Scene5

Scene5《十二月二日 朝〜昼》

 初めての笑顔を見て、不機嫌の理由が分からず苛々していた気持ちが少しばかり和らぎ、そこそこうまくやれるかもしれない、と思ってしまったのは単純だろうか。
 しかし、仕事になると彼女の顔から表情は立ち消えた。
「何も、そんなに表情消さなくても……」
 欠伸をかみ殺してそう呟いた御津を無視して、彼女は歩きを止めない。どこに行くかも知らされず、眠気が頭をもたげる御津はただ那岐原に追いすがる。
 夏も冬も関係ない午後の熱気に比べると、この時間帯の風は涼しく感じられる。
 風に気を取られていると、少し先を歩いていた彼女はアパートの裏手に停めてあったバイクにキーを差込み、乗り込んでいた。あの時後ろに乗らせて貰ったバイクだ。その後ろに、スクーターも一台用意されていた。自分は完全に那岐原の部下という扱いなのだろう。支給品の連絡すらされていなかった。
 突っ立ってその様子を眺めていた御津に、彼女は鍵を放り投げた。どうやら、そのスクーターに乗れ、と言う事らしい。御津が鍵を差し込んで乗り込むのを待たず、フルフェイスのヘルメットを被った那岐原は方向転換した後、大通りに向かって車体を走らせ始めた。
「……少しくらい待てよ」
 急いで鍵を差し込みヘルメットを装着し、スクーターに跨った。那岐原のヘルメットは洗練されたデザインのフルフェイスだったが、こちらはいかにもな安物ヘルメットだった。それから御津は、同じような軌道を辿って彼女の後を追った。
 時速四十キロ前後で、歩行者と車がないまぜになった車道を、縫うようにして走る。ここでは小回りの利くスクーターが、なかなか便利な移動手段になっていた。中型のバイクに跨る凛とした後ろ姿を追ってはいたものの、御津は段々と"あの場所"が近くなってきていることを感じ、吐き気を堪えるので精一杯になっていた。二ヶ月前、川村と美奈の死んだ、あのバラックに向かう道だと、すぐに気付いてしまった。
 再び動き出した日常を感じながらも、事実を受け入れきれない自分。
 ずっと支え合ってきた彼女がもうここにはいないことが、感傷に拍車をかける。
 信号が赤になって止まった背中に、そのことを話そうとしたが果たせず、意識して見ないようにしていたバラックが視界に入ってしまった。ぐるぐると気持ちの悪い感情が自分を囲う。車と車の狭間にある御津は、周囲の車の運転手全てがあのとき失った少女に見えた気がして、意識が闇の辺地に引き込まれていくのを感じた。



   ◇
 

 
 那岐原は、その音を聞いて振り返った。
 その目は、スクーターごと路上に倒れこんだ御津を捉えた。
 戸惑いを感じながらその体を見つめて考えていると、信号が青になってしまった。
 那岐原はバイクを路肩に寄せ、発進し出した周囲の車に轢かれないよう彼の身体を引き摺り、バイクに乗せた。スクーターがそのままになっていてクラクションを浴びせられたので、スクーターも急いで路肩に寄せた。周りを見回して、道路を挟んだ向こう側にある公園と目を合わせた那岐原は、再び信号が赤になるのを待ち、御津を乗せたバイクを押して歩いた。打ち合わせ時間が迫っている。
 手頃な木陰に彼を寝かせると、立ち上がり、バイクに施錠をして、再び先程の道路を渡った。

