54 変わったことと、変わらないこと


 五芒星の魔法陣が刻まれた、薄くて四角い石の上に、ログナは試しに立ってみた。
 迎撃魔法陣という大層な名前がついたこの道具は、もともと魔力の少なすぎる自分に、あまり効果がないらしい。遠距離魔法を試そうとすると、魔法土はそこまで辿り着かずに地面へ落ちてしまった。近くまで歩いて吸い取るという間抜けな事をして振り返る。すぐ近くにいてその様子を見ていたミスティは、
「ログナって本当に魔力が少ないんですね……」
 と言ったきり、絶句してしまった。白い頭巾の奥にある青い目が、不可解なものを見るような目でログナの手元を見つめてきている。
 ログナとミスティは、レイエド砦の東側、おそらく一番の激戦地となる場所に来ていた。
 レイエド砦はグテル市を防護するかたちで広がっている。その西側には、広く深く整備された湖のような堀があり、水に囲まれた部分へ突出したかたちの出城もある。無理矢理突破しようとする頭の悪い魔物と、飛行型魔物にだけ注意していればいい。南側は切り立った断崖で、下から登ろうとするものがあれば絶好の標的になる。北側も、土魔法で人工的に整備された深い穴が広がっている。おまけにこちらは鼠返しの構造だ。
 唯一、通路となるべく整備された東側は、ヴィラ砦防衛戦のあおりを受けていくつか施設に損害が出ている。ただ、門から伸びた一本道を取り囲む、長大な石壁、石塁、土塁、空堀、堀は変わらず健在で、迎撃にもってこいの場所であることには変わりない。
 ログナの目の前には、体を隠すための頑丈な石塁がそびえたっている。石塁だけでは上級魔物の妨げにならないため、簡易結界魔法との相互作用が前提で、壁一面に魔法陣が描かれている。ところどころに小さく開いた穴からは、枯れ草の広がる平野が見える。
 背後では、シャルズとクローセの指図によって、迎撃魔法陣の運び出し作業のまっただなかだ。ログナが声をかけるまでは、ミスティも運び出しの監督をしていた。この、魔法陣が彫られた薄くて四角い石は、カロル兵団が苦心して作り上げている最中の魔法道具だそうだ。魔法陣の頂点に魔石が埋め込まれており、レイエド砦内部にある魔法陣から錬成した魔力を、迎撃魔法陣側に伝えるという。研究途中のせいで魔力増幅の能力は中途半端で、大きな魔力を持つ人間には効果がないらしいが、魔力の少ない人間の力をそれなりに引き上げてくれるらしい。
 左下に、通し番号『1』が刻まれている迎撃魔法陣を二度ほど軽く踏みつけたログナは、ミスティに愚痴った。
「これ、壊れてるんじゃないのか?」
「だからそれは、ログナの魔力が少なすぎるだけです。でも、魔力回復の効果はあるはずなので、休むときは迎撃魔法陣の上で休んでくださいね」
「うさんくせえなあ」
 そう言うとミスティは呆れ顔になった。
「ログナ以外にはきちんと効果がありました!」
 ログナはため息をつきながら、迎撃魔方陣の上から退く。
 先ほどから時折、ミスティをつついて様子をうかがっているが、なかなかぼろを出さない。
 カロルの蘇生に失敗したとき、ミスティは、死なせてほしいと頼んできた。あのとき、弛緩しきった体を抱きかかえて脱出したログナにしてみれば、一月もいかないうちに立ち直れるとはとても思えない。それなのに、今のミスティは、落ち着きを取り戻しているように見える。
 カロルが死んだときもそうだった。ミスティは一晩泣いただけで、翌日にはもう立ち直ったように見えた。けれど十年後、カロルを蘇生させる儀式を行った。
 いまも、表には出さないだけで、内心ではさまざまな感情が渦巻いているはずだ。イシュの場合は無表情の裏にある感情がぼんやり感じ取れるが、ミスティの場合は表情を出しながら深層にある感情をうまく隠す。
