空高く飛び去りつつあった光る霧も取り込んでしまう、巨大な簡易結界魔法が出現し、薄紫色は濃い紫色に変わった。
「絶対に逃がしてはなりません! この存在は絶対にここで仕留めなければ!」
 ラヴィーニアが、普段からは想像もつかないような切迫した声で怒鳴った。
 光る霧は結界にぶつかると、薄く広がって、どうにか通り抜けようとしているように見えた。
 そのあいだにも、トライドは炎弾を、魔法剣の使い手たちは魔法剣を、クローセとイシュは闇魔法で攻撃を図るが、光る霧は一部が消え去っても、一部でも残っていると、増殖してまた元通りになる。
 逃げるだけの光る霧と、光る霧をどうにもできない八人。お互いに決め手がないまま、時間だけが空しく過ぎていく。
 トライドは簡易結界魔法で動きが鈍化しないか試みていたが、本式の結界でなければ意味がないようだった。けれど本式の結界で覆ってしまえば、こちらの攻撃も通らなくなり、本末転倒だ。光魔法、闇魔法、土魔法、炎魔法、風魔法、さまざまな攻撃が試みられたが、いずれも、光る霧を一度にすべて捉えきることはできなかった。
 光る霧が思考能力を持っているのかは定かではなかったが、逃げるだけの状況にしびれをきらしたように、繭のほうへと降下していく。
 光る霧は、自分が生まれ出でた繭に、まとわりついた。するとその繭が、光る霧に押し包まれるようにして、どんどん小さくなっていった。
 そして光る霧と繭が融合した結果、生まれたのは、青い肌を持った小さな赤ん坊だった。
 実体をもった敵ならば、倒しようがある。
 全員がそう感じて、攻撃に転じようとしたとき、その赤ん坊が泣き始めた。
 それは結界魔法の中で激しく反射して、耳を破壊されそうな、とてつもない声量だった。トライドは魔法土で耳をふさいだ。魔法土の使えない六人は、両手を使って耳を塞いでいる。
 魔法土の使えるトライドとログナは、両手剣を抜き去りそれぞれ赤ん坊に叩きつけようとしたが、周囲に結界のようなものがあって、弾かれた。舌打ちしながらログナは離れていき、トライドも炎弾を叩き込みながら、距離をとった。炎弾ももちろん、きいていない。
 ラヴィーニアの張った結界が、解かれる。
 その瞬間、音は拡散していったようで、耳を塞いでしゃがみこんでいた六人が、めまいにでも襲われたかのようにふらつきながら立ち上がった。
 耳を塞いでいた魔法土を外して、相対する。
 いま気づいたが、赤ん坊は、ひと泣きするたびに、少しずつ大きくなっていく。
 もうすでに体は、五歳児ほどの大きさになっていた。
 魔法剣を含めた攻撃は続いているが、結界が突き破れない。
「どうして破れないの!」
 ミスティが苛立ちの声をあげた。他の七人もミスティと同じで、その疑問への答えをもたなかった。
 泣くのをやめて立ち上がった子供が、右手のひらを、ミスティに、向けた。
 ミスティと、すぐ後ろにいるイシュは、その右手から放たれるであろう何かから逃れるように、左へ転がった。
「避けるな馬鹿野郎!」
 同時に、ログナの怒声が聞こえて、ログナの巨体がふたりの避けた場所へ向かった。
 魔法土の塊となりながら飛び込んだログナに、子供から放たれた光の球《きゅう》が直撃した。
 ログナは吹き飛ばされ、宙を舞い、地面に落ちた。駆け寄ろうとすると、左手の手のひらが、こちらへ向いた。
 前衛のフォードが避けたが、後衛のトライドは避けなかった。トライドはログナの意図がよくわからなかったが、その言葉通り、逃げずに魔法土と簡易結界魔法を張った。
 飛んできた光の球は、簡易結界魔法を突き破り、魔法土ごしに、トライドの腹へと直撃した。
 トライドは腹に叩き込まれた衝撃に、うめき声をあげた。腹を押さえて、よだれをまきちらしながら、地面に倒れ込んだ。