 一人でA班、B班とバラックでの打ち合わせを済ませてきた那岐原は、御津の様子を確認し、まだ起きていないのかと内心で溜息をついて、木の幹に体を預けた。
 打ち合わせは二時間に及んだというのに、彼は寝かせた時と変わらず、うなされている。打ち合わせ場所が彼の妻が死んだバラックだったというのは確かに上層部も意地の悪いことをすると思ったが、まさか気を失うとは思わなかった。情けない男だとも思ったが、それ程あの女は御津にとって大切な存在だったということだ。
 この男は……早瀬御津は、妻を目の前で殺した自分のことを少しも恨んでいないのだろうか。今までの会話の中でも、特にそう言った言葉は聞かれなかった。今回、一緒に生活しろと言われ、罪悪感に苛まれているのは、こちらの勝手な感情だというのは分かっている。自分も撃たれのだから、何を遠慮する必要があると考えもしたが、しかし、こうも反応がないと罪悪感は大きくなっていくばかりだ。妻が殺されて、ここまで平静でいられるものなのか。それとも既に愛情が冷めていたのか。今まで男と付き合うことなどなかった那岐原にはいくら考えても分からなかった。
 それにしても、今回の打ち合わせは緩み切っていたな、と那岐原は考える事を切り替えた。この任務――難度から言えば今までで最大になることは間違いない――の一員に任命され、少しばかり緊張していた自分が馬鹿らしいと思えるほど、緊張感に欠けていた。
「君も大変だな。あんな若い男と共同生活なんて」
 打ち合わせでは、随分と話の種にされた。その時の声が嫌に大きく頭の中で反響し続ける。どうしてその年齢で汚れ役を平気でこなせるのか、好奇の眼差しが睨(ね)めつけていた。自分は、そうやって古参の連中に笑われるのが大嫌いだった。
 下世話なんだよ。腹周りだけが自慢のオヤジのくせに。
「美奈……」 
 それが御津の発した言葉だと認識することに、数秒の時間を要した。情けなく、すがるような声だった。起きたのかな、と木から体を離し御津を覗き込んでみると、汗が額に滲み、顔は苦悶に歪んでいた。手が何かを求めるように中空に投げ出されていたので、那岐原は御津の手を取り、それからゆっくり降ろしてやった。
 汗は相変わらず滴り落ちていたが、彼はどこか安堵した様子で、額に寄っていた皺は徐々に解かれていった。
 その様子が、起きているときに見た仏頂面とは対照的で何故だか可愛く思え、那岐原はふと笑みを零しそうになって、慌てて目を逸らした。
 


   ◇



 スコールが降り注ぐ音で目を覚ました御津は、目を擦り、寝ぼけ眼でスコールを見つめる。どうやら木陰に居るようで、降雨量の割に体は大して濡れていない。
 そうだ、確か打ち合わせに行く前に意識を失って……。思考が戻り始めた途端、御津は慌てて体を起こし、周囲を見回す。
 自分が寝ていたすぐ右脇に、バイクが停まっていた。ハンドル部分にはヘルメットがかけられている。そして目を閉じバイクに寄り掛かっている、那岐原がいた。
「那岐原」
 少し顔を近づけ遠慮がちに声を掛けると、不意に那岐原が目を開いた。
「やっと起きたの?」
 睨まれた御津が顔を引くと、彼女は溜息を吐いた。
「大変だったんだからね。ここまで運ぶの」
「ごめん。本当にごめん」
 これに関しては、ただただ謝るしかない。
「それより、早瀬、スクーター盗まれてたよ。私もそこまで気が回らなかったのは不注意だったけど……責任は取れないから。どうするつもり?」
 家からこの辺りまでは確か、四十キロ前後で走って三十分だから……。約二十キロ。訓練に比べればどうということはないが、辛いのは確かだった。それに、移動手段がなくなってしまった。これからの任務に支障が出ることも考えられる。
「自業自得か」
 いくら美奈が殺された現場が打ち合わせ場所だからと言って、気を失ったのは明らかに自分の心が弱いからだ。
 呟くと、那岐原が立ち上がり、ヘルメットを被り、バイクに乗った。
「……乗って。そのつもりで待っててあげたんだから」
 座ったまま彼女を見上げたが、表情はヘルメットに隠れて読み取れなかった。
「いいのか?」
「ただし、私の体に触れたらだめ。触ったら……そうね。炊事と買い出しと部屋の掃除は全部、早瀬がやって。触らなかったら、私がやる」
 那岐原が少しだけ楽しそうに言った。表情が見えず声の調子だけで判断するから、そう聞こえたのかもしれない。
 そして御津がタンデムステップに足を掛けて登り後部に座ると、彼女はいきなりバイクを発進させた。
 準備ができていなかったので、振り落とされそうになり、思い切り彼女の肩を掴んでしまった。
「卑怯だろそれ……おい、待てって! 飛ばすな!」
 彼女は御津の声も、スコールが打ち付け視界が狭まっているのも気にせずバイクを加速させていった。御津はさらに彼女にしがみ付き、振り落とされないように踏ん張るだけで精いっぱいになっていた。そんな自分を背中に感じているはずの彼女は、いつも通りの表情でいるのか、それとも笑っているのか。少しだけ、彼女の表情が気になった。

