34 いつ誰が死んでも


 満身創痍のログナが、ミスティを抱えたまま、ヴィーヴィの作った水の道を走ってくる。
 トライドは地面に両手を押し付けたままの格好で新たな魔法土を流し込み続け、水の道を守った。
 トライドの右斜め前に立つヴィーヴィは、顔中に汗を浮かべて、口を開けて呼吸しながら、水の道を維持している。さすがにこの広い空間に、継続的に水を流し込むのは疲れるのだろう。
「ねえシャルズ、水魔法でこの空間をいっぱいにしたら、わたし、干からびて死ぬけど。もう手は打ってあるんでしょ?」
 ミスティは、右隣に立つ、術を手伝っていた男に話しかけた。
「四つあるこの部屋への入り口に、それぞれ部下を走らせておいた。クローセ様も呼ぶように言ったから、クローセ様が来るまで簡易結界魔法で耐えて、最後に二人でけりをつける」
 どうやらこの初老に差し掛かった男、邪魔をされたヴィーヴィが怒って殴りかからない程度には、信頼されているらしい。ミスティに術を使わせて殺し、団長の座でも狙っているのだろうと思っていたが、ミスティが窮地に陥るやすぐさま部下を別の入り口に走らせ、自らも必死の形相で魔物たちに攻撃を仕掛けていた。それだけでは何とも言えないものの、ログナやミスティに敵対するつもりは今の所ないようだ。
 水によって部屋の反対側へ追いやられた多くの魔物たちが、往生際悪く、魔法でログナたちを集中攻撃している。けれど、気味の悪い、物を溶かす魔物の体液に妨害されなくなったログナの魔法土は、一切の攻撃をものともしていない。トライドの魔法土は、熟練者の魔法の直撃を受ければそれだけで吹き飛んでしまうが、ログナの魔法土はそれとはほとんど別物のように見えた。
 ミスティを抱えるログナの姿が、はっきり見えるようになった。トライドは魔法土に込めた力を一段階上げた。ログナの背丈まで伸びた魔法土の壁を、自らのすぐ近くまで作り出す。ログナの防御力からすれば余計なお世話かと思ったが、危険は少ない方がいい。
 トライドの作った魔法土の壁が魔物の魔法攻撃によって次々に崩れる。そのなかを、左足を引きずったログナが、走ってくる。
「シャルズさん、先に上へ」
「いや、私が残る。あの魔物はおそらく、闇魔法でしか対処できない」
「では、僕も残ります」
 まだ信用しきったわけではない。
 相手にもその意図が伝わったらしく、シャルズは苦笑いした。
「疑われるのも当然だろうな」
「どういう意味?」
 横から口を挟んできたヴィーヴィはよくわかっていない様子だが、面倒なので説明しなかった。ただ、その鈍さにわずらわしさはあまり覚えない。ここに来るまで、ルーアやイシュなど頭の回転の速い人間ばかりといたから、少し、くつろげるような気さえする。
 そうこうしているうちに、ログナが、目の前まで来ていた。
 正体不明の、おそらく五百体いる魔物たちのなかにログナが取り残された時には、どうにもならないと思った。しかし、彼は諦めずに耐え忍び、ここまで、やってきた。ミスティと自らの体を結び付けていた魔法土を解除して、ログナは、ミスティをヴィーヴィに押し付けた。そのまま彼は倒れ込み、激しい呼吸を繰り返しながら、仰向けになった。よく見ると、左足の脛から下が、血まみれだった。
 やはりこの人は、これからのこの世界に必要な人だ。そう、素直に思った。
 トライドは魔法土を操作して、ログナのすぐ後ろに分厚い壁を作った。ヴィーヴィがすぐに水魔法を停止させてミスティの脇に体を入れ、半ば引きずるようにして、入り口まで歩いて行く。トライドたちが来たところとは違う出入り口なので、梯子を上る必要はない。
 トライドが魔法土で魔物たちを食い止めている間に、シャルズが簡易結界魔法を発動させた。
「私を疑うのもいいが、そこの男を運ぶ方が先ではないか?」
 シャルズは顎でログナを示した。ログナは簡易結界魔法に手を突き、よろめきながら立ち上がるところだった。
 血に濡れた左足が目に入る。
「扉は開けてある。それ以上、悪化する前に早く連れて行ってやれ」
「わかりました」
 ログナに右肩を貸して歩き、扉から出て、地下から地上へ続く階段を上って行った。
 先行するヴィーヴィの背中を見失わないようにしながら、ふだん怪我人が運び込まれるという建物に向かう。
