1 プロローグ(1)


 ようやく、悪夢のような旅が終わる。
 この瞬間のために、多くの人々が死んでいった。
 魔物を統率してきた王が、本当に死んだことを間近で何度も確認する。やがてログナは、鉄鉱石で出来た床に、真っ二つに折られた両手剣を捨てた。そして重厚な鉄の鎧を脱ぎ去り、黄緑色をした麻の服の上下になった。
 この二年間、隊長として討伐隊を率いてきたカロルのほうに視線を遣る。カロルはログナと同じ薄い土色の髪を、大量の返り血で緑色に染めたまま、脱力しきった様子で魔王の腕の近くに座り込んでいた。
「結界はまだ持つ! 休息を!」
 部屋の入り口のほうから、やや低い、女の声が聞こえてくる。討伐隊最年長の二十七歳、クローセの声に甘えて、ログナは仰向けに寝ころんだ。荒い呼吸を整えながら、高い天井を見上げる。
 しばらくそうしていたら、
「大丈夫か?」
 頭上から、カロルが覗き込んできた。わざと必要以上に頭を傾けたせいで、カロルの髪にたっぷりかかった緑色の血も、一緒にぼたぼたと垂れてきた。ログナが横に転がってその血を避けると、カロルは声をあげて笑う。
「お前は子供か」
 うつぶせのまま文句を言って睨みつけると、カロルは手を差しだしてくる。
「お前みたいなデカブツに寝転んでられると邪魔なんだよ」
 カロルの手を取り、立ち上がった。
 すぐ近くに立つと、それなりに身長の高いカロルを、頭一つ分見下ろす形になる。
 王国軍の訓練所で出会った十二歳の頃から、この身長差はずっと一定だ。
「何遊んでるんですか、二人して! そろそろ行きますよ!」
 声が聞こえた方を見る。後方で静かに休んでいたミスティが、クローセのもとへと歩き始めていた。
 十歳という年齢から、遠距離支援に徹していた彼女は、その白に近い金髪に一滴も返り血を浴びていない。けれどよくよく見てみれば、魔力の消耗は激しかったようで、まっすぐ歩けずふらついている。普通に歩いてすぐに追いついたログナは、服で両手の返り血を拭ったあと、ミスティの腹のあたりに腕を回して右脇に抱えた。
 魔物に襲われたような悲鳴を上げたミスティを無視して、クローセたちのもとへ向かう。
 結界を手で押さえつけるようにしているクローセは、長い黒髪を揺らして振り向いた。
「ちょうどよかった。そろそろ結界が解ける。準備しておいて」
 ログナはミスティを降ろしながら、頷く。
 クローセ、リル、バルドーは、ロド王国に代々伝わる貴重な魔石『始まりの石』を中心に三人が合力して作った特別製の結界で、この城に巣食うすべての魔物の、決戦の場所への侵入を食い止めていた。
 その隣で同じく手を結界に押し付けている黒い短髪の少女、リルが、ログナたちの方を見た。十八歳でミスティの次に若いリルは、ノルグ族の特徴である褐色肌に、朗らかな笑みを浮かべた。
「お疲れさま!」
「よくやったなあ本当に!」
 リルのさらに奥にいる、長めの金髪をうなじのあたりに広げている男、バルドーが、結界に手をかけたまま声をかけてきた。バルドー、カロル、ログナは同い年の二十二歳で、ふだんは三人とも前衛で暴れまわっている。
「それにしても、どうして魔物が大人しくならない? クローセ、わかるか?」
 今の会話で、やや隊員たちの緊張が緩んだのを見て取ったのだろう。
 隊長のカロルがすかさず、厳しい顔になって結界の外の状況に言及した。
 ログナもクローセを見た。
「わたしが聞きたいくらい」
 クローセをよくよく見てみると、顔中に汗を浮かべている。顔色もよくない。
 ログナたちにわずかな休息を与えるため、苦しさを押し隠してくれていたのだろう。
「敵の攻撃がかなり激しくなってる。限界が意外に早く来そう!」
 リルが叫んだ。
「結界係の三人は、『始まりの石』が割れたらすぐに脇によけてくれ。ログナは、ミスティが攻撃しやすいように肩車してやれ」
「わかった」
 四人はそれぞれカロルの言葉に頷いた。
 言われた通りミスティを肩車すると、それからすぐに、
「まずい! 割れる!」
 クローセが怒鳴った。
 結界の真ん中に据えられた『始まりの石』が、派手な音を立てて粉々に砕け散った。