 家に着くころにはスコールはすっかり止み、雲も段々と晴れてきていたが、服はどうしようもなく濡れてしまっていた。Tシャツが張り付いて気持ちが悪い。
「早瀬の負け。洗濯は自分でやるから、他はお願いね」
 終始雨で滑る公道を八十キロ前後で走っていた彼女は、その後ろに乗っていた御津の苦労も知らず、ヘルメットを脱いで後ろを振り返り笑顔を浮かべた。
「分かった」
 口で言いつつ、不公平な決め方をされたことと、振り回されたこととを恨みに思った御津は、反撃するための欠点が見当たらない目の前の女の胸元を顎で指して、
「ブラ透けてる」
 と全く脈絡のないことを悔し紛れに言った。単にこの女がそういう話が苦手そうだったからだ。
「嘘っ」
 那岐原が着ていたのは黒のTシャツだったため、見えるはずはなかった。
 彼女はそれに気づくと、顔を赤くしてから視線を外し、バイクの鍵を抜いてさっさと歩いて行ってしまった。
 御津がその場に留まりぐしゃぐしゃに濡れた髪を絞って水滴を絞り出していると、鉄板であつらえられたアパートの階段を上っている途中の那岐原が、御津に視線を移した。
「この任務が終わったらセクハラで訴えるからね」
 彼女は御津のことを指で差し無表情にそう言った。しかし顔は赤いままだ。
「あのくらいで照れんなよ」
 予想以上に動揺した様子を見て再び茶々を入れると、彼女はアパートの扉を思い切り閉めた。
 御津は軽く笑ってからバイクを降り、アパートの階段を上り始めた。

