2 プロローグ(2)


 カロルの右肘から先がなかった。
 魔法は、頭の奥にあるとされる魔力核から力を起こした魔力が、手袋にはめ込まれた魔石に伝わることによって発動する。その際、魔力は、魔石に近い場所、つまり肘から先のあたりに溜まりやすく、結果として負担が一番大きくなる。ときどき、加減を知らない子供が親の言いつけを破り魔力を暴走させ、自身の腕を吹き飛ばしてしまう事故を起こす。
 カロルがそんな初歩的な間違いを起こすはずはなかった。明らかに、わざと、限界まで力をこめた。噴き出した血液が、カロルの足もとに血だまりを作っている。
 ログナは、カロルの名前を叫ぼうとした。できなかった。足を止めようとした。しかし、できなかった。
 ここでそうしてしまえば、全員が振り向くだろう。カロルの状態を見れば、全員が足を止めるだろう。全員が足を止めれば、カロルの献身は無駄となるだろう。
 一瞬でそう判断したログナは、前を向いた。少し走り、そしてもう一度、後ろを振り向いた。
 カロルと目が合う。
 笑みを浮かべたカロルは、次の瞬間、魔物の群れに呑み込まれた。
 魔物の群れの中で、残った左腕が掲げられたあと、またしても膨大な魔力の放出が起き、轟音と共に多くの魔物が、ばらばらの肉塊と化した。
 ログナが正面に向き直ってから、初めて全員が後ろを振り向くが、もう、影響はなかった。
 カロルが自爆したことを、一瞬で全員が理解した。理解したくなくても、せざるを得なかった。その死を無駄にしないためには、自分たちが生き残るしか、道はなかった。
 カロルの放った帯状の光により、重厚な鉄鉱石で作られていたはずの、突き当たりの壁に大穴が開き、通れるようになっていた。ログナたちはひたすら走り続け、その壁から脱出しようとした。しかし、廊下の両脇から、魔物たちが飛び込んできた。誰にも抵抗する力は残っていなかった。
「伏せて!」
 今日何度目かの死を覚悟すると、頭上から声が発した。
 言われた通りに、前の三人が足を止めて、その場に伏せた。
 三人の頭上を通過していく無数の光の弾が、廊下の天井へと間断なくぶつかる。破壊された天井の一部が魔物たちの頭上に瓦礫となって降り注ぎ、廊下の左右を行き止まりに変えてしまった。
 肩の上から、ふっと重しがなくなった。まずいと思って、すぐに体を反転させた。何も見ずに突き出した手に、うまく、ミスティの体が収まってくれた。
 ログナはカロルのような……腕が吹き飛んだミスティの姿を想像した。しかしミスティは、気を失っただけのようだった。先程魔力を使いきったばかりだというのに、やはりこの子供の回復力は、常人には理解しがたいものがある。
 半年ほど前、今ログナの腕の中にいるわずか十歳の少女に、ログナたちは助けを乞うた。一族郎党に対して支払う莫大な報奨金を盾に無理矢理説得し、愛情深い両親から引き離し、魔物との戦争に巻き込んだ。しかしそれは、過ちであると同時に過ちではなかった。いくら化物じみた強さを持つカロルがいるとはいえ、彼が魔法剣で使う無尽蔵と言ってもいい程の魔力を補える彼女がいなければ、いま呼吸を続けているのは魔王かもしれなかった。
 ミスティをしっかりと抱え直したログナは、再び走り出す。カロルの命を懸けた足止めに救われた五人は、ようやく、城を脱出した。
 脱出して、すぐに気づく。眼前に広がる荒野に、おびただしい数の騎士の遺体が転がっている。正面から見た剣の周りをスルードの花びらが舞う、ロド王国の紋章が入った旗が、無残に切り裂かれている。
 彼らは、魔王討伐隊を見捨てたわけでも、逃げ出したわけでもなかったのだ。
 ただ、殺された。魔王という枷を失い、暴走した魔物たちによって。
「なんだよこれ。なんだよこれっ!」
 嗄れた声で喚きながら、それでもバルドーは足を止めない。
「ログナ。どう思う?」
 ログナのすぐ前を走るクローセが振り向く。
「魔物の暴走、だろう」
「何、それ……。魔王を殺せば、魔物は烏合の衆になる。脅威はなくなり、世界は平和になる。ねえ。そうだよね。そのはずだよね?」
 リルが、今回の旅のお題目を唱え、何かにすがるような声音で、ログナに問いかける。
「きっと、前提からして、違ったんだ。俺たちは、人間の基準で考えてた。実際には、魔物たちは、魔王という圧倒的な存在に押さえつけられていたのかもしれない。魔王が消えた今は……」
「嘘だ! 嘘だよ、そんなの! だって、だったら、わたしたちは、わたしは、いままで、何のために、こんな」
 足を止めたリルが、顔をゆがめて、なぜか、笑った。
「全部、無駄だったの?」
「バルドー!」
 ログナが怒鳴ると、近くにいたバルドーは走るのをやめて引き返し、リルの腕を強く引っ張った。しかしリルは動かない。青色の体毛に包まれた飛行型の魔物の姿が、上空にちらほら見える。何やら鳴き声を発している。今回の戦いで嫌というほど聞き慣れた鳴き声。仲間を集める時の鳴き声。
「泣き言はあとでいくらでも聞いてやる! 今は生きろ! カロルのために!」
 ログナは、走っている間ずっと、全員が考えることを避けてきただろうカロルの名前を、あえて口にした。リルはその名前を聞いてびくりと肩を震わせると、歩き出した。徐々に徐々に、速度を上げていく。
 遠くに少し見える程度だった魔物が、集まり始めた。
「クローセ」
 ログナは走りながら、クローセの横に並んだ。
「これからどこへ行く? 俺は、グテル市がいいと思う」
「わたしはロステト村以外に望みはないと思ってる」
「ロステト? あんな辺鄙《へんぴ》な村、もうやられちまってるだろ」
「もう忘れたの? 鳥頭」
 クローセが呆れたように言う。
「先代騎士団長のラッツ様に助力を乞いに行ったでしょ。魔法剣の使い手はラッツ様、レイ様、フォード、カロルの四人だけ」
 クローセは、四人だけだった、とは言わなかった。
「ああ。あの老いぼれの頑固じじいか。俺たちがどんなに頭を下げてもうんと言わなかった」
「もしかするとラッツ様は、わたしたちが魔王を倒した後のことまで考えていたのかも。自分がいなくなれば、この村の人たちは誰が守ると」
「はっ。どうだかな。けど、頼るしかねえか」



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