Scene9(最終話)

Scene9《十二月十六日 夜》

 拠点が全焼してから十一日後、ジェマア・イスラミア分派が大使館を占拠した事件の、数度目の報道に接した。既に何度かの交渉が試みられたがその度に失敗し、人質二十名以上が射殺された模様だと、キャスターが説明している。御津と那岐原は遅めの夕食を突きながら、店に設置されたテレビを見つめていた。お互い黙っていたが、思いは同じだろう。
 本来ならばこれを未然に防ぐのが自分たちの役目のはずだった。既に射殺されたムディらとの繋がりから分派の拠点を洗い出し、芋蔓式に全てを片付けるという作戦は、美奈の裏切りやA班の独断などで完全に失敗した。もちろん未来は不可視で何が起こるか予測などできないから仕方ない部分はあるが、すぐに終わる任務だと考え美奈の裏切りを見抜けなかった自分も、民間人が二十名死亡するという惨事の責任の一端を負っているのだと思うと、途方もない徒労感が襲ってくる。那岐原の父の遺体を隠してから数年、殺した人間よりも助けた人間の方が少ない。
「俺、もう、いいや」
 食欲が失せ、御津はスプーンを置いた。
「店、出る?」
 那岐原が心配そうに訊いてきた。彼女は帽子を取って、黒のワンピースを着ていた。二日前には占拠が始まっていた。もう、隠す必要はない。
「出るか」
 立ち上がり、会計を済ませた御津は外に出た。
 十二月十六日。街はすっかりクリスマスの様相を呈している。夏と大差ない暑さの中でサンタクロースの格好をした男がいることが、日本とは全く違う所だった。通り過ぎていく店々の入り口にも小さなクリスマスツリーが飾られていた。華美な電飾を纏いちかちかと点滅しているものも目につく。キリストの誕生を祝う記念日が近付く中、籠城した分派たちは今も大使館で銃を撃ち鳴らしている。その祭りを、唾棄するかのように。
 どこか浮ついた街を、二人はただ歩いていた。
「分派の奴ら、死ぬよな」
「そうね」
「なんで政府は要求は呑まないって、殺されるって分かってて占拠したんだ。仲間の解放って……それが、命を賭けてまで、二十人の民間人を殺してまで成し遂げたい要求なのか?」
 那岐原に問いかけても意味は無いと分かっていたが、言わずには居られなかった。
「私たちには推し量れることじゃない。テロは最低の行為だなんて言ったって、平和のただ中に育ってきた私たちが、本当の意味で彼らを理解できるはずはない。そんなこと、無駄だよ。あの分派たちにも分派たちなりの倫理観とか、正義感とかがあるんだから。……考えようとすることは、大切かもしれないけど」
「そういうものなのかな」
 そこで、サンタクロースの格好をした男が目の前を塞いだ。二人が歩みを止めて彼を見上げれば、強引にチラシを押し付けてきた。二人が受け取った後は、用が済んだらしい彼はまた道を空けた。蒸し暑さにもめげず白い付け髭や赤く分厚い衣服を身に纏った無愛想な彼の顔には、尋常ではない汗が滴っていた。
 二人は顔を見合わせた後、チラシに目を落とした。今日の午後十時から、すぐそこの屋外広場で人工雪を使ったイベントがあるようだ。それはどうやら、雪の降らないシンガポールで、人工雪を使ってクリスマス気分を味わおう、というものらしかった。二人とも時計を持っていなかったので歩いている人に時刻を訊くと、十時十二分だった。
「もう始まってるみたいだね。行ってみる?」
 少し、嬉しそうに那岐原が訊いてきた。特に断る理由もなく、御津は頷いた。
 そこには既に人がたくさん集まっていた。端の方では、マイクを持った司会者のような男が、台の上に立って何かを話し、客を笑わせていた。
「すげ……」
 しかしそれ以上に御津の目を惹いたのは、中央に据えられた大きなクリスマスツリーと、機械から吐き出されたものだと分かっていてもどこか心を打つ雪だった。
 那岐原も、半ば口を開いてその巨大なツリーを見上げる。
「これでもっと寒ければ雰囲気出るんだけどな」
「そうだね……でも、すごくきれいだよ。まさか、ここで雪を見れるなんて思わなかった」
 言葉以上に嬉しそうだった。手を空中に差し出して雪を掴む仕草は、子供じみていた。もう一度ツリーを見上げる仕草も、子供じみていた。御津は黙ってその様子を見つめていた。
 彼女は少し経つと御津の視線に気づき、慌てて半開きの口を閉じた。思わず、笑ってしまう。
「いつもと違いすぎ。なんか、子供っぽい」
「悪い?」
「いや、別に」



