57 人類史の終わり(3) 母と娘


 北門正面の石壁の上。
 ひたすら結界に力を注ぎ込み続けているせいで、体力の消耗が、予想以上に早い。
 汗が目に入らないよう、あらかじめ額に巻いておいた布が、水気を帯びていく。
 開戦早々、極大の火球を防ぎ切ったせいで、魔力が半分以上削られた。それが終わった後も、次々に空輸されてくる魔物が、結界が固いのをいいことに、上に飛び乗り、ひたすら結界を攻撃し続けている。
 布が吸い切れなくなった汗が、目に入って、しみる。集中力が乱されるきっかけは少しでも減らしたい。しゃがみながら、左手で結界を押さえ続け、右手で、足元にたくさん用意してある布を手に取り、顔を拭いた。
 いまだけでも厳しい状況で、ひときわ激しい攻撃が、東門の辺りにぶつかった。削られた分の魔力をすぐに送り込もうとすると、その方向にはすでに魔力が送り込まれた感覚があった。他の兵士か、南門側にいるラヴィーニアだろう。
 ふっと息を吐き、魔力を最小限に抑えながら、首を上に向ける。正面から攻撃を仕掛けてくる魔物はほとんどいない。結界の上で、ひたすら結界に爪を立てつづけるルダスや、消化液のようなものを吐き出す新種などばかりが目立つ。
 外の人間は何をやっている、と思うと同時に、何かが飛んできて、魔物の体を、次々に突き破っていった。
 攻撃が飛んできた方を見ると、そこに立っているのはヴィーヴィだった。
「つらそうですね、クローセ様。助けてあげましょうか?」
 どこか嗜虐的《しぎゃくてき》な笑みを浮かべたヴィーヴィに、
「そうしてくれるとありがたいけれど、あなた、持ち場は」
 と返す。
「結界防護役に、わたしが割り当てられました。確かにこれは、わたしじゃないと、守りきれないでしょうね」
 ヴィーヴィは言いながら、右手を大きく横に振った。右手から吐き出された水が、朝日に反射してきらめく。空気中でつららのようになったそれは、空に向かって飛んで行った。飛行型魔物が、ぼとりぼとりと落ちてくる。その背中に乗っていて落ちてきた魔物は、密集した水に体を突き破られて次々に息絶えた。
 右手から吐き出されたつらら、左手から吐き出された水の塊、それらを駆使して、舞うように魔物を殺していく。ヴィーヴィが大人に近づいてからはずっと敵視されている自分でも、その動きにはどこか見とれてしまうものがあった。実際に彼女は、興に乗ってくると、鎧を脱ぎ捨て、踊り子のような格好で戦う。少しでも軽く、素早く動くために。ヴィーヴィの戦い方にとって、鎧は邪魔なだけだ。
 付近の敵をあらかた潰したところで、ヴィーヴィは、鎧を脱ぎ、中に着ていた麻の服を脱いだ。雪が降るほどの寒さだからか、下の麻の服はそのままにしたようだが、上はほとんど下着同然の胸当て姿だった。
 魔物の攻撃を受けたら簡単にちぎれてしまいそうな細い二の腕が、殴られたら粉々に砕け散ってしまいそうな白い体が、頼りなげに映る。その頼りなさを、背中に大きく残ったグテル大虐殺の傷跡、さらにその上から彫られた大きな水龍の刺青が、打ち消している。
「なんですか、じっと見とれて。そんなにきれいですか、わたし」
 ヴィーヴィがからかってきたので、
「こんな雪の中で、変なことする子だなと思っただけ」
 淡々と答える。
「ぜんぜん寒くないですよ。だって、魔物がこれだけいれば」
 そう言うと両手を目の前に掲げて、龍のようなかたちに水をまとめあげた。それを、空に向かって飛ばしていく。
 水龍が暴れまわり、次々に飛行型魔物を食らっていく。鳥は、龍に、勝てない。
 上から落ちてくる飛行型魔物を、華麗な足運びで避け続ける。
 水の盾で防ぎきれない返り血が、緑色の血が白く透き通るような肌を汚した。
 ヴィーヴィは特に気にする様子もなく、言葉を続けた。
