16 王都からの急報


「ログナか」
 近くまで来たあと、歩いて距離を詰め始めた魔物が、口を開く。
 魔物が、ロド王国の言葉を話しているのを見たのは、いまこのときが、生まれて初めてのことだった。
 皮膚の色は人には存在しない青色だが、それ以外はほとんど人と見分けのつかないような姿をしている。
 王国語を話している口元から何から、ここまで整った造形の顔を見たことがなかった。きれいに鼻梁の通った顔は、人と同じ位置にある。けれど、顔は、一つだけではなかった。腹のあたりに、白目を剥き、黒い髭の上に涎を垂れ流し、苦悶の表情を浮かべたもう一つの顔がある。その顔は微かに動いていて、気味の悪いうめき声を上げ続けている。何よりおかしいのは、服を、着ていることだ。下半身だけだが、よくわからないつるりとした素材の脚衣を身に着けている。魔物に、羞恥心など、存在するはずがないのに。
 ログナは魔物から感じるあまりにも不気味な気配に、身震いした。ログナが身震いをしたのは、初めて魔物と戦ったときと、魔王と対峙したとき、ただ二度きりだった。
 魔物はいきなり襲い掛かってくることはしなかった。どこか余裕ぶった様子で、何かを話したげだ。
 抜き身のままの片手剣を持った右手に、魔力を送り込んだ。一気にあふれ出した魔法土が、柄の下部に新たな柄をつくっていく。片手剣は一瞬のうちに、槍以上の長さにまで伸びた。右手で握っていた片手剣にすばやく左手を添え、薙ぐ。これまでの魔物との戦闘経験から、腹にある顔のほうが本体だと判断して斬りつけた。魔物はとっさに避けようとしたが、間に合わなかった。腹の顔は、斬りつけられると同時に鼓膜が破れるかと思うほどの絶叫をあげ、蠢きながら小さくなって、腹の奥へと消えた。
 魔物本体は、後ろに跳んでさらに距離を空けながら、顔を少しゆがめただけだった。ログナは舌打ちした。
 ……素直に首を斬り落とすべきだったか。
「さすがに、ミスティの信頼する男ではあるか」
 思っても見ない名前が飛び出し、続けざまに動こうとしていたログナは動きを止めた。
「どうしてお前が、俺やミスティの名前を知ってる? 別の大陸から、わざわざ何をしに来た?」
「私の名前はガーラドール。われわれはカロル兵団と同盟を結んでいる。共通の敵、ロド王国を滅ぼすために」
「ほざくな! いくらミスティが王国を憎んでいても、魔物と手を組むなんて有り得ねえ!」
「納得できないのなら本人に聞いてみればいい。二つ目の質問に答えよう」
 そう言うと、ガーラドールはその場で跳んだ。脚に何か秘密があるのだろう。助走もつけずに跳び上がったガーラ―ドールは、近くの立ち枯れた木の枝の上に乗っていた。
「ミスティから聞いたが、この国には、五長会議という体制が存在するんだろう?」
 ログナが片手剣を投げる機を見計らっていると、ガーラドールはそれを見透かしたように笑った。
「こんなところで時間を潰していてもよいのか」
「何がだ!」
「言ったはずだ。ロド王国を滅ぼすために、手を結んだのだと」
 胸をわしづかみにされたような感覚が走った。
 このような魔物が、まだ、いるとしたら。
 ガーラドールはログナの反応を確認してから、また笑った。ログナは片手剣を投げつけたが、当たらなかった。ガーラドールは信じられない跳躍力で枯れ木から城壁へと飛び移り、そのまま駆け、遠くに離れていった。
 息を吐いて緊張を解き、大きな声で門を開くよう指示をする。門が開いて、テイニを先頭にした兵士たちが一斉に駆けてくる。彼女らは惨憺たる光景にそれぞれたじろぎ、テイニを始め、その場に嘔吐する者がほとんどを占めた。しかしすぐに切り替えると、四ノ砦の中央部にある、簡易砦や宿舎や詰所のほうへ進んで行った。捨て石にされたとはいえ、王国軍の兵士としては、指揮官を探さないわけにはいかないのだろう。
 片手剣を拾いに行って鞘へ納め、三人が近づいてくるのを待つ。
