13 厄介な部下


 弓を取り出そうと、背中に手を回した。両手剣の鞘に、小型弓用の木箱がくくり付けてある。
 小型弓は、持ち運びには便利でも、威力と矢の飛距離に劣る。けれどそれでもログナがこの弓を選んだ理由は、弓と矢の特性があるためだ。弓と矢は、魔法研究所特製の物で、専門の担当者によって石粒のような大きさの古代文字がびっしりと書かれている。
 この弓矢は、矢を放つ直前に魔力を込めることで、少しの間、魔力を維持し続けるという、魔物との戦いを根本的に変えた代物《しろもの》だ。炎の魔力を扱うものが込めれば火矢となり、風の魔力を扱うものが込めれば速度が増す。さすがに熟練者の使う魔法と比べてしまうと威力は数段、控えめだが、この弓矢のおかげで、魔力が少ないものでも、戦闘で活躍できるようになった。
 腰にさげた矢筒から取り出した矢をつがえ、弦を引き絞り、右手を顎の下にあてる。
 土魔法を込めたその矢は、風の抵抗を最小限にして飛んでいき、命中した。飛行型の魔物を撃退するために、弓の修練も重ねてきた。ゆっくり的を絞れる時間さえあれば、ほとんど外れることはない。
 数十もの死体が積み重なった背後の惨劇に気付いているのかいないのか、悠長にひとりの兵士の遺体を囲んでついばんでいた四匹に、イシュの放った太刀のような風魔法が直撃した。悲鳴を上げる間もなくばらばらになった四匹を横目に見ながら、イシュの背後を目障りに動き回る一匹の体に矢を叩き込んでやった。魔法を込めた騎士団特製の矢が奥深くまで突き刺さり、やがてその魔物の動きは止まった。
 全身が白銀色の羽毛に覆われ、黒いくちばしと退化した羽、離れた両目、そして不釣り合いに長い脚をもつ四足歩行の魔物、ミングス。その体からとれる上等な羽毛は上流階級に人気があるが、常に大群で行動し、大好物は人間の肉という厄介な魔物だ。その群れに切り込んでからしばらく経ったが、まだ出丸の入り口にも辿り着いていない。
 ミングスはとにかく素早く、遠距離魔法を使えないという致命的な欠点があるログナにとっては厄介な相手だ。得意とする剣では、走り回って無駄に体力を消耗させられるだけ。そのため今は、基本的には弓でイシュを援護し、近寄ってくる敵を片手剣で殺す戦い方になっている。
 全員前衛だ、と言いながら、さっそく隊長が後衛を務めているが、誰もそんなことなど気にしてない。圧倒的な速さを誇り鋭い風魔法で次々に肉塊を量産していくイシュ。光弾で相手の行動範囲を限定しながらしつこく獲物を追いつめ、最後には炎魔法で焼き殺すルーア。心配したトライドも、彼女のそばで、両手剣、片手剣、土魔法、炎魔法をうまく使い分けて対応している。
 十匹、二十匹、三十匹とただミングスの死骸だけが増えていく。
 三人の動きにやや疲れが見え始めたころ、一匹、異様な速さの魔物がルーアに迫っていることに、ログナは気づいた。ルーアもトライドも気づいていない。
「ルーア! 後ろだ!」
 ログナは叫ぶ。
「いまは無理です! 援護を!」
 ルーアは正面に殺到するミングス、トライドは側面を支えるので精いっぱいで、動けない。
「イシュ、いったん風魔法をルーアへ!」
 ログナの近くで戦うイシュにそう伝える。しかしイシュは、全く反応しなかった。
「イシュ!」
 イシュは目もいい、耳もいい。状況はつかめているはずだし、この距離なら聞こえているはずだ。
 ルーアが、ときおり助けを求めるようにイシュのほうを見る。しかしイシュは動かなかった。
 仕方なく、ログナがルーアの援護に走る。ミングスがくちばしでつついたり前足で殴りつけてくるが、温存していた防御魔法で防ぐ。防御魔法は魔力の負担が少ないとはいえ、さすがに日に数十度は使えない。