「いくらでも体は温まりますから」
 ヴィーヴィの対抗意識にはさんざん悩まされてきたが、やはり、戦場では頼りになる。
 水龍がもたらす死が、あたりに充満していく。
 けれど、死のにおいがあまりにも濃くなりすぎたのだろうか。
 異質な気配が、東門の近くの結界上に、降り立った。
「ヴィーヴィ! 人型魔物が一体、東から! すぐにミスティのもとへ報告に行きなさい!」
「わかりました」
 ヴィーヴィは日常生活で馬鹿げたことを平然とやるが、戦場では、馬鹿な真似はしない。でなければ、グテル大虐殺の日から今日まで、戦場で生き延びては来られなかった。
 だが、水龍を引き上げ離脱しかけたところで、信じがたい脚力を持つ人型魔物が、すでに回り込んできていた。ヴィーヴィの前に立ちはだかったその人型魔物は、王都北部城塞でさんざん部下を殺し尽くしてくれた魔物――ガーラドールだった。
 クローセはその瞬間、ヴィーヴィの足元の魔力を瞬時に弱めた。ヴィーヴィの身体が結界を通り抜け、こちら側に落ちてきた。とっさに水魔法で落ちる速度を減速したヴィーヴィが、クローセの近くに落ちてきた。
「何するのよ!」
 腰をさすりながら、敬語を忘れたヴィーヴィが言う。
「ガーラ―ドールはあなたには無理。早くミスティに知らせてきて!」
 そうしている間に、ガーラドールがクローセの存在に気付いたようだった。
「北部城塞にいた女だな。また部下を殺されるのは耐えられないか?」
 ガーラドールは結界越しに笑った。
 ガーラドールは、まるで北部城塞の再現をするかのように、両腕を切り離した。その脚力を存分に生かして走り回りながら、次々に、大蛇のように肥え太らせた両腕を、落としていく。触れた兵士が熱い熱いと叫びながら、逃げ惑った、あの両腕だ。
 そしてその両腕は、あのときと同じように、爆散した。両腕は次々に誘爆を起こしていく。兵士たちを緑色の蝋にかえた、あの液体が、じゅうじゅうと結界を焦がす。地面に触れて溶けていったあのときとは違った。結界の上で根を張ったように、あの緑色が消えない。はがれない。
 急激に魔力の消費量が増え、クローセは、がくりと膝をついた。
「クローセ様!」
 ヴィーヴィが駆け寄ってきて、立たせてくれた。ヴィーヴィは少なくとも、大事な結界係だとは認識してくれているらしかった。
 心配された嬉しさよりも、まだ落ちてきた場所にいたことに対する怒りが上回る。
「ミスティを呼んできなさいと言ったでしょう!」
「帰ってくるまで結界がもちますか? もたないでしょう、明らかに!」
 ヴィーヴィが怒鳴る。
 正論だった。
 ガーラドールが、また、両腕をあたりにばらまき始めている。
 ヴィーヴィが、最前線でそれぞれ戦っている、魔法剣の使い手たちのもとへたどり着いて、戻ってくる。それまでにきっと自分とラヴィーニアは、結界を破られてしまっている。
 もし結界が破られれば、非戦闘員しか残っていないレイエド砦とグテル市は蹂躙され、よりどころを失った人類の敗北が決まる。
「わたしの水魔法なら、あの粘ついた液体を押し流すことが出来ます! あれをどうにかしないと、ずっと魔力を吸い上げられますよ!」
 正論だとわかっている。わかっているが。
「駄目! 早く、ミスティを呼んできて!」
 いくら嫌われていても、子を喜んで危険にさらす親が、どこにいるだろう。
 ヴィーヴィのことは、七歳の時から知っている。
 グテル大虐殺を生き延びた子供たちの、親代わりにはなれなかったが、親代わりになろうとはしてきた。
 おそらく子を成すことのない自分の子は、グテル大虐殺を生きのびた子供たちだ。自分なりに愛情をこめて接してきた、ヴィーヴィたちだ。
 ヴィーヴィが突然、水魔法を発動させた。そして内側から、結界の攻撃を始めた。
