蓬莱島(ほうらいとう) 前編


 開けた青空の下で植えつけられていくイネの苗が、風に煽られ、総じて頼りなげに、揺れている。
 植物の繊維を使って作られた瑣末な貫頭衣は、汗を吸ってはくれない。おかげで、体中が水浸しだった。
 サカトは、田畑用に川から引いた水路のふちに座り、男たちの作業をぼうっと眺めていた。腰を曲げ、顔中を汗まみれにしているのは、サカトよりも早く生まれた男ばかり。御日様が彼らの顔をじりじりと焼く。
 この季節はふだん、もっと穏やかな温かさに満ちているはずだった。季節外れの熱波にやられたのはサカトの顔や腕も例外ではなく、ところどころ薄皮がめくれている。ただ、焼けた跡がやたらと痛い時期はどうにか過ぎてくれた。
「おい」
 応えるよりも早く、頭頂部に鈍い感触。頭を押さえて前かがみになると、怒鳴り声が被せられた。
「真面目にやれ」
「はい」
 何故拳骨が落ちてきたかはすぐに分かった。
 父の拳の衝撃に、涙目になりながらも、立ち上がる。もたもたして二発目をくらってはたまらないからだ。
 足元に転がしていた、これまた瑣末な田下駄を履き、水田に足を踏み入れた。田下駄は木で出来た履物で、足が泥に沈み込むのを防いでくれる。作業をしている人間はみんな履いている。だがもちろん全ては防ぎきれず、早速、不快な泥の塊が足を包んだ。
 サカトは上を脱いで半裸状態の男たちとは違い、上下、ひと繋ぎの、暑苦しい貫頭衣を着せられていた。胸がふくらんできて、もう子供じゃないからと、この布を着せられたのは、十歳のときだった。ちょうど四年前の、この季節。
 こんな暑苦しいものを着せられて、そのうえ体力も劣るのに、同じ仕事量では不公平だろう……。しかし、畝(うね)に入り、男に混じって汗を流すテイを見つけてしまったので、愚痴を零すことはしなかった。テイはサカトと同じ女で、十四で、小さい時からいつも一緒だ。サカトはテイの隣の列で作業をしようと思い、父の知り合いの男と場所を入れ替わってもらった。
「また怒られてる」
 茶化すように言ったテイから、イネの苗束を投げ渡された。そこから手に抱えられるだけ取り、次に苗を取る必要が出てきそうな場所へ、苗束を放り投げた。
 苗は青々としていて見るからにおいしそうだ。前に興味本位でかじってみたことがあった。不味くてすぐに吐き出した。そのときテイは『穂が実ってからじゃないと食べられないよ』と気の毒そうな顔で教えてくれた。
「おじさんも、ちゃんとやってれば怒らないでしょう?」
「だって、起きてからぶっ続けだよ? もう陽が傾き始めてるのに」
「しょうがないよ。いま、集中してやらないと、狩りに影響出ちゃうから。それにさ、自分が手伝ったイネがちゃんと育ってると、嬉しくならない?」
「ならない……。それだけはない」
 苗を持った手を、泥に埋めて抜き、埋めて抜き、足を泥から引き抜いて前に進んだ。しばらくそれを繰り返すと、並んでいたはずのテイとは大きく引き離されてしまっていた。
 頑張って追いつこうとしたが、
「ちゃんと植えろ! ひとつでも無駄にしたらどうなるか分かってるな!」
 という父の叱責が遠くから聞こえ、諦めるしかなかった。ふと周りを見渡すと、サカトが担当する列――周りからひどく遅れていた列に入ってくれた男にも、追いつかれていた。

 父と母が眠りについたのを見計らって、家をこっそりと抜け出した。
「陽が落ちてからは俺たちの時間じゃない」
 というのが口癖の父に見つかれば、泣き喚いても終わらない折檻が待っているだろうが、これだけは辞められない。
 獣から身を守るために作った木柵は、大型のイノシシやオオカミを想定していて、女なら隙間をすり抜ける事が出来る。柵がない所には、交代の見張り番が立っているので、抜け出すならここしかなかった。抜け出してからは、物音を立てないよう慎重に、それでいて素早く駆ける。
 ここは川が近い。繁殖期間を終えたばかりのやせ細ったイノシシが出回る今の時期には、川で、猪肉(ししにく)の代わりにフナなどの魚を獲ることもある。
