1−7 暇潰し

 今日最後の授業が終わり、教師が教室の前の扉から出ていった。途端に、教室がうるさくなる。
「席につけー」
 と言いながら、担任が入ってきた。特に代わり映えのしない連絡事項を、担任が儀礼的に伝えていく。
 そして、担任がホームルームを切り上げるときの決まり文句、
「何か質問はあるか」
 を言ったとき、
「はい」
 と鈴の鳴る音がした。蔵本だ。
「おお。珍しいな。何だ、突然」
「学校の連絡用の掲示板に、飯原さんを中傷するような内容が、執拗に書き込まれています」
 途端、担任の顔が険しくなった。クラスの連中が、水を打ったような静けさに包まれた。
 綾は、その発言と同時に、真ん中の列でびくりと肩を震わせた。
 来たか、と思った。けれど、蔵本の狙いが曖昧だった。綾がいじめられていることを明らかにすることで、辱めを与えるつもりだろうか。
「ホームルームが終わったあとに、話を聞こう」
「いえ、今じゃないと駄目です」
「どうしてだ」
「ひとまず、見てください」
 この、つくられたきりめったに使われていない掲示板の存在は、担任も、知っている。担任は、若くもないが、インターネットのことが全くわからない、という世代でもない。
 蔵本がそう言うと、担任は、自らの携帯電話を取り出し、操作した。
 しばらく画面を見つめ、段々と眉間にしわを寄せていった。そして怒鳴った。
「なんだ、この内容は!」
 教室にいる人間たちも、携帯電話を手に取り、見始めた。直はただ、綾の背中を見つめる。昨日の帰り、家に忘れたと思っていた携帯電話は、まだ、見つからなかった。
「この掲示板の存在を知っているのは学校の人間だけです」
 蔵本がそう言うと、前の席の男子以外のほとんど全員が、囁き合い出した。
「この掲示板には、機種の判別機能もついています。運営している宮間先生にパスワードを聞いて確かめたところ、アクセス解析では、HA208という機種が、いずれの投稿にも使われています。つまり、このクラスの中で、HA208を持っている人間が、中傷を行いました」
 囁き声が大きくなり、クラス全体ではもう、普段のしゃべり声と大差なくなっていた。
 綾が自殺未遂した直後、いじめ調査に燃えていた担任は、
「全員、携帯電話を机の上に出せ!」
 と言った。
 そこで初めて、直は、蔵本の意図に気付いた。
 平常心を装って、携帯電話を探す。
 鞄の中の、一番上に、これみよがしに入れてあった。あれだけ探して、見つけられなかった携帯電話が。
 吐き気がこみ上げてきた。そういう、ことか。
「どうした、阪井」
 ふと顔を上げると、全員がこちらを向いていた。それぞれの机の上には、携帯電話だけが置いてあった。
「いえ、なんでもないです」
 机の上に、携帯電話を、載せた。高校生ならもう誰も使っていないような、古い型の携帯電話。
 担任が、一人一人の携帯電話の機種を確認していく。
 YE890、IR002、ONERIA。
 声が、どんどん近づいてくる。心臓の音がうるさい。
 前の席の男子がパスした。必然的に、教室の隅、最後の人間の機種は……。
「HA、208」
「ち、違います!」
 直は、すぐに反論した。
「だ、だって、ち、ち、違います。おっ、おかしいじゃないですか。あ、綾と私は、友達で……せ、先生だって、クラスの人だって、わかってるはずです!」
 激しい憤懣が沸騰し、言葉がつっかえつっかえでしか出てこない。
「理由ならあります。飯原さんと、阪井さんは、中学時代からの友達でした。けど、阪井さんは、男女分け隔てなく人気のあった飯原さんとだけ仲がいいことが原因で……」
「蔵本っ! てめぇ……!」
 立ち上がって、椅子を掴んだ。その椅子を蔵本に向けて投げつけようとすると、後ろから羽交い締めにされた。倉田と、安井と……担任、だった。
「いじめられていました。それを阪井さんはずっと、逆恨みしていたみたいです。二人と同じ中学だった人に、聞きました」
「古山先生! これはいじめじゃないんですか、推測で全部私のせいにして!」
「推測じゃありません。飯原さんに聞きましたが、昨日も、飯原さんに、ひどいメールを送っていたみたいです」
「適当なこと言うな! 私の携帯は昨日から、どこにも無くなってた! お前が盗んで送ったんだろうが!」
 三人がかりの押さえつけを引きずりながら、蔵本に近づく。蔵本は薄笑いを浮かべた。
「いい加減にしろ、阪井!」
 そこで、担任の力が一層強くなり、前に進めなくなった。そして近くの机の上に、組み伏せられた。
「違う、私じゃない!」
 言い訳にしか聞こえない言葉だろうと、絶対に、認めるわけには行かなかった。
「綾、違う、ねえ、綾、何か言ってよ、私がそんなことするはずないって。だって、だって、昨日、一緒に頑張ろうって……!」
 綾の方に首をねじ曲げ、叫んだ。
 視界に映った綾は、涙の跡が頬に出来ていた。直の視線を受け、見るからに困惑していた。何かを言おうとするが、言葉にできないようだった。そして最後には、俯いてしまった。
 直は肘打ちを担任にかまし、手首を掴む力がゆるんだところで押さえ込みをふりほどいた。自分の机の前で携帯電話と鞄を掴み、教室を飛び出した。

