恩返し

 ずっと、一人だった。

 算数で躓き、国語ではなぜみんなが正しい答えを選べるのか分からなかった。計算ドリルも漢字ドリルも、いつもわけがわからないまま空白を埋めていくしかなかった。
 家で何度も何度も教科書を読み返した。ページをめくる部分が自然に破れてしまうくらい、読み返した。それでも次の日にはみんな、違うことを覚えていた。
 当時は存命だった母が、困ったような顔をすることが、日増しに多くなっていった。
 やがて教師にも邪険に扱われるようになり、その空気が周りにも伝染して、小学一年生のときからずっと、一人で過ごしていた。
 けれど五年生になってからは、周りの見る目が明らかに変わった気配がした。どの教科書も漢字にフリガナだらけなのは相変わらずで、掛け算九九でさえ間違えることは変わっていなかったのに、男性教師や男子からは妙に優しくされるようになり、女子からは激しいいじめを受けるようになっていった。

 ある日の、六時間目の図画工作の授業のあと。
 クラスメイトの木元に呼び止められて残ると、彼は気恥ずかしげに、好意を告げてきた。木元とは三年生の時にも一緒のクラスになり、悪戯か何かはわからないけれど、筆箱やシャープペンシルを壊されたことがあった。だから、最後まで言わせずに断った。
 木元が肩を落として帰った直後だった。四人の女子に取り囲まれ、口々に罵られた。当時の自分が学校に行きたくないと強く思っていた原因。いつもいつも、突っかかって来る四人だった。
 突き飛ばされて、画用紙を乾かすための台に背中をぶつけても、抵抗はできない。抵抗したら、もっと酷い目にあわされるのがわかっていた。嵐が過ぎ去るのを身を潜めて待つしかなかった。しかしその嵐は、いつもよりもさらに、激しいものだった。女子に人気のあるという木元に告白され、さらに断ったことが、よほど頭にきているようだった。
 体を押さえつけられて身動きのできないなかで、誰か一人が絵の具のチューブを持ってきて、口の中へと突っ込んできた。口の中を絵の具の不快な粘つきと、薬品臭い苦みとが満たす。飲みこまないように必死に息を止めていると、立ち上がらされ、水道の前まで引っ張られた。
 そこでなぜか、両腕が自由になった。口の中に手を突っ込んで必死に絵の具を掻きだしていると、掃除用の真っ黒な雑巾が積み上げられた桶が、目の前に置かれた。大半の絵具をどうにか掻き出したら、今度は、汚れでどす黒くなったその桶に、顔を押し付けられた。桶には気味の悪い色をした液体が溜まっていた。
 これで、この人たちも飽きるだろう。そう思って、手が離れるまでと思って息を止めていたが、いくら経っても、そのままだった。押さえつけられ、手も頭も足も動かせない。他人の憂さ晴らしの道具でしかないとしても、人間だから、自分は人間だから、だんだん、息が苦しくなってくる。本当に息が続かなくて、苦しくて、息を大きく吐き出した。自分の命を繋ぎとめるはずの気体が、ボコボコと水泡となって、顔の横を通過していくのが分かった。やめて、やめて、と心の中で叫びながら、体に力を入れる。それでも動かない。四人がかりで押さえつけられていたのだろう。どうしようもなくなって、腐臭のする水を必死に飲んだ。それでも、水の量はいくらも減らなかった。
 ……死ぬ。
 そう感じた時、何かがばらばらに砕け散った。