 兵士たちは、ログナが通ったばかりの穴をきちんと避けて進んでいったが、まさかと思って見ていたらやはりトライドが、自ら掘ったその穴に落ちた。既にそのことを予測していたらしいルーアに、引っ張りあげられている。
 イシュが、そんな二人よりも先に来て、ログナに両手剣の入った鞘を渡してきた。
「大丈夫でしたか。わたしの気のせいでなければ、話し声が聞こえた気がするのですが」
「やっぱりお前、耳いいじゃないか」
 両手剣の鞘のベルトを再び革の鎧に巻きつけながら、先ほどの命令無視のことをちくりとやる。イシュには散々、振り回されている。このくらいの嫌味は言っていいだろう。
 イシュは言葉に詰まった後、諦めたように、
「はい」
 と頷いた。
 雨のせいで気温が落ちてきたのか、お互いの息が白い。
「話し声は、魔物とのものだ。遭遇した魔物と、少しだけ喋ってた」
「うそ! 喋る魔物?」
 反応の薄いイシュの代わりに、追いついてきたルーアが驚きを隠そうともせず言う。
「ああ。それに意味深な事を話していた。五長会議という体制があるだろうとか、王国を滅ぼすとか」
 ミスティのことは伏せた。
 ミスティが絶対にそんなことをしないと、自信を持って言い切れるのであれば、言ってもよかった。だがログナは、言えなかった。レイとの会話を思い出したせいだ。十年という歳月が、心優しいミスティのことをどこまで捻じ曲げたのか、判断がつかなかった。
 気力も体力も充実し、怖いものは魔王だけだった十年前とは違う。失いたくないものが出来すぎた。ミスティが敵ではないと強弁すればするほど、ミスティが本当に敵だった場合に、ログナが被る悪影響が大きくなる。魔王との熾烈な争いを共に戦い抜いたレイならば、わかってくれるはずだ。けれど、かつての仲間だったミスティと何かしらつながりがあるのではないかと、他の人々は疑うだろう。その疑いは、キュセ島を人質に取られている今の状況で、絶対に向けられてはならないものだ。
 そこまで大事にはならないにしても、預かっている部下たちは、数少ない状況証拠から魔王の復活を予想するくらいには、頭が回る。一度芽吹いた不信は、そう簡単に摘み取ることはできない。不信は各人のなかで健やかに育っていき、やがては、隊そのものの戦闘行動にまで影響するだろう。
「なんでしょう、あれは」
 ログナたちの会話を聞きながら、周囲の様子を探っていたトライドが、右手をあげて空を指差した。
 三人は空を見上げ、トライドが指差した方に視線を遣った。雨粒が目に入って鬱陶しいので、右手で目元を隠しながら見る。
「鳩。おそらく、連絡用の」
 イシュが呟いた。雨雲に覆われていて視界が判然としないうえ、距離があり、ログナには、鳥のようなものが飛んでいるのがかろうじてわかる程度だ。それはルーアも同じであるらしく、
「適当なこと言わないで。連絡用の貴重な鳩が、あんなに飛んでるわけないでしょ」
 ルーアがそう言い切ったあと、誰も、言葉を続けなかった。
 おそらく四人が同じく、ルーアが言ったことの意味を考えている。
 あの魔物が残していった言葉が邪魔だった。胸騒ぎがする。
 ログナはその予感に耐え切れずに、口を開いた。
「なにか、感じないか」
「はい。なにか……とても、悪い予感がします」
 イシュだけが言葉を返した。
 ルーアは首元に手をやって、五芒星の首飾りを引っ張り出し、それを黙って握っている。小雨の降りしきる中、次々に舞い降りてくる鳩たちを、じっと眺めている。
 トライドの様子を見ようとすると、彼は不安げな目で、こちらを見上げてきた。
「イシュ!」
 トライドに何か声をかけようとしたとき、助けを求める声が聞こえた。
 こちらに走ってきた女に、イシュは、
「テイニ、どうかした?」
 と呼びかけた。
 イシュの友人だという女の名前が、ようやくわかった。
「わたしたちでは判断がつかないことが起こった。すぐ来てほしい。できれば、その……ログナ様も」
 テイニは言いにくそうにこちらを見た。