 部屋に戻ると、那岐原がドライヤーで髪を乾かしていた。濡れた服は洗濯用のカゴに放り込まれ、新しい服に着替えているようだった。
「勝手に使ってるから」
 不機嫌な調子で、振り向きもせずに言った。
「そんなに怒んなって。少しからかっただけだろ。あんな不公平な勝負で家事やってやるんだから……」
 家事は料理以外、美奈がいた時も自分がこなしていた。それがまた戻るだけだ。御津は濡れたシャツを脱ぎ洗濯用のカゴに放り、タオルで体を拭いてから新しいシャツを着た。
 そこで唐突に、那岐原が髪を乾かすのを止め、振り向いた。
「早瀬は……なんとも思わないの?」
 不機嫌な調子ではなく、真摯な声音になった彼女は、御津の目を真っ直ぐに見つめる。
「何が?」
 言葉の意図が分からず、訊き返す。
「そうやって、普通に話してるけど……。美奈を殺したのは私なんだよ? 見てたよね。目の前で。遺体も私の投げた手榴弾のせいでバラバラになって……」
「……もう、気にしてないから。謝ってくれたし……」
「だから何で。何で、気にしてないのか、それが知りたいの。大切な人だったんでしょ。呆然として涙を流すくらい、大切な人だったんでしょ! それを目の前で殺されて……今はもう、悔しくないの? 辛くないの? 私のことが、憎くないの……? 確かに、現場検証の時、謝ったよ……。謝った。だけど……それで許すなんて、理解できない」
 彼女は時折声を荒げて、御津を問い質した。
 御津は、どう応えようか悩んだ。今まで特に表情がなく気付かなかったが、那岐原は、那岐原なりに罪の意識に苛まれているのだろう。気にしていないというのが本心だと言っただけでは、とても納得してくれそうにない。確かに、美奈を殺したのは那岐原だった。しかしそれは、美奈が川村さんを殺し、那岐原にも手を掛けようとしたからで、責めようがない事態だったはずだ。殺した那岐原を責めるよりもむしろ、寸前まで内応に気付かず、美奈の裏切りを許してしまった自分の不甲斐無さに腹が立っていた。
 当然、二ヶ月前はこうは思っていなかった。しかし今は、自分の中で整理がついている。今更那岐原を責めるなんてできるはずがなかった。
「冷めてるって言われたらそれまでかもしれないけど、俺は川村さんを殺して、那岐原も殺そうとした美奈を許すことはできない。当然の報いだと思ってる」
 那岐原はまだ訝っている。御津は溜息を吐いた。
「あのさあ。俺も一応、今年で二十二になるんだよ。二ヶ月もあれば、自分のことぐらい、自分で整理をつけられる。そうやって、区切りをつけて、いくしかないんだ。那岐原だって、そうだろう?」
 悪夢に魘されて吐いたり、気を失ったりしている状態が、整理をつけられている状態とはいえないかもしれない。
 しかし、任務中は表情を変えずにいる彼女なら、その程度は簡単にできるのだろう。
 組織の優秀な戦闘員の一人は、御津から顔を背け、何も映っていないテレビを見つめた。
「私は……私は、大切な人なんて、いたことないから。分からない。傷つくなら最初から関わらない。平静でいられそうにないなら最初から期待しない。そうやって生きてきた。独りになって、絶望して、それでも生きることが諦められなかった。傷つくなら最初から関わらない。平静でいられそうにないなら最初から期待しない。この考えなら、どうにかなると思ってた。でも結果がこれ。気付いたら、素直に笑えなくなってた。友達も、何もかも、いなくなってた」
 彼女は初めて見せる弱気な横顔のまま、話した。御津は、ただ黙って聞いていた。
「私はこの組織に配属される前、自衛隊に居て……。引き抜きの話があった時は、すぐに承諾した。人と関わるのが嫌だったから……いや、あれだけの人がいるのに、誰ひとり仲間がいない自分が惨めだったから、ここに来た。……気付いたら、人を殺すことでしか生きてる意味が実感できなくなってた。泣けなくなってた。喜べなくなってた。笑えなくなってた……」
 那岐原はどんどん声を小さくしていき、最後は消え入りそうな声だった。
 どうして突然自分のことを語り始めたのか分からなかったが、反対になんとなく分かる気もした。彼女は今まで、こういった感情を吐き出し、受け止めてくれる相手がいなかったのだろう。罪悪感が引き金になって、今までの想いが呼び起こされたのかも知れなかった。
「それでも人と関わることはやめられない。やめられないから苦しい……ってことか?」
 御津が少し間を置いて訊くと、彼女は酷く驚いた顔をして御津を見つめた。
「あ、わ、私、何言ってんだろ……。ごめん。どうでもいいよね。私の身の上話なんか……」
「……些細なことかもしれない。でも今朝、那岐原、確かに笑ったよ。笑ったのを見て、俺、そこそこうまくやれるかもしれない、って思ったんだから……笑えないって言うのはただ単に、思い込んでるだけじゃないのか?」
「……?」
「ほら、風呂入る前だよ。コンディショナーないって言ったら、そんなもの、使ってるように見える? ってさ」
「笑ってないよ。そんな憶え、ない」
「いや、笑ってた。覚えてるもん。あと、家事をどっちがやるかって提案した時も、笑ってた。絶対そうだ。結構楽しそうに言ってたし」
「あ、あれは……寝起きだったから」
 良く分からない言い訳が、彼女の口から零れた。
「……まあ、いいや。ドライヤー貸して。俺も使いたい」
「あ……うん。はい」
 彼女は床に置いていたドライヤーを手に取り、渡した。那岐原の隣に座ってスイッチを入れると、街で購入した安物が煩い音を立てて稼働し始めた。
 那岐原はしばらく黙って温風に靡く髪を見ていたが、やがて所在無げに立ち上がった。
 御津は横目にその様子を確認して、一旦ドライヤーを止める。
「余計なことかも知れないけど……バイクに乗ってる時の那岐原は、なんか、良かった」
 それからまた、ドライヤーを稼働させた。
 テレビに映った那岐原が驚いたように振り返ったが、どこか恥ずかしくなった御津は視線を合せなかった。何が言いたいのか、自分でも分からなかった。
 今にも壊れそうなドライヤーの音だけが、部屋に響いていた。




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