***



「そろそろ帰る?」
 御津の声で現実に引き戻され、那岐原は十一時を指す広場の時計を見た。少しだけ低くなってきた外気の温度を感じることができた。少し名残惜しさを感じながらも、那岐原はちらほら人々の帰り始めた広場を一望して、帰るための一歩を踏み出した。
 そしてその一歩は人工雪で不安定になった足場の上を滑った。気の抜け切っていた頭では戦闘時のような身のこなしをする事も出来ず、仰向けのまま地面に後頭部を打ち付けた。思わず顔をしかめてしまう程の痛みが走った。
「何やってんだよ」
「……うるさい」
 笑みを零しながら手を伸ばした御津に掴まり、那岐原はなんとかそう絞り出した。御津の手に支えられ立ち上がると、お互いが異常に近い距離になってしまったのを感じて顔を逸らそうとしたが、少しこのままでいようかなと思う自分がその動作を緩慢にし、結果的に那岐原は御津の赤くなっていく顔を真正面から見つめていた。
「……いつまで見てんの?」
「もしかして照れてる? 可愛い」
 この間のお返しとばかりに囁くと、彼はむっとして視線を外し、歩き出した。手は、繋いだままだ。
 那岐原は少し御津に引っ張られた後で、小走りで隣に並んだ。
「まだ顔赤いよ?」
「違えよ。あ、暑いから、この辺」
 彼の動揺した様子を見て笑みを零した後で、正面を向いた。
 どこからか、クリスマスソングが流れてくる。テラスがついた店のテレビからは、テロリストの現況が流れてくる。
 自分たちの向かいを、人々が流れ過ぎていく。
「……早瀬は、クリスマス、何か楽しかった思い出とか、ある?」
「うーん、ないな。貧乏だったし」
「私はあるんだ。一回だけ」
「へえ」
「小学……三年の時だったかな? 父さんはその日も仕事で、一人で先にご飯を食べてたんだけどね。帰りがあんまり遅いから、寝ちゃったの。毎年、いつもそう。みんなは冬休み明け、楽しそうに貰ったプレゼントの話をするけど、うちはクリスマスプレゼントも、お年玉も、何も貰えなかった。だから、今年こそはお願いしますって、枕元の手紙に書いた。それで、朝起きたら、あの、ゲームのソフトだけがぽつんと、枕元に置いてあって。当時は本当にサンタを信じてたから、サンタは間抜けだね、これだけじゃできないのにって、父さんの前で、なんだか悲しくなって笑ってたら、俺が買ってやるよ、ゲーム機は、って言うの。それで、わくわくしながら、デパートに買いに行った」
 その日の父は機嫌が良かった。いつもは話しかけてもぶっきらぼうに返すだけで、自分の事などに関心は無いのだと子供心に思っていたが、それは違うんだと思えるようになったきっかけだった。もちろん、欲しいものを買ってくれたことも要素の一つだろうが、愛おしげに笑みを零してくれる父に、自分に対する愛情を感じたのが一番の理由だったはずだ。
「その日は、雪が降ってた。デパートの中央吹き抜けの一階には、立派なクリスマスツリーが立ってた。私……その日の事が忘れられないの。だから、ツリーと雪のこと、大好きなんだ。やっぱり……子供っぽい、よね」
 思い出しながら笑みを浮かべ隣を歩く御津を見上げると、彼はなぜだか、涙を溜めているようだった。
「……どうしたの?」
「いや……」
 彼は顔を背けて一回目元を拭ってから、また正面を向いた。街灯が点在していて、隣の御津の様子を窺うのは苦ではなかった。組織からの接触があるまではひとまず公園を根城にしているため、今はそこに向かっている途中だった。大通りを過ぎ、徐々に人の姿もまばらになっていく。
 そろそろ公園が見えてこようか、という時だった。公衆電話の前を通り過ぎようとしたところで、突然電話が鳴り始めた。驚いてそちらに視線を遣ると、四台あるうちの一台が軽快かつ辺りに響く音を発していた。周りに人影は無い。それに、このタイミングで鳴ったということは、自分たちへの電話だろう。
「はい」
「あー、那岐原? あたし、青沼」
 不機嫌な女の声が耳朶を打った。
「あんたら、どうする? もう現地警察に解決は委ねられたけど……まだ任務続ける?」
 世間話も何もなく、本題からだった。
「続けない。警察に任せる」
「そう。それなら明日の九時ごろまでに、チャンギ空港のターミナル1、二階の出発待合ホールに来て。パスポートとか渡すから」
「分かった。じゃあ」
「あ、那岐原、ちょっと。俺、青沼に話したいことがある」
 受話器を置こうとすると、それを御津が遮り、那岐原の手から受話器を取った。
「何? 御津くん」
 話を邪魔するのも悪いかなと思い、距離を空けようと思ったが、受話器からその猫なで声が漏れ聞こえ、那岐原は動きを止めた。
「……組織を辞めたいんです」



