10 夕暮れどきの鳩舎で


 翌朝、機嫌を直したトライド、二日酔いのせいか一言も喋らないルーア、いつも通りのイシュとともにザグバ砦を出た。
 途中で馬の上下動に耐えきれなくなったルーアが道端に吐いたが、魔物や盗賊に遭遇はせず、昼過ぎ頃、王都に帰りついた。
 まずはレイに、ラシード砦で起きたことを報告しようとしたものの、近場に出た大型魔物の討伐に向かっているとのことで留守だった。仕方がないので、副団長サチェリに経緯を説明しておいた。
 三人に一時解散と休息を命じたあと、自室のベッドで横になって、ログナ自身も休息をとった。
 さすがに疲れがたまっていたのか夢も見ず、すぐに目覚めた。ついさっき眠ったような気がしながら体を起こすと、窓から見える陽の色は赤くなっていた。もう一度、レイの部屋を訪ねたが、それでもまだ帰って来ていなかったので、ログナは騎士団本部の真向いにある魔法研究所に向かった。騎士団本部にこもっていても仕方ないが、あまり騎士団本部から遠くに離れることもできない。要するに、暇潰しだ。
 階段を上ると、白い煉瓦造りの建物の入り口に、赤い生地に黒のボタンがついた詰襟の上着、黒の生地の脚衣を身に着けた衛兵が二人、小さな木戸を挟み込むようにして立っている。彼らはログナが近づくと姿勢を正し、右手で敬礼した。
 腰に提げた麻袋に入った信任書を、身分証代わりに取り出そうとすると、
「ログナ様ですね。お通りくださって大丈夫ですよ」
 見たところログナよりいくぶん年かさの中年男性だったが、敬語だった。
「どうして俺だと?」
「有名人ですから。いい意味でも、悪い意味でも」
 彼はそう言って屈託なく笑う。
 悪い意味でも、の部分で、ログナも笑みを返した。
 研究所の外見も、とりたてて目を惹くような壮麗さはなく質素そのものだが、内部はもっとひどい。くすんでところどころ黒く染まりきった煉瓦、採光の悪い位置についているガラス窓、それぞれ手入れがまったく行き届いていない。加えて、狭く薄暗い廊下と古い木戸の数々から受ける印象は、質素というよりも、貧しさだ。魔物との戦いに莫大な戦費を投じねばならない王都の慢性的な予算不足を反映しているのだろう。とても一国の重要な機関とは思えなかった。何人かの研究者とすれ違いながら屋内の廊下を抜けて、裏庭に出る。
 裏庭には、ロド王国の人間が魔法を使うための源泉となる設備がいくつか置かれている。警備の厳重さは魔法研究所の比ではない。
 魔法の源泉は、一か所に集めてそこを落とされてしまえば魔物に対抗する術がなくなるため、王国各所に分散されている。そのすべてを把握している人間は国王を除いて存在しない。自分が使用している魔法の大元ですら、一般の兵士たちには伝えられない。ただ、魔王討伐隊に加わっていた人間はさすがに別で、ログナが使用する土魔法の大元は、ここだと教えられた。今回使う源泉の場所はさすがに知らされていないが、魔法の使えるようになった時間を考えると、そう遠く離れてはいないだろう。
 幾十人いる、両手剣を佩《は》いた重装備の兵士たちが、それぞれの持ち場で目を光らせている。
 一番手前の兵士に睨まれた地点で、立ち止まる。
 兵士たちの奥には、建物が二つある。どちらも頑強な石造りで、そこに立ち入りを許されているのは魔法研究所の上級研究員だけ。一方の建物は、土魔法の源泉、一方の建物は、風魔法の源泉だ。土魔法の源泉は、一度だけ、特別に中を見せてもらったことがある。
 源泉の構造そのものは単純だ。何もない、ただ広いだけの部屋の中央に、とにかく巨大な五芒星が描かれている。魔物や動物の血で描かれた巨大な五芒星の各頂点には、『始まりの石』のごく小さな欠片が置いてある。五芒星の内側には、魔石と、その魔法に対応する贄《にえ》を置く。魔石は、術者の名前を確認できるよう丁寧に区分され、贄の上に置かれている。さまざまな色の魔石がずらりと一面に敷きつめられている様子は、なかなか壮観だった。
 源泉側で準備が終わっていれば、あとは、魔法を使う術者が、魔石に魔力を注ぎ込むだけでいい。
 ログナが防御魔法を使う場合、まず、ログナ側の魔石に魔力を注ぎ込む。そうするだけで、源泉側の魔石にも魔力が伝わる。源泉側の魔石と、ログナたちが体に備えつけている魔石は、対になるよう、あらかじめ特殊な術で結びつけられているからだ。源泉側の魔石は魔力を感知すると、五芒星と、その外側に血で書かれた古代文字の命令によって、周囲の贄を吸収する。直後、贄を消費し変質した力が、今度はログナ側の魔石に送り返され、魔石からさまざまな魔法が滲《にじ》み出す。防御魔法の場合は、魔法土だ。滲み出す程度ではまともに使えないが、そこは、術者の魔力で補う。ログナの魔力によって変換効率を増幅された魔法土が、魔石から一気に放出されて、体全体を覆っていく。