 息が、できない。空気を取り込みたくて口をぱくぱくと動かしてみても、無駄だった。
 腹を押さえたまま、地面でもがき苦しみながら、体を丸め、足をばたつかせる。
 どうにか息ができるようになって、顔を上げてみると、子供が、トライドのすぐそばまで来ていた。トライドになど見向きもせず、ひたすら、球を出し続けている。
 トライドは立ち上がりながら、両手剣を引き抜き、子供に振り下ろした。魔法土で強化したはずの両手剣が根元から折れた。子供の顔がこちらを向き、右手もこちらを向いた。右手からは光の球が飛んできた。魔法土越しに、腹へと直撃した。
 また、息が出来なくなった。地面に倒れ込み、降雪によって水気を帯びた泥の味を感じながら、吐しゃ物をまき散らした。
 冷や汗が止まらない。先程まで、あれほど熱を帯びていた背中が冷たい。顔中で噴き出した汗が目に入り、何度もまばたきをした。どうにか体を横にずらし、目の焦点を合わせる。視線の先ではミスティやフォードといった、トライドにとって雲の上の存在までが、地面に這いつくばっていた。
 右手を突きながら、トライドの横を通り過ぎて行った子供の背中を見ようと、左ななめ後ろに首をねじる。
 レイエド砦の手前にある、東門の防衛拠点の数々。えぐられたような大きな穴が、そこらじゅうに出来ていた。
 ログナが、避けるなと言った理由が、わかった。
 自分たちが避けてしまえば、レイエド砦に攻撃が当たる。ログナはそう言いたかったのだ。
 そして、いつの間にか、子供の後ろ姿が、青年のそれになっていた。
 トライドは、自分と同じくらいの身長のその青年に、勝てる理由が見いだせなかった。
 トライドが立ち上がる直前、ミスティが、静かに立ち上がり、青年の背後から魔法剣で斬りつけた。
 青年が結界でそれを反射するとミスティはそれを避け、避けた先で、既に待ち構えていた青年に、球を直接、右手から叩き込まれた。咄嗟に腕と簡易結界魔法で防御したミスティが、悲鳴を上げながら弾き飛ばされた。
 ゆっくりと、だが確実に、青年がレイエド砦の方へ歩んでいく。トライドは、青年に向けて、力いっぱい魔力を凝集した、右手の炎弾を叩き込んだ。しかし青年は、見向きもせずに、左手で球を放ち、炎弾を相殺した。トライドは半ば呆然としてから、弾き飛ばされたミスティのことを思い出し、慌てて駆け寄った。
 どうやらこの敵には、強力な簡易結界魔法よりも、ただの魔法土のほうが相性がいいようたった。
 気絶しているミスティの両腕は、明らかにおかしな方向へねじ曲がっていた。近くにはラヴィーニアもいたが、そちらも折れた腕の痛みにうめいているだけで、命に別状はなさそうだった。
 トライドは、立ち上がり、青年の後姿を眺めながら、考えた。ミスティですらも、敵わない、圧倒的な存在。この存在に対抗できるとしたら、何か。
 レイとフォードが、魔法剣を握った右腕と左腕を、ぴたりとくっつけ、二人の青白い魔力の塊と、黒い魔力の塊を混ぜ合わせていた。
「三、二、一」
 とレイが言ったあと、レイとフォードの魔法剣から発せられた白と黒の光の帯が、混ざり合うようにして飛んでいく。光の帯は、青年に直撃したように見えた。それは結界に反射こそされなかったが、押し留められ、青年の体には、傷一つついていなかった。
 ありったけの魔力をこめたのだろう、フォードの左腕が、ぼとりと地面に落ちた。
 青年からそれぞれ、大きな球が飛んでくる。二人は、弱々しい簡易結界魔法を張った。レイの簡易結界魔法は、たわむようにしてどうにか球を受け止めたが、両足に球が直撃した。ミスティと同じように、骨があらぬ方向に曲がるのが見えた。フォードには、胸の辺りに、直撃していた。
 二人とも倒れて、動かなくなった。
 トライドは周りを見回した。立っているのは、自分と、青年の正面に回り込んでいるクローセだけだった。
