37 ルーアとノルグ族


 イシュが闇魔法で球を防ぎ、素早い身のこなしと流麗な剣さばきで新種の魔物を全滅させてからも、付近には相当数の魔物の姿が確認できた。
 このままでは四方八方から出現する魔物に攻められ、とても持たない。ルーアは裁量の範囲と判断して、カロル兵団が撤退して空白地帯となった砦まで戻り、そこを拠点とすることに決めた。どういうわけか、カロル兵団はこの砦に、ひとりの兵士も残していないのだ。食料や武具も運び出せるだけ運び出してしまっている。ラヴィーニア、イシュ、テイニ、ナフドにも意見を聞いたが、反対はされなかった。
 赤染めの布に、白い糸で刺繍された、正方形とその中にある斜め十字。
 ここへ拠点を移してから三日が経つが、外壁のてっぺんの旗台に掲げられたカロル兵団の団旗は、そのまま風に揺られている。旗を引きずりおろしたいところだが、それを見つけたカロル兵団がいつ引き返してくるかわからなかったので、やめておいた。
 砦の南門から少し離れた場所で集まり、雑談している兵士たちのなかで、ルーアは、両手を叩いた。
「小休憩終わり。今から夕食までは休憩なしでお願い」
 兵士たちが、持ち場に散り始める。
 何気なく彼らの後ろ姿を追っていると、イシュが、土魔法で作られた資材置き場に、木材を転がしているところが目に入った。ルーアの小休憩の指示を、平然と無視した彼女は、風魔法と闇魔法を使って、器用に木材を運搬している。
 イシュは、ルーアを助けたことについて、何も言ってこなかった。
 助けてくれなんて頼んでない。そんな子供じみたせりふは、さすがに言わなかった。あのときイシュが助けたのは、ルーアではなく、ノルグ族だとわかっていた。そのノルグ族に対しては、それぞれの得意分野や使える魔法をテイニから聞き取り、指示を出してある。
 ノルグ族とともに残ることになったとき、ログナから、どうにかまとめあげてくれと、頭を下げて頼み込まれた。心のどこかでイシュが暫定的な部隊長になる予想をし、反論の準備と、受け入れる準備とを半々の割合でしていた自分にかけられた、予想外の言葉。
 だからいまは、私情は挟まない。
 偏見を抑えた目で見ると、王都北部城塞の死闘を生き延びた奴隷剣士だけあり、いずれの兵士も魔法そのものの質は高く、土木工事も手慣れたものだった。何か手伝おうとしても、その手際の良さに入り込ませてもらえない。
 小休憩の指示のためにこちらへ来たルーアだったが、また、ラヴィーニアがいる中央の建物へと、踵を返した。ズヤラ砦の中央に建つ石造りの建物、その二階部分に、魔法陣を新たに作っている。廃墟群に描いた魔法陣は、隠れるように作ってきたが、魔法陣はなるべく分散して作っておいた方がいい。十六人分の魔石をおさめるだけだから、それぞれの魔法陣に巨大な空間は必要ない。
 ラヴィーニアの作業も、手慣れていた。
 魔物の臓物を贄とする闇魔法、薪などの火種を贄とする炎魔法、魔石そのものを贄とする光魔法なども含め、魔法の贄はすべて整っている。ラヴィーニアはすでに、魔物の血を使って五芒星と古代文字を描いていた。
 いまは、ログナたちが集めた魔石を削り取って、五つの頂点に置いているところだ。それぞれの手袋にはめるための魔石も、綺麗にそろえて加工していく。魔法陣側と、術者側にわけた魔石を、白い光を発する指先で、互いに認識させる。ラヴィーニアは、ルーアが小休憩の指示を伝えに行く前も、帰って来てからも、色の薄い睫毛をときおり動かす以外の動作をほとんどしていない。凄絶、と表現してもいいほどの集中力だ。