 どうすれば、吐き出させてやれるのだろう。
「あ」
 迎撃魔法陣を爪先で蹴りつけながら考えていると、ミスティが、何かを思い出したように声をあげた。
「ログナって、魔力増幅のための刺青を全身に彫っていましたよね? もしかしたら、あの刺青でもう限界まで魔力を引き上げてるんじゃないでしょうか」
「そうか。それが原因かもな」
 身体を通る魔力線の直上《ちょくじょう》すべてに刺青を入れた時の痛みと、想像を絶するかゆみには、本当に苦しめられた。
 この石に刻まれた魔法陣が、身体に刻まれたあの苦しみを上回る存在でないのは、喜ぶべきことかもしれない。
 昔見た刺青のことでも思い出しているのか、ログナのことをぼんやりと眺めてきているミスティの視線が、首もとで止まった。
「まだ、首に提げてるんですね。ロド教の首飾り」
 五芒星の首飾りが、いつの間にか表に出ていたようだ。服の中にしまい込む。
「ロド教なんて、さっさと棄てればいいのに」
「魔力が足りないやつに、首飾りを提げない選択肢はないんだよ」
「わかってますよ。なんだか……嫌な気分がするだけです」
 少しだけ子供じみた声音で呟き、明後日の方向に視線をやって、目の前の石壁に背中を預けた。
「嫌な気分って?」
「嫌な気分は、嫌な気分です。他に言いようがありません」
 ミスティは髪を撫でつけようとしたのか、頭巾を上から触ろうとして、すぐに手を下ろした。
 ログナは小さく笑った。
 十年前も、苛立ったときや、どうしていいかわからないときにやっていたしぐさだ。ふだんは髪の手入れを面倒くさがるミスティが、そういうときにだけやたらと髪に触りたがる。
「どうして笑うんですか」
「いや、その仕草、変わらねえなあって」
 ミスティは何度か瞬きした後で、
「よく覚えてますね、そんなこと。ラシード砦で会うまでは、わたしのことなんてとっくに忘れて、島でのんびり暮らしてるんだと思ってました」
 と言った。
 一度しまい込んだ五芒星の首飾りを、再び取り出した。二つかけているうちの一つだ。
 首から外して、ミスティに投げ渡す。
 ミスティは慌てて両手を出して、受け取った。
 十年前に見た、あの沈みかけの夕日を、ログナはぼんやりと思い出した。
「なんですか、これ」
 言いながら表を眺め、裏返して眺めたミスティは、視線をある一点で留めた。裏側には、首飾りの使用者の名前が彫ってある。
「俺が使ってる、首飾り」
 十年前に、棄教したミスティから投げ渡された、首飾り。
 ミスティは、両手で包み込むようにその首飾りを握りしめた。そして俯き、しばらく何も言わなかった。地面の一点を見つめたまま、何かを呟いたが、それはログナの耳に届く前に、ひやりとした風にさらわれていった。
 鼻をすすりながら顔を上げたミスティの目元には、涙が溜まっていたが、どうにか堪えているようだ。
 ミスティはログナに目元を見られていることに気付くと、身を翻し、壁に向かった。壁の小さな穴から、荒れ果てた平野に視線を逃がしている。
「わたしはただ、取り戻したかっただけなんです。楽しかったあのころを」
 ログナは壁に寄りかかってレイエド砦に視線を遣り、言葉の続きを待った。
「カロルは魔王討伐のあと、凱旋して、国民全員に褒め称えられて、国王直々の表彰を受けるはずだった。それからもずっと、王国のために活躍し続けて、魔物がいなくなって、平和になって……。本当はそうなるはずだったのに、カロルは死んだ。死んだだけならまだ、王国のことはここまで憎く思わなかったかもしれない。きっと、わたしの力が足りなかったせいで、死んでしまったとすら思った。でも、あいつらは、国のために尽くしたカロルやログナたちを、裏切り者の極悪人に仕立て上げた!」