 圧倒的な存在に対抗できる、圧倒的な存在。
「聖母リリー」
 ぽつりと呟く。
 青年が両手を構えると、クローセも両手を掲げ、背後のレイエド砦への攻撃までも防げそうな、大規模な簡易結界魔法を発動させた。そしてすぐに『始まりの石』のかけらを埋め込み、結界魔法に切り替えた。青年はいらだたしげに足を一度踏み鳴らすと、左手を下げ、右手だけをクローセへ向けた。その右手から一直線に伸びた、細い光の棒が、結界を突き破り、クローセに、突き刺さった。
 突き破られた結界が崩れるように消え、左肩の辺りに光の棒の突き刺さったクローセが、地面から浮いていく。刺さった棒を支点に、青年がクローセを持ち上げているのだ。クローセは苦痛に顔をゆがめながら、どうにか棒を引き抜こうとするが、体は浮いていく一方だった。左手が、クローセに向けられた。
 圧倒的な力量差を前に、半ば傍観してしまっていたトライドは、左手から球が射出されようとした瞬間、慌てて、ありったけの炎弾を叩き込んだ。結界に弾かれたが、伝わった微細な衝撃によって光の球が左手の中で暴発したらしく、青年は体の均衡を崩した。傾いた右手の棒から、クローセが地面へ向けて落ちていく。けれど細長いその棒が、傷口を内側からこするように、断続的に、執拗に、えぐっていく。クローセの絶え間ない絶叫が響き渡り、彼女がもといた場所に落ちたときには、ぐったりとして動く様子がなかった。
 魔力を使い切ったことによってか、またトライドの両手に光が灯り始めたが、そんなことに気をとられている余裕はなかった。
 青年は、球が暴発しても、やはり無傷だった。
 トライドは、いまのクローセに対する青年の反応を見ていて、何か、思いつきそうになっていた。もう少し時間があれば、何かを思いつく。
 けれど青年は、光の球を暴発させたトライドに、意識を向けて来ていた。青年がこちらを向いたとき、トライドの視界の端で、ラヴィーニアが、静かに立ち上がり、あの、触れたものすべてを削り砕いてしまうという、光の球を投げつけた。青年の意識が、再びトライドからそれる。
 そしてラヴィーニアは、自分の手を口元にやった。舌でなめるような動きを見せたあと、彼女は舌を出した。その舌は、血まみれだった。彼女が球を手元に戻し、両手で力を注ぎ込むと、球が大きくなっていった。そして舌の血が巻き取られていき、球は赤黒く変化した。それはそのまま、押し出されるように、青年へ向かっていく。
 青年の結界がそれを弾くと同時に、トライドは、ようやく、思いついた。
 青年の視界から静かに外れるように動いた。青年は、ラヴィーニアが自分の周囲に結界を張ると、また、苛立ったように足を踏み鳴らした。
 クローセのときと同じように、光の棒を突き刺そうとしたが、ラヴィ―ニアの結界は、なぜか突き破ることができなかった。
 青年は苛立ちを爆発させ、何度も何度も足で地面を踏み鳴らしながら、何十もの光の球を次々に放ち、目を切った。
 また、レイエド砦の方へ向かい始めた。
 殺したと思い込んでいるのだろうが、ラヴィーニアは、それすらも耐えきっていた。
 自分の予想は、当っているかもしれない。
 駆け寄ると、ラヴィーニアは顔中を汗みずくにしていた。結界を拳で軽く叩くと、ラヴィーニアが、結界を解いた。
「トライドさん、ご無事でしたか」
 疲弊しきった声で、ラヴィーニアが言う。
「ラヴィ、小刀は、いまどこに?」
「はい、ここに……」
 ラヴィーニアは、いまの今まで結界魔法に埋め込んでいたらしいそれを、右手に持っていた。
「少し、貸してもらえますか?」
 ラヴィ―ニアはすぐに、こちらの意図を察したようだった。
「申し訳ありません。すぐにわたしが考えつくべきことでした」
 と謝った。
「いや、僕も気づくのが遅れて」
