33 いま、このときのために


 ログナは自分の目を疑った。
 そこにいたのは確かにカロルだった。
 ログナと同じ土色の髪、やや釣り気味の、気の強そうな目もとや口もと。装備は魔王討伐戦の時のままだ。
 ミスティは頭巾を脱ぎ去り、頭巾を握りしめたまま、固まっている。目の前で起きたことに対して、言葉を失っているようだった。
 当然だ。
 十年前に死んだはずの人間が、いま、目の前にいるのだから。
 けれどログナは、喜びが少しも湧き上がってこないことに、気づいた。自分でも不思議なくらいだった。闇魔法に下半身を覆われ身動きがとれないので、その原因が何なのかを、カロルに求めた。じっと目を凝らして見て、ある違和感を覚えた。まばたきをしていない。まるで人形のような、生気のない表情をしている。
「カロル」
 ミスティが涙声で、ようやく絞り出したように話しかける。
 カロルは視線すら、動かさなかった。ずっと同じところを見ている。ログナは確信した。
 ……カロルじゃない。
 見せかけはカロルだが、中に入っているのは何か別の物だ。あるいは、何も、入っていない。
「ミスティ、そいつから離れろ」
 ログナが言うと、ミスティは振り返って、睨んできた。そして体を半身にして、ログナに、カロルを……カロルもどきを示して見せた。
「まだそんなことを言ってるんですか? 見てくださいよ。どこからどう見てもカロルじゃないですか! 術は成功したんです!」
 そしてまた、カロルもどきに向き直る。
「カロル……わたし、あれから、頑張ったんです。あの時のあなたに、追いつこうと思って……。そう、魔法剣、魔法剣を習得しました! 模擬戦をやったら、カロルの方がたぶん強いですけど、わたしも、簡単には負けませんよ。えっと……それから、あの、カロル兵団っていうの作ったんです。魔物に食い荒らされたグテル市の復興を、結構、進めたんですよ。カロル、あの、もしよかったら、カロル兵団の団長に就いてください。いま、あなたを裏切って、賞金首に仕立て上げた王国を、潰してる最中で。変な魔物に邪魔されてるんですけど、カロルとわたしが一緒なら、すぐ片付くと思いますし……。わたし、カロルがいてくれたらっていつも思っていて……。ねえ、カロル……聞こえてますか?」
 何が起こるかわからない今、一瞬たりとも目を離すわけにはいかないが、それでもログナは途中から、いたたまれなくなって、目を伏せそうになった。
「カロル、わたし、わたしね、いま、このときのために、ここまで生きてきたんです。何度も何度も、このまま死んじゃおうかなとか、考えたけど、カロルを生き返らせる方法を見つけて、絶対に生き返らせるって、決めてたから、それはできなくて……。王国のことなんて本当はどうでもいいんです。カロルさえ、カロルさえ生き返ってくれれば、それで」
 カロルもどきは、ミスティの言葉に対し、一切の反応を示さない。
「あの時は、どうせ子供扱いされるのがわかってたから、言い出せなかったけど……。カロル、わたし、あなたのことが、好きでした。だから、あのとき、あなたを見殺しにしたことが、今でも、耐え切れなくて」
 ログナは気づいていたが、鈍いカロルは気づいていなかった思い。ずっと秘めてきただろうミスティの思いを聞いても、一切の反応を示さない。
「お願いだから、返事を……」
 ミスティが一歩近づき、すがりつくようにしてカロルもどきの右腕に触れた。
 すると、ミスティの掴んだ右肘から先が何の前触れもなく、粉々に弾け飛んだ。
 まるであのときのように。
 ミスティは簡易結界魔法を使い、飛び散る緑色の物質を防いだが、衝撃のあまりからだろうか、その場に腰を落とした。
 誰も、何もしていないのに、魔物に食い破られるようにしてカロルの装備が破け、首や肩に、魔物にかみつかれたような跡が浮き出て、そこから、緑色の血が流れ出た。
 無表情のカロルもどきは、生気の伴わない笑みの形に、顔を動かした。
 続いて、残った左手が挙がる。何かが内側から飛び出ようとするかのようにぼこぼこと蠢き、それがやがて体全体に広がっていった。
 あまりのことに、ログナは言葉にならない呻き声を漏らした後、体全体を魔法土で覆った。
