53 死にたくないし、死なせない


 高く分厚い石壁の上の四隅に設置された、堅牢な物見櫓《ものみやぐら》。そこに立っていると、このレイエド砦の高さがよくわかる。行き交う人々の姿が、本当に小さい。ここへ初めて上ったときは、その光景と吹き付けてくる風の冷たさに、軽く身震いした。
 今日もまたささやかな雪が舞っていて、トライドは雪が入ってこないように目を細めながら、外の様子を眺めた。このところ天気が晴れず、心なしか、石壁の上を歩く兵士たちにも活気がない。
「トーラーイドっ」
「おわあ!」
 ひとりの世界に浸っているところで突然肩を触られたので、驚いて前のめりになる。櫓から上半身が飛び出し、トライドの心臓も飛び出しそうになった。
「馬鹿、びっくりしすぎ!」
 ルーアの手が、慌てて櫓の中に引き戻してくれる。
「梯子を上ってくる音くらい聞いててよ」
 肩越しに振り向くと、呆れ顔で言ったルーアの顔がすぐそこにあり、トライドは顔が熱くなっていくのを感じた。
 幸い、ルーアはトライドから離れて、物見櫓の壁に寄りかかり、そのまま座り込んでくれた。外を見る自分と櫓内部を見るルーアで、視線が全く合わない。
「僕も悪かったけど、お願いだから普通に話しかけて……。僕の性格を一番わかってるんだから」
「ごめんごめん」
 ルーアが笑みをにじませて言う。
「なんでここにいるの? 迎撃魔方陣の準備は?」
「ちょうど近くで作業してるときに、お昼の休憩貰ったの。ここにいるって聞いたから」
「お昼、取って来てあげようか」
「まっずい野菜スープはもう飲んできた。あと、干し肉があったから二枚」
 衣擦れの音がして、ルーアの肘が、左足の膝裏にぶつかってきた。
「一枚食べる?」
「いい」
「そ」
 王都北部城塞の往復の道では全員一緒で、レイエド砦に入ってからもそれぞれ空き時間などなく、防衛準備に走り回ってきた。二人きりになるのはこのあいだの再会のとき以来だ。あのときに感じたぎこちなさはどこかへ消えたようで、少し安心した。
 けれど、干し肉を食べ始めたルーアが黙り込んでしまったので、また、あのときのことがよぎってしまう。それもこれも、ログナとミスティに言われてからずっと頭の片隅に居座っている、あの言葉のせいだ。
 ぶつかったときからずっと、ルーアの左腕が、自分の左足に、ぴったりくっついている。
 勢いを増しては風によって引いていく、顔の熱の気持ち悪さにじいっと耐える。
 ルーアが、ごちそうさま、と呟き、
「もうすぐだね」
 続けて言った。
「うん……もうすぐ」
「ねえ、トライド」
「ん?」
「わたしたち、もしかしたら、人型魔物とやることになるかもしれないの、わかってる?」
 トライドは、割り当てられている見張りの役割も忘れ、身体をねじった。膝を軽く抱えて、正面を見ているルーアの、茶色い髪を見下ろす。ルーアがちらりとこちらを見て、すぐ視線を正面に戻す。
「やっぱり。考えてなかったんだ。クローセとラヴィは本式の結界担当、ミスティをヴァーダーにあてて、ガーラドールをログナ隊長、十万の魔物と二千のノルグ族をその他、って考えだよね、基本的には」
「えっと……ガーラドールの相手はフォードさんのほうがいいと思うけど、他は僕も同じ。人型魔物がもし増えても、人はたくさんいるし……」
「十万の魔物と二千のノルグ族を相手にするには、最低でも魔法剣の使い手が二人欲しいから、フォードとレイ様は絶対に外せない。それに、人型魔物が、ヴァーダーとまではいかないにしても、ガーラドールと同等だと考えると、一人ずつ当てても勝ち目はないよ」
 ルーアはひとつひとつ、確認するように数え始めた。
「神学長を殺した人型魔物をノルグ族二人。王や近衛兵を殺した人型魔物をシャルズ、テルセロ様。第一王子を殺した人型魔物をヴィーヴィ、ウィルフレド。第二王子を殺した人型魔物を……ねえ、誰がやることになると思う?」
「トライドと、ルーア」
 櫓の外に視線をやって指折り数えていたトライドは、自然と自分たちの名前を出していた。
「実際の戦闘になったら、強い人たちは分散するだろうし、相手がどこにいるかもわからないわけだし、そんな綺麗に班分けできるはずないけどね。それでも、討伐を指示される可能性があるってことがわかってれば、少しは違うでしょ」
 ルーアが軽い調子で言うと、それがどんなに重い事実を意味する言葉でも、なぜだか肩の力が抜ける。やはり、自分のことを一番わかってくれているのはルーアだ。どんな言葉で気負い、どんな言葉で落ち着けるか、ルーアはわかってくれている。
 温かな気持ちが広がっていくのと同時に、左足に何かが当たった。見ると、ルーアが頭を預けてきていた。
「死にたくないなあ……」
 ルーアがぽつりと零したその言葉に、トライドは身動きがとれなくなった。
 ログナとミスティの言葉が自分の中でどんどん膨らんでいく。
「僕……僕は……」
 トライドは口の中でもごもごと言った後、意を決して、ルーアに向き直った。
 左足に頭をもたれていたルーアが、少し体勢を崩しながら、こちらを見上げた。