 ラヴィーニアはトライドが言うと、少し考え込む風に、右手の人差し指を、唇に当てた。
 やがて、
「失敗は許されません。あなたがたに、その責任が負えますか?」
 まるで何十年も年長の人と話しているような錯覚に陥る、何もかも透き通して見ているような不思議な目をして、ラヴィーニアはトライドを見てきた。
 トライドは、覚悟を決めて、頷いた。
 ラヴィーニアはじっと見つめてきたあと、
「変わりましたね。あなたは」
 と笑い、『始まりの石』でできた小刀を渡してきた。
 小さなその手から託された小刀を握りしめ、立ち上がる。
 ラヴィーニアは去り際になって、トライドの、光る両手に目をやった。
「魔法剣の発現の兆候ですね。そこに倒れている、ミスティの装備を拾ってみてください。今のあなたなら使えるはずです」
 言われた通り、ミスティの手にある、黒い魔石で出来た魔法剣の柄を手に取った。
 トライドは小刀を左手に握りしめたまま、右手で、魔法剣の柄を構えてみた。自分のものではないような、次々に溢れ出てくる魔力を、剣先に集めるような感覚で動かしてみると、魔力が可視化したように、柄のあたりで固まり始めた。それを崩すように――いつも魔法土を剣で覆っているような感覚で魔力を移動させる。目に見える魔力が、剣の形になっていく。多少不恰好だが、紛れもない、魔法剣だった。
 これで、光の球をいちいち体で受け止めずに、弾くことができる。
 だが、防御はできても、トライド一人で倒し切れるはずもない。トライドは、青年がまったくこちらを見向きもせずにレイエド砦に向かって歩いている間、身を起こそうとしていたイシュに手を貸して立ち上がらせた。それから、気絶していたログナを、イシュとともに叩き起こした。最初に球の直撃を受けてからも、何度か攻撃を受け止めたらしく、もといた位置よりはずいぶんレイエド砦側で倒れていた。
「いて、いっててててて」
 ログナは額が血まみれで、左腕が折れてしまっていた。
 起きたばかりのログナは、気絶していた悔しさでか、物静かだったが、トライドの計画を伝えると、がぜん、表情に明るさを取り戻した。
 地面に座り込んでいたログナは、立ち上がった。額の傷を魔法土で覆い、左腕を魔法土で固定している。
 トライドは、失敗できない一度きりの機会のために、もう一度、魔法剣の具合を確認した。
「お二人とも、準備はいいですか」
 ログナのほうを向くと、彼は、右手に持った小刀を握りしめた。
 イシュは黒い霧を操作できる分だけ、すでに自分の周囲に吐き出させ、風に舞わせて遊ばせている。
 ささやかに降り続ける雪が、目に入り、トライドは軽くまたたいた。
「さあ、やりますか」
 トライドが自分に気合を入れるように呟くと、
「ああ。行くぞ、カロル」
 とログナが言った。
 トライドはあっけにとられて、ログナを見上げてしまった。
 ログナはその視線に気づいて、自分の言った言葉を思い出したようだった。
 何事か呻《うめ》いたログナは、髪を掻きながら、言い訳めいた呟きを零す。
「すまん。寝ぼけたこと言った。お前が少し、あいつに似てきたもんだから」
「戦闘中に寝ぼけないでくださいね、ログナ様」
 イシュが真面目な表情で言ったあと、小さく笑った。ログナもトライドも、つられて笑った。
「お前らが、俺の部下でよかったよ」
 ぽつりと言ったログナに、トライドも、
「僕も……きっとルーアも、ログナ隊長の部下になれたことは、一生の誇りです」
 と返した。
「わたしも。ログナ様と会えてよかった」
 イシュも、トライドのすぐ後に言った。

 三人は、レイエド砦へ歩み続ける青年の後ろ背を追った。
 青年は全く振り向く気配はなかったが、ある程度まで近づいたところで、素早く振り返った。