 また、魔石から分離した魔法は、魔石の感応《かんのう》範囲内なら、訓練次第で自由に遠隔操作できる。炎魔法で敵を丸焼きにしたり、光弾をいくつも飛ばしたり。攻撃力や命中精度は魔力や練度に依存しているが、遠くに攻撃するためには、魔石そのものの感応範囲も重要になる。別の言い方をすれば、魔力が弱すぎて遠距離魔法を一切使えないログナには、感応範囲の広い魔石は必要ない。魔王との一連の戦いの中で上等な魔石を見つけ、カロルたちに渡してやったことが何度かある。
 かつて自分が使っていた土魔法の源泉をぼんやりと眺めていたログナは、一瞬たりとも視線を外さない警備兵にねぎらいの言葉をかけつつ、出入りに融通のききそうな鳩舎《きゅうしゃ》のほうへ足を向けることにした。
 土魔法と風魔法の源泉は、土魔法が土、風魔法が鳥の羽を贄としている。土はほぼ無尽蔵の資源と言ってもいいが、鳥の羽はそうもいかない。鳥の羽を採集するため、敷地内で鳩《はと》を飼っておくことがある。冬の今はあまり採れないが、春から秋にかけて換羽期にはそれなりの量の羽を落とすし、その強い帰巣本能を利用して連絡手段にも使えるためだ。逆に言うと、鳩舎や鳥舎《ちょうしゃ》があるところには、風魔法の源泉が近くにある可能性が高い。
 鳩舎の前の広場に、鳩が幾羽か放されていた。
 冬の夕暮れどきは、人の影が良く伸びる。鳩を取り囲む幾人かの影を踏んだ。そのなかのひとつに、イシュのものがあった。
 この地域の鳩は、全体的に明るい黄緑色をしている。暗く地味な青色をしたキュセ島の鳩に比べて、色合いがあざやかだ。
 休息時でも変わらず、前髪をきっちり弓なりに編み込んでいるイシュは、鳩を左手首のあたりに掴まらせていた。右手で腰の麻袋から豆を取り出し、与えている。
 動物と触れ合っていれば少しは表情が和らぎそうなものだが、いまも、イシュの表情はどこか冷めている。
「ここにはよく来るのか?」
 右側から近づいて話しかけると、彼女が首だけこちらへ向けた。
 ログナは鳩に餌をやるふりをして、空気を摘まんだだけの親指と人差し指を鳩に近づけた。鳩はくちばしで指をつついてきた。
「いてっ」
 思わず手を引っ込める。するとイシュの表情が少し和らいだ。
「鳩って意外と食い意地が張ってるんです」
「みたいだな」
 淡くきれいな黄緑色をした鳩の首を見つめながら、ログナは呟いた。
「最初の質問ですが」
 次の豆を取り出して与えながら、イシュが言う。
「暇なときは見に来ますよ。わたしたちにとっては、なじみ深い鳥ですから」
 反乱の危険があるため、いまは強制的に移住させられてしまっているが、もともとノルグ族の住んでいた土地は、人が住みにくい天嶮《てんけん》の地だった。
 気軽に往復ができないこともあってか、人が街や村を行き来する際には、その土地の鳩を幾羽か連れていくことが多かったらしい。次の街に着いたら、そこで前の街に届ける手紙を募り、鳩にくくりつけて放す。すると鳩はもといた巣に戻っていくから、手紙も自然と巣へ届く。鳩はそののんびりとした見た目に似合わず、驚くほど長い距離を一日で飛ぶ。
 往復訓練は難しくほとんど片道にしか使えないうえ、巣に帰りつかない事故も起こるが、これだけ意思伝達に役立つ動物は他にいないだろう。
「ときどき時間が合うと、こうして触らせてもらってるんです」
「イシュはたまにしか来ないくせに、不思議と懐かれてるんですよ」
 そう言った男の方を見ると、ノルグ族と思しき褐色肌だった。
「毎日世話してるのは俺らなのに」
 鳩に餌をばらまいている兵士が、恨みがましそうに言う。
 イシュが少し笑った。イシュの笑顔は、初めて見た。
 よくよく見てみれば、他に鳩の様子を見守っている男たちも含め、この場にいるのは皆、ノルグ族のようだった。鳥の世話は奴隷剣士の仕事であり、王国の兵士が行うことはない、ということなのだろう。
 イシュは鳩がただ好きなのではなく、わたしたちにとってはなじみ深い、という言葉をわざわざ使った。
 『わたしたちにとっては』。
