46 イシュの失策


 イシュとテイニは、一睡もせずにひたすら行軍を続け、王都北部城塞の近くにたどり着いた。
 視覚や聴覚のすぐれたノルグ族の中でも、特別視力に優れたイシュとテイニで手分けして、敵に察知されない限界線まで近づき、王都北部城塞周辺の配置を確認した。
 結果として、王都北部城塞を囲む支城のいくつかに、旗が掲げられていることがわかった。黒地の布の中心に、赤い円が四つ寄り集まった旗。現在はロド王国から使用禁止命令が出されている、かつてノルグ族が旗印として使っていたものだ。
 そして、反乱が事実らしいということよりもイシュが衝撃を受けたのは、魔物とノルグ族が争いもせず、王都北部城塞をともに包囲している異様な光景だった。ノルグ族の――人類の歴史の中で、魔物と争わない瞬間など、一度としてなかったはずだ。
 ロド族よりもはるかに多くのノルグ族を手にかけてきた魔物と、ロド族憎しのあまり、手を取り合う。馬鹿げている。反乱よりもずっと、馬鹿げている。どちらがより自分たちに近いか、そんな簡単な事すらわからなくなったのだろうか。
 ロド族は、ノルグ族を顎で使い、最前線に放ち、命を助けられても礼すら言うことがなく、平然と蔑視してくる、最低で、下賤な連中だ。だが、魔物はそのロド族よりももっとひどい仕打ちを、ノルグ族にしてきた。ロド族が敵だとするなら、魔物は、絶対に許すことのできない、和解など全く頭にもよぎらない、不倶戴天の仇敵だ。
 魔物から仲間を守るためだけに、死に物狂いで訓練をこなしてきたイシュは、言いようのない怒りを覚えた。けれど、どうにか表情には出さないようにした。ここで感情の抑制を失ってしまえば、昔の自分に立ち戻ってしまう。奴隷剣士として前線へ無理矢理送り出され、魔物に食べられたくないと、毎日怯えて、泣いてばかりいたあのころの自分に。
 あのときの願いはただひとつだった。誰か、早く魔王を倒してください、誰か、早く魔王を倒して平和な世界を作ってください。
 その願いは、魔物の暴走により、儚く消えた。けれど、今の自分は、懇願するだけの存在ではない。平和を実現する一助となれる力を、死に物狂いで身につけた。あのとき、幼いイシュを含めたすべての人間の願いを果たそうとしてくれた魔王討伐隊の一員、ログナのもとで、力を振るうことが出来ている。レイも生きていた。フォードも生きていた。これからだ。これから、人類の反攻が始まるところだった。
 ロド族による治世が、いいはずはない。だからといって、魔物の治世など、考えたくもない。反乱を起こすにしても、すべては魔物を押し戻してからの話だ。
 煮えたぎる怒りを無表情で取り繕いながら、テイニの顔を少し窺うと、彼女は唇を引き結んでまっすぐに目の前を見つめていた。
 テイニとイシュは歩き始めた。
 初めに気付いたのは、包囲していた兵士の一部だった。
 兵士たちは武器を構えて、すぐに下ろした。
 視線は、イシュが顔に彫ったスルードの花に向けられていた。
「イシュ様」
「イシュ様だ」
 誰かが口に出すと、兵士たちの間にイシュの名前が広がって行った。
「イシュ様は有名人」
 隣のテイニが、茶化すように節をつけて歌ったので、軽く睨む。そして、気遣われるほど怖い顔をしていただろうかと、少し、肩の力を抜いた。
 十分に自分の存在が伝わって行ったのを見計らって、イシュはそれなりの大きさの声で言った。
「緊急の用件があります。ラユ様に会いたい。どなたか、取り次ぎを願えますか。このなかで最高位の方は!」
「俺だ」
 ノルグ族の旗印がひときわ多く固まっている場所から、ひとりの男が進み出た。
 男の顔を見て、イシュは思わず声をあげた。
「アスイ!」