 しばらくラヴィーニアの作業を眺めたが、ここにも居場所がなかった。
 仕方なく、食料庫、調理場、食堂の役割を備えた建物へ、足を向けた。
 並べられた机と椅子の隙間を縫って部屋の奥に進み、鉄の扉を開けて、食料庫に入る。先程倒して運び込んでおいた爬虫類型の魔物の肉と骨を、使う分だけ手に取り、また扉を開け、調理台へ持っていく。
 調理台についてすぐに、肉切り包丁を使って頭としっぽを切り落とした。肉は切る時に血が飛び散るので、運び入れるとき既に血抜きをしておいた。続けて、魔物の骨から肉をそぎ落とす。魔物の骨のほうはかまどの上に載せた大釜の中に放り投げ、分量を考えながら大釜に水を入れる。近くにある炉の中に、塩をふった肉を入れて、右手の炎魔法でそれぞれ、かまどの火と炉の火をおこす。本当は、殺されかけて手に入れた、新種の魔物の肉はどんな味がするのだろうと少し興味もあったけれど、使う勇気はなかった。そもそも、あの魔物から剥ぎ取った透明な膜は、肉という分類に入るのかさえ怪しい。
 火を調整したり焼き加減や煮込み具合を確認したりしながら時間を潰していると、食欲をそそる匂いが調理場に漂い始めて、お腹が鳴った。
 しばらくして、魔物の肉の塩焼きと、魔物の骨を出汁にした薄味のスープが出来上がった。肉を皿に載せて、スープを平皿に盛りつけ、調理台と机を往復して、並べ終えた。
 ノルグ族のために料理を作ったのは、生まれて初めてのことだった。
 ノルグ族が作業している現場へ行き、見張りを残して夕食をとるように言うと、イシュが、
「へえ」
 とだけ呟いた。意外そうな顔をしている。今までの態度が伝わっていたのだろう、イシュだけでなく、他のノルグ族の人間たちもだった。
 その驚きがわずらわしく、
「食べないなら、わたし一人で全部食べるけど?」
 と重ねて言った。
 兵士たちはそれぞれ、歩き始めた。
 途中で誘ったラヴィーニアは、後で行きますと言ったきり何も反応を示さなくなったため、食堂は、ルーア以外、ノルグ族で埋め尽くされた。
 ひとり食べ始めたルーアの周りで、全員が額を床にこすり付けている異様な光景に出くわすことになった。
 端から階級順に座ったため、ルーアの正面にはイシュ、右隣にはテイニ、右斜め前にはナフドという配置になった。
 食前作法を終えたノルグ族たちは、それぞれ嬉しそうに肉へと手を伸ばし、思い思いに雑談を始めた。眺めていると、自然と正面にいる相手との雑談が増えるようだった。ルーアとイシュの間には、当然、会話は起こらなかった。
「それでね、そのとき、ナフドさんが見事に転んで、周りの兵士たちは笑いをこらえるのに必死でね……」
「ナフドさんがそんな間抜けなことするなんて、珍しい」
「もうやめてくれよその話は。ノルグ族全員に広めるつもりか」
「いいじゃないですかあ。おかげで他の兵士たちとの距離も縮まったんだし。ただでさえナフドさんは、戦場での豹変ぶりが怖すぎるんですから」
 ルーアの存在はまるでないものかのようにして、テイニ、イシュ、ナフドは、楽しげに会話を交わしている。
 ノルグ族を遠ざけ続けてきたはずなのに、ノルグ族に囲まれている状況では、なぜだか、疎外感を覚える。
 ただ黙々と肉を口に運びながら、トライドのことをぼんやりと考えた。ログナに任せておけば大丈夫だという気持ちもあった。けれど、ここへ来るまで、どこかにログナとトライドの死体が転がっているのではないか、あの間抜けなトライドのことだから、何か殺されるような間違いを仕出かして一人だけ死体が転がっているのではないかと、不安な夜を何度も過ごした。