 イシュはノルグ族に対する愛着が非常に強く、ノルグ族であることに誇りを持っていると、レイのまとめた書類にも書いてあった。奴隷剣士の立場でありながら、その性格と卓抜した能力のために並の上官では扱いきれず、結局、ここ三カ月ほどは、レイ直属の奴隷剣士として働いていたという。
 気の弱そうなトライドはともかく、ノルグ族に対する差別意識が人並みにあって口の達者なルーアとは、水と油なのではないだろうか。
「そういえば、隊長は、わたしたちと普通に話すんですね」
「え? ああ……」
 王都への帰り道、ルーアに似たようなことを言われたのを思い出しながら、応えた。
「リルのおかげだろうな。若いころは王国軍にいたから、俺も人並みに偏見を持ってた。ただ、あいつはぜんぜんそういうのにこだわらなくて、何か言われてもいつも小さく笑って受け流してた。口には出さないでノルグ族を馬鹿にしていた俺も、そのうち自分が惨めに思えてきてやめた」
 イシュはひと掴みした豆を鳩の目の前に差し出した後で、地面に放り捨てた。鳩はイシュの左腕から飛び立って、地面に舞い降り、散らばった豆のひとつひとつをくちばしでつついていく。
「わたし、帰るね。ありがとう」
 イシュが男たちにそう言うと、
「おお」
「じゃあな」
「討伐、頑張れよ」
 彼らは口々にイシュに応えた。
 イシュは彼らから目を切り、ログナに目を合わせたあとで、魔法研究所のほうへ歩き始めた。
 ついて来いということだろうか。
 ログナも歩き出そうとすると、後ろから、駆け寄ってくる足音が聞こえた。
 振り返ると、駆け寄ってきたのは男たちのうちのひとりだった。
「ログナ様」
「ん? どうした」
「戦闘中、あいつからは絶対に目を離さないでください。自分の行動原理に合わなければ命令無視も平気でします」
 ログナは頷いた。
「参考にさせてもらう。ありがとう」
「ただ……その。おかしなこともしますが、根はいい奴なので……」
 苦笑した男に対して、ログナも笑いかける。
「わかった」
 イシュはずいぶんと先に行ってしまった。追いつくと、イシュは肩越しに、鳩の群れと男たちからじゅうぶんに離れたことを確認して、口を開いた。
「リル様も謀反人ではなかったんですね」
「は?」
「先程の話の続きです」
「ああ。あのとき魔王を倒した六人に、謀反を起こす意思はかけらもなかった。お前がそれを信じるかは別だが」
「リル様が魔王討伐隊の立ち上げに参加したとき、わたしは十三歳でした。当時のわたしは、奴隷剣士の中で劣等生、いつ魔物に殺されてもおかしくないような実力で。でもリル様は、そんなわたしを、いつも気にかけてくれて……。リル様が、討伐隊に唯一の奴隷剣士として選ばれたとき、当然だ、と思いました。その活躍に触発されて、嫌々やらされていた訓練も、自分から率先してやるようになったんです。今のわたしがあるのは、リル様のおかげです」
「良い話だな」
 イシュが魔法研究所に通じる木戸を押し開けた。その背中を見ながら言う。
「けど、離島に引っ込んだ俺以外の三人は、ミスティと一緒に行くと言っていた。リルも、敵になるかもしれない。そのとき、その感情は、しまっておけるのか」
「わかりません。感情をしまっておくのは、いつも、難しい」
 思わず、それならふだんの無表情は、と問い返しそうになった。これまでイシュは、ログナの名前を聞いたときと、ミスティと対峙したとき以外、表情がほとんど崩れていない。戦場で余計な感情を抑えるという意味では成功していたように思えるが、本人は、そう思っていないということだろうか。
「隊長は、あの人と……ミスティと、殺し合えますか?」
 イシュは廊下を歩き続け、前を向いたまま、訊いてくる。
 ミスティと殺し合う。カロル盗賊団――彼女はカロル兵団と言っていたが、その団長がミスティである以上、いずれもう一度相対する機会が訪れる可能性は高い。
 そのとき自分は、どう振る舞えばいいのだろう。交渉の席に着くように説得する。ミスティの変わりようから判断すれば、おそらく失敗するだろう。そして交渉が決裂すれば、すぐに戦闘になる。イシュの言うとおり、ミスティとの、殺し合いだ。
 十年前、ミスティが体全体を使って手を振り、泣きそうな声で別れを告げてきた夕暮れどきの情景が頭をかすめた。
 イシュの問いかけに答えられずにいると、彼女が小さく、呟いた。
「人じゃなく、魔物と戦いたいですね」



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