   ◇



「へえ。辞めて、どうする気?」
 青沼は大した感慨もなさそうに、訊いた。
「……俺と美奈が、那岐原の父親を殺した証拠、そちらにありますよね。それを明日、一緒に持ってきてほしいんです。手元にあるんでしょう?」 
「だから、あったとしたら、何?」
「日本に帰ったら、組織を辞めて、その証拠を持って自首して、服役します」
 隣に立っている那岐原が、息を呑んだのが分かった。しかし御津は、もう決めていた。
 那岐原の父親を殺し、遺棄したのは美奈と自分だ。いくらそれを那岐原に許されたって、世間が許すはずはない。これ以上組織の中に属して人を殺すのも精神的に無理だと思った。そして自分の代わりに両親が服役している事実が、まだ心の深くに残っていた。
「は、早瀬、やめなよ」
 電話の先で沈黙する青沼に代わって、那岐原が答えた。
「まだ……まだ、組織に残っててもいいじゃない。せっかく、ここでの失敗を不問にしてくれてるんだから。私が……私が、許すって言ってるのに。どうして服役しないとならないの?」
「……当時は那岐原の父さんが、俺と美奈には悪魔に見えてた。それは事実だ。でも、那岐原にとっては違かった。クリスマスにプレゼントを贈ってくれるような、やさしい父親だった。……さっきの話、聞いてさ。やっぱり正直に服役するべきなんだろうって気がした。世間の倫理はたまに的外れだけど、人殺しは酷いことだって倫理だけは、間違ってないと思うんだよ。その酷いことに加担した分は、しっかり償わないといけないんだ、きっと」
「で、でも……せっかく、ここで……せっかく、支え合うって相手ができたのに……」
 那岐原が呟くように言ったところで、青沼が二人のやり取りを遮った。
「あー、そういうのは、後でやってくれる? とにかく、御津、あんたの気持ちはわかった。組織を辞める手続き用の書類とか、事件の証拠は持って行くわ。ただし、自首する時まで監視は付けるわよ。そのまま逃げられたりしたら、弱みの意味が無いもの」
「分かりました。よろしくお願いします」
 御津が言ったところで、電話が切れた。



