60 人類史の終わり(6) 女狐と、テルアダルの記憶


 ログナとミスティは、フォードとレイの支援を受けて、どうにか窮地を脱した。前線を突破した二段目の人型魔物の三体を、四番の迎撃魔法陣付近に追い込み、ログナとミスティ、フォードとレイが挟撃して破った。それからフォードとレイを、突破した左の二体に向かわせ、ミスティとログナは最前線にとどまった。
 どうやら、十部隊の魔物の中に、ガーラドールとヴァーダー以上の人型魔物は、いないようだった。
 最強の三人を向かわせ、結界を破り、蹂躙する。それが敵の目論見だったのだろう。そうなってくると、ガーラドールとヴァーダーに対して戦力を出し惜しみしたのが悔やまれる。あの二人は、間違いなく、魔王級、あるいは魔王以上の戦闘力をもっていた。
「ガーラドール討伐の報告がまだ来ませんね……どこへ行ったんでしょう」
 ミスティはとっくに頭巾を脱いでいて、暗い面持ちで呟いた。
 ログナはあまりうまく応えることができず、頷いた。
 ヴァーダーの方は、トライドとイシュが討伐したそうだ。
 初めにその報告を聞いたとき、トライドが短期間で見せている想像以上の成長に、拳を握りしめ、声を上げてしまったほどだ。けれどそのすぐあと、テイニとルーアが重傷――特にルーアは、左腕と右足を失ったらしい――との報告を聞いて、喜びの気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。レイと分断されてしまったあと、魔王と同格以上と見て間違いないヴァーダーを、魔法剣の使い手がいない四人で倒したと考えれば、奇跡だ。それでもやはり、いつも明るく振る舞い、隊の明るい雰囲気づくりに貢献してくれていたルーアの顔がちらついてしまう。
「報告!」
 一番の迎撃魔法陣近くにいる、対空の櫓につめた兵士が、声を上げた。
「フォード様たちの到着には早すぎる気もしますが、五十番付近の人型魔物たちの部隊が壊滅したように見えます! 他に派手な動きをする魔物は見受けられず、戦場全域で、人型魔物が壊滅した様子です!」
「ガーラドールは? ガーラドールは見つけられないの?」
「それがやはり、特徴に合致するような動きを見せている魔物が見当たらないんです。一番派手に動いて見えるのは、ウィルフレド様の赤い鎧です」
「じゃあ、誰かがすでに殺したってこと?」
「誰かって、誰だ」
「えっと、ヴィーヴィなら、もしかすると」
「ああ……ヴィーヴィは確か結界防護に回したんだったな? 奴が結界を狙っていたのなら、有り得る。あいつの水魔法ならガーラドールに対抗できたかもしれない」
「チャロ!」
「はい!」
 へとへとになっているチャロと伝令たちが、歯切れのいい返事とは裏腹に、ゆっくりと立ち上がる。
「ごめんね。最後の伝令。結界魔法の維持をシャルズの裁量に任せて、クローセとラヴィーニアをここへ連れてきて。それと、ヴィーヴィを探して、ガーラドールがどうなったかを調査、ヴィーヴィもここへ。あとは、トライドと、イシュと、フォードと、レイもここに。他は、ウィルフレドの指揮下で部隊再編。レイエド砦周辺の守備はウィルフレドに一任する。魔王討伐隊は一時的に解散の形になるけど、それでいいですよね、ログナ」
「ああ。まだ、お前が開戦時に殺し損ねた白い人型魔物も生きているはずだしな。ここから先は精鋭だけにした方がいい」
「ということ。わかった、チャロ?」
「わかりました」
 チャロは微笑んでから、駆けだした。

 ヴィーヴィが戦死したという事実がもたらされたのは、クローセからだった。
 彼女は結界魔法を維持した疲れも見せず、淡々と事実を言い切った。
 ミスティは、しばらく俯いたあと、顔を上げた。涙はなかった。引き結んだ唇で、ただ感情を閉じ込めていた。
 ミスティが結界魔法の防護役に回した結果、ヴィーヴィは、死んだ。
 けれどヴィーヴィがいなければ、結界は突破され、レイエド砦は陥落していただろうと、クローセは語った。
 ミスティの背負う重荷を、代わりに背負ってやることが出来たら。そう思ったが、カロルの名を正当に受け継げる者は、魔物の巣窟に取り残された人々を守って魔物と戦い続けてきた、ミスティ以外ではありえなかった。
