Scene1

Scene1《20××年九月十七日》

 早瀬御津(はやせ みつ)と早瀬美奈(はやせ みな)は、ある非公式国際治安維持部隊の一員だった。
 二人は昔、人殺しという大罪を犯したが、罪が露見し罰せられることもなく、今所属している組織に嗅ぎ付けられるまで普通の生活を送っていた。だが、今所属している組織はそれを許さなかった。突然目の前に現れた彼らは御津と美奈が犯した罪の証拠を次々と提示し、法律に裁かれるか組織に協力するかの二択を選ばせた。その後、後者を選んだ二人は日本なのかどうかすら疑わしい地で訓練を受けさせられ、それから治安維持のための実戦に投入された。初の実戦が二年前のことで、今は拠点をここ、シンガポールに置いて生活していた。
 御津、美奈の他の作戦要員は二人。那岐原沙紀(なぎはら さき)と、川村勇一(かわむらゆういち)。那岐原は最近組織に加わった新米で、いまいち掴みどころのない無表情な女だった。会話を好まず生い立ちなども全く分かっていない。川村は今回三人が同年代の作戦要員の中にあって一人だけ飛びぬけて年齢が高く、四十過ぎだと話に聞いた。御津とは何度か任務も共にし、殺生を好まないお人好しだが近接戦闘に長けたプロフェッショナルで、三人をまとめる隊長格だ。
 政府関係機関から依頼を受け派遣された四人は、アパートや賃貸住宅に入居し、近頃、辺りに根を張り始めた反政府集団の監視を行っている。普段は中東での生活が多いため宗教上の戒律など民間人としての浸透に苦労するが、今回は日本人も多く住む地域で、割と楽な任務といえる。ただ、今回の場合は相手も民間人として生活しているため、容易には尻尾を出さない。長期的な監視に対する忍耐のみが問われる。
 監視を始めてから一ヶ月経った九月十七日、人が忙しなく入り乱れる飲食店の一角に、その四人は陣取っていた。
「川村さんの方も動きなし、か」
 テーブルに頬杖をつき書類に目を通していた美奈が、溜息と共に言葉を吐き出す。
「いくら相手に動きがないからって油断するなよ。わざわざ監視を要請するくらいなんだ。何が起きても……」
「分かってるよ。心配症だなぁ」
 手をひらひら振って御津の言葉に応えた彼女は、鬱陶しそうに言葉を遮った。
「那岐原の方は?」
 川村はチキンライスをつつきながら訊いた。じっと街ゆく人々を見ていた彼女は視線を川村に投げると、小さく言った。
「……特に動きはないです」
「そうか」
「……どうして招集を? 収穫がないなんてメール連絡で分かり切っていたことじゃないですか。こんなところで集まって嗅ぎつけられでもしたら馬鹿らしいです」
 那岐原が店員に出された水を啜りながら、無表情で言う。
「那岐原……その言い方は失礼だろ」
 不精な物言いをたしなめると、冷たい目が御津を射た。返事すら寄越さない。それから彼女は川村に目を移した。
 一ヶ月共に任務をこなしてきて、ろくに会話になったことがない。嫌な女だ。何を考えているか分からない。
「いやいや、いいって、御津。那岐原が疑問に思うのは仕方がない。……俺の方で築いた情報筋から妙な噂を聞いたんだ。だから各自に直接注意を喚起しておこうと思ってな」 
「妙な噂?」
「インドネシア治安当局によって過激派のジェマア・イスラミアが大量に検挙されたのは知っているだろう? それに反発した組織内の一部が仲間の解放を標榜に掲げ分派し、比較的警備の薄いシンガポール国内のインドネシア大使館の占拠を計画しているとのことだ。それで近々、うちの対象にも接触してくる可能性があるらしい。接触が確認された場合は直ちに報告しろ。増援を要請しこちらから先制する。ジェマアの方はどうにもならんが、うちの対象が関われば厄介だ。やるしかない」
 主要な監視対象は一人。この辺りに根を張り始めたばかりの反政府集団のリーダー、ムディ。集団自体の人数は少なく具体的な計画も聞こえてこないが、様々な人脈が確認されている。緊密な組織化は行われていないものの、取り巻きも数名確認済み。打撃を与えるためには相応の増援が必要だろう。しかし、何故監視を進めているかといえば、あわよくば人脈の枝先まで情報を得ようという上層部の皮算用が根底にあるからだ。増援を求めるということは途上で任務を放り出したとみなされる可能性もあり、実際に人員が派遣されるかは分からない。危険な賭けだと思った。
「接触する前に撃滅するというわけには……」
 美奈が言った。
「無理だろうな。お偉方はもっと情報を集めろと指示をしてきている。現場の判断で動くわけにはいかない。俺たちの首が飛ぶ可能性もある」
「……そこまでの案件なんですか? 初耳ですけど」
「ジェマア・イスラミアが絡んできてはそうならざるを得ないだろう。バリ島で二百人以上が死亡した過去の事件にも関与していたという話だ。リスクも大きい……が、情報の見返りも大きい。最近は治安当局の締め付けが厳しくなって専ら暗殺に切り替えているらしいから、インドネシアの要人はその計画の情報を欲しがっている」
「ならせめて、今からでも増員を……」
「これ以上は無理だな。各所で活動が活発になっているからここだけを重点的に、というわけにはいかないんだ」
 御津はそこで溜息を吐いた。監視しているのはこちらのはずなのに、窮地に追い込まれているような気分だった。懸案事項がまた一つ増えたことに頭を痛めた。