***



 公園の大きな木の幹に、御津は寄り掛っていた。那岐原はそのすぐ近くに停めてあるバイクに身を寄せていた。バイクには前日着ていたズボンとシャツが引っ掛けられている。黒い車体と黒いワンピースは闇に溶けていた。
「ねえ、本当に、服役するつもり」
 沈黙に耐えきれず、那岐原は訊いた。御津と離れるのが嫌だった。父親は十年服役しているそうだ。十年間というのは、あまりに大きな数字だった。それに、今更証拠を出して自首などすれば、自分が助かりたいがために両親を陥れたと、より重度の罪に課せられる可能性だってあるのだ。もう二度と会えないかもしれない。会えたとしても、御津はもう自分の事など好いてはいないだろう。もしかしたら、忘れているかもしれない。
「それなら、どうして好きだなんて言ったの」
 沈黙を是と受け取った那岐原は、さらに言葉を重ねた。期待させるようなことをしておいて、これで別れるなんて、悲しくなるだけだ。それに御津と自分の仲が、悪化したうえでの別れではない。ここ最近行動を共にしていて、好きだと意識させられた時にも増して彼の事を好きになっている。なってしまっているのに。
「……分からない」
「分からない? ……無責任だよ、そんなの」
「ごめん」
 謝られてしまえば、那岐原にはその先の言葉を紡ぐことができなかった。御津を責めたいわけではない。
 那岐原はバイクに背中を預けて、空を見上げた。今この時だけが、御津と共有する最後の夜になるかもしれないのに、何も気の利いた言葉が浮かんでこなかった。
 再び沈黙が場を包もうとしたところで、御津が立ち上がった。
「なあ、こんなこと言える立場じゃないの、分かってるんだけどさ」
 隣まで歩み寄ってくる気配がしたので、那岐原は深夜の暗闇の中、御津を見上げた。
「今から、それの後ろに乗せてくれないか? 俺、運転できないから、那岐原が運転して」
「……いいけど。どこか行きたい所でもあるの?」
「ない。ただ、街中を走ってくれればいい」
 彼はそれだけ言うと、バイクに引っ掛かっていた那岐原の衣類を渡してきた。バイクに乗る際にスカート生地のものを穿いていると、とんでもないことになるものだ。
 那岐原は木の裏側に回って着替えた後、銃を処分し、スペースの空いたデイバックに、ワンピースを詰め込んだ。彼の意図は未だに分からなかったが、那岐原はとりあえずサイドスタンドを上げて、バイクに跨った。鍵を差し込み、エンジンを掛けた。バイクの前方がライトによって照らされる。視界はいいとはいえないが、深夜は交通量も少ないため、さして問題は無いだろう。
 後ろに、重みが加わったのを確認すると、那岐原はバイクを発進させようとした。そこで、今までは時折控えめに腰を掴むだけだった御津が、今日は腹の辺りに腕を回してきた。ぴたりとくっついた彼の体温を感じながら、那岐原は今度こそバイクを発進させた。
 彼の身体は、震えていた。その震えの意味は、分からない。分からなかったが、彼がそうしていたいのなら、させてやりたかった。