 駐輪場で自転車の鍵を外していると、突然背中を蹴りつけられた。アスファルトに転がり、受け身を取った手が、思い切り擦りむけた。目を軽くつぶったら、今度は背中に靴の感触が落ちてきて、開いた口から涎が垂れた。
「立たせてあげて」
 安井と倉田に無理矢理立たせられ、体育館の裏手に押しやられた。
 蔵本は、体育館を取り囲む通路に座った。その前に跪かされる。蔵本はさして楽しくもなさそうに、無表情でこちらを見下ろしている。手に持ったカッターの刃を出し入れしながら。
「もう少し付き合ってね」
 蔵本が直の目を真っ直ぐに見て、言う。
「何だよ、まだやり足りないのかよ……!」
「いい、口答えしないで、したら次は、飯原をやるから。あ、それと、これから私が言う言葉には、必ずはいで答えてね」
 直は、舌打ちした。
「何でお前なんかの言葉に……」
「だからさー阪井、日本語通じてる? あいつを閉鎖病棟送りにしてやってもいいのかって聞いてんの」
 直は黙った。黙るほか無かった。
「三ツ葉中学のAさんの証言。阪井直の裸の写真を、飯原綾以外のクラスの人間、三十五名に、一斉送信してあげました。その画像は、男子を中心に、中学全体、そして校外にまで広まりました。それは児童ポルノ扱いされて、摘発者も出ました」
 黙っていると、脇腹を蹴飛ばされた。それでも黙っていると、これみよがしにカッターの刃を出す音が聞こえた。
「はい、は?」
「はい」
「Bさんの証言。ある日、画像で我慢できなくなった三年生の先輩たちに、阪井直をプレゼントしてあげようとしました。だけど、巡回に来た教師に見つかりそうになったため、挿入の寸前で中断せざるを得ませんでした。けれど、口に突っ込んだ先輩だけは、射精することができました」
 蔵本を睨むのをやめて、目を閉じる。
「……はい」
「Cさんの証言。阪井直は、脇腹に大きなやけどの後があります。それは、燃えた布を体に押しつけたときに出来た傷で、阪井直が涙を流して許しを乞う姿は傑作だったということでした」
 蔵本の平坦な声に、過去が次々に暴かれていく。好きなだけやらせておけばいい。すぐに飽きる。
「他にもいっぱいあるけど、めんどくさいから後は勝手に思い出して。本当、聞いてて楽しかったよ。私も結構残酷なことやってきたかなーとか思ってたけど、とんでもないね。上には上がいる。阪井の自信は、いじめへの慣れが背景にあったわけだ」
 カッターの刃が出し入れされる音。
「こんな奴のために働くなんて、下僕も大変だね」
 横に立つ安井に向かって呟く。
 人差し指を掴まれ、何の躊躇もなく反対に曲げられた。同時に口を塞がれ、情けない悲鳴が、口から漏れ出るのを防がれた。そして折った指を掴んだまま、また違う方向に捻じられる。あまりの痛みに体をよじりながら、痛みを耐える拠り所が欲しくて、歯を食いしばろうとしたが、それさえも許されなかった。喉奥に指を突っ込まれ、口を閉じられなくなった。足元の軟土を塗りたくったらしく、その指は土の味がした。何度もえずいた。苦しくて、しょうがなかった。指と喉を責められ、それ以上我慢はできなかった。
「自分から私らに向かってきた癖に、この程度で泣くなよ。気持ち悪。そう、お前ってさあ。ほんっと、気持ち悪いよね。なんか自信ありげに突っかかってくるだからバックでもいるのかと思ったら、それもない。単に、綾ちゃんの悪口は許さない、レベルの話でした、と。いじめられたことのある奴って、だいたい、目ぇ見ればわかるんだよね。烙印が押しつけられてんだよ。弱いくせに虚勢張ってるお前みたいなの、一番イラつくんだわ。自分を守りたかったら頭使えよ。無策で粋がってるからこうなる。でもまあ、頭使って守られても苛つくんだけど。よく、いじめられたらやり返せとか言うじゃん? でも、矢崎とか阪井みたいなのにやり返されたらたぶん、殺しちゃうなぁ、私だったら。そしたら、無責任にやり返せって言った奴は、殺されたガキの両親に、どう言い訳すんだろうな? そういう精神論者が大勢を占めてるうちは、ホント、楽。表面は『いじめる人間は最低だ』とかのたまって、腹の底じゃあ『いじめられるほうに原因がある』って思ってる。そんな連中のおかげで、今までチクられたことねぇわ」
「飯原さんもひどいよね。携帯が盗まれたって話、みんなにとっては確かに言い逃れに聞こえて、リアリティがなかったけど、飯原さんだけは違うはずでしょ? ああ、昨日の夜のは直のメールじゃなかったんだ、よかった……。そんな風に思えないなんて、飯原さん、ちょっとおかしいよね。あ、でも、飯原さん、あのあと、普通に部活行ってたなあ。阪井さんのこと、追いかけもしないで。阪井さんは飯原さんのことを想ってるけど、飯原さんは阪井さんのことなんて、どうでもいいみたい。だとしたら、すぐに、助けてあげなかったのも頷けるね。同性愛者なんて疑っちゃって、飯原さんに悪いことしたな。それは阪井さんだけだったんだ」
「矢崎が退学してから退屈だったんだけど、いい暇つぶしになったよ。私、阪井をいじめてた奴にいろいろ話聞いたからさ、今度登校してきたら、トラウマを抉り出しちゃうかもしれないんだ。阪井だってさ、またあんな最悪なもの飲み込まされて、淫乱呼ばわりされて、周りの人間の歓声聞きたくなんかしたくないでしょ? 廃人になりたくなかったら、おとなしく退学したほうがいいよ」
 解放されたあと、蔵本たちの顔は見ず、駐輪場に戻った。
 帰宅してすぐ、母や祖父母の様子は見ず、自室のある二階に向かった。それから、部屋に閉じこもった。



inserted by FC2 system