 その魔物は、とにかく速い。先程まで遠目に見えていたのに、いまはもう、ルーアのすぐそばまで迫っている。
 絶対に間に合わない、途中でそう分かったので走るのをやめ、腰に提げた矢筒に手を突っ込む。動きが速すぎて、狙いが定まらない。破れかぶれに、その魔物の進行方向へ矢を放つ。背中のあたりを掠めたように見えたが、それだけだった。二射目も三射目も外れた。数に限りのある矢を、こんなところで使い切るわけにもいかない。弓を、両手剣の鞘にくっついた収納箱に戻し、再び走り出す。そのあいだにも魔物はルーアに近づいていく。人間と同じくらいの大きさで、猫のような体躯をしているそれは、全身が水色の鱗に包まれていた。ある意味で馴染み深いミングスと違い、初めて見る魔物だった。四本の足を目にも止まらぬ速さで動かし、獲物――ルーアへ一直線に飛びかかろうとした。
 動きが、直線。
「右に跳べ!」
 怒鳴ると、ルーアが右へ跳んだ……というよりも、体の右側に重心をかけて倒れ込んだ。
 空振りしたあとその魔物はすぐさま反転してルーアを襲おうとするが、ルーアの右手と左手が既に準備を終えていた。
 至近距離から叩き込まれた光弾と炎弾によって、魔物は盛大に弾け飛んだ。硬そうな鱗などお構いなしの威力だった。炎に包まれた肉塊と血液がルーアの体中に降り注ぐ。
 気を抜いているわけにはいかなかった。
 ルーアの周辺に魔物が殺到し始めた。ルーアが立ち上がる隙さえ与えない。魔物は人間の抵抗が弱まった瞬間に敏感だ。弱い部分をつけば人間は崩れると、本能で分かっている。彼女は顔や体を血まみれにして地面に座ったまま、次々と現れるミングスに魔法を叩き込み続けている。
 ログナは懸命に走ったが、なかなかルーアのもとまで辿り着けない。イシュとルーアとトライド、三人が互いに遠距離魔法で支援しあうことを前提にして、距離感が開いても、無理に縮めていなかった。冷たい空気を取り込み続けたせいで、肺の奥が焼けつくような痛みを発している。それでも必死に足を動かす。
 わずかな隙を見て、ルーアが立ち上がり、片手剣を抜いた。そこをミングスの右前足が襲う。ルーアはその右前足に向けて横から片手剣を叩き込み、切り飛ばした。しかし彼女は自己紹介で言っていた通り、非力のようだった。力を補うように、片手剣を両手で使い、ほとんど放り投げるようにしての、あまりにも隙の大きな振りだった。左前足が飛んできたとき、ルーアは対応できなかった。集中攻撃を受けたために魔力の回復が追いつかないようで、苦し紛れの弱々しい簡易結界魔法が発動したが、当然のように防げなかった。左前足の攻撃をまともに受け、ルーアは地面に放り出された。
 ログナはルーアのもとにたどり着いたと同時に、片手剣を抜き去り、防御魔法をこめて横に振る。ミングスが、ルーアに向けて鉄のように硬いくちばしを叩き込もうとしていたところだった。必死に腕を伸ばしたおかげか、剣先がどうにかミングスに届いた。ルーアが切り落とした右前足に続いて、残った右後ろ足を断ち切ることができ、右側の足をふたつとも失ったミングスは、態勢を崩した。ログナは片手剣を地面に落として背中の両手剣を抜き、聞くに堪えない唸り声を発してよろめいたミングスの胴体に、振り下ろした。
 激しい血しぶきが上がり、返り血に視界が染まる前に顔を横に背けた。
「後ろに」
 仰向けで顔を歪めているルーアが、絞り出すように言った。ログナの後方に視線が向いている。
 振り返ると、ミングスがばらばらになって地面に落ちるところだった。
 ルーアに使えと言っても使わなかった、イシュの風魔法。
 イシュは目も合わせずに、目の前の敵に視線を戻した。
 イシュについて考えかけたところで、