***



 翌、午前九時。
 御津と那岐原は、シンガポール・チャンギ国際空港ターミナル1の二階、出発待合ホールに来ていた。国土の狭いシンガポールには国内線は無く、ここで発着するすべての便が国際線だった。日本に帰るための便もここから出ている。
 服役の、那岐原との別れの恐怖心には、昨日の夜で区切りをつけた。ホールに設けられた椅子に並んで座っていたが、二人とも、青沼が来るまで会話らしい会話を交わさなかった。
「仲良く座ってるねえ」
 青沼はそう言うと、御津の隣の席に座った。どこからか何かの花の香りが漂ってくる。香水だろう。
「別れの夜はどうお過ごしでしたか? ホテルにチェックイン?」
 あまりに下世話な質問に、那岐原は溜息をついた。
「そんなお金、あるわけない。街をバイクで走ってただけ。出国のためのものは?」
「焦らなくてもここにあるわよ」
 ここへ来る時の案内では茶髪だった彼女は髪を黒く染め、キャリアウーマンのようなスーツ姿だった。彼女は、持っていたカバンから大きめの封筒を取り出した。中を漁りパスポートと、何かの書類、航空券を二人にそれぞれ手渡した。それから、封筒をしまった。御津はそれを見て、首を傾げた。
「あの、証拠は。ここでは渡せないんですか? 日本に着いたらすぐに自首したいんですけど」
 那岐原に対する情が、自分の決意を揺るがしてしまう前に。
「証拠?」
 彼女は惚けたように言う。御津はその様子を見て、苛立った。昨日言ったばかりではないか。
「俺と美奈が、那岐原の父親を殺した証拠ですよ」
「ああ、それ? あんたが死体を遺棄した証拠ね」
「そうです」
 苛立ちが消え安堵しかけたところで、青沼はさも可笑しそうに言った。
「ないわよ。そんなもの」
「……え?」
「美奈が、那岐原の父親を殺した証拠ならあるけど、あんたが遺棄した証拠なんて、どこにもない。証拠物品の包丁に、美奈のは残っていてもあんたの指紋なんて残ってないし、父親の当時の衣服になら指紋ついてるかもしれないけど、裁判が結審して既に、那岐原自身が廃棄してる」
 彼女は得意気に話す。
「目撃者もなくこれだけ物的証拠が無ければ、息子が親の罪を被ろうとしてるとしか思われない。捜査のやり直しが為されるわけはない」
 青沼はそう言うと、鞄を持って立ち上がった。
「残念だったわね」
 笑った青沼に、御津は殴りかからんばかりの勢いで詰め寄り、襟を掴んだ。
「ふ……ふざけんな! この組織に入る時、散々脅してただろう。あの証拠はどこにやった! 美奈だけのものじゃなかったはずだ……!」
「あの証拠は捏造よ。殺し以外に関しては、美奈より、あんたの方が素質がありそうだったからね。ちょっと突いてやれば、すぐに承諾するだろうって思ってたの、あたしの上司は」
「捏造……? 捏造で、捏造で俺の事を脅して、ここに引っ張りこんだのか、あんたらは! 俺は……俺は、四年間、ずっと、こんな人殺しをする組織に、居させられて、おまけに、贖罪の機会まで与えられないっていうのか!」
 御津が襟をきつく締めあげるが、青沼は笑んでいた。それから、御津の腕を振り払う。
「元々はあんたが、妹のことを止められなかったせいで死んだんでしょ? 那岐原の父親は。組織に八つ当たりされても困るわ」
「それは……」
「あんたは、もう二度と裁かれることは無いのよ。一生その呪縛に苦しんで生きるしかない。那岐原に対する負い目からも、両親を代わりに服役させたという負い目からも逃れることはできない。一生、そのままなの」
 彼女の宣告が耳に届くと同時に、御津は身体の力が抜け、その場に座り込んだ。