 王都の守備隊の一員で、奴隷の仕事――鳩の餌係を務めていたひとりだった。会ったのは、ログナと初めてゆっくり話した、夕方の鳩舎前広場が最後だった。あのときは、イシュが先に歩いて行ったのをいいことに、ログナへ、何やら余計な言葉をかけていた。この混乱のせいで、もう生きてはいないと思っていたが、無事だったらしい。
 つい今しがたまで煮えたぎっていた反乱への怒りを一瞬、忘れた。
「すぐにでも会わせてやりたいが、ここにラユ様はいない」
「どうして? あなたたちの独断ということ?」
 アスイとの再会で勢いを削がれた怒りが、再び湧いてくる。
「あのよぼよぼのばあさんに戦場まで駆けて来いっていうのか?」
 アスイが笑った。イシュはいつもなら笑っていただろうが、笑わなかった。
「じゃあ、指揮官は誰?」
「コニ様だ」
 飛び出してきたラユのひ孫の名前に打ちのめされ、イシュは体から力が抜けそうになった。テイニが腕を掴んできて、なんとか耐えられた。
 イシュは気を取り直して、アスイに詰め寄った。
「あんなに小さな男の子をよくも戦場に……担いでいるのは誰? まさかあなた?」
「お、落ち着けよ……俺なわけないだろ。魔物をどうやって手なずけてるかも知らないのに。担ぎ上げたのは、マズラとか、その辺の」
「マズラはどこ」
「部外者に教えるわけには」
「わたしと戦うつもり?」
 イシュは闇魔法を広げるのではなく、ログナがいつもやるように、片手剣に手をかけていた。周囲の緊張が一気に高まるのがわかった。
 アスイはじっとイシュの目を見たあとで、鳩に餌をやるときに浮かべているような笑顔になった。イシュは虚を突かれた。
「わかった。俺も、部下が心配で、ついてきただけだからな。言ってやりたいことは腐るほどある。連れてってやるよ」

 テイニに茶化されたけれど、自分は、たしかに有名人のようだった。あまり関わりのないノルグ領のノルグ族にまで顔を知られている。誰も顔に彫らないスルードの花の刺青のせいだろうか。好奇の目にさらされながら、コニのいるという支城へ向かうと、まだうまく言葉も喋れないコニに、マズラがうやうやしく頭を下げ、戦況を報告しているところだった。
 まだ幼い男の子と、老年のマズラは、魔物のただなかにいる。レイエド砦とヴィラ砦を襲ったのと同じ新種や龍族種やルダス、ミングスなど、すべて上級に匹敵する魔物だ。ついこの間、ヴィラ砦で散々殺し、殺されかけた魔物たちが、すぐそばにいる。
 そんな状況で行われているマズラの小ざかしい芝居を見て、後ろから尻を蹴り上げてやりたくなった。それが実現する前に、アスイがマズラに声をかけた。
「マズラのおっさん。この光景、異様っすよ」
 マズラはさして気にせず報告を続け、その後で、立ち上がり、振り向いた。
 視線はアスイではなく、イシュの刺青に向けられている。
「なぜあなたがここにいる」
「それはこちらの台詞です。なぜコニ様をこのような魔物に囲まれたところに」
 感情にふたをするのはもう慣れている。そうしなければ、頭に血の上りやすい自分は、戦場で生き残れなかった。怒りを一切声に乗せずに言い切るくらいはやってみせる。
「我々には我々の事情がある。余計な詮索は控えてもらいたい」
「事情? 魔物と手を組む事情とは?」
「イシュ……わかっているのか。これはもう二度と無い機会かもしれないんだ。我々は長い間、ロド族によって奴隷扱いされてきた。顔にスルードの花の刺青を彫ったあなたなら、わかるだろう?」
「そうですね。ロド族のことは、きっと死ぬまで、大嫌いです。できることなら、王国が崩壊する前に、わたしの手で滅亡に追い込んでやりたかった」
「だろう、だろう。ああ、そうか! 参加を迷っているんだな! あなたとテイニには、もちろん一軍を与えるぞ。騎士団のイシュと王国軍のテイニといえば、リルを超える逸材だと、ノルグ領のほうにまで噂が伝わってきている。特にイシュは、このあいだも、北部城塞で大活躍したらしいじゃないか。それが結果としてロド族のためになってしまったというのがはなはだ残念ではあったが……。ロド族と戦うためには戦力がいくらあっても困らない。どうか、ノルグ族の苦境を助けると思って、協力してくれないだろうか。あなたがたがいれば、百人力だ!」