 意識が飛ぶ寸前でようやく押さえつけが外れたとき、吐瀉物を撒き散らせながら、明らかに人間のものではない音を立てながら呼吸をした。薬品とドブの腐臭が混じり合った臭いが自分の口の中からした。水道の上にある窓ガラスに映った自分は、顔中から、得体の知れない黒い液体を垂れ流していた。口の端から、黄色と赤の絵の具が零れ落ち、父が誕生日に買ってくれたお気に入りのワンピースは、片方の肩紐がちぎり取られていた。徐々に、死に直面した恐怖が体中に伝染し、立っていられなくなり、その場で尿を漏らした。奴らはそれを見て高笑いしながら、図工室から出ていった。
 呼吸と震えが落ち着いてから、ほとんど無意識に、図画工作の備品が置いてある場所へ向かった。そこで、目についた金槌とカッターを掴み取った。
 死にかけた一瞬で、憑き物が落ちたかのようだった。頭がこれまでにないくらい冴えていた。
 美里、矢崎、橋本、野口の四人の姿を、昇降口に見つけ、つかず離れず、後を追った。途中でリーダー格の美里だけが、違う道へ逸れた。慎重に尾け、美里が人気のない路地に曲がったところで、声をかけた。意識して、優しい声で。
「美里」
 美里が振り向いた所で、金槌を思い切り、口元に叩きつけてやった。頭の中がさめざめとしていて、躊躇いも何もなかった。確実に上下の前歯を全部折った、そんな感触がした。
 美里はよろめいた後、その場に尻もちをついた。口を押さえながら甲高い悲鳴をあげ、泣き喚き、後ずさりしていく美里を、ゆっくりと追い詰めていった。美里が逃げ出そうとした時、金槌をまた、美里の左肩に振り下ろした。
 美里はもう、喚きもせず、逃げるそぶりも見せず、ただただ震えて、泣いていた。
「やめてっ! もうしない。もうしないよ。だから、助けて!」
「駄目だよぉ、美里さん。校舎の中を走り回ったりしちゃあ。受け身も取らないで階段から落ちたら、そうなるよ」
 美里は茫然とした表情で、こちらを見上げていた。金槌を左手に持ち替え、カッターを右手に持ち替える。そして美里のすぐ近くに腰を落とし、その刃先を喉元に押し当てた。美里は金縛りにあったように動かず、零れ落ちそうなくらいに目を見開き、歯をがちがちと噛みあわせ始めた。
「そうだよね?」
 美里の下半身のあたりに、水たまりが出来ている。美里は何度も何度も、頷くだけだった。
「もし誰かに何かを言ったら。もし次、学校であなたのことを見かけたら……どこまでも追いかけまわして、体中、ぐちゃぐちゃにしてあげる」
 笑みを浮かべるのを堪え切れず、それを美里に向けた。
 美里はただ、頷きを繰り返すだけの機械になっていた。

 あの美里が……。怖くて怖くて仕方なかったあの美里が、金槌で殴って、カッターを突きつけただけで、あんなことになるなんて。
 こんなにも簡単に、あの地獄のような日々と決別できるなんて。
 やっと、やっと、解放されるんだ!
 涙が、次々と溢れた。
 そして思った。

 みんな。
 気付かせてくれて、ありがとう。
 必死に助けを求めても、誰も助けてくれなかったのは、いじめられたら自分でやり返す、そんな当たり前のことに気付けていなかったからだったんだね。
 みんなは恩人だよ。
 明日からいっぱい、恩返ししてあげるね。
 みんなから受けた恩は、一生、忘れない。