「そっちは大丈夫ですか!」
 トライドの声が戦闘への集中力を引き戻してくれた。慌てて周りを見回す。こちらへ向かってくる十匹ほどのミングスの群れの後方に、ようやく出丸が見えた。
 ルーアが咳き込みながら立ち上がる。動けないほどの傷は負っていないらしい。
 胸をなでおろした途端、思い出したように息が苦しくなってきて、空気を取り込むべく大きく口を開けた。
 年を取った。喘鳴が、自分の喉の奥から聞こえる。肩が上下するのも抑えられない。
 ……だらしない隊長だ。
 いくら苦手とはいえ、戦い慣れたミングス相手に、部下を援護しきれず手こずった。体力どころか戦闘勘まで鈍っている。
 カロルならこんな醜態、さらさなかっただろう。カロルは常に、ログナたちを助ける側だった。
 しかしいまはそんな泣き言を漏らしている場合ではない。
「集合! 出丸を奪う!」
 唯一遠くにいたイシュが、ある程度走っては振り返って敵を潰し、ある程度走っては振り返って敵を潰し、器用にこちらへ近づいてくる。彼女の活躍もあり後方の敵はほぼ殲滅《せんめつ》したものの、依然、両手をいっぱいに広げた範囲すべてに魔物の姿がある。
 レイのまとめた冊子の中にも言及されていたが、魔物同士はあまり争わない。弱い魔物はもっとも強い魔物に食事を譲り、食事を譲られた方も食い尽くさずにおこぼれを恵んでやる、というのが現在の定説らしい。もちろん例外もあるが、そう考えると、魔王がいなくなりなぜ魔物たちが暴走したのか、一応の説明がつく。もっとも強く影響力の範囲が広大な捕食者、つまり魔王が人間に手を出すときは、他の魔物もおこぼれにあずかろうと集まってくる。逆に、魔王が動かなければ、最も強い捕食者を差し置いてそうそう捕食するわけにはいかない。だが、魔王やその直近にいる強力な魔物たちがいなくなれば、他の上級魔物に関しては横並びだ。様々な魔物が一斉に、人間を襲うようになる。その仮説を信じるとすれば、ここにいるなかではミングスが一番強いのだろう。その周囲をびっしりと他の種類の魔物たちが囲んでいる。
 ミングスの群れの一部をログナの弓やイシュたちの魔法の集中攻撃で潰して、出丸への突破口を開いた。出丸には高く分厚い壁が立ちふさがっているので、トライドを先行させる。ログナと同じく土魔法の使えるトライドは、魔法土で包んだ手を交互に動かして石壁を器用に登っていく。
 トライドは石壁の頂上に立ってゆるりと顔を左右に振った後、その場でしゃがんで、声を潜めて伝えてきた。
「ルダスが十頭ほどいます。いまは食事を終えて眠っているようです」
 ルダス。魔物同士は争わないという仮説の、例外のひとつ。他の魔物も躊躇なく喰らう、茶色の短毛でおおわれた巨大な獣。通常時は四足歩行、攻撃時には後ろ足で立って二足歩行になり、二足歩行時には人間三人分ほどの高さになる。口からはみ出た二本の長い牙に三本の鋭い爪をもち、もっとも大きな特徴は、防御魔法が使えるということだ。魔法は刺青や五芒星の首飾りといった装置を生み出した人間がもっとも巧みに扱う。しかし魔力そのものの存在は何も人間に限定されるわけではない。強靭な肉体をその魔力で補強するため、並大抵の攻撃は通じないという厄介な特性をもつ。
 必ず複数人で対処することが求められる魔物だが、ログナにとってはお得意様ともいえる上級魔物だ。慎重に距離をとりながら戦うミングスとは違い、向こうから突進してきてくれるところがいい。こちらから走り回ったりせずに、剣技と防御魔法だけで、返り討ちにできる。ルダスの肉と皮を売りさばいて軍資金としていたころが懐かしい。
 しかし、十頭いるとなると、簡単な戦いではない。ルダスは通常、単独行動を好むので、ログナが同時に相手にしたことがあるのも、二頭が最大だった。