 王国軍か王国騎士団の指揮官が戦死した緊急時、お互いの役職と対応する位階がある。今は相手の位がわからないが、王国軍の奴隷剣士よりは、王国騎士団の団員のほうが確実に位階は上だ。緊急時には指揮を執ることができる。
 つまり、
「エル将軍が亡くなっていたのか」
「将軍が四ノ砦に滞在中に今回の事が起こったので、そこまでは我々も想定していました。しかしもうひとつ、我々には知らされていなかった想定外のことが」
 自分たちを使って生き残りを図ろうとしたお飾りの将軍には、さすがに冷淡だ。
「想定外?」
「エル将軍の実妹である、ラヴィーニア・ロド様が、陣中見舞いにいらっしゃっていたようで……。侍女《じじょ》たちの死体の下に隠れているのをつい今しがた見つけたのです」
「なぜ王女だとわかる?」
 王女に皇位継承権はないが、ロド教の創始者が女性ということもあり、代々、ロド教の宗教面を司る、神官という仕事についていると聞く。
 ログナが物心ついた時から、一般に知らされているのは、現在神官を務めているのが誰それ王女だという事実だけ。王女が公の場に姿を現したことは、一度もないはずだ。
「『始まりの石』の大きな塊……『始まりの石』が材料と思われる、黒く透き通った小刀を懐に忍ばせていました」
「そうか……。それなら間違いないだろう。どこか保護しておけそうな場所はないか」
「報告、報告!」
 今度は向こうの方から、駆けてくる男の姿があった。
 どちらにせよ王女の傍に行かなければならない。
 こちらからも走り、駆けてくる男から、手紙を受け取った。全力疾走をし続けたせいか、男は激しく息切れをしながらうずくまった。
「きっと、鳩にくくりつけられていた手紙です。ここは鳩舎が分散して置かれているので、四ノ砦にも鳩舎はあります」
 テイニが横から言う。
 ……やはり、鳩だったのか。
 あれだけ多くの鳩を放ったのだ。絶対に届けなければならない、重大な案件が入った手紙だろう。
 封を切るのももどかしく強引に破る。


 王都 人身ノ魔物ドモノ襲撃ヲ受ケ
 ソノ力 圧倒的ニシテ抗シガタク
 至急 来援ヲ乞ウ
 各方面軍ハ ザグバ砦ニテ合流
 態勢ヲ整エ 王都ヲ救援セヨ
 敵ノ狙イハ国王 及ビ 五長会議
 我々王国騎士団ガ 救援マデノ時間ヲ稼グ

 ロド王国騎士団長 レイ・アスタス


 正式な文書体で書かれた手紙だった。
 ログナは王女のもとへ走りながら、その手紙を読んだ。
 途中で破り捨てたい衝動に駆られたが、最後の一行を見てやめた。丁寧に折り畳んで、麻袋にしまう。
 激務に追われて命をすり減らしてきた彼女の面影が浮かんだ。
 ログナは即座に、隊を二つにわけることに決めた。王都への救援に向かう班と、王都北部城塞を守る班だ。
 班の構成はすぐに決まった。救援に向かう班はログナ、王都北部城塞を守る班はイシュが班長を務める。ルーアとテイニがログナ班、トライドがイシュ班、他は自己申告で足手まといにならない自信のある者から順に、ログナ班へと組み入れる。
「ここです」
 テイニが言い、遺体が散乱する足もとを見ながら走っていたログナは顔をあげた。
 逃げる準備をしているところを襲撃されたのだろう。王国の財政状態を反映し、ほどほどに装飾の施された箱型の馬車が、無残に破壊され横転していた。馬や御者は、他の遺体と同じように、体の部分部分をちぎり飛ばされている。
 その惨殺された御者のすぐ右横に、ひとりの少女が立っていた。
 侍女たちが自らの死をもって隠し通した少女は、侍女のものと思しき簡素な麻の外套を着て、血みどろになった白い顔を雨に打たれるがままにしている。
「大丈夫ですか、王女」
 まだ、十五、六歳といったところだろうか。
 黙って空を眺めていた王の孫娘――ラヴィーニアは、白に近い色をした金の長髪を静かに揺らして、ログナの方に顔を向けた。
 彼女は黙ったまま、手をゆっくりと挙げて、ログナの隣を指差した。そこにはルーアがいた。
「わたし、ですか?」
 ルーアが上ずった声を出した。
 ラヴィーニアは頷く。
 ルーアがログナを窺ってくる。
「近くまで行ってやれ」