 無音。
 少し経って、目もとを覆う魔法土のみを解除した。
 そこにはもう、カロルもどきの姿はなかった。緑色の血液とカロルもどきの破片が、飛び散っているだけだった。
 ミスティはその場で前かがみになり、口を押えて肩を震わせている。
 ログナはそこで、闇魔法から足が自由になっていることに気付いた。まだ出血が続いているので、魔法土で傷のあたりを締めつける。
 首から上の魔法土を解き、刺されて力の入りにくい左足を引きずりながら、呼びかける。
「ミスティ」
 ミスティが右手でどうにか体を支えてへたりこんだまま、力なくこちらを見上げた。
 涙と鼻水で濡れた顔。口元を押さえる左手を押しのけて、吐瀉物が流れ出ている。目や鼻や口からこぼれたそれらは顎や首筋を伝ってミスティの羽織っている白い外套を濡らしていた。
「う……ぐっ……」
 ミスティはまた床に顔を向け、嗚咽を噛み殺し始めた。
 混乱する頭でも、これだけはわかった。
 カロルは確かに蘇った。死ぬ直前の体を復活させた。
 そして、カロルの死の瞬間が、十年越しに、再現された。ログナは呆然と、足元に散乱したカロルもどきの残骸を眺める。初めから術の存在を信じず、怪しんでいたログナですら、十年前のことをえぐりだされた。
 この術を考え出した人間は、高い能力を持っていたのだろう。
 圧倒的で、誰もかなわない力を持つ彼女を、こうも容易く打ちのめしたのだから。
 ログナは微かな物音に気付き、顔を上げた。何の音なのかは、すぐにわかった。ログナとミスティの周囲を放射状に囲む棺の蓋が、動く音。
「おい、ミスティ」
 ログナは立ったまま、ミスティの肩を揺らした。
「おい!」
 ミスティは無反応だった。
 五百あるとヴィーヴィが説明していた棺の蓋が、次々に動いては、地面に落ちていく。
 中から現れたのは、人間の遺体ではなく、魔物だった。
 棺の外に出てすぐ、ぐずぐずに溶け始めた体から、粘液のようなものがしたたり落ち、棺を焼いて煙を立たせた。薄紫色に光った部屋のそこかしこで、同じ光景が繰り広げられる。肥溜《こえだ》めのようなきつい臭いが鼻をつく。
 ログナたちはすでに周りを魔物に囲まれていた。
 遠くで、炎魔法や光魔法が弾けて、強い光となって見え出した。
「ミスティ様! 脱出を!」
 遠く、魔方陣の外から、術を手伝っていた男の声が聞こえる。
 しかしミスティは反応する気配すらない。
 このままミスティを抱えて逃げてもいいが、途中で、ミスティに刺された左足がもたなくなるだろう。それに、五百体いるはずの、魔物の包囲を突破できるとは思えない。ログナは舌打ちをした。魔力が人並みにある人間なら、ミスティのはめている光魔法の手袋を奪って使えばいい。けれどログナには光魔法を扱えるだけの魔力がなかった。
「ミスティが戦意を喪ってる! 剣をよこせ!」
 目一杯の声で怒鳴る。
 同時にトライドの、
「剣を! 剣をください!」
 という叫び声が聞こえた。
 ログナはだらしなく床にへばりついたミスティを抱き上げ、ミスティの体までを魔法土で覆った。ミスティはされるがままだった。
 少しすると視界の端から、轟音が聞こえ始めた。岩の塊のようになった魔法土が地面から突き出て、道を作っている。トライドだろう。
 そこまで走って行こうとしたが、魔物たちが立ちふさがった。殴りつけても何の感触もなかった。ログナに殴られた部分が地面にぼとりと落ちて、その場に薄く広がる、ログナのほうは、殴った部分の魔法土が溶ける。行く道行く道を魔物が塞いでいる。このままいけば、明らかに魔法土の生成が間に合わなくなる。
 魔物たちの体が、魔法土の塊に向き始めた。
 魔物たちは、どろどろの体から指のようなものを一斉に突き出すと、その指先から、様々な魔法を弾き出した。炎魔法、土魔法、風魔法、光魔法。その威力はまちまちだったが、ひとところに集まると大きな威力となった。トライドが作ったと思しき、魔法土の塊を次々に破壊していく。