「何を考えてるの! やめなさい!」
 クローセは怒鳴ったが、ヴィーヴィはやめず、
「外に出してくれないなら、自分で突き破ります」
「わたしのことはいくら嫌ってもいい! 今だけ、今だけは、言うことを聞いて!」
 クローセは涙がこみあげてくるのを感じながら、必死で怒鳴った。
「聞けません」
「どうして!」
「結界が破られたら! カロル兵団はなくなっちゃうんです! ミスティ様も、ウィルフレドも、シャルズも、チャロも、ラナリも、ビューバーも、みんな、死んじゃうんですよ!」
 ヴィーヴィが叫んだ。
 クローセは、もう、言い返すことが出来なかった。
 ヴィーヴィは水魔法を収めて、クローセに近づいてきた。クローセは両手を結界に当てて維持したまま、じっと待つしか出来なかった。
 背中から、抱きついてきた。
 ヴィーヴィが、クローセの右頬に、自分の頬をこすり当ててくる。
「そこまで心配してくれるなんて、思ってなかった。わたし、クローセに辛く当たってばかりいたのに」
 その温かな頬の感触はやがて消えた。
 ガーラドールによる二回目の攻撃が始まり、魔力がさらに、えぐり取られた。
 ヴィーヴィの言葉に、従うほかはなかった。
 水魔法で階段を作ったヴィーヴィが、一番上の段に登って、振り返る。
 クローセは、正面から見て、
「あなたは、わたしの大事な、子供だから。それを、忘れないで」
 ヴィーヴィは驚いたように目を見開いた後で、静かに、頷いた。
「行ってくるね」
 クローセは無言で、結界を開いた。ヴィーヴィが外へ飛び出し、さっそく水魔法を使って緑色の粘液を押し流した。
 魔力を際限なく吸い上げられるような感覚が、消えてゆく。
 その水に押し流されて、ガーラドールもどこかへ行ってしまえばいいのに。そう思ったけれど、ガーラドールは、びくともしなかった。その尋常でない脚力をもって、ヴィーヴィのもとへ駆けていく。この脚力の前では、逃げることも、増援を求めに行くことも、許されない。殺すか、殺されるか、ふたつにひとつ。
 走りながら、ガーラドールの腕が、変化を始める。ガーラドールの両腕は、肥大化して切り離すためだけのものだと勘違いしていたが、どうやらそうではないらしかった。
 両腕が槍のようになり、右腕だけを思い入り振りかぶって、投げるように切り離した。腹の辺りに埋め込まれた顔から、緑色の液体が吐き出される。切り離されて背後に落ちた右腕、正面から凄まじい速さで繰り出される左腕の突き、空中から降り注ぐ粘液。三方向からの攻撃がヴィーヴィを襲う。
 ヴィーヴィは粘液と右腕の爆散を簡易結界魔法と水魔法で弾き、正面からの突きを左にかわした。簡易結界魔法を突き破った左腕は、ヴィーヴィに当らなかった。しかし、槍の穂先とでもいうべき部分が、ヴィーヴィの右肩ををかすめる直前、無数に枝分かれした。穂先から二の腕の辺りまで、数十本に分化した気味の悪い触覚のようなものが現れた。それは、槍に突き破られたことによって簡易結界魔法の崩れてしまった、ヴィーヴィの右肩付近をとらえた。
 ヴィーヴィは悲鳴を上げながら、すぐに水魔法を使って触覚を体から剥ぎ取った。数十本の触覚の触れたところが、どす黒く、焼けただれたようになっている。
 水魔法を避けるため一旦距離を取ったガーラドールは、再び、ミスティに向かって走り出した。負傷したヴィーヴィへ、また、同じ攻撃が繰り返されようとした。
 ヴィーヴィも負けてはいなかった。先程やられたときにすでにガーラドールの背中の辺りに張りつかせていたのか、背後に回していた水が広がって、ガーラドールをとらえた。避ける間もなくガーラドールを包み込んだ水は、ガーラドールの体の三分の一程を粉々に砕いた。