「王族と話すのなんて初めてですよ……やだなあ。堅苦しいの苦手」
 文句を言いながらもラヴィーニアに近づいていったルーアは、すぐ近くにまで行くと、王族に対する作法通り、左膝を地面につけ、左手を右膝に置きながら、跪いた。地面に置かれた右手が二心なきことを示す、先程イシュがログナにやってみせた姿勢だ。
 ラヴィーニアは、ルーアに、立って近寄るよう仕草で示した。
 困惑した様子でログナとラヴィーニアを見比べた後、ルーアは立ち上がり、ラヴィーニアのすぐそばに立った。するとラヴィーニアは、同じくらいの背丈のルーアの耳元に顔を近づけ、口元を手で覆って何事か囁き始めた。
 ルーアは静かに囁きを聴いていたが、やがて得心したように、何度か頷く。
「王家に伝わるしきたりで、王の直系の女性は、王族か結婚相手となる男性としか、直接話せないそうです。王女は、兄はどうなりましたか、と聞いてきています」
「事実を伝えてくれ」
 頷いたルーアが、言葉少なにエル将軍の戦死を伝えた。
 彼女は、あまり大きな反応を見せなかった。兄妹と言っても、王族となればいろいろ思うところがあるのかもしれない。
 事実を教わった礼だろうか、落ち着いた所作で、ルーアに頭を下げている。
「イシュ」
「はい」
「これから、部隊を二つの班に分ける。班長は俺とお前だ」
「その分け方だと、わたしは、王女を守る班ですね」
「ああ。俺の方にはルーアとテイニをもらう。お前にはトライドをつける。生き残りを探して五ノ砦で防御を固めろ。いいか。トライドの言うことを無視せずよく聞いて、冷静に判断するんだ。かっとなるなよ。たとえノルグ族の仲間がどれだけ殺されようともだ」
「それだけ念押ししなければならないような……すぐ感情的になって、命令違反をするような人間に、班を預けてもよいのですか?」
 いつものように『わかりました』という落ち着いた返事がすぐにくるかと思ったが、イシュは即答せず、俯きがちに言った。
 ログナは意外に思いながら、
「命令違反を繰り返すつもりでいるのか?」
 と問い返した。
「繰り返しません。責任ある立場になるのなら、絶対に命令通り動きます」
「ならいいじゃねえか。帰るまでの間、大人しくしててくれれば、それでいい」
「命令違反を、一時的に棚上げするとしても、わたしはノルグ族の人間です。ノルグ族の人間が、ロド王国の正式な騎士を差し置いて、長《ちょう》になるなど、聞いたことがありません。命令違反して罰も受けない、しかもノルグ族が班長では、トライドが納得しないのではないでしょうか」
 感情を表に出さず、平然と命令を無視する。
 他人の感情を斟酌《しんしゃく》しない人間なのかと勝手に思っていたが、そうでもないらしい。
「いまはノルグかロドかで判断する状況じゃない。ルーアに任せようかとも思ったが、あいつはノルグ族への差別意識が人並みにある。ノルグ族の生き残りが多い状況には向かないと感じた。トライドは戦闘に関わらなければそつなくこなすだろうが、ときどき間の抜けたことをやるから、班を預けるのは怖い」
「わたしはそれ以上の短所ばかりです」
「必要以上に大げさに考えるな。お留守番係だよ。お留守番係」
「お留守番係、ですか……」
 ログナは散らばった兵士たちを呼び集めるために歩き出し、すれ違いざまにイシュの肩を軽く叩いた。
 話は終わりだという合図のつもりだったが、イシュが背後から、
「隊長」
 と声をかけてきた。足を止めて、またイシュに体を向けた。
「なんだ、班長」
「レイ様は、休む間もない激務の中で、隊長と再会なさる日を楽しみにされていました。どうか……お願いします」
 ログナは頷いた。
 ……言われずとも、死なせはしない。絶対に。
「ご無事で」
「イシュもな。勇者カロルの加護を」
「え」
 イシュが、少し驚いたような顔をした後で、やがて静かに微笑んだ。
「ログナ様に、勇者カロルの加護を」



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