 マズラが熱っぽい口調で語る。テイニが戸惑ったように視線を送ってくる。いつでも眠そうにしていて自分の考えをうまく隠しているテイニだけれど、その行動に、ノルグ族のために戦いたいという思いが芽生え始めているのが見て取れた。
 昔の自分ならば、この熱にあてられて、少しは揺らいだかもしれない。
 けれど今は、違う。
「残念ですが、お断りします」
 イシュははっきりと言い切った。
 テイニも、マズラも、アスイまでも、驚いたようにイシュを見ていた。
 マズラが口を開いた。
「なぜだ! 我々はあのロシュタバによって支配下に置かれて以来、ずっと、家畜のような扱いを受けてきた。奴隷か奴隷剣士として働く以外の道は許されず、雇い主から、人とも思わぬ仕打ちを受けた同胞のことを、いちいち説明しなければならないか? いや、その必要はないはずだ。それは、あの悲惨な魔王との戦いの中で、あなたも身に染みてわかっているはずだ!」
 それを聞いて、テイニが、イシュの袖口を掴んできた。
「ねえ、イシュ、マズラ様の言ってることは、正しいよ。もう少しちゃんと、話を聞かない?」
 いつも冷静なテイニだけれど、やはり、ノルグ族という仲間を前にして、揺らいでいる。テイニは、魔王との一連の戦いの中で、ノルグ族が倒れていく戦場の中で、仲間を守るために黙々と剣を振るった。決して表には出さないが、イシュに負けないノルグ族への愛着を、持っているはずだ。
 マズラは弁が立つ。とてもイシュたちの説得によって、心情が降伏へ傾くとは思えない。交渉がもし決裂すれば、ノルグ族と戦わなければならないかもしれない。
 袖口を掴んできたテイニの手を、静かに外した。
「マズラ様、あなたには現在の状況が見えていません」
 ログナと長く話し合っておいてよかった。いつもの自分なら、ろくな言葉は喋れなかっただろう。あの夜にどうにか絞り出した言葉が、自分のことを伝えることができたという自信が、力を与えてくれる。
「あなたの計画は失敗します。なぜなら」
 何か口を挟もうとするマズラを、目で制す。
「ロド族は、王国側に復帰したログナ様をはじめとした、強力な戦力を有しています。いまのわたしとテイニでは、ログナ様におそらく勝てません。いまのわたしとテイニが勝てない相手に、ノルグ族の誰が勝てるでしょうか。リル様ならあるいは勝てたかもしれませんが、彼女はもういません」
 レイが生きていたことは、持ち出さなかった。
 ラヴィーニア王女のことをラヴィと呼び、敬語も避けた理由が頭の片隅にあった。
「自惚れないでくれ。イシュとテイニが居なくとも、元賞金首ごとき、全員で力を合わせてどうにかする。特にやつは、魔王討伐隊の中で飛びぬけて魔力が少ないと聞いたことがある。数で押せばどうにかなる」
「そうですね。もしかしたら可能かもしれません」
 イシュは挑発するために無表情を崩し、笑って見せた。
「魔物の手を借りればね」
「何が言いたい」
 いままで丁重な態度を崩さなかったマズラが、低い声を出した。
「わたしは、ロド族よりもずっと、魔物どもの方が大嫌いだってことですよ。だいたい、魔物は、我々を殺し尽くして」
 イシュが表情を変えずに呟いている途中で、敵意をあらわにしてしようとしていたマズラが、急に、取り乱した。
「待て、イシュ、今は」
「ずいぶんと嫌われたもんだな」
 後方から聞こえた声に、イシュは、心臓をわしづかみにされた。
 気配だけで分かる。この魔物は、まずい。
 イシュはあまりの禍々しい気配に、その正体を確かめようとすることが出来なかった。