 カロル兵団の団長は、静かに前進を命じた。ミスティとログナとレイとフォードが前衛、イシュとトライドとクローセとラヴィーニアが後衛の隊列を組み、八人は静かに歩みを進めていった。
 この八人が集まれば、問題にもならない新種の魔物たちを斬り伏せ、進んでいく。誰も何も、喋らなかった。
 やたらとうるさいあの少女がいない隊列は、とても静かだった。
 やがて、向こうから、一体の人型魔物が歩いてきた。
 ノルグ族と激しく戦っていた頃の、古式ゆかしい、騎士団の鉄製鎧を身に着けている男。その青い肌がなければ、古の騎士団員が蘇ったかのように感じただろう。
 腕には、あの純白の人型魔物が抱えられていた。その体は、緑色の血に汚れ、だらりと首元を見せていた。
「死んだよ」
 男は――いや、人型魔物は、そう呟いた。
「おめでとう。ここまで辿り着いた貴様らの勝ちだ」
 ミスティが構わず魔法剣を構えて、黒い帯状の光を放ったが、男は青い結界を張って弾いた。弾かれた帯状の光が、そのまま反射してきて、ミスティの正面に飛んできた。ミスティと後衛のイシュをその黒い光から守るため、ログナ以外の七人は簡易結界魔法を張ったが、ミスティの攻撃は、魔力に長けた精鋭の張った、七重の簡易結界魔法の六つめまでを突き破った。
「俺の名はテルアダル」
 テルアダルはそう言うと、しゃがんで、女を地面に横たえた。
「まあ、そう急ぐな。俺はもうすぐ寿命だ。殺す前に死んでるさ」
 それから、地面の上に作り出した結界の上に、大儀そうに座った。
 ミスティはため息をついて、テルアダルに問いかける。
「どうして、我々人類と敵対した? 敵対しなければ、死なずに済んだものを」
「前にも聞いたな。あのいまいましい女狐《めぎつね》が似たようなことを言っていた」
「女狐? 誰のこと?」
「名前は覚えていない。そこの女と、そっくりの顔をしていた女だ。それで思い出した。あいつも確か、顔にスルードの花の刺青を入れていたな」
 そこの女、とテルアダルが指したのは、イシュだった。
「リリー・ノルグのことか?」
 ログナが口をはさむと、
「そんな名前をしていたような気もする」
「のんびり話している時間はない。どこから来たか、どうして人類に敵対したか、『異界の門』とは何なのか、三つを簡単に答えろ。でなければいますぐ殺す」
 自分の時間の流れのなかで話そうとするテルアダルに、ミスティの声が硬くなる。
「やれやれ。気の短い子供だ」
 テルアダルは、純白の人型魔物の翼を手に取り、膝の上に載せて、撫で始めた。
「質問は違うが、全部同じこと。我々は別の世界から来た。我々は自分たちのことを……そうだな、こちらで合うように言えば、魔族と呼んでいる。魔族の世界はまあ、代々、強大な力を持つ統治者のもとでそれなりにうまくやっているが、ひとつだけ、喉に刺さった小骨のような存在がある。それが、人間の世界の存在だ。人間世界の成り立ちを、貴様らは知らないだろうが、人間世界はかつて、魔族世界の統治者の息子――フィドが、生み出したもの。代々の統治者や魔族世界の人間にとって、さっさと潰したい、邪魔な存在でしかない。だが、防御が固く、これまでは手が出せなかった」
「魔族? 人間世界? 何を意味のわからないことを……」
 ミスティが吐き捨てる。
 ログナは遠い世界のおとぎ話でも聞かされているような気分だった。
 とても、多くの人々が殺された理由に見合うような理由が出てくると思えない。
 沸き立ち始めた苛立ちを、片手剣の柄を強く握ることでこらえる。
「フィドが死んでからなのだろうな。数百年、あるいは数千年に一度、世界に裂け目ができるようになってきた。『異界の門』はその裂け目のことだ。お前たちが魔王だとか言ってきた奴らは、全員、魔族世界から追放された魔族にすぎない。人間世界を滅ぼせば、魔族世界に戻れる。そういう約束で、人間世界へ送り込まれてきた」
「ふざけてるの? わたしはあなたの妄想が聞きたいんじゃない。どうして、たくさんの人間を殺したのか聞いてるの!」