 今日もうまく川岸に辿りついた。サカトは、しゃがんで、川を覗きこんだ。今日は月が満ちていた。昼間の、陽光を反射してきらきら光る川も綺麗だけれど、川面に浮かぶ月だって、それに負けないくらい綺麗だ。誰にも教えられなのが残念なくらい。川面の月を見て満足したサカトは、川べりに座って、足を水につけた。昼間はぬるかった川の温度も、ひんやりとし、とにかく気持ちがいい。軽く足をばたつかせたら、川面の月がふにゃふにゃと頼りなく揺らいだ。
 そうして、一人だけの密やかな時間を満喫していると、ふと、音が聞こえた。ず、ず、ず、と何かを引きずっているような……。妙な、音。
 もしかして、獣の足音かもしれない。そう考えた途端、サカトは体中の筋肉が委縮したような気配を感じた。恐怖に身がすくんで獣に突き殺された先祖様の話は、男たちの間で語り草になっている。う、動くよね、と祈るような気持で、足先に力を込めてみた。
 右足の指が反応した。よかった、動いてくれる。静かに、静かに、両足を、川面から引き抜く。その間も、ず、ず、ず。柵の内側まで、逃げ切れるだろうか。駆け出したりしたら間違いなく、やられる。音を立てないよう、ゆっくりと歩いて、その場から離れようとした。
「ムラのニンゲンか」
 サカトの決意に反して、音がしていた方向から聞こえたのは、獲物を狙って駆け出す獣の唸り声ではなかった。少しだけ発音はおかしいが、聞きなれた言葉を口にした、年若い男の声だった。ず、ず、というのは、足を引きずって歩いていた音だったらしい。
 月明かりに照らされ、おぼろげに、人間の輪郭が浮かぶ。
「もうしわけない。こちらにきてくれ」
 獣ではなかったが、こんな時間にうろついている人間にも、ろくなのはいないだろう。自分の事は棚に上げてそう思い、サカトはそのまま帰ろうとした。
 しかし、人間の輪郭が突然地面に倒れ伏し、サカトは足を止めた。呻き声も聞こる。
 サカトは、いつでも逃げられるように身構えながら、男のほうへ近づいていった。男は、うつ伏せになっている。しゃがんで、見たこともない奇妙な服を着た、男の肩に軽く触れた。服の手触りは驚くほど滑らかだった。
「たのむ。ヒトをよんでくれ。セナカをやられた」
「何に? イノシシ? オオカミ?」
「ちがう。センソウだ」
「センソウ? 何それ」
「しらないなら、あとではなす」
 大げさに倒れて怪我を申告している割には、冷静なやりとりができている。
 本当に怪我をしているんだろうかと訝り、背中を触る。するとぬめり気のある液体が手についた。男は情けなく喘いだ。
「ごっ、ごめん」
「いいからはやく」
 サカトはすぐに立ち上がり、駆け出した。
 また柵の隙間を通り抜けて家へ戻ると、父と母を叩き起こして事情を説明した。
「いま、川べりに男が倒れてることを、なぜお前が知っている?」
 と父は低い声で言った。サカトは自分の犯した失態に気付き、顔から血の気が引くのを感じた。しかし父は深いため息を吐き出しただけだった。
「まあ、いい。急いで案内しろ。ハエリ、お前は他の連中を集めておけ。薬草も忘れるな」
 父は、後半の言葉を、寝惚け眼の母に顔を向けて、言った。

 背中の傷の応急手当を受けた男は、父によって、サカトの家に運び込まれた。治療の最中に気絶し、何日か熱に浮かされて苦しみ抜いた後、男はどうにか、こちらの世界に戻ってきた。
 男は、名前を、イトといった。見つけた時は勝手に、もっと年上かと思っていたが、サカトよりひとつ上の、十五だった。父親になっていてもおかしくない歳ではあるが、このムラでは若いほうだ。
 サカトの家に住み着いたイトとは、よく話をするようになった。
 イトは、なんだか平坦な言葉遣いをして、分かりにくいけれど、意味は大体通じる。なぜそんな喋り方なのか聞いたら、ウミのむこうからわたってきたからだ、と言った。それで納得した。畝に水を張って、コメを収穫する方法を教えてくれたのは、言葉の通じない「海向こうの人」だったと、父から聞いていた。
 海の向こうには、クニというものがあり、カッコクのリエキを巡ってセンソウが絶えないという。だから、既に亡くなったというイトの父は、うんざりして、ここへ来たそうだ。海の向こうでここは、争いから離れられる土地、ホウライトウとも呼ばれていたらしい。
 なのに、とイトは言った。