   ◇



 青沼の言葉を聞いた御津が、その場にくずおれた。
 次に、心配して彼に駆け寄った那岐原に、青沼は視線を向けた。
「その書類にサインをしたら、日本の空港で待ってる奴に渡しなよ。それで、脱退手続きは完了する。御津が辞めるなら、あんたも辞めるんだろ?」
「そんなに簡単に、辞められるものなの?」
「あんたは元々自衛隊から引き抜いただけだから、何も問題は無い。ただ、この組織の事を喋ったら、どうなるかは分からないけどね」
 それに、と彼女は続けた。
「あんたら、使えないから。前回の作戦と今回の作戦の失敗で、あたしの上司は愛想を尽かしたみたいよ。本気でね。うちは少数精鋭でないといけないから、御津と那岐原のことをどうにか辞めさせられないか、って相談されたの。これ以上被害が増大したら、いくらうちでも隠しきれないみたいだから。実質、解雇ってことよ。あのバイクは、あたしが処分しておく」
 彼女は面倒そうに説明を終えると、次の仕事があるから、と言って歩き始めた。
 呆然とその後ろ姿を見つめていた。そのまま歩き去っていくのだろうと思っていたが、そこで、彼女は思い出したように振り返った。 
「最後に言っとく。この組織が殺してきたのは、倫理観もクソもない奴らよ。あんたらみたいに、人殺しで葛藤するようなアマちゃんじゃないの。人を殺すことに、快楽を覚える奴ら。テロは人々を殺すための大義名分。……そいつらを殺したことで、これから先奪われるはずだった、平和を暮らす人々の命がいくつ助かったことか。外道は、本当に存在するものなのよ。だからせいぜい、気に病まないことね」
 彼女は言いたいことを言い終えると、再び歩き出した。途中でもう一度振り返り、からかうように、軽く手を振った。
 途方に暮れる、とはまさにこのことだろう。
 日本に帰る手段はある。しかし、目的や向かうべき指針が無くなってしまった。何をどこから考えればいいのか分からず、パスポートと書類と航空券を持ったまま突っ立っていたが、座り込んだ御津を思い出し、ひとまずは彼を宥め、椅子に座らせた。
 しばらく、先程までのように、お互い黙っていた。
 無言の時間を経るたびに、安堵の気持ちが那岐原の心には広がっていた。何よりも、御津が、まだ隣にいるということが嬉しかった。彼の今の気持ちを思えば、自分たちの境遇を思えば、そんなことを言える立場ではないだろう。しかし、理屈ではなかった。純粋に、そう思ってしまう。
「日本に帰ったら、何しようか」
 空港の滑らかな床を見つめている御津に、返事を期待せず、訊いた。
「……あれだな。蕎麦が食べたい」
 しかし彼は、いつもより少し低めの声だが、答えてくれた。
「蕎麦か。私は、お寿司がいいな。回ってない寿司屋で」
「そんな金、ないだろ」
 御津は苦笑交じりに答えた。
「私の預金から引き落とせば食べられるよ。結構、残ってるから、奢ってあげる」
「日本に戻っても、一緒にいてくれるのか?」
 控えめな声音で、御津が言う。
「自分で好きって言ったんだから、そのくらいは責任とってよ」
「ありがとう、那岐原」
 そう言うと彼は、嬉しそうに笑った。
 那岐原も頷き返し、笑った。
「那岐原って、下の名前なんて言うんだっけ」
「沙紀だよ。那岐原沙紀」
「これから、そう呼んでいい? 沙紀」
 軽く頷いた那岐原は、その響きに、どこか満たされたような気持ちになっていく。
 この人とならこれから先も上手くやっていけるだろうという、確信のようなものが那岐原の心に生まれつつあった。
 例え、二度と裁かれることのない罪をお互い背負っているとしても。どちらかがその重みに耐えかねて潰れかけてしまったとしても、きっと、上手くいく。
「そういや、いつ出発なんだろうな、日本に帰る便って」
 ふと思い出したというように、彼が言った。
 那岐原が手持ちの航空券に目を落とすと、成田行きの十六時十分発と書いてあった。
「あと七時間もある」
 隣の御津が、目眩を起こしたように呟いた。
 しかし那岐原は、笑顔を浮かべて、立ち上がった。
「それまで、いろいろ見て回ろうよ。もうここには来ないかもしれないし」
 那岐原は左手を差し出した。
「そうするか」
 御津はその手を掴み、立ち上がる。お互いに汗ばんだ手だったが、気にならなかった。




(2008/12/4)
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