「ルーアは、僕が守る」
 これが今の自分に言える精一杯の言葉だった。
 ぽかんと口を開けたルーアは、しばらく呆けた後で、白い息を吐き出して笑った。
 そのあと、これまで見たことのない、照れくさそうな笑みを浮かべ、
「かっこよくなったね、トライド」
 何かを、小さな声で言った。小さすぎて聞こえなかったが、ルーアはそのまま立ち上がると、トライドを勢いよく抱きすくめてきた。
 うろたえている間に、
「わたしも、トライドを死なせたりしない」
 ルーアがまた小さな声で言った。ルーアがこのところ使っている香水の――すずやかな香りが鼻腔をくすぐった。革の鎧を着こんだ者同士の、硬さばかりが伝わる抱擁だった。それでもトライドは、心臓の鼓動が激しくなって、ルーアを抱きしめ返したきり、何も、言えなくなってしまった。いつも似たような距離での接触はあるが、正面からこうして抱き合うのは、初めてのことだった。
 やがてルーアが、
「いま気づいたけど、ここ、目立つね」
 と、言い訳めいた口調で言いながら、体を離す。
 目が合うと、ルーアは少し乱れた髪を手でとかしながら、目をそらした。トライドも、思わず目をそらした。
 小さなころから、ずっと、一緒にいる相手。この程度の触れ合いなら、何度もしてきているはずなのに、今までとは、何かが違っていた。
 何か言わないと、そう思ってもう一度ルーアのほうに視線を戻す。
 そこで、櫓に備え付けられた梯子を上ってくる音が聞こえた。
 救われたような残念なような、なんともいえない気持ちで、顔を出した。下から上ってくるのはイシュだった。
「誰?」
「イシュさん」
「ああ……。迎撃の配置についてか」
 赤いように見えた顔は、すでにいつもの通りに戻っている。
 イシュは梯子を上り切ると、ちらりとルーアに目を遣ってから、トライドの正面に立った。大きな麻袋を、革紐でたすきがけにしている彼女は、中から紙を二枚、取り出した。
「トライドくん、配置が決まったから伝えておく。あなたは百六十五番の迎撃魔法陣の近くで、前線待機になる。人型魔物が確認された場合、物見櫓の鐘が乱打される。それが特別招集の合図。どの辺りに向かえばいいかは伝令が行くから、あなたが抜けても周囲の戦線が崩壊しないよう、余裕をもたせてあげて。これが迎撃配置図で、戦場では見ている暇はないと思うから、なるべく暗記を」
 イシュが手に持っていた紙の一枚を、受け取る。
「ついでにあなたの配置も」
 イシュの視線がルーアに向く。
「わたしは編成会議に参加してたからいい。十一番でしょ」
「わかってるならいい」
 イシュは残った一枚の紙を、乱雑にルーアへ押し付けた。
 ルーアも乱雑に受け取った。この二人、前よりは険悪さが薄れている気はするが、いちいち、やりとりが刺々しい。
「用事はこれだけ」
「ありがとうございました、わざわざ」
 イシュが頷き、背を向けた。梯子に足を書けたイシュの顔が、見えなくなりそうになったところで、ルーアが、
「待って」
 と言った。イシュが一段上に戻り、梯子に近づいたルーアのことを、足元から見上げる。
「あんたさあ、戦えるの? あんな……その……」
 ルーアは珍しく口ごもって、それから舌打ちした。
「あんなぼろきれみたいな状態だったくせに」
 イシュはじいっとルーアのことを見つめたあと、
「約束したから」
 と言った。
「約束……」
 ルーアはぽつりと復唱した。
「それに、あなたたちは実感がないかもしれないけど」
 イシュにしては珍しく、感情をにじませた口調で――先輩風を吹かせるような口調で言った。
「魔王討伐隊は、初め、前線に送りつけられたかわいそうな生贄でしかなかったの。でも、あの人たちは、魔物との戦いの中で、正真正銘の英雄になった。特に、兵士の間で。わたしも、ときどき戦場で一緒になるあの人たちの背中を見ながら、祈ってた。早く魔王を倒してください。早く平和な世界を取り戻してください、って。魔王討伐隊が賞金首になってからは、裏切られた気持ちでいっぱいになって、その時のことなんて忘れてしまっていたけど……今は、魔王討伐隊の名前を背負って戦えることを……」
 イシュは微笑を浮かべた。
「いつも誰かを守ろうとするログナ様とともに戦えることを、誇りに思う」
 ルーアがくすりと笑った。
 トライドもつられて笑う。
 面白かったわけではない。なんだか胸のすくような気持ちになって、思わず笑みのかたちになっていた。
「僕達と一緒に戦うことは、誇りに思ってくれないんですか?」
 距離の縮まった気がしたトライドは、勇気を出して、一歩、踏み込んだ。
 イシュは顔を上げてトライドの目をまっすぐ見つめてきた。少し息を吐いて口もとをゆるめ、
「そうね。考えておく」
 そうして梯子を、降り始めた。
「あ、わたしもそろそろ戻らないと。見張り頑張ってね、トライド」
 肩に軽く触れてきたルーアは、イシュに続いて、梯子を降りて行った。



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