「何を言っている?」
 テルアダルが首をかしげた。
「貴様ら、あの女狐から、本当に何も伝えられていないのか。奴は、俺と一緒に来た魔族をとらえ、拷問にかけてなぶり殺しにした。この話はすべて、知っていたはずだが」
 テルアダルのその虚を突かれたような表情に、嘘は見えない。
 だが、嘘でなければ、テルアダルの言っている意味のわからない妄想が、本当だということになる。
「だから、妄想は……」
 テルアダルは、純白の魔物の翼から手を離し、腰に手をやった。ベルトに提げられた片手剣のそばに、麻袋もぶらさがっていて、そこから、何かを取り出した。
 ログナは魔法土を、それ以外の七人は簡易結界魔法を一斉に強めたが、投げてよこされたそれは、折りたたまれた一枚の紙のようだった。
 誰も警戒して動かず、時間が過ぎていく。
 ログナは仕方なしに、片手剣を引き抜いた。魔法土で刃を覆い、切れ味をなくした剣先で、紙を丁寧に触る。
「ちょっと、ログナ!」
 クローセの咎める声が聞こえたが無視し、紙を開いていった。
 開き切ると、それは、紙が何枚にも継ぎ合わされた、大きな地図だった。
 古代語で書かれているので全く文字は読み取れないが、大陸が四つほどある世界だった。上が北で下が南、細かい島々の名前まで、丁寧に書きとられていた。
「地図だ。しかも、かなり詳細な。おそらくロド大陸のどこにも、こんな地図が書ける人間はいない」
 ログナは呟いた。
 隣にいるミスティは、地図に目もくれず、テルアダルの行動を監視していた。
 ログナの言葉を聞いて、魔法剣は構えたまま、地図に目をやった。
「魔族世界の地図だ。そこに投げたのは俺が持ち込んだ地図の写しで、原典ではない。まあ、これも妄想で書けるだろうがな」
 テルアダルは笑った。
 しかしミスティは、妄想だとは言い募らなかった。
 ただの妄想でここまで精巧な地図を書いたのだとしたら、筋金入りだが、テルアダルは最初に、リリーがノルグ族だということまで、遠回しに言い当てていた。
「俺は、この世界で言う、騎士団長みたいな役職についていた。慢心して、無敵の統治者様に立てついたせいで、こんなところに送られてくる羽目になったわけだ。向こうの世界ではそこそこ魔法が使えたんだが、この世界ではどうやら、俺のような魔力の強すぎる人間は、まともに攻撃魔法を使えない仕組みになっているらしい。だから、ときどき送り込まれてくる連中を組織化して、動かすしかなかった。だが、魔族というのは我の強い奴ばかりだ。そうそう言うことを聞くはずもない。そういった連中は、お前たちに殺されていったよ。魔王として、な」
 人型魔物のこれまでの行動が、歴史上の魔王の行動が、すべて説明されていく。
 あまりにもつじつまの通る話を前にして、すべてが妄想だと、片付けられなくなってきていた。
 ミスティも、もう何も言わずに話を聞いている。
「あいつらは無邪気だった。統治者に、敵はこちらを殺すすべを持たないと伝えられて、それを信じ込んだ。フィドに、魔族を上回る存在を作り出せるはずがないと、魔族世界の人間たちはたかをくくっていたんだ。かくいう俺も、ここへ送り込まれてきた当時は、他の魔族どもと同じ考えだった。結界魔法しか使えなくても他の連中に殺させればいい、そのくらいの考えで、他の魔族と一緒に、あの女へ戦いを挑んだ」
 だが、とテルアダルは呟く。
「結果は惨敗だった。お前たちは、フィドが遺した魔石を使って、魔法を使えるようになっていたんだ。あの女の使う闇魔法は、特に、まずかった。俺が本当の意味での恐怖を感じたのは、一度だけだ。魔族世界で当時の統治者様に歯向かったときじゃない。あの女に、魔族の人間が淡々と処理されていくのを傍観しているしかなかったときだった。だが、奴も俺の結界魔法だけは、破れなかった。他の魔族は全員、殺されたが、俺は一人だけ逃げ延びた。あの女狐の代で、世界の裂け目が――『異界の門』が、ずいぶん修復されてしまった。魔王になる馬鹿どもばかりが送られてきて、言うことを聞く四人の犯罪者が集まるまで、九百年かかった」