 ヴィーヴィは、建物に入ってすぐ右側にある大部屋を素通りして歩いて行く。通りすがりざまに見た広い大部屋の中には、十数人ほどの兵士がそれぞれ、床に敷いてあるむしろの上に寝転がっていた。怪訝に思いながらついていくと、ヴィーヴィが廊下を左に折れ、すぐ近くにある扉を押し開けた。中には、布団の敷かれていない二人分の木製ベッドが、狭い間隔を空けて並んでいた。
「わたし、シャルズを手伝いに行くから。あんたらはここでミスティ様を見てて」
 ヴィーヴィはミスティを横たえるなりそう言うと、返事も待たずに部屋を出て行った。
 トライドは、ログナが入り口に足を向けて横たわるのを手伝ったあと、辺りを見回して、部屋の隅にある棚に近づいた。棚の一番上の両開きの扉を開くと、そこには期待通り、酢の入った大瓶と、スルードの花の根を煎じた軟膏が入った小瓶、それぞれが、小さな添え書きとともに置かれていた。下の段に移って引き出しを開けると、清潔そうな布きれもあった。それらを引っ掴んでログナのもとに戻り、酢とスルードの軟膏で自分の手を清潔にしたあと、ログナの傷口にもありったけの酢をかけた。ログナは痛みに呻いたものの、足は動かさなかった。そのまま軟膏を傷口に塗り込んだ後、布を巻きつけた。ログナは、寝転がったまま力なく右腕を傷口の方に向けると、魔法土で傷口のあたりを圧迫した。
「痛くないですか、そのベッド」
 ベッドには何も敷かれておらず、木がむき出しになっている。
「痛い。動くと背骨がごりごり当たる」
 何か敷くものは、と探したが、見当たらなかった。
 ミスティが姿をくらます可能性がある状況で、下手に動くわけにはいかないので、トライドは唯一の出入り口である木の扉に、背中を預けた。
 隣のベッドで仰向けになったミスティは、トライドが動いているあいだもずっと、腕で両目を覆い、涙を流れるがままにして、時折鼻をすする以外は微動だにしていない。
「トライドの前では、やられっぱなしだ」
 トライドの視線を追ったログナが、力ない笑みを浮かべる。
「本当は、結構強いはずなんだけどな」
 子供じみた言い草に、トライドも笑いながら返す。
「そうですね。結構、強いです」
「言うようになったな。ルーアの悪影響か」
 言った瞬間、調子に乗ったかもしれない、と思ったけれど、ログナは嬉しそうに笑った。少しずつ、以前よりも打ち解けられていっている気がして、トライドも嬉しくなった。
「ルーアとイシュさん、うまくやっているでしょうか」
「じゃないと困る」
「ルーアも、昔は、そんなにノルグ族を敵視してなかったんですけどね……」
「何かきっかけが?」
「騎士は、授業で、ノルグ族を動物扱いするって言うのをしなきゃならなくてですね」
「あの気持ち悪い慣習か」
 トライドは頷いた。
「そのときルーアは、ノルグ族の男の人が好きだったらしいんですけど……。運悪く、その人が、対象になってしまって、ルーアは、その時のことをまだ」
「ああ……そういうことだったのか」
 それ以来ルーアは、ノルグ族を蔑視することで、その時、大好きだった彼に対してした残酷な行為を、誤魔化そうとしている。
 彼が、ルーアの心の中に、ずっと居座っている。
「で、お前もうまく踏み出せない、と」
 ログナが笑いながら言った。
 なぜ笑いながら言うのか少し考えて、すぐに思い当り、トライドは顔が熱くなるのを感じた。
「え、や、なんでそう言う話になるんですか!」
「照れんなよ」
 顔の熱に、早く引け早く引けと命令したが、余計に熱くなる。
「照れてないですって」
「お前、怖がるときもそうだけど、わりと顔に出るんだよな」
 ログナがまだ笑っているので、トライドはうまく反論できず、黙り込んだ。
 もうからかうに任せよう、と投げやりな気持ちになった。それを感じ取ったのか、ログナは、笑うのを止めた。
 そして急に、真剣な表情になった。
 右腕をついて上半身を起こし、まっすぐにトライドを見て言う。
「真面目な話、気持ちを伝えるなら早い方がいい。もう、いつ、誰が死んでもおかしくない」
 ログナのその言葉に、胸の内を通り抜けるような寒気を感じた。
 トライドが頷くことも首を振ることもできずに俯くと、
「伝えないと、わたしみたいになるよ」
 ずっと黙っていたミスティが、嗄《か》れた声で、小さく、本当に小さくつぶやいて、壁際に体を向けた。



inserted by FC2 system