 それに気付いたトライドは、安全な道を作るのを諦めたようだった。剣を移送することに切り替えたのか、地面の上を滑るようにして、剣だけがこちらへやってくる。剣を固定した魔法土を、新たな魔法土で次々に押し出しているのだろう。ログナがガーラドールと対した際にした応用と同じ。既にある魔法土を新たな魔法土で押し出し、長さを稼ぐ使い方だ。魔物たちが次の攻撃を始める前に、どうにかその片手剣だけは近くにやってきた。が、すぐにその道も壊されてしまった。
 ログナは無理矢理包囲を突破して、床に抜き身で落ちている片手剣を掴み取った。
 ミスティを抱きかかえて、魔法土で包んだその状態のまま、ログナは、片手剣を振るった。
 攻撃した感触が残らないのは相変わらずだが、素手よりは効率よく、邪魔な魔物を退けることが出来る。
 けれど斬っても斬っても、別の魔物が立ちふさがってくる。トライドの魔法土に向けられていた様々な魔法攻撃も、ログナに向けられた。鈍い衝撃を感じながら、新たな魔法土を次々に生成していく。生成させられていく。
「ログナ」
 ログナの左胸のあたりに顔をうずめたミスティの小さな声が、左耳にかろうじて届く。声が直接、胸に響く。
「わたしを、置いていってください」
「馬鹿、言うな」
 ログナは息切れまじりに叱りつけた。斬って、斬って、ひたすら斬り続ける。床に広がった魔物の体に足を踏み入れると魔法土が溶けて、また新たな魔法土が必要になる。
「だって、もう、生きてても……」
 囁くようなかすれ声。
 再び嗚咽を始めたミスティに、ログナはもう応えなかった。
 魔法土でログナの胸や腹と密着したミスティから、温かさが伝わってくる。ミスティの体はまだ、死にたがっていない。
 トライドや、術を手伝っていた男たちも、必死に魔法を展開させて、援護してくれている。
 溶けた魔法土に代わって新たな魔法土を生成するたびに重くなっていく体を、ミスティから刺された左足を引きずり、前に、前に進んでいく。だんだん魔法土の出が悪くなってきて、両腕がうまく動かなくなってきた。左足を庇いながら戦っているせいで右足も動きが鈍い。それでもトライドたちの声がする方へ、ひたすら進んでいく。
 やがて魔方陣の中心部からちょうど半分ほど歩いたところで、魔法土の生成が間に合わなくなった。足が溶けてはどうにもならない、体全体を覆っていた魔法土を緩めて、足に集中させる。
 けれど魔物たちは魔法も使える。炎弾を避けるが、風の太刀が頬を割き、光弾がミスティにぶつかる。立て続けの攻撃によって、ミスティを覆っていた魔法土まで砕けてしまい、ミスティの体が地面に落ちそうになった。
 その瞬間、ログナは自分の足以外の魔法土を完全に解除した。ミスティの体を魔法土で覆い、地面に――魔物の体液につかないようにした。殺到している魔法の束が、容赦なく生身のログナを襲った。炎弾に肩をやられてよろめいたところに、光弾がぶつかってくる。ログナは踏ん張った。けれど出血を続けていた左足から力が抜けた。そこで仕上げに、風魔法で足をすくわれた体が、仰向けになった。天井が、見える。
 このまま、体が、溶ける。そう思ったが、ログナの体は、何にもぶつからなかった。
 ログナの出した魔法土に身体の半分ほどを包まれたミスティが、右手をこちらへ向けていた。そこから溢れた闇魔法が、ログナの体を支えて、起き上がらせてくれた。簡易結界魔法も、ログナの体を包んでいる。
 トライドたちの方で、魔物たちが、妙な動きを見せ始めるのが見えた。
「三十、数えるあいだ、耐えて!」
 ヴィーヴィの声。魔物たちの妙な動きの原因が、大規模に展開した水魔法だと気づいた。魔物たちが、押し流されてきている。
 水魔法なら、攻撃を受けて液状化した魔物も、そのまま押し流せる。
 ログナを助けただけで、やはり戦意は喪ったままのミスティを抱きしめる。最後の力を振り絞り、魔法土で二人の体を覆った。
 少しだけ動ける魔法土の中で、ミスティは、ログナの着ている革の鎧の、肩のあたりをぎゅっと掴んできた。
 ログナの左耳の近くで、
「どうして死なせてくれないの」
 という呟きが聞こえた。
「黙って助けられとけ」
 ログナはそう言って、ミスティを抱く力を強くした。



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