◆◆◆


 日直である聡美が押し付ける黒板消しによって、数学の公式が消されていく。柚樹はそれを、ぼうっと眺めていた。
 昼休みに入ったばかりで教室内は騒がしかったが、その熱気が急に薄らいだ。
 振り向くと、綾が蔵本に、カッターと金槌を渡していた。蔵本はそれを大事そうに両手で包んで懐へ抱えてから、鞄に入れる。周囲の人間が、やや興味を惹かれたように、険悪な仲のはずの二人を一瞥したが、二人がすぐに離れたのを見て、また騒がしさが戻った。
 先週の話し合いでは、蔵本が下手に出ていたけれど、それはカッターと金槌がこちらの手の中にあったからだ。返せば、どうなるかはわからない。けれど返さないなら返さないで、その場合もまた、どうなるかはわからない。
 そんな状況なのに、矢崎は、話し合いが終わった後、やや安堵したようだった。矢崎は、蔵本の態度を軟化させた綾と聡美に対してしきりに感謝し、蔵本相手に引かなかった直を讃えた。
 自分は、話し合いの日、何もできなかった。けれど、そんな自分にも、丁寧なお礼の言葉があった。矢崎の友人だった人間から今の矢崎の所在を聞き出し、矢崎へ会いに行ったことが、頭にあったのだろう。実際には、矢崎さんなら何か知っているかもしれない、とアイディアを出したのは、聡美だったけれど。
 あれだけ蔵本を警戒して怯えていた矢崎が、少し気を緩めたのだから、終わりを、期待してもいいのだろうか。蔵本の一挙手一投足に気を取られる日々の、終わりを。
「何でずっと綾のこと見てるの? 言いにくいことがあるなら代わりに言ってあげよっか?」
 綺麗になった黒板を背に、聡美が、教卓から身を乗り出していた。
「なんでもない」
「今、返してたね、綾」
「うん」
「今まで復讐に使ってきた道具を、何であんなに大事にしてるんだろう」
「本人に聞いてみないと分からないよ。特に、あいつの考えてることなんか」
「でもこれで、ちょっと安心、かな」
 軽く首をひねる。
「聡美も、矢崎と同意見? 私はまだ、少しも安心できない」
「だって、綾が最後に伝えた言葉、かなり効いてたから。すぐに閉じちゃったけど、閉じるまでは、せわしなく目が動いてた。人間はねぇ、目の動きだけは誤魔化せないんですよー。それより私は、柚樹のほうが気になるなぁ。うまくいってる?」
「うまくいくはずないでしょ」
 柚樹が、事前相談もなしに祖母と叔父夫婦の家に行ったことにより、父と母は、面目を潰されたと感じたようで、烈火のごとく怒り狂った。吐き出された言葉の細部は、思い出したくない。
 叔父夫婦が仲裁に入ってくれ、今は、祖母と叔父夫婦と一緒の家、祖母と一緒の部屋で寝泊まりしている。一時避難的な対応で、前途は決して、明るくない。だけど、あの家族と同じ屋根の下で過ごさないというだけで、多少は気分が楽だ。
 変態店長がいたアルバイトも辞めて、部活に専念して、家に帰ってごはんを食べて。ここも特筆すべきところだけれど、ごはんは、ちゃんとしたおかずが出る。そして、何を食べても、おいしい。
「そっか」
「でも、前よりは、いい」
 柚樹は、聡美から目を逸らした。
「聡美が、頭冷やす時間をくれたから、おばあちゃんのことを、思いつけた。いい加減、しつこいかもしれないけど……。ありがとう」
「うん。しつこい。人のことをモヤシ呼ばわりする失礼な人に、殊勝になられてもねぇ。それよりさ、お昼食べようよ」
「……そうだね」
 明るく言った聡美に頷き、柚樹は、叔母の用意してくれたお弁当を、鞄から取り出した。
 立ち上がって、綾の席に向かおうと一歩踏み出すと、蔵本と鉢合わせした。しっかりと目が合った。まだ怯えていると取られたくなかったので、何も言わずに目を逸らす、ということはできなかった。
「そこまで大事なの?」
 訊ねられた蔵本は、近くの机に手を置き、小首を傾げる。
「金槌とカッターのこと」
「大事だよ。……何よりもね」
「安井と倉田よりも?」
 柚樹は、教室の入り口で蔵本を待っている二人を、振り仰いだ。
 蔵本から、答えは返ってこなかった。
「そんな道具なんかより、もっと安井と倉田に頼れば。私も聡美に頼って、ずいぶん助けられたし。人に頼るのって、怖いけど、あの二人は、蔵本のこと……」
「何、それ。助言してるつもり? カッターで切りつけてきた人間に対して? あの三人にずいぶん毒されたみたいだねぇ、青野も」
 蔵本は笑いながら言って、柚樹の隣を通り抜け、二人のもとへ向かった。
 綾の席の近くは、ちょうどうまい具合に席が空く。既に、直も聡美も集まっていた。
「最近、毎日、お弁当だね、柚樹」
 軽食仲間だった直が、少し羨ましそうに、言う。
「何か、あげようか」
「いいの?」
「その代わり、直のパンも一口、分けて」
 こうしていつもの四人で集まっているうち、ぎこちないながらも、直や綾と、他愛ない話ができるようにもなってきた。

