29 生き返らない


 十年前の自分は、ミスティを守る側だった。
 初陣のミスティが、異形の魔物を目の当たりにして逃げ出し、別の魔物に殺されかけたとき、片手剣で魔物を斬り倒して助けた。ミスティが何もないところで躓いて転び、魔物の前に自ら餌になりに行ったとき、防御魔法を使い、身を挺して庇った。ミスティが一人前になるまで、そのようなことを、何度も何度も繰り返した。そんな自分が、ミスティの前で、これほどまでの醜態をさらすことになるとは、思いもしなかった。
 昔のログナは、と、ミスティは言った。
 ……昔の自分は。
 怖いもの知らずで、先の事なんて何も考えていなくて、カロルと背中合わせに戦えば無敵だった。幾十、幾百となく戦場を経験したが、傷を負ったことはほとんどなかった。殺して、殺して、とにかく殺した。結果として、多くの人々を魔物の脅威から救うことが出来た。少なくとも、魔王を殺して起きた、魔物の暴走以前は。
 けれどカロルが死んで、四人と別れて、途中でルーやスティアたち孤児に声をかけて引き連れ、キュセ島に帰ってから。
 そんな生き方では、何も守れなくなってしまった。
 自分でしてみて初めて気づいたが、子育てはきれいごとだけでは済まず、孤児のルーたちに苛立ちをぶつけたこともあった。生死の境で険しさを培ったログナの外見で怒鳴ると、叱っているつもりでも、どこからどう見ても恫喝になってしまう。ルーたちが怯えているのを見かけたキュセ島の長老格にこっぴどく叱られ、それからは声も小さくなり、子供たちが危険なことをした場合だけ、怒鳴るように努めた。
 苛立ちもあったが、それよりももっと大きな、喜びもあった。初めは、一言も喋らなかったルーたちが、何か良くわからないひとり言をつぶやいていたルーたちが、人間性を取り戻していくのを見るのは嬉しかった。食卓で、ログナの下手くそな料理に文句を言っていたルーが、初めて褒めてくれた日の事は忘れない。お互いに距離感をつかみかねていたルーたちと、少しずつ、家族になっていくのは、身寄りのいない自分にとっては、何にも代えがたいことだった。島を出る直前に見送りに来たルーの様子から、ルーたちにとってもそうだったと、信じたい。
 他にも、レイからしてもらった指導を思い浮かべながら、数少ない若者たちを、小さな離島を守れるくらいには育てた。じいさんばあさんたちに生活上の困った事があれば、どんなに些細なことでもきちんとこなした。かつての魔王討伐隊という自負もないことはなかったが、自らの訓練をこなし、飛行型の魔物の襲撃を退け、孤児の世話や日々の雑事に追われているうちに、前線で戦った日々の事は、過去の栄光にすらならず、頭の片隅にひっそりと残るくらいになっていた。
 王国からの特使が、やってくるまでは。
 弱くなったと言われれば、そうなのだろう。昔のログナは、と引き合いに出されれば、昔の自分のほうが強かったのだろう。魔物を殺すことにかけては、レイにも劣らなかったのかもしれない。ミスティにはそれが頼もしく映っていたのかもしれない。
 かつての自分と今の自分、どちらを誇れるかと聞かれれば、それは、今だ。
 けれど、昔の自分の力がなければ、今の自分が守りたいものが、守れない。その自覚があるから、自虐の笑みがこぼれる。初めから、ミスティの圧倒的な力にすがろうとしている。それを察知したミスティに、すがる手を振り払われた。
 また自虐の笑みを浮かべそうになって、ログナはため息をついた。
 一人でいると、余計なことを考えすぎる。
 レイのように、自分ひとりの力で物事をどうこうすることはできない、部下の力を借りるほかない、そう、考え方を切り替えたはずなのに。
 ログナはひとまず考えるのをやめ、立ち上がった。
 先程ミスティが何も言わずに置いていった、麻袋がある。食料だろう。手に取り、中身を机に出す。
 パンと干し肉が落ちてきたので、まずパンをかじった。硬いが、黴は生えていない。噛んでも噛んでも味がしないので、干し肉を少し口に入れた。味のしないパンと、塩辛い味付けのその干し肉とは、なかなかよく合った。
 よく見てみると、麻袋から出てきたのは、その二つだけではなかった。
 丸い筒状の容器がふたつ、転がっている。興味を惹かれ、パンと干し肉をいったん机の上に置いて、手に取ってみた。円形の蓋を取ると、中には、葉が入っていた。これはたしか、蒸したあとに天日干ししたものを水にさらすと、水が土色に近くなり、味がつく不思議な葉だ。トーデュエだったか。
 もうひとつの容器も開けてみたが、やはり、水が入っていた。
 ログナは、部屋の隅に置かれた小さな戸棚を見た。そこにはマグカップが何種類か、置いてある。一緒に、飲むつもりだったのだろうか。
 ささやかな罪悪感を覚えながらログナは立ち上がり、戸棚から引っ張り出したマグカップに、トーデュエの葉を入れた。