 いつの間にか、テルアダルの話に引き込まれている自分に気付いて、ログナは慌てて気合を入れ直した。
 油断させて一気に殺す可能性も、消えているわけじゃない。
「九百年のあいだ、俺はお前たちのことやお前たちの使う魔法の体系を、研究し尽くした。俺はそこで、気付いたんだ。お前たちが、世代を経るごとに魔法を進化させていることに。さらに悪いことに、ようやく四人の魔族を集め終わったころ、ロシュタバが現れた。奴は女狐ほどではないが、かなり強い魔力を持っていた。あの女は、世界の裂け目を極限まで小さく修復して、闇魔法や魔法剣などと厄介な代物を生み出して、孫に伝えた。では、魔法の研究を大々的に奨励するロシュタバが、このまま生きのびたらどうなる? ロシュタバは殺さなければならなかった。世界の裂け目を、閉じられてしまうわけにはいかなかった」
「先王の乱、ですね」
 ラヴィーニアが、いつでも簡易結界魔法を結界魔法に変えられるよう、『始まりの石』でできた小刀を握りしめながら、呟く。
「だいたい話はわかった。つまり、自分たちの都合で、数えきれないほど多くの人々を殺してきた、と」
 ミスティがそう言って、一歩、足を踏み込んだ。そして駆け出していく。慌てて追いすがるが、ミスティのほうが足は速い。ログナが追いつく前に、ミスティは魔法剣をテルアダルに振り下ろしていた。
 魔法剣が、どうしても、青い結界を突き破れない。
「無駄だ」
 テルアダルが冷めた声で呟く。
「俺の力では、お前たちは殺すことができない。お前たちの力では、俺を殺すことができない。だからこそ、この場が成立している」
「どうして……どうして、そんなことのために、カロルや、みんなが、死ななきゃいけなかったんですか! 魔族なんて、どうでもいい! 世界の裂け目なんて、放っておけばいいじゃないですか!」
「世代を超えて、お前たちの魔法がこのまま成長していけば、逆に、魔族世界に侵攻してくるかもしれない。その可能性は摘み取らなければならない」
「そんなこと!」
「するわけがない、か? 滅び去った王国の所業を、目の当たりにしてもか」
 ミスティは、何度も何度も魔法剣をぶつけていたが、その言葉を聞いて、ぴたりと手を止めた。ログナは、ミスティの背中を叩いて、諦めるように促した。
 ミスティとログナは、隊列に戻った。
「疑問がある。貴様らがこちらの世界へ来た理由はわかった。だが」
 レイが言う。レイの言葉にかぶせるように、フォードが言った。
「あの魔物の大群はどういうことだ? 貴様の口ぶりでは『異界の門』は小さな穴に過ぎないようなものじゃないか」
 レイがフォードを睨んだが、フォードは何食わぬ顔でテルアダルを見ている。
「なんだ、そんなこともわからず戦っていたのか」
 ログナはその言い回しが癇《かん》に障ったが、話の腰を折らないように黙っていた。
「人間だよ」
 こともなげに、テルアダルは言った。
「え」
 自分の口からもれた言葉か、周りの人間から漏れた言葉か。
「だから、魔物は、人間だよ。魔物は、この世界の人間を使って作る」
 ぬけぬけと言う魔物に、ログナは一瞬で頭に血が上った。
「お前」
 ログナは右足を一歩前に出した。そこから先は、もう止まらなかった。
「お前は」
 一歩一歩、地面を踏みにじるようにして、近寄っていく。誰かの手が肩に触れ、誰かの両手が肩を押さえつけ、誰かの両手が身体を羽交い絞めにしようとしたが、それらをすべて引き剥がして、歩いていく。
「この大陸の西方で、人間を飼っている。まあ、ついさっきまでお前らが殺していたのは、大半が、王都から逃げ遅れた間抜けどもだがな」
 テルアダルは笑いながら言った。
 ログナは一瞬、目がくらんだ。あまりの怒りに、自分が今何をやっているのかもわからなくなった。
 気付いたら、地面に押さえつけられていた。
「何を怒る必要がある。貴様らは、たった数十年の寿命しか持たない、魔族の出来そこないだ。人間や人類などという言葉は、始めから貴様らの妄想に過ぎない。フィドの遺した魔石を手に取ったとき、貴様らの大多数は、正真正銘、魔族のできそこないになった。石ころに頼らなければ魔法も使えない魔族の出来そこないが殺されたところで、誰が嘆くというのだ」