 先程ルーア救援の命令を無視したことはあとで叱責することにして、ログナはイシュのほうを向いた。
「音を出さずに、壁を破壊できるか」
「できます」
 静かに即答したイシュは、左手の風魔法でミングスをけん制しつつ、右手に持っていた片手剣をしまった。そしてイシュの右手から、黒く不気味な霧があふれだした。見るものを総毛立たせるようなおぞましい気配に、ログナは懐かしさを感じた。キュセ島に使い手がいなかった闇魔法は、かつてともに戦ったクローセが得意としていた。
 霧のように噴出していくそれが、徐々に石壁を覆っていく。そしてイシュが拳を握りしめると、その黒い霧はすぐに消えた。幾重にも重ねて組まれ、並大抵の衝撃では崩れないようになっている石壁の一部が、音もなく粉々になり地面に散らばった。闇魔法は扱いが難しくごく一部の人間しか習得できないが、いつみても性質《たち》が悪く、怖気の走るような魔法だ。ロド教が光の対極であるこの魔法の存在をなぜ許容しているのかが、不思議でならない。
 ルーアが先行し、次にイシュ、最後にログナが中に入った。トライドは、石壁の上から降りて、地面に手をつけた。そして土を操り、壁の隙間に埋め込んだ。魔力の少ないログナにはできない芸当だ。
 イシュが静かに石壁を破壊したおかげで、ルダスの群れはまだこちらに気付いていない。指を差して数を数える。目に見える範囲に、ルダスは十一頭居た。ほとんどは眠っている。足もとには食い散らかされた人間の断片が転がっている。出丸にこもっていた人員のものだろう。まき散らされた肉の、すえた臭いが辺りに充満している。
「ルーアは休んでいろ。イシュは、あとあとの事も考えて、潰せるだけ潰したあとに休め。残りは俺とトライドでやる」
「わかりました」
「はい」
「え、え、あの……僕ですか?」
「時間に余裕はないぞ。構えろ」
「始めます」
 イシュが右手を目一杯伸ばして掲げ、左手を顔の前に掲げる奇妙な格好になった。
 まず右手から闇魔法が吹き出し、次に左手から風が巻き起こる。優しい風が、黒い霧をあたりに広げていく。やがてそれは、何頭かのルダスをすっぽりと覆ってしまった。ルダスが気づいて目を覚ましたようだが、もう遅かった。イシュが右手を握りしめると、ルダスは音もなく、肉塊となって地面に散乱した。
 一頭、殺し損ねたのか、痛みにあえぐ獣の雄たけびがあがった。全ての個体が、目を覚まして立ち上がった。
「一頭殺し損ねました。残り七頭」
 ログナはトライドに目配せし、自分の背中に隠れるよう示したあと、弓を構えた。腰にさげた矢筒から一本取り出して、雄たけびをあげた一頭の方へ放った。そのあいだに、他のルダスがログナたちに気付いて、四本足での突進を始めた。
 近づいてくるルダスを目がけて、弓を次々に放つ。やはり防御魔法を込めた矢は使える。頑丈なルダスの体にすら致命的な損傷を与えられる。一頭……おそらくイシュが殺し損ねた手負いの一頭、他に二頭を射殺した。
 残り四頭になり、距離も詰まってきた。ログナは弓を背中の木箱に戻して片手剣を抜き、駆け出す。
 後ろからトライドのついてくる足音が聞こえる。
「トライド、俺が全部引き付けるから、横から一頭を殺せ。土魔法で剣の硬度をあげるのも忘れるな」
「は、はいっ」
 声が裏返っている。言動がいちいち頼りないが、砦での一騎打ち、ミングスと対峙していたときの剣さばきは悪くなかった。やってくれるはずだ。
 ログナは左手の親指と人差し指を軽く噛んで、大きな音で指笛を鳴らした。四頭すべてが、時間差の横並びでこちらへ向かってくる。右手の片手剣を構えた。先頭の一頭が後ろ足で立ち、前足を突き出してきた。鋭い爪をかわして懐へ飛び込む。腹を裂いた。