 青年が向けた手から、ログナに向かって光の球がいくつも発せられる。トライドは、魔法剣を伸縮させたり、太くさせたりして、弾いていく。魔力に体中の力を吸い取られていくようだったが、トライドは耐えて、ログナと並走し続けた。
 苛立たしげに足を踏み鳴らした青年の仕草と同時に、ログナが、青年のもとへとたどり着いた。
 ログナの右手が伸び、手に握られた小刀が、青年に向けて突き出される。
 トライドは立ち止まり、魔法剣を構えた。
 小刀が、青年の周りを包む結界に触れた瞬間、何かが割れるような音が耳に届いた。
 トライドは魔法剣の剣先を伸ばす感覚で、振り下ろした。剣先が、結界のなくなった空間を突き抜け、青年の身体を、縦に、まっぷたつに切り裂いた。緑色の血が噴き出す。
 イシュの黒い霧が、青年の全身を覆った。
 イシュが右手を握りしめる。
 黒い霧が、なぜか、収縮しなかった。
「俺の名は……テルアダル……」
 同時に、重く響くような声が聞こえた。
 正面にいるログナが、危ない。
 トライドが叫ぶ間もなく、黒い霧の中から、光の棒が突き出してきた。それは、ログナに突き刺さった。
 トライドは悲鳴を堪えた。ログナが身体を捻じ曲げ、どうにか、臓腑のど真ん中を串刺しにされるのを避けていたからだった。
 ログナは、右肩に刺さったその光の棒に手をかけ、魔法土で固めてしまった。これで青年は、さらに身動きがとりにくくなる。
 気を取り直し、いま、青年が言った言葉の意味を考える。
 テルアダル。
 テルアダルが、恐れていたもの。
 テルアダルが、圧倒的な力を持つ統治者よりも、恐れていたもの。
 トライドは駆け出し、ログナが取り落した小刀を拾い上げた。
「イシュさん! 受け取って!」
 そして、イシュに投げる。
「俺の名は……テルアダル……ウィステルのもとへ、帰る……故郷へ、帰る……」
 イシュが、闇魔法の魔石がはめ込まれた右手で、小刀を受け取った。
 すると、『始まりの石』でできた小刀が、強烈な光を放った。
 イシュの右頬にある、スルードの花の刺青が、真っ赤に、浮き上がるように光りはじめた。
 刺青の彫られた場所から、黒い霧が、次から次へと噴き出してくる。
 黒い霧とまじりあった赤黒い光は徐々に広がっていき、そして最後には、イシュの体そのものを、赤黒い、不気味な光が包んだ。
 際限なく溢れ出してくる黒い霧が、青年の身体の周囲を、何重にも覆っていく。
 ログナが右手の棒を抑え込んでいるので、もともと動きは制限されていたが、それがなくても、もう、動くことはできないだろう。
 ログナは呻き声をあげながら光の棒を引き抜いた。
 その光の棒の先端までも、黒い霧が覆い尽くす。
「最期も貴様か……リリー……」
 青年の呟きが聞こえたと同時に、イシュが、右手を握りしめた。
 黒い霧は拍動するように不気味に蠢きながら、徐々に徐々に、小さくなっていく。
 やがて、黒い霧は跡形もなく、青年の姿を消し去った。
 イシュの身体から、ふっと力が抜ける。その右手から小刀が零れ落ち、イシュの身体を包んでいた赤黒い光も、消えてなくなった。
 トライドは、どちらに駆け寄ろうか迷って、まずは怪我の具合が気になるログナに駆け寄った。
 ログナは痛みに歪んだ表情を、無理やり笑みに変えて、右手のひらを、トライドに向けてきた。
 トライドは一瞬戸惑い、すぐに、笑顔になった。
 大きな手のひらに、自分の手のひらをぶつけた。
 言葉は要らなかった。
 トライドとログナは向きを変え、イシュのもとへ歩いていく。
 彼女は両足をそれぞれ外側に開いた格好で、へたり込んだまま、ログナとトライドのほうを見上げた。
 ログナが右手を差し出す。
 イシュはその手を握り返し、見たこともないほど穏やかな表情で、微笑んだ。



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