 ミスティはいつの間にか敬語をやめていた。
「わたしは、魔物も王国もどっちも潰して、カロル兵団以外の存在を無かったことにしてやろうと思って、あの団旗を作ったの」
 正方形の中の斜め十字。レイエド砦に多数翻る『無』の記号をかたどった団旗を、ログナは眺めるともなく眺めた。
「でも、魔王討伐隊の存在だけは……カロルの存在だけは、無かったことにはできなかった。わたしはみんなが、カロルが大好きだったから」
 大声で喚こうとしたのを、どうにか押し殺したような声が、ミスティの喉の奥から吐き出された。
「カロルさえ蘇れば、あのころに戻れるような気がして。カロルが死んでから、ログナはいなくなった。わたしが団長になってから、クローセと一緒にいる時間はどんどん減って、リルとバルドーは少しずつ他人行儀になって、レイは敵になった……。魔王との戦いは、辛かったし、苦しかったけど、みんなとそれを乗り越えたあのころに、時間を戻したかった。カロルさえ蘇れば、またみんな、あのころみたいに仲良くやっていける、そう思ってた」
 ミスティはゆっくり振り向くと、ずっと握りしめていた首飾りを、ログナに投げてよこした。ふわりと宙に浮いて、ふわりと落ちてくるそれを、ログナは受け取った。
「でも全部、無意味でしたね。いえ……無意味どころか、悪くしただけで。カロルは蘇らなかったし、リルとバルドーには、愛想を尽かされてしまいました。クローセには迷惑をかけっぱなしで、ログナにも、ひどいことをたくさん……」
 また敬語に戻ったミスティは、目の端から涙を次々に零しながら、ログナを見つめてきた。
「いいんだよ。俺のことなんて。頑丈なだけが取り柄なんだから」
 ログナは目をそらし、なるべく重く響かないよう、投げやりに言った。
 視界の端で、ミスティが左肩を壁に寄せ、ずるずると地面に崩れ落ちていくのが見えた。
 ログナは戻って来た首飾りをまじまじと見つめた。少し吐きださせてやろう、そのくらいのつもりでいたのに、この首飾りのせいで、よくわからないことになってしまった。
 首飾りを再び首にかけながら、ミスティのほうへ歩く。そして腕を掴んで引っ張り上げる。
「団長が揺らいだら、下のやつらが不安がる」
 ログナが腕を離すと、そのまま、こちらにもたれかかってこようとした。
 けれどミスティは、寸前のところで踏ん張った。ログナの鎧に手をかけただけで堪え、俯いてじっとしていた。
 もし、もたれかかってきていたら、叱りつけるつもりだったが、そうせずに済んだ。
 やがて、鎧から手が外された。ミスティは俯いたまま、深く息を吸って、吐いた。
「これでいいんですよね、ログナ」
「ああ」
「ログナはほんと、厳しいですね。いつでも頼れ、みたいな雰囲気を出してるのに、簡単には頼らせてくれないんですから」
 顔を上げたミスティの目元には真新しい涙の跡があったが、頭巾の奥では笑ったように見えた。
 いつもミスティの世話に追われていた昔とは、もう、違う。自分の手助けや叱責がいらないことを改めて気づかされ、少し寂しくなった。
「本当につらいときは、いつでも言え。でも、いまはそうじゃないだろ」
 ミスティは頷いた後、ログナから離れた。
 駆けまわる兵士たちに目をやりながら、
「わたし、カロル一筋でしたけど、ログナもちょっといいなって思ってるんですよ」
 からかうように言った。
 こういう軽口も、昔はときどき言っていた。
「それだけ言えるなら、もういいな。昼休憩してくる」
 ログナは笑い飛ばして、レイエド砦のほうへ歩き出した。
「ありがとう、ログナ」
 後ろで小さく、ミスティが呟いた。



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