 弁当箱のふたを、ゆっくりと開ける。今日はから揚げにミニトマト、ポテトサラダなどが入っていた。
 箸を手に取りながら、今日、家へ帰ったときのことを、考える。叔母さんに、この嬉しさをどう伝えようか、考える。
 ……ありがとう、叔母さん。から揚げ、大好きなんですよ。





◇◇◇


 美術室に作られた衝立のワンルームの中で、次に描く絵のラフスケッチに没頭していると、突然、冷たい指で頬を軽くつつかれた。驚いて隣を見遣れば、パイプ椅子に座り、頬杖をついている蔵本の姿があった。驚きすぎて、呼吸が一瞬止まった。
「美術室の空気って、大っ嫌い。よくこんなところで絵が描けるよ」
 いくら集中していても、人のいる気配くらいは察せる。けれど部員の誰かだと思って、全く注意を払っていなかった。
 聡美は気持ちを落ち着けるためにゆっくりと息を吐いてから、問い返す。
「そんなに嫌いな場所なら、来なければいいじゃない。何でここに?」
「何で、か。難しいこと質問するねぇ」
 蔵本の視線は、衝立のほうへ移ろった。
 それきり、何も言わない。いったい何をしに来たんだか。
 けれど、危害を加えるつもりなら、チャンスはいくらでもあったはずだ。何かを話しに来たのは確かだろう。
 話すきっかけを探るため、聡美から口を開いた。土曜日に蔵本の脆い部分を見ていなければ、そんなこと、よぎりもしなかったはずだけれど。
「どうして蔵本は私にだけ、手を出さなかったの? 私は劣等生だから、眼中になかったと踏んでるんだけど」
 せっかくだから、前から気になっていた疑問を挙げた。
「ん? うん。眼中になかったのは当たってる。小さすぎて目に入らなくて」
「このやろー……。人が気にしてることを。真面目に答えろ」
「嫌。ただ、土曜日にも言ったけど、成績で対象を選んでるわけじゃない」
 蔵本のことだから、彼女自身にしか理解できないこだわりがあるのかもしれない。教えてくれないのは少し残念だったが、話の継ぎ穂にはなった。
「その対象選びは、もう、しない?」
「さあ、どうかなぁ」
 衝立を見つめたままの蔵本は、指で机を軽く叩きながら、だらりとパイプ椅子に背中を預けた。
「小早川にとって、あの三人って何? 君って確か、私と近い学区の出身だよね。たった一年ちょっとの付き合いで、あと一年ちょっとしかない付き合いで、私に関わるような真似してまで、助けたいと思えるもの?」
「意外。自分が他学区でどう噂されてるのか、知ってるんだ」
「嫌でも耳に入ってくる」
「一年だろうが十年だろうが、関係ない。今の私は、あの三人といる時間が好き。だからあなたに壊されないようにしがみついた。それだけの話だよ」
「もし、私よりずっと狂った奴が相手だったとしても?」
「いまのあなたにはわからないだろうけど」
 軽口で混ぜっ返すと、蔵本の指の動きが止まった。
「そうだね」
 蔵本は立ち上がり、似非ワンルームの出口に向かう。
「今の私には、分からない。でも、分かりたいとは、思う」
 ぽつりと呟かれた言葉は、美術室のひやりとした空気の中に溶け込んでいった。
 先週の話し合いで、帰りがけの綾の言葉が効いていたことを、思い出した。
「……もしかして、変わりたいの? まずは、私たちを、相手に?」
「なんで今の言葉だけで悟るかなぁ……。その読み、今度のテストにも生かせるといいね」
 蔵本は微笑とともに聡美を一瞥してから、衝立を開いて、出て行った。