 けれど、胸から上のない体のまま、ガーラドールは直進した。その突進は常軌を逸して余りある速さで、ヴィーヴィが避けることを許さなかった。ヴィーヴィは水魔法と簡易結界魔法を張ったが、ガーラドールの腹にある顔が、そのまま二重の防壁を突き破った。腹にある顔が、ヴィーヴィの体のど真ん中を貫き、水龍の刺青を破って、背中から突き出てきていた。
 自分の頭上で起こった惨劇に、クローセは、一瞬絶句し、すぐさま、ヴィーヴィが載っている部分の結界を緩めようとした。
「駄目!」
 ヴィーヴィは、呼吸ができるように顔だけを出して、ガーラドールの体と自分の身体を、水魔法で覆い尽くしていた。半透明の水の向こうに、ぼんやりと、ヴィーヴィの後ろ姿が見える。
「いま、少しでも動いたら、顔を引き抜かれる。こいつ、明らかに力を残してるよ。クローセでも勝てない」
 水魔法に捕まっているせいなのか、ヴィーヴィの危惧するような変化は、まだ起こっていない。
 ヴィーヴィは完全に、臓腑をやられている。腕や足を切り落とされても、処置さえうまくいけば、生きていられる。けれど、臓腑をずたずたにされたら、もう、助からない。ヴィーヴィは体の真ん中を、食い破られている。
 魔王討伐隊副隊長の自分が、カロル兵団副団長の自分が、どこかで冷静に考えている。ヴィーヴィは、諦めるしかない。それで結界が守れるなら、仕方ない。
 けれど、何の肩書もない、ただのクローセ・アクイラとしての自分は、それを認めようとしない。
 まだ何か助かる方法があるのではないかと、諦め悪く考え続けている。そのあいだにも、ヴィーヴィの生きていられる時間が、減っていく。
「クローセ」
「なに?」
 クローセは、間をおかず返事をした。
「さっき、子供だって、言ってくれたよね」
「ええ。言った。あなたたちは……いえ、ヴィーヴィは、わたしの、大事な子供」
「じゃあ、呼んでいいよね。呼んでも、いいんだよね」
「なんでもいい。なんでも、好きなようにしていいよ」
 ヴィーヴィが首を動かして、笑った。
「母さん、今まで、ありがとう。これからもみんなを、守ってあげてね」
 クローセは結界をゆるめたくなる誘惑に抗い続ける自信がなくなってきた。
 それでも。
 まだまだこれから、いろいろなことを経験していくはずの子供が、死にかけているのを前にしても、結界を維持する。
 それが、自分の仕事だ。カロルの自爆によって生き長らえた、自分の、仕事。
「安心して。魔物なんかに、カロル兵団を潰させたりしない」
 クローセの言葉をしっかり最後まで聞いてから、前を向いたヴィーヴィが、
「そろそろ、終わりにしよっか」
 明るく言った。
 水の中で、ガーラドールの腹から突き出た顔が、ぼこぼこと何やら喚いているが、ヴィーヴィがすっかり隙間を詰めてしまったのか、顔を抜くことが出来ずにもがいている。
 ヴィーヴィは悲鳴を上げながらも、さらに強く、自分とガーラドールを結びつけた。
「カロル兵団の団旗の意味、知ってる? ガーラドール」
 ヴィーヴィが呟いた。
「『無』だよ」
 そう言った瞬間、ヴィーヴィの体を閃光が包んだ。
 ヴィーヴィの身体と、ガーラドールの体が、粉々に吹き飛んだ。
 水に包まれた、一人と一体の残滓《ざんし》が、水たまりの中に取り残された。
 クローセは、ヴィーヴィがやり残した最後の仕上げをするために、結界に小さな隙間を空けた。そこから、自分が結界以外に振り向けられるささやかな魔力を使って、黒い霧を外へと出し、徐々に大きくなっていく小さな粒を、覆い尽くした。それから、右手を結界から離し、小さく、握りしめた。
 ガーラドールは、消滅した。
 雪の中を舞っていた少女の遺した水と、静かに降り続ける雪とが、溶けあっていく。



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