 雑踏に紛れ歩いていると、自分の置かれている立場も忘れ、ふと、考えることがあった。
 美奈は、テイクアウトしたイモとパパイヤのココナツミルク煮を啜りながら隣を歩いている。御津もまた、オールドチャンキーという、シンガポール全土に広がるチェーン店で買った、たこ唐揚げの刺さった串を口元に寄せ、齧りつく。シンガポールは共働きの家庭が多くあまり自炊にはこだわらない御家柄で、そのため屋台などの外食産業が発展し、歩きながら物を食べているのは日常的に見られる光景だった。それにも拘らずゴミがほとんど落ちていないのは、ゴミのポイ捨てを禁止する法律が存在しているからで、違反すれば厳罰に処される。
 ……シンガポールには随分と詳しくなった。
 そして知れば知るほど、この街で平穏に暮らせたら、という他愛もない想像がふとした瞬間に胸をかき立てる。そんな胸の裡と、唐揚げの衣の滓(かす)とをどちらも零さないように食べ歩きを続けていると、美奈が見上げてきた。
「何考えてるの?」
 彼女は御津の三つ年下の妹だったが、仕事上では兄妹とは公表せず、夫婦ということにしている。その方が同じ任務に組み込み易いと組織の幹部に打診され、決めたことだった。彼らは浸透に違和感がなくなるよう、使えるものは何でも使う。だから今回も、監視する対象は違えど同じ部屋が割り当てられていた。今はその部屋に帰る途中だった。
「バカにされるから言わない」
「子供っぽいなぁ、御津は」
 歩いて数分も経たないうちに、その足はサービスアパートの階段を踏みしめていた。それは日本にいたときによく見かけた、古びたアパートと言った風体だった。鉄板であつらえられたその階段を上り、御津と美奈は黙り込んだまま部屋の入口に立った。
「そういえば、鍵は?」
「あ、私が持ってる」
 美奈は膝下までの丈のパンツのポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込み回した。
 整然とした部屋に入り、目につくのは部屋の左側を占める布団。右側にはテレビと適当な新聞が置かれていて、すりガラスの戸を挟んだ向こう側に台所とダイニングテーブル。そして台所の左右にはそれぞれ風呂とトイレに直接繋がる扉があった。川村が言うには、近ごろ増えた日本風のアパートらしい。
「お風呂、どっちが洗う?」
 布団の上に座り、美奈が訊いた。
「座ってから訊くなよ」
 御津はため息交じりに肩から提げていた鞄を置き、ダイニングテーブルの脇にちょこんと置かれた、冷凍室のない小さめの冷蔵庫を開いた。中からミツとマジックで書いてある方のミネラルウォーターを取り出し、飲んだ。
「日本じゃそろそろ寒くなってくるころか……」
 十一月からは比較的涼しくなっていくらしいが、それでも平均気温は日本の夏程度だ。熱帯に属しているこの国は四季の変化に乏しい。
「何、ホームシック? いいよ、御津だけ先に日本に帰っても」
 笑いながら彼女が言い、手でミネラルウォーターを催促してくる。
「なあ、美奈……」
「ん?」
 美奈の分のミネラルウォーターを投げ渡してから、少しの間彼女のことを見つめた。まだ十七の彼女の顔立ちは、那岐原に比べ幼い。顔立ちがこれよりも幼いとき、彼女と自分は人を殺した。それから、少しずつおかしな方向に人生が進み始めた。どこかで。どこかで修正しなければ、二人はこれからもおかしな方向へ進み続けるだろう。
 御津はいつもの決意を口に出そうとするが、悪戯っぽい瞳でこちらを射る彼女はそのことを少しも受け容れないように思え、やはり上手くいかずに口を閉じるしかなかった。
「……いや。なんでもない」
「言いたいことがあるなら言いなよー」
「風呂、洗ってくる」