 結界が解けるのが予想以上に早く、カロルの魔法剣の準備が間に合わなかった。そのため、ログナの頭上のミスティが炎魔法を使った。前面に密集する敵が瞬く間にミスティの強力な魔法に焼かれていく。
 そして、ミスティが発破をかけてひらけた場所へカロルが突っ込み、部隊の前面に立った。
 カロルのもつ、柄だけしかない気味の悪い剣に、青白い、炎のような光がともる。瞬きをした間に、それが剣のかたちに変わっていた。ゆらゆらとゆらめくその剣は、魔法と剣技を特一級のレベルで皆伝している者にしか扱えない、魔法剣だ。魔力を剣に見立てて凝集《ぎょうしゅう》し極限まで威力を高める荒業。彼はその青白い剣先を、敵に向けて突き出し、薙《な》いだ。すると剣先から延びた青白い熱線が、目に見える斬撃のかたちで飛んでいく。身体の各部位を分断された魔物の死体が、ばらばらと転がる。この城に巣食っているのは厄介な魔物ばかりのはずだが、カロルにかかっては問題にもならない。
 すかさずクローセたちも一直線に、簡易結界魔法を伸ばす。簡易結界魔法は『始まりの石』を使った本式の結界とは異なり、攻撃を防ぐときもあれば、突き破られてしまうこともある、不完全な防御手段だ。
 だがそれでも、道はできた。
 薄紫色に光る簡易結界魔法の膜《まく》の中を走りながら、左隣のカロルに話しかける。
「あと何発いける?」
「次の一発で最後だ。魔王戦で消耗しすぎた」
 カロルが言い終えると、ログナたちを包む薄紫色が激しく揺らぎ始めた。張られたばかりの簡易結界魔法が、もう不安定になっている。
「クローセ、結界が」
 と右隣を向いて言いかけて、言葉を止めた。クローセの顔色は先ほどよりもいっそう青白くなっていた。こんなに余裕がないクローセの表情を見たのは、初めてだった。魔王との決戦の場にたどり着くまで、なるべく主力の体力を温存させようと、上級魔物たちの露払いもしてきた。そのせいで、魔力が限界に近づいているようだ。
 嫌な予感は的中し、少し進んだところで、簡易結界魔法の一部が崩壊してしまった。
 簡易結界魔法の崩れた場所から、龍族種が吐いた、灼熱の炎が飛んでくる。
 カロルが瞬時に気付き、簡易結界魔法を補強した。六人を襲う寸前で炎は弾かれた。貴重なカロルの魔力が、また費やされてしまった。
「クローセは結界の維持に専念しろ。リル、バルドーは鎧を脱いで先行、簡易結界魔法を補強しつつ、騎士団に援軍を要請!」
 クローセの疲弊を見て取ったカロルが、すぐに決断した。
 リルとバルドーが、すばやく鎧を脱ぎ捨て、ログナたちを追い抜いて行く。ログナもさらに足を速めた。ミスティは振り落とされないよう必死に、額のあたりに腕を回してしがみついてきている。そのおかげで、頭上で白い光が発していることに気付いた。おそらく先程から、威力の落ちたカロルの魔法剣に、ミスティが、光魔法を通して魔力を注ぎ込んでいるのだろう。小さな体のどこに、それだけの魔力を秘めているのかわからない。
「敵は俺とミスティに任せろ。お前はとにかく全力で走れ」
 応える余裕はなかった。
 やがて頭上から発していた白い光が消えた。ミスティの魔力が尽きたようだった。カロルは、ログナが左腰に差している片手剣を抜き去り、敵を退け始めた。
 ひたすらに前へ前へと走り続けるが、まだ出口は遠い。リルとバルドーによってかろうじて維持され続けている簡易結界魔法までもが急激に弱まり始めたころ、ようやく、その二人の姿をとらえた。まともに走って二人に追いつけるはずはないから、援軍を連れて戻ってきたのだろう。
 そう期待したが、なぜか二人は、こちらに背を向けていた。簡易結界魔法の薄い部分を突き破って入ってくる魔物たちと切り結んでいた。
「どうした!」
 ログナの怒声に振り向いた二人の顔が、ある事実を示唆していた。リルの、褐色の肌にいつも浮かんでいる弾けるような笑顔は影をひそめ、ログナとともに前線で両手剣を振るい続けてきたバルドーにいたっては、精悍な目鼻立ちを無様なまでに崩して泣いていた。
「味方が、いなかった」
 魔物を斬り捨てながら、バルドーが涙声で言う。
「捨てられたみたいだよ、わたしたち」
 軽量の片手剣で、魔物の首を鋭く断ち切り、リルが小さな声で付け加えた。