 翌朝、またやってきたミスティは、突然、麻袋を放り投げてきた。慌てて掴み取ると、ミスティは机の上にあるマグカップに目を留め、それから視線を外し、背を向けた。
「あ、おい」
 ログナが呼び止めると、ミスティは足を止めて振り返った。
「トーデュエ、飲んでけよ」
 ミスティは少しためらったあと、頭巾を脱ぎながらこちらに歩いてきて、戸棚の前でマグカップを取り出した。それを持ち、椅子に腰かける。ログナはそのあいだに立ち上がって、トーデュエの葉を、自分が昨日使ったマグカップに入れた。ミスティの差し出した、木製のマグカップにも葉を入れる。
「昨日は悪かった。ずっとひとりでいるから、少し、感傷的になってた」
 二つのマグカップに水を注ぎ込む。
 ミスティはマグカップの取っ手を右手で掴み、左手を添えて持ち上げた。
「いえ……わたしも、言い過ぎました」
 今朝のミスティは、まだ手袋をつけていなかった。頼りなげなその白い手にも、いくつかの傷跡がある。か細い指で、どれだけの魔物と渡り合ってきたのだろう。
 綺麗なだけではないその手にじっと見入ってしまった。視線を上げると、ミスティが物問いたげな眼差しを向けてきていた。慌ててマグカップに視線を落とす。
「ここから出してくれればまた元気になる」
「まだ早いです。ログナ、それ、ヴィーヴィの使ってるマグカップですよ」
 ミスティはこちらの言葉をすげなく却下して、木でできた自分のマグカップを揺らしながら、呟いた。
「ログナに使わせたなんて知ったら、あの子、怒るだろうな……」
「ヴィーヴィか。あいつ、なんでか知らねえけど、やたら俺を敵視してくるんだよ」
 ログナはトーデュエをすする。かすかな苦みと甘みが舌の上に広がり、漂う陽の香りが鼻に抜けてくる。
「俺、昔、あいつと会ってるか?」
 マグカップに顔を近づけ、香りを楽しんでいたミスティは、首を横に振った。
「あの子は、わたしに懐きすぎてるんです。わたしがクローセと談笑していたり、魔王討伐隊の話をしたりすると、すぐ機嫌が悪くなる」
「なんだ、そんなことか。くだらねえ」
 ログナが吐き捨てると、ミスティは少しだけむっとした表情になった。
「怒るなよ。あいつに殺されかけたんだぞ、俺は」
 ミスティは目を軽く見開いて視線を外した。
 無表情になったと思っていたが、やはり、性格全てが変わるわけではないのだろう。昔のミスティを知らない人間なら見逃してしまうかもしれないが、ときどき昔の名残が表に出てきて、感情をとらえられる。
「怒ってませんよ」
「いや怒っただろ」
 ミスティは諦めて、小さく頷いた。
「子供なのが、いいところなんです、あの子の」
「いくつだよ、あれは」
「十七……いえ、年をまたいだので、十八ですね。カロル兵団には、だいたい、十六歳から二十二歳くらいまでの人が多いです。当時大人だった人たちはあまり生き残っていません」
「ん? それにしちゃあ、年食った兵士が結構いたが」
 ログナはクローセやヴィーヴィの率いていた部隊の面々を思い返しながら、言った。
「ああ……あの人たちは、元盗賊や王国の囚人を解放して使ってるんです」
 部下の話をする人間とは思えない、冷めきった口調で呟く。
「虐殺の生き残りの子たちを、最前線に送り込むわけないじゃないですか。ああいう、死んでも困らない人間を雇い入れて働かせればいいんですから」
 表情が読み取れて少し安心していたところで、ミスティの変わった部分――魔物に、一人の人間も殺させない、そう言っていたミスティの、変わった部分を見せつけられて、ログナは、言葉に詰まった。
 ミスティとログナは、お互いに黙ったまま、トーデュエをすする。
 ログナはマグカップから口を離し、
「ヴィーヴィやウィルフレドってやつも、生き残りだろ? どうして最前線に?」
「二番隊隊長だったバルドーと三番隊隊長だったリルがいなくなったからです」
 ミスティはまた、トーデュエをすする。もう中身がないようで、呷《あお》るようにして飲み干した。
「二人から、何か、連絡は」
「わたしが知るわけないじゃないですか」
 ミスティの声が急に刺々しくなった。
「勝手にこの団を出て行った人たちのことなんて」
 昨日、リルとバルドーの話をしそうになったときは、懐かしい思い出を話すような口ぶりだったが、いまは、違うらしい。
「マグカップ、洗ってくるので早く飲んじゃってください」
 ミスティはそう言うと立ち上がり、自分のマグカップを持って、ログナのそばに立った。
 言われた通りに、急いで飲み干した。
 マグカップを渡すと、ミスティはログナのすぐ近くに立ったまま、じっとログナを見つめてきた。
 怪訝に思って見つめ返す。
「何だ?」
「もし、カロルが生き返ったら、ログナは、嬉しいですよね?」
 突拍子もない問い。
 ログナはミスティから視線を外しかけ、すぐに答えを見つけて視線を戻した。
「死んだ人間は、どんなことがあっても、生き返らない」
「そうでしょうか」
 ミスティは小さく笑い、身を翻そうとした。その笑みにどこか異様な迷妄を感じ取ったログナは、とっさに、ミスティの右腕を掴んだ。
「俺が言ったことは本当だ。どんなことがあっても」
「離してください」
 ミスティの冷たい左手が、ログナの右手に遠慮がちに触れ、手を離すように促す。
 それでも掴んだままでいると、今度は強引に、引き剥がそうとしてきた。爪が食い込んでくる。仕方なく、手を離した。
「カロルは死んだ」
 離れていくミスティの背中に、そう呼びかける。
 返事はもう、なかった。
 ログナはミスティが去ったあと、廊下の一番奥にある梯子を上って、天井を開けようとした。入れられたときにすでに試しておいたが、ミスティが出入りしているこの天井は、相変わらずびくともしなかった。ガラス張りの場所まで戻り、ガラスを目いっぱいの力で殴り、蹴りつけてみたが、やはり割れない。
 途方に暮れてガラスに手をつくと、建物の外壁を上ってくる人間がいることに気付いた。驚き、覗き込むようにして下を見る。
 手を上へ伸ばし、出っ張った取っ手のようなものを掴みながら顔をあげたその人間と、目が合った。顔を見て、さらに驚く。
 ヴィーヴィだった。



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