 そうだ、来週から、テストだ……。
 蔵本が美術室の扉を閉めたと同時に我に返り、ペン先を走らせていた無地のノートを鞄に仕舞い込んだ。次の英語で赤点を摂ったら即、留年。蔵本がらみのことに気を取られて、忘却の彼方だった。
 外の景色に気を払わないでいるうちすっかり暗くなった廊下を歩き、教室へ戻って電気を点けて、英語の教科書をロッカーから取り出す。電子辞書とともに鞄へ入れる。早く帰って勉強しないと。さすがに無遅刻無欠席で留年は洒落にならない。あと一週間で、一桁得点レベルから赤点回避域まで到達させることができるのかは、分からないけれど。
 下駄箱で靴を履き替え、急に沸き上ってきた焦りから小走りになったあと、家まで走って自分の体力が持つわけがないと気付き、普通のペースに戻した。校門までの敷地には、部活を終えた生徒がちらほらと見受けられる。
 ほとんどが歩いていたが、校訓が刻まれた仰々しい石碑の辺りで、ひとりだけ、所在なさげに突っ立っている女の子がいた。よく見ると柚樹だった。
「ゆず、誰か待ってるの?」
 そう声を掛けると、驚いたように顔を上げた柚樹が、笑みを浮かべた。
「誰か、ときますか」
 そしてすぐに笑みを消して不機嫌な声で、
「来週からテスト勉強するから家に来て。そう、自分で言ったのに?」
「う。そういえば先週、そんな話を、したような……」
 一人で勉強しても、どこから手を付ければいいのか見当もつかない。
 柚樹なら教えるのが上手いから、と自分から頼んだことなのに、忘れていた。
「帰る」
「あっ、待って、嘘です、忘れてないです、見捨てないでお願いだから」
 腕に縋り付くと、柚樹は足を止めた。
「そんなふざけた言い方してる場合? 留年がかかってるんだよ。もっと真剣に考えて!」
 予想以上の剣幕に、たじろぐ。
 お互いに顔を見合わせたまま沈黙が続き、
「強く言い過ぎた。私のことで煩わせてるせいもあるよね」
 柚樹は目を逸らしてアスファルトを見つめながら、そう零した。
「ううん。大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。そうだよね、ちゃんとしないと……。せっかくクラス分けがないんだし、進級できれば、みんなと一緒にいられるんだから……」
「蔵本たちも同じってことだけどね」
「蔵本も、多少はいい方向に向かうんじゃないかな」
「今度の根拠は何? 表情の変化とか?」
「んんー、そういうのじゃなくて。勘?」
「それなら、信じる」
「勘だよ、勘」
「聡美の勘は、よく当たるから」
 柚樹はにこりと笑って、歩き始めた。聡美も軽い足取りで、後に続いた。
「じゃあ、私の留年も避けられそうだね」
「何それ。今の話の流れと関係なくない?」
「柚樹の勉強の教え方は、私の勘なんかより、ずっとあてになるからね」
 柚樹は照れたのか、ふいっとそっぽを向いて、何も喋らなくなった。

 蔵本。あなたにもきっと、分かるようになると思うよ。
 今、柚樹、直、綾に対して抱いている、この気持ちを。
 安井と倉田を大切に思えるあなたなら、いつかきっと……。