 返り血と倒れてくる巨体を左に避けると、さらに左の方から風を切る音が聞こえた。二頭目だ。防御魔法を左側面に集中させる。ルダスの攻撃は重い。視界が揺れた。怯まず片手剣に防御魔法を集中させて、一歩踏み込んで切り上げる。かわされた。
 今度は、後ろと右側面からの気配があった。狙ってくる場所を予測し、重点的に固めて衝撃を相殺した。後ろに気配のあった三頭目が、肩を掴んで力をかけながら頭に牙を突き立ててきたが、そのおかげで反撃の機会を得た。人間の頭に牙を突き立てたつもりが、魔法土に自慢の牙を折られてよろめいたルダスの首を、ログナは冷静にとらえた。頭部を失ったルダスが体だけで往生際悪く暴れまわるが、見当違いの場所に向けて腕を振っている。
 一息ついた直後、左に気配を感じた。位置的に、おそらく四頭目ではなく、二頭目のほうだ。体を回転させながら片手剣を振るった。反転し威力が高まったぶん、硬いルダスの腹に、片手剣が必要以上に深く突き刺さってしまった。舌打ちをして片手剣を離し、すぐさま四頭目を探す。トライドが倒しているかもしれないと期待していると、そのトライドは、ちょうど四頭目のルダスの正面に立ち、切り捨てようとするところだった。致命傷だ。剣の軌道からそう思ったが、トライドの片手剣のほうが根元から折れてしまった。
 土魔法をうまくかけられていなかったのだ。馬鹿が、と呟きながら弓を引っ張り出し、構える。しかしそのあいだにもう、ルダスは腕を振り上げていた。簡易結界魔法がトライドの体を覆うが、ルーアのときがそうだったように、追い詰められて集中力が乱れ、疲弊している状況での簡易結界魔法は分の悪い賭けにすぎない。予想通り、ルダスの腕が、簡易結界魔法を突き破った。ログナが矢筒から矢を掴んだときにはすでに、攻撃がトライドの体に届こうとしていた。
 視界の端から、光弾が飛んできた。見るからに疲弊しきっていたルーアに、結局魔法を使わせることになってしまった。けれどその光弾のおかげでルダスは一瞬動きを止め、ログナが弓矢を放つ時間を作ってくれた。至近距離からの弓は、外さない。
 一本目を頭部、二本目を胸部に叩き込み、確実に息の根を止めた。
 ルダスの体が傾き始め、胸をなでおろす。片足で足元のルダスを踏みつけにし、奥深く刺さった片手剣を引き抜いて鞘に納める。倒れてくるルダスを慌てて避けたトライドのもとに向かいながら、援護してくれたルーアのほうを何気なく見遣る。
 するとなぜか、そこにルーアの姿はなかった。イシュと、彼女の放っている闇魔法の黒い霧だけが、そこにあった。
 ルーアはどこだとよくよく見てみれば、苦悶の表情を浮かべたルーアが、黒い霧の中から左腕と首だけ出している。
 心臓が跳ねた。
「何してやがる!」
 魔王を殺したときに出した以来の、全身全霊を込めた怒声を放つ。
 イシュが、こちらを見た。そしてそのままの態勢で、動きを止めたまま、ログナが駆け寄るのを黙って見ていた。
 ログナは無言で立ち尽くしているイシュの顔面に、問答無用で拳を叩きつけた。十人並みの兵士なら顔が潰れているところだろうが、イシュは一瞬で出現させた簡易結界魔法によって威力を弱めてきた。それでも地面に尻をついたイシュの唇は大きく切れ、血が彼女の口の周りに飛び散っていた。
 イシュと戦闘になることも覚悟したが、彼女は両手を後ろ手についたまま、呆けたような表情でこちらを見上げている。
 ……わけがわからない。
 呆けたくなるのはこちらだ。闇魔法によって肉塊《にくかい》に変えられたルダスが頭をよぎる。もしこの女が少しでも力の加減を誤っていたら、ルーアもそうなっていた。