 けれど、テイニは、勇気をもって振り返った。そして、すぐに腰を落とし、そのまま、後ずさりを始めた。全身が粟立つ感覚。恐怖に歪んだテイニの顔に、テイニを守らなければと言う思いが湧き、決死の覚悟で体を反転させた。
 黄色と黒の入り混じった毛に包まれたその魔物は、人の形をしていた。右手に何か魔力の塊のようなものを握って、もてあそんでいる。
 イシュと視線が合うと、鋭い歯を剥いて威嚇してきた。イシュはそれだけで、体の力が抜けそうになった。
「おいジジイ、この馬鹿女はなんだ?」
「い、いや、紹介が遅れました、ヴァーダー様……。こちら遠方から駆け付けてくれたノルグ族の仲間です。我々の作戦を手伝ってくれると。なっ……なかなか、強力な魔法を使います。お役に立つかと。なので、先程の無礼はなにとぞ」
「お? おー、なんだそうか!」
 ヴァーダーと呼ばれた魔物は先ほどとは違って笑いながら歯を剥いた。
 そして、イシュに近づいてきて、馴れ馴れしく、肩を組んできた。できれば振り払いたかったけれど、恐怖に竦んで一歩も身動きが取れなかった。
「お前、なんだか裏切りそうな匂いがするな。この場で殺しときてえわ」
 小さな声でそう囁きかけてきた。若々しい見た目とは裏腹の生臭い息が吐き掛けられて、イシュは強く目をつぶった。
「お前、名前は」
 口の中があっという間に乾き切って、声が出ない。
「おい、無視か?」
「イシュといいます、ヴァーダー様」
「そうか、よし、イシュ」
 そう言ったヴァーダーは、ようやくイシュから離れてくれた。
「お前、体はいいのに、あんまりよくない目つきしてっからなあ。裏切ったらどうなるか教えとくわ」
 ヴァーダーが右手を掲げると、そこから熱線が飛び出した。
 熱線の先には、魔物たちがいた。いくら魔力を受けても肥大化するばかりだった半透明の新種や、イボに覆われた青色の新種や、鱗に包まれた新種や、龍族種やルダスや、ミングスがじっと命令を待っていた。それらの魔物は、ヴァーダーから飛び出した熱線に、一瞬で焼き切られた。
「王国の人間が大好きな騎士団長様も、この熱線で、左腕以外溶けちまった」
 レイが殺されかけた、魔物。
 二人で乗り込み、どうにか説得できるのではないかと思っていた、浅はかな自分を呪いたかった。
 ノルグ族は、魔物と手を組んだわけではなかった。
 魔物の支配下に、置かれていたのだ。
「ラユ様は、どうしたの」
 かすれた声をどうにか絞り出した。
「ああ? あのババアか。どうせ何もできねえから放っとけって言ったんだけどよお、一族皆殺しにしちまったよ、ガーラドールのやつが」
 絶叫した。
 恐怖に駆られた悲鳴か、自らの奥底から発した憎悪かわからなかった。とにかく、自分でも何事かわからない言葉の羅列を叫んだ。
 そして叫びながら、少し離れた位置にいるヴァーダーを闇魔法で包んだ。けれどヴァーダーは寸前のところで抜け出した。ヴァーダーの左腕と左足が消滅していた。ヴァーダーは、体勢を崩して地面に落ちる寸前に、右手で熱線を放ってきた。イシュはかろうじて避けて、かわりに渾身の風魔法をぶつけた。しかしヴァーダーは簡易結界魔法のようなものを張って弾いた。瞬きをしたら、左腕と左足が新しく生えてきていた。
 イシュはまたもや言葉にならない言葉を叫んだ。
 完全に戦意を喪失しているテイニが、イシュと同じような悲鳴をあげ、逃げようとして足をもつれさせて顔から地面に転んだ。
 泣き叫びながら立ち上がり、もつれた足を引きずりながら支城の外へ駆けていく。
 イシュはかろうじて残っていた自制心を総動員して、闇魔法を放った。
 今度は右肩を食い破ったが、それだけだった。また、再生する。右手から熱線が放たれようとした。
「だあああああらっ!」
 アスイの怒声が聞こえ、同時に、ヴァーダーの体が浮き上がった。地面から突き出した魔法土が、ヴァーダーの身体を吹き飛ばしていた。