◇◇◇


 冬でもスポーツドリンクばかりが並べられている自動販売機。その前を通らないと、部室棟から直接、駐輪場に行くことはできない。
 それを知ってか知らずか、自動販売機の横にある壁に寄り掛かり、自動販売機の発する灯りを頼りにしながら、数学の教科書を読んでいる女がいた。蔵本だ。部活には入っていないはずなのに。
 無視して通り過ぎようとすると、
「阪井」
 と呼び止められた。
 止まるつもりはなかったが、一人きりで蔵本と出会ってしまった状況に、体が強張って、勝手に足が止まってしまった。
「怖がらなくてもいいのに」
「そんなに簡単に怖さは消えない」
 振り向かずに、言い返す。
 震えていることが蔵本に漏れ伝わらぬよう、鞄のストラップ部分を握りしめる。
「この間は、虚勢で指、折られたんだ」
「鼠を追い込むのは楽しい?」
「猫なら、彩華のほうが合ってる」
「いや、狐の主食も鼠」
「困ったな。阪井と言葉遊びをする展開はさすがに予定してなかった」
 蔵本の履くローファーが発する小さな足音が、低めに設計された天井に反響する。
「聞きたいことがある。それを訊いたら、すぐ帰るから、安心して」
 蔵本は、自分で回り込んで、直の正面に立った。
「どうしてあれだけいじめられて、私みたいにならなかったのか? どうしてまた、いじめの標的になるような行動を取ったのか? 学習能力がないから?」
 やった側が言うことじゃない、と反射的に怒鳴りそうになった。だが、そこへ自虐のニュアンスが混じっていたことによって、矢崎に対して、綾に対して、あれだけみっともなく醜態を晒した蔵本が思い出された。
 ため息をついて、投げかけられた波紋をやり過ごす。
「一つ目。いじめられたとき、私には綾がいた。蔵本には誰もいなかった。二つ目。綾が好きだから。終わり。帰っていい?」
「もうちょっと掘り下げてくれると参考になる」
 蔵本と同じクラスになってから初めて見る、食い入るように相手の話を聞こうとする面持ちが、目の前にあった。直はやや気圧され、少し考えてから、答えた。
「ん……。まあ、あんたのことは心底嫌いだけど、あんたが安井や倉田とあと少し早く出会えていたら、結果が違っていたのかもしれないとは、思う」
「そんなにあの二人が必要なのかなぁ」
「当たり前でしょ。あんたと付き合える人間なんて、どう考えてもあいつら以外にいない。でも、どうして急に、こんなことを?」
「さぁ?」
 はぐらかしてから、体育館のほうを向いて、歩き出してしまった。
「蔵本!」
 咄嗟に、呼んだ。呼びかけに応じ、蔵本は背を向けたまま、立ち止まる。
 今の自分が、蔵本に何か投げかけられる言葉があるとしたら、一つだけ。
「もう……小学校も、中学校も、卒業しないと駄目なんだよ。あんたも私も。もしあんたが先に卒業できたら、その時は、話し相手くらいにならなってやってもいいよ」
「ふふっ。意外と言葉遊びが好きなんだね、君は」
「割とね」
「そうそう、阪井の中学時代の話だけどさぁ、加害側から、外に漏れることはないよ。安心して」
「なっ……。余計なこと、しないでよ」
「ああいう人種をどう料理しようが、私の勝手じゃない?」
 蔵本は、振り返りながらの微笑とともに、腹が立つほど可愛らしい仕草で首を傾げ、体を翻した。