 他の七人が、何を言っているのかは、聞こえない。テルアダルの声だけが、耳に入ってくる。
「ああいや、貴様らは別だな。だったらもっと話は単純になる。魔族をしのぐほどの力を持った、立派な魔族が、出来そこないの魔族どもを掃除しただけの話だ」
「お前だけは」
 ログナはぶるぶる震えながら、どうにか、言葉を継いだ。
「お前だけは、絶対に許さない」
 テルアダルの笑い声が響く。
「貴様が許そうが許すまいが、俺はもうじき死ぬ。だが、魔族たちは代々、この世界の様々な場所に、人を魔物に変える儀式の方法を書き残してきた。この大陸以外にもな。次の魔族がやってくるまで、せいぜい魔物の種を増やしておけ」
 ログナはあまりの怒りと悔しさに、涙を流しながら、その言葉を聞いたが、自分たちがこれまでに殺してきた魔物は、すべて、生きながらに魔物に変えられた人間という言葉が、突然、現実感を持つ言葉として、自分の中に飛び込んできた。
 殺してきた魔物は、千でも足りない。一万でも足りない。魔物の肉を、腹がすいたと言っては食べ、革が便利だと言って剥ぎ取り道具として使った。
 その事に気付いて、怒りに、大きな空白ができた。
 これまでに自分がしてきたことすべてが、無意味だった。
 それどころか、とてつもない罪悪を、重ねてきた、人生だった。
 怒りと悔しさで流した涙は、嗚咽に変わり始めていた。
 そこでようやく、周りの声が、耳に入るようになった。
「泣き崩れては駄目です」
 一番近くにいるイシュの囁き声が、耳に届いた。
「絶対に泣き崩れては駄目です。ここでログナ様が打ちのめされてしまったら、わたしたちは、一体何を信じて生きていけばいいんですか。ログナ様は、よりどころです。わたしたちの、拠り所なんです」
 体を必死に押さえつけていたのだろう、ぴたりとくっついてきているイシュが、祈るような声音で、言葉を伝えてきた。
 ログナは、嗚咽をこらえようとした。
 みっともないうめき声が、喉の奥で沸騰している。
 それを何度も何度も押し留め、ようやく落ち着いた時になって、ログナは静かに、
「どいてくれ」
 と言った。しわがれた声が、雪の降りしきる静けさのなかで、情けなく響いた。
 熱を帯びたイシュの手が、体が、離れていく。
 ログナは、涙を隠しもせずに、テルアダルの前へ立った。
 そして、宣言した。
「『異界の門』が二度と開かない方法を、絶対に見つけてやる。何十世代、何百世代かかっても、絶対に、見つけてやるぞ、俺たちは」
 つまらなそうに鼻を鳴らしたテルアダルは、すぐ隣の、純白の人型魔物の死体の近くへ、かがみこんだ。
「こいつはリックルという」
 テルアダルは、緑の血に汚れたリックルの頬を、袖でこすりながら、
「統治者のくだらん後継者争いに巻き込まれた女だ。こいつは一方の後継者候補の娘だった。ただそれだけの理由で、こちらの世界へ放り込まれた。俺たちにも俺たちなりに、魔族世界への愛着はある。どうにかして戻りたいという欲望は、どうすることもできない」
「いまさら、同情するとでも?」
 イシュが、喧嘩腰に呟いた。
 テルアダルは笑い、立ち上がった。
「仮にも同じ魔族同士で、こうも物事の捉え方が違うとはな。俺たちとお前たちは絶対に和解などできない、そのつもりで言っておいただけだ」
 テルアダルの動きに合わせ、ログナをはじめ、八人はそれぞれ、武器を抜き去った。
「そろそろお別れの時間だ、カロル兵団の魔族ども」
 テルアダルの右手が、黒い霧に変わり始めた。
「編み出すのにずいぶんかかった黴《かび》くさい魔法だが、俺が死んだ瞬間、ある魔物が召還される。生き延びてから、寝言をほざくんだな」
 やがて、顔や腕や足、テルアダルだったもののすべてが黒い霧に成り変わり、身に着けていたものだけが場に残った。
 真っ白な雪にまぎれて黒い霧までもが消えてしまったそのとき、災厄が、姿を現した。



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