 朝起きてからは途端に慌ただしくなる。この国の人々は時間にきっちりとしていているのだが、日本人のように規則正しくは動かない。いくら治安が良いとはいえ、日本ほど異常に良いわけではなく、行動をパターン化するのは強盗などに狙われる要素の一つになり得る。特に彼らは極秘に活動を進めている身だ。そのあたりには人一倍気を遣っていた。
「鍵、どうする?」
「ああ、合鍵この間作ったからそれ持ってく。じゃあ俺、先出るから」
 玄関で靴を履きながら言うと、分かったという声が返ってきた。 
 対象は今日も、ルートは違うもののわざわざ大通りを歩いていた。大通りでは鞄に仕込んだ盗聴用の指向性マイクもあまり役に立たない。一定範囲の音のみを拾う精度の高い代物だが、肩が触れ合う雑踏に紛れてしまえば関係のない音しか拾わず、拾ったとしても近所の人との他愛ない会話が展開されるだけだった。夜間怪しい連中とつるんでいるのは確かなのに、決定的な証拠が掴めない。そうしている間に一ヶ月が経ってしまっていた。
 ただ、収穫もある。交友関係がはっきりしたことだった。そのため、不審な連中が少しでも接触の動きを見せれば川村にすぐ連絡ができる。ジェマアの面子は顔写真をファイルで受け取っているので見落としはない。
 露店のメニューを眺めながら、横目で対象の様子を窺う。ようやく、仕事場に入った。彼はCDショップの店長という冴えない一市民だった。
 御津は鞄から伸びたイヤホンを耳に差し込み、露店の隅に腰を下ろした。鞄の中にはCDショップ内に設置した盗聴器から発信される音声情報を受信する、小型の機械が入っている。流石にこれ以上の接近は気付かれる可能性が高いため、盗聴に切り替えたのだ。
 何もせずにいれば店員に怪しまれるため、暇つぶし用に買った新聞を広げ、一字一句を目で追う。
「よぉオヤジ。新しいCDが入ったらしいな」
「ああ、奥の倉庫に入ってる。取ってくるから待ってろ」
「そうか。分かった」
 結局、今日の会話らしき会話はこれだけだった。

 場所を途中から変え、御津は今、ある飲み屋のカウンターに一人で座っていた。苛々を鎮めるようにタイガービールを口に運ぶが、酔えない。元々酒には異常な耐性がある。つまみのチリカンコンに手を伸ばしながら、店を閉めた様子の対象の動きを確認すると、大きな溜息を吐いてイヤホンを外した。今日、夜の監視を担当するのは那岐原だ。ビール瓶から最後の一滴までコップに注(つ)ぎ、一気に飲み乾した。どうして今回の仕事に限って、長引くのだろう。ようやくこの組織を辞める決心をしたのに、仕事が終わらないことには何も話が進まない。
「いらっしゃい!」
 店員の溌剌とした声が店内に響いた。何気なく入口を見て、御津はたった今飲んだばかりのビールが喉元まで競り上がってくるのを感じた。咄嗟に危機意識が働き、目の前のチリカンコンに、どうにか視線を戻した。
「奥の席、空いてるか?」
 "対象"が、多言語が混ざり合ったシンガポール独特の英語、シングリッシュを使い店員に話しかけた。幸い店員がいた場所とは反対に座っていたため、相手は気付かなかった。気付いたとしてもただの日系人だと思われて終わりだろうが、顔を晒さないに越したことはない。店員との会話内容に聞き耳を立て、会話が終わったと感じたところで、奥の個室へと向かう対象へ再び目を向けた。そこで御津はもう一度息を呑むことになった。話し相手と思しき者は、那岐原沙紀だった。
 どうにか個室に近づけないかと部屋の中に視線を走らせたが、飲み屋の砕けた雰囲気と違い、廊下に立つ三人の警備員は体格も良く、装備している武器も物々しい。一人では勝てるかどうか分からない上、激しい戦闘をすれば確実に部屋の中にまで伝わるだろう。早々に会計を済ませ言い知れぬ焦燥感と共に店を出た御津は、早速川村に連絡を取った。メールは近年随分と簡単になった暗号化の手順を踏み、送信した。
『裏切りの心配なら、必要ない。那岐原には那岐原なりの考えがあるんだろう。任せておけ』
 返信は簡素なものだった。疑いをかける様子は少しもない。
 川村のお人好し加減に半ば呆れ、御津は尚も食い下がったが、似たような返答を寄越しただけだった。
『那岐原が独立して任務を行うことは上層部の意向だ。これ以上は言えないが、理解してくれ』
 それは、御津を疑心暗鬼に陥らせないようにするための方便かも知れなかった。
 独立して任務? そんな話、聞いたこともない。それならどうして、人数不足の今、三人も付いてるんだ。
 画面に川村からのメールを表示させたまま、携帯を持つ手に力を込めた御津は、あの冷たい瞳を思い出していた。




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