 早く会いたい。そう一瞬思い、思った自分に恥ずかしくなり、何かにつけて心配をかけさせるトライドへの苛立ちで、すぐに上書きした。
「ごちそうさまでした」
 テイニの声が聞こえ、ぼうっとしていたルーアはフォークを取り落しそうになり、慌てて握り直した。
「後片付けはこちらでやっておきますので」
 通り過ぎざまに、皿を抱えた男の兵士が言う。
「そう。じゃあお願い」
 と平静を装って立とうとして、そういえばと思い出した。
「ねえ、ノルグ族も体を洗う習慣はあったよね」
 ノルグ族のなかでは比較的話しやすい、テイニに向かって言う。
「え、それは、まあ……」
「ちょうどいい池、見つけたんだよね。川と繋がってて水がきれいだったから、使おうよ。女が先に入って、終わったら男に交代で」

 革の鎧と、中に重ね着していた麻の服を脱いで、髪を縛っていた紐をするりと外した。息を止め、水の流れに頭を突っ込む。しばらくぶりの爽快感のなかで髪についた汚れをこそぎ落とす。
 しっかりと地肌まで洗った後で、顔を上げる。
「あー」
 思わず声が漏れた。
 他のノルグ族の女兵士たちも、同じように声にならない声を出している。
 続けて、脇に用意してあった布を水に浸して洗い、それを体に押し付けて、全体を拭いた。さすがに寒いので、拭き終えたあとすぐ、服を着た。新しく着る下着と麻の服は、この砦の備蓄の中で、洗濯された新しそうなものを選んで着替えに用意していたが、新しいぶん、少し、自分のにおいに敏感になる。
 いい匂いだと思って取って来ておいた香水の瓶のふたを開けると、さわやかな柑橘系のにおいが辺りに広がった。
 少し、人差し指に垂らそうとすると、
「くしっ」
 と、かわいらしいくしゃみが聞こえた。
 隣の人影を見ると、イシュだった。
「くしゅっ」
 鼻をすすった彼女は、また顔をしかめた。
「くしゅっ。その香水……くしゅんっ」
 言いながら、裸のまま歩いていく。
「馬鹿、男に見られたらどうすんの」
 瓶を置いて立ち上がり、近くにあった下着と麻の服を拾って、イシュのむきだしの背中に押し付ける。
「ありが……くしゅっ。ありがとう」
 イシュは鼻声でそう言ったあと、振り返って服を受け取り、押し付けてきたのがルーアだということに改めて気付いたようだった。
 イシュは歯でも痛めたかのような表情を浮かべた。
 ルーアも、あのイシュに、感謝されるようなことをしてしまったという後悔がわいてきた。なんだか見慣れないイシュの姿を前に、しなくてもいい世話を、焼いてしまった。
 舌打ちして、元いた場所に戻る。
 だいたい、動物でもないのに、香水でくしゃみが止まらなくなるなんておかしな話だ。
「こんなにいい香りなのに」
 ルーアは瓶を鼻に近づけて匂いをかいだあと、ふたを閉め、麻袋の中にしまった。
 それから、別の香水瓶を取り出した。ふたを開ける。こちらはやさしい香草系の香り。
 隣で聞こえる衣擦れの音に瓶を向けて、
「こっちは?」
 顔も見ずに訊く。
 鼻をすすったあと、
「それは平気」
 とイシュは答えた。
 ルーアは右手の人差し指に一滴垂らして、左手で髪をずらし、うなじのあたりに塗った。
 ふたを閉じ、ちょうど着替え終わったイシュを見上げて、香水の瓶を投げる。こちらを見ずに足もとの池を眺めていたイシュが、気配だけを頼りに、左手で瓶を掴み取った。
 イシュは少しのあいだ手の中にある香水の瓶を眺めたあと、ふたを開けて、指に垂らし、右の手首に塗った。



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