 彼女と彼の視線の先には、簡易結界魔法の終着点と、そこから先に見えるおびただしい魔物の群れがあった。
 退路を確保してくれているはずの、騎士団の姿はなかった。
 使い捨てにできる立場の人間のなかから、選りすぐられた六人。その力を合わせ、どんな最悪の事態も乗り越えてきた。
 けれどもう、終わりだ。
 カロルとともに部隊の前面に立ち、死線を幾度もくぐり抜けたログナの心中すら、諦めが支配しようとしたそのとき、
「剣を取れ!」
 カロルが、一喝した。
「剣を取れ。俺たちの存在理由はただそれだけだ。ただそれだけでしかない!」
 隊長に就任したあの日、カロルが口にした言葉。
 ログナは振り向いた。そこには両手剣を振るい、魔物を斬りつけるカロルの姿があった。そこには落胆も、死への怯えも感じられない。
「『始まりの石』を出せ」
 背後の敵を牽制しながら、カロルがこちらに駆け寄ってくる。
「最後の一つだけど、いいの?」
「いいから早く」
 控えめに訊いたリルを、カロルは急かした。
 リルは腰に提げた小さな麻袋から、小さな石を取り出し、簡単な呪文を唱えてから簡易結界魔法に埋め込んだ。『始まりの石』を中心に、薄紫色の簡易結界魔法全体に波紋が広がる。やがて色が変わり、黒く強固な外観に変わった。
「結界を縮小して絶対に破らせるな。あとは俺がどうにかする」
 結界がどんどん小さくなっていく。やがて、六人が寄り集まったぶんだけ、それだけになった。魔物の爪が、足が、咆哮が、殺到する。視界は魔物で埋め尽くされた。
 現実であってほしくない、あまりにおぞましい光景だ。
 カロルの一喝があっても、死に直面した気持ちを支えきれなくなったのだろう。リルがその場にへたり込み、すすり泣きを始めた。
「ログナ、お前とクローセは少し休息をとれ。リル、バルドーは、俺と場所を代われ」
 カロルの指示に、四人は従った。
 ミスティを降ろしたあと、結界に寄りかかった。魔物たちの攻撃が、さざ波のような振動となって、背中に伝わってくる。それすら心地よい子守唄のように感じる。
 眠気が徐々に強まってきたところで、カロルが口を開いた。
「そろそろ限界か?」
 やや落ち着きを取り戻したバルドーが、頷いているのが見えた。
「ログナ、準備を頼む」
「わかった」
 ログナは両手で頬を何度か叩き、眠気を吹き飛ばした。
 ミスティをもう一度、肩車する。
「いいか。魔法剣で、城の外まで道を作る。俺の残りの力全てを吐き出す最大出力だ。とにかく走って、走って、走りまくれ」
「カロル、お前、さっきからずっと連戦だろ。無理だけはするなよ」
「だーいじょうぶだって。魔王潰して取り巻きにやられましたなんて、笑い話にもならねえからな」
「もう結界がもたない!」
「ログナ、悪い。片手剣、折れたから捨てるぞ」
「ああ」
 鈍い金属音が響く。両手剣や片手剣は、魔物との戦いで何度も修復不可能なほどに壊れ、そのたびに新調してきた。あの魔王の血を吸った武器だ。残念であることには違いはないが、愛着はそこまで強くない。
 カロルは自らの腰に差していた柄だけの剣を手に取り、正面に突き出した姿勢で構える。
 カロルの両腕から、青白い炎が立ち上っている。こんな馬鹿げた魔力の放出量、見たことがない。
 なぜだか不安になったログナは、声をかけようとしたが、その前にカロルが、
「後ろは任せろ。お前たちは前だけを見て走るんだ。いいな」
 と言った。
 それからすぐ、最後の『始まりの石』が砕け散った。
 長方形の結界が解け、その瞬間、とてつもない魔力の束がカロルの魔法剣から放出された。
 熱線どころではない。分厚く青白い帯状の光が、血路を切り拓いた。
 肩車されているミスティ以外の四人が一斉に、カロルの横を走り抜ける。
 後ろを振り向くな。俺に任せろ。
 この二言は、死線をくぐるたび耳にしてきた。だから、今度も全員が全員、疑いなく走った。だが、今回はいつもとは違う。九死に一生を得られるかどうか、その状況だ。それがわかっていたログナは、ミスティを肩車したまま、半身になって振り向いた。振り向いてしまった。



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