「ここも、おなじだ。おれも、チチオヤも、センソウにかんしては、なにもいわなかった。おれたちをうけいれてくれたムラは、ジハツテキに、センソウをはじめようとしている。このムラを、ヘイゴウしようとしている」
「ムラ、ムラっていつも言うけど、それって私たちみたいな集まりのこと?」
「そうだ。でも、おれは、センソウをやらせたくなかった。ムラのカイゴウで、やめようとテイアンしたら、そのかえり、トツゼン、セナカから、さされた。おれは、すんでいたムラでは、ハツゲンリョクがあったから、このムラをおそうためには、ジャマだったんだろう。おれは、かろうじて、にげて、ここへきた」
「んー……。イトの言いたいことは分かるんだけど、どうしても信じられないな。イトが仲間に刺されたことから、信じられないし。人間が人間を襲って、何の得があるの? 食料にするなら、きっと、脂肪がいっぱいついた猪肉のほうが美味しいよ」
「サカトは、ノンキでいいな」
 そう言ってイトは笑った。涼しげに。馬鹿にされているとしても、イトの笑顔を見るのは好きになっていた。
「でも、おまえがノンキでいられるよう、サイゼンはつくす。このムラのみんなは、リエキをもとめないで、おれをたすけて、おれのいうことをしんじてくれたから。フロウフシをさずけてくれるセンニンは、いなかったが、ここがおれにとっての、ホウライトウだ」
 元気になったイトは、いろいろとムラの人間に指示をするようになった。
 イトが腰に差している、見たこともない鋭利な刃物。鞘というものに収まっているそれは、獣を殺すためには明らかに過剰な鋭さで、イトの話に説得力を持たせるのに一役買った。ムラのまとめ役であるサカトの父が、積極的にイトの話を受け入れたのも、理由にはあった。
 監視用のモノミヤグラを建てる、柵の隙間をなくす、木を加工して矢を防ぐための盾を作る、狩猟用の武器を対人用に改造する、ムラの周りに穴を掘って地盤を緩くしておく、食料の備蓄倉庫を分散しておく。そのほかにも諸々の対策を、ムラの人間たちは昼夜を問わず、協力して行った。もちろん、サカトも、テイも、手伝った。
 しかし、どれだけ対策が進んでも、センソウというものは、やってこなかった。
「やっぱり、いろいろ知ってるイトがいなくなったから、後悔して、センソウをやめたんじゃないのかなぁ」
 テイを誘った夜の川べりで、サカトはそう呟いてみた。陽が落ちてからも作業することが増えたので、外出の理由を後付けしやすくなったからだ。
「サカトは呑気だね」
 そういう扱いをされるのは慣れているから、特に苛立ちもしない。
「イトにも言われた」
「一緒に住んでるなら何度も聞いてるはずでしょう。色々な知識を持っている貴重な人間を、殺そうとする人間がいたくらいだから、それだけ相手も本気ってこと」
 サカトは答えず、背の低い雑草に体を預けた。テイも、それを真似て、近くに寝そべってきた。川で冷えた風が涼しい。
「サカトは怖くないの? 私たちを殺そうとする人間が、いるのに」
 サカトは、テイの方へ顔を向けた。テイも、サカトのほうに顔を向けていた。
「まだ、信じられないだけだよ。いつでもお腹いっぱい食べられるわけじゃないけど、みんなと、へとへとになるまで仕事して、休んで、また明日頑張ろうって思って……。それで、何が不満なのかわからない。食べ物が足りないなら、わけてあげるし、何か困ったことがあるなら、言ってくれれば、手伝うのに……」
 実際には、イトの提案で派遣したセンソウ回避の交渉者は、相手のムラの入り口で、門前払いされた。交渉では、動かないことが分かっている。
 テイが、体を寄せてきた。サカトの貫頭衣の脇腹辺りに、テイの頭が収まった。
「本当、そうだよね」
 サカトはテイの頭を撫でた。季節外れの暑さが続いているのに、テイは震えていた。同い年でも、いつもお姉さんぶっているはずのテイが、サカトの腕の中で。
 まだ、本当に、実感がわかない。自分たちが命のやりとりをするのは、獣相手だけのはずだ。その、獣を狩る回数も、男が怪我を負って帰ってくる回数も、コメや小麦のおかげで減ってきている。
 それなのに、とサカトは思った。


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