 闇魔法に囚われている状態から、無理にトライドを援護したらしいルーアは、地面にうつぶせになってぴくりとも動かない。
「一応、処分を言い渡す前に聞いておいてやる。なぜ味方に向けて闇魔法を使った?」
 呆然としていたイシュが、いつもの無表情に戻った。
「この女が、なぜ助けなかったと詰め寄ってきたので、わずらわしく、動きを止めておこうと思っただけです」
「その命令違反もそうだ。なぜ、ルーアを助けなかった。二度だ! お前は二度、ルーアを殺しかけた!」
「わたしが奴隷剣士として守るのは、王国騎士団長と、現隊長のあなたと、隊員のトライドだけです。わたしは、わたしのことを蔑み、馬鹿にしてくる人間を、戦場で助ける必要を感じません」
 イシュが言葉を口にするたび、イシュの頬にあるスルードの花の刺青が揺れ動く。
 これまでもそうしてきたし、これからもそうする。考え方を変えるつもりはない。頬に刻みつけられた証が、そう語っているような気がした。
「わかった」
 ログナは頷いて見せた。
「イシュ。この場で貴様の職務を解く。ただちに騎士団本部へ向かい、自室で謹慎しておけ。帰ったら状況をレイに報告して処分を決めさせる」
「なぜです」
「それがわからないから職務を解いた。ただそれだけの話だ。さっさと行け」
「わたしがいなければ、城塞は取り戻せませんよ」
 イシュの言うとおりだった。出丸を落とすところまで順調に来られたのは、まぎれもなく、イシュのおかげだった。敏捷性、突破力、広範囲への攻撃力、どれをとっても一流の彼女がいなければ、まだ支城の入り口辺りをうろうろしていただろう。
「部外者に心配されるいわれはない」
 しかし、味方を平気で見殺しにできるような人間に、背中を預けることはできない。たとえ気の合わない者が隊内にいたとしても、それを我慢して援護できるのが職業兵士だ。ましてや四人しかいない隊においては、感情で命令を無視するような人間は、邪魔になる。
 感情を表に出さないが、激情を胸に秘めている。傑出した能力に、一部だけが突出した性格。上官には、扱いづらいと散々言われてきただろう。あまりいない種類の人間だから、もう少し、時間をかけて理解してやりたかったが、これ以上は任務に支障が出るとログナは判断した。
 ようやくログナの意志が固いことを悟り始めたのか、イシュはログナの前では初めて、慌てた顔を見せた。
「で、ですが! この北部城塞にはわたしの知り合いのノルグ族がいて、他にもたくさん……」
 初めて個人的な事を漏らしたイシュに、少し揺らいだが、決意は変わらなかった。
「お前はその知り合いを助ける機会を自分で潰したんだ。心配しなくても、俺たちが助け出す。だから早く王都に」
 イシュは、何も言わずに立ち上がった。
 今ので聞き入れたとは思えない。
 魔法土で体を覆い、片手剣の柄に手をかけてイシュの動きを警戒していると、彼女はくるりと背を向けて、走り出した。虚を突かれたが、追う。短距離の走りは苦手だが、持久力ならある。視界にいなくなるほど離されはしない。
 トライドが塞いでおいた出丸の石壁を、イシュは風魔法で派手に破壊して飛び出した。ログナはルーアとトライドを振り返って怒鳴った。
「できるだけ魔物を潰しておく! 少し休んだら来い!」
 印象では、トライドが実戦で危うく、ルーアが面倒事の種になりそうな気がしていたが、まさか物静かなイシュが最も厄介な部下だとは考えてもみなかった。
 ……とんでもない馬鹿を押し付けられた。
 レイを恨みながら、ログナはイシュの破壊した部分から出丸を飛び出した。


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