「お前も行け!」
 イシュは、必要以上に何度も頷き、駆け出した。ありがとう、ごめんなさいと、何度も何度も謝りながら。
「ハハッ、やるじゃねえかノルグ族ども!」
 声の聞こえる方を見遣ると、ヴァーダーが、素早くイシュの後方につけていた。
 もう悲鳴も出なかった。
 右足の少し横、左足の少し横、ちょうど当たるか当らないかのところに、熱線が飛んでくる。
 イシュは戦場で十年以上流していなかった涙を流しながら走った。
 ヴァーダーは、遊んでいる。
 支城を出て、王都北部城塞の一ノ砦にたどり着くかつかないかのところで、ヴァーダーは、目の前に回り込んできた。
「お前さあ、逃げられっと思ってるわけ?」
 イシュは諦めていた。
 自分の過ごしてきたこの二十六年間はいったいなんだったのだろうと、考えても仕方のないことを考えながら、ヴァーダーの鋭い眼光を眺めていた。
「安心しろよ、殺さねえから。闇魔法を使えるやつの体でいろいろ試してえし。あの時死んどきゃよかったと思うかもしれねえけどな」
 ヴァーダーがゆっくりと近づいてくる。
 そこで今度は、横から飛んできた魔法土がヴァーダーの体を弾き飛ばそうとした。ヴァーダーは簡易結界魔法のようなものを張ってそれを留め、代わりに右手から熱線を吐き出した。熱線の先にはアスイが立っていた。アスイは凄まじい速さで飛び来る熱線に、光魔法を左横からぶつけて進行方向をずらした。それはアスイの目の前で軌道を変え、アスイの右腕と、支城の城壁を焼き切った。地面に落ちたアスイの右腕を見ながら、あの熱線は横からの攻撃に弱い、と、脳裏に刻みつけた。
 イシュはアスイが稼いでくれた時間のあいだに、ヴァーダーを追い抜き、兵士たちが道を空けて広くなった場所を通り、がむしゃらに走った。
 一ノ砦の入り口に、テイニがいた。王国軍の兵士たちの攻撃を簡易結界魔法でどうにか受け流しながら、王都北部城塞の城壁を手だけで上ろうとしている。そのあまりにもあまりなテイニの錯乱ぶりに呆然としかけたのも一瞬、また、ヴァーダーの気配が迫った。なぜか、あの魔物は気配も特別だ。近づいただけで分かる。
 振り向くと、ヴァーダーが右手を掲げていた。
「行かせるか!」
 ヴァーダーはなぜか、焦っている。
 なぜだろう。これほどの力があれば、王都北部城塞を陥落させることは容易いはずなのに。
 そこで、一ノ砦の城壁に、魔法土が突き出た。それは、綺麗な階段状になっていた。これほどのものを生み出せるような人間は、そうそういない。アスイも、厳しい訓練に耐えてきたのだと思った。
「イシュ! 後は頼んだ!」
 アスイの声が聞こえた。
 イシュは、泣き喚いてうずくまっているテイニを両腕で抱え上げた。子供に戻ってしまったかのようなテイニを抱き、階段を駆け上がりながら、一度だけ後ろを振り向いた。
 ヴァーダーは、もうイシュを追って来ていなかった。
 アスイの姿ももう、どこにもなかった。緑色の液体のようなものが、アスイの声が聞こえた場所に、広がっていた。
 イシュは階段を上り終えたところで、風魔法で、アスイが遺した魔法土を破壊しようとした。すると、魔法土を、ノルグ族の兵士が駆け上がってくるところだった。
 イシュは、どうしてもノルグ族の兵士を攻撃することができずに、前を向いた。
「顔に刺青がある!」
「イシュだ」
「イシュが攻めてきた」
「イシュが、ノルグ族側に寝返ったぞ!」
 立ち尽くすイシュの隣を、ノルグ族の兵士たちが追い越していく。
 一ノ砦の城壁の上に、魔法の集中攻撃が殺到した。
 イシュはもうどうすればいいかわからなくなり、泣きながら目をつぶった。
 楽しげに鳩の餌をばらまくアスイの姿が、見えた気がした。



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