 他の人の出入りの邪魔にならないよう、駐輪場近くの開けた場所に陣取る。
 風はひどく冷たいが、自転車通学でいつも風に晒されている自分にとっては、我慢できないほどじゃない。
 綾とは、気疲れして寝込んでしまった日曜日にも会っていなかったし、電話で話してもいなかった。久しぶりにゆっくりと、話してみたい気分だった。
 音楽プレイヤーでアルバム一枚を聴き終えてしまったくらいには長く、綾を待った。
 綾は、足元のおぼつかない様子で、街灯の下から歩いてきた。直に気付くと、小走りになった。直はイヤホンを外し、声を掛ける。
「練習疲れ?」
「ん、練習は普段通り」
「じゃあ、蔵本関係」
「当たり。そんなに分りやすかったかな」
「私のところにも、来たから」
 言いながら、自分の自転車を探した。見つけた自転車を引っ張り出してスタンドを跳ね上げ、サドルに跨る。
「久しぶりに、一緒に帰ろう。途中で話、聞くよ」
 そう言って綾のほうを振り返ると、月明かりと外灯に照らされた綾の目が、赤く潤んでいた。
「えっと……。泣いてる?」
「あ、うん。そうだね。たぶん」
「え、あ、私、何かした?」
「してないしてない。大丈夫」
 綾もまた、鼻をすすりながら自分の自転車を引っ張り出し、乗った。
 慣れた足運びで漕ぎ始めた綾に、直もついていく。校門からの下り坂に差し掛かったところで、車道と歩道に分かれて並走を始めた。
 汗で濡れた綾の前髪が、ものすごい勢いで後方になびいている。綾の目にはもう、涙はなかった。
 直は、正面に視線を戻した。
 ライトで照らされる足元に、捨てられたゴミが落ちていないかを注視しながら、葉の落ち切った銀杏の木が並ぶ長い坂を下り続ける。
「今日、来てよ。家に」
 そこで、呼びかけられた。
「どうしたの、急に」
 吹き付ける冷風に目をやられ、あまりの冷たさのせいで涙目になりながらも、前を見据えたまま、綾に応える。
「直と話したいことが、たくさんあるんだ」
「偶然だね。私も、たくさん、ある」
 斜面がゆるやかになり始め、市街地の眩しすぎる灯りが、近づいてくる。
 何から、話そうか。


◇◇◇


 このところ、居残り練習には女子の全員が参加していたが、今日の柚樹は、先に帰っていった。来週はもうテストなのに、全く勉強をしている様子がない聡美へ、勉強を教えに行くそうだ。
「お疲れ様でした。お先に失礼します!」
「お疲れ、クウ」
「センパイ、ほどほどにしておいてくださいね」
「うん。ありがとう」
 練習が長引くにつれ、一年生もちらほらと帰り始め、最後の草場が、体育館を後にした。一年生に紛れて染谷も帰ったらしく、やはり最後は、芝原と綾だけになった。
 綾も、練習を切り上げることにした。着替えと後片付け、戸締りを済ませてから、スポーツ用のサブバッグを肩に提げた。それから、男子のコートでシュート練習をしている芝原の背後に静かに歩み寄り、
「柚樹とはうまくいってる?」
 と声を掛けた。
 放たれたボールが、ゴールをかすめもせず、床に落ちて転がった。
「なっ、なんで、それを……」
 明らかな動揺が見て取れ、綾のほうが驚いた。
「あんなの、誰が見ても分かるから。柚樹くらいかな。分かってないのは。あの子、意外と鈍感だし」
「一年にもばれてんのか……」
「今日は、そんな芝原にいいコトを教えてあげようと思って」
「いいコト?」
「最近、気付いた。柚樹は僕に、嫉妬してるみたい」
「はあ」
「一番わかりやすいのは、僕が、芝原とのワンオンワンで体を密着させたりすると、あからさまに不機嫌になることかな。今度、見てみなよ。面白いくらい反応があるから」
「え、それが本当なら、かなりの可能性で……」
「うん、まあ、そういうこと。本人にもそれとなく聞いたから、たぶん、いけるよ。絶対とは言わないけど」
「わかった。ありがとう。でもさ、飯原は、どうなんだよ。染谷のほうも手伝ってるみたいだし。自分のことをもっと、考えても……」
「僕? 僕は、そういうのは、いいよ。だいたい、一割の男子の中から見つけろって言われてもねぇ」
「お、飯原も、ちゃんとそういう目線は持ってるんだ」
「当たり前でしょ。でも、付き合うとか、考えただけで……」
 父親のことが頭をかすめて、吐き気がする。
「考えただけで、何?」
「……その辺は、察してよ」
「女のほうが好きなの? クウとか」
 的外れな答えが返ってきて、綾は微笑んだ。芝原のいいところは、物事をあまり肩肘張って受け止めないところだ。
「ははは。クウね。確かに可愛いとは思うけど。そうじゃない。嫌なことがあって、恋愛自体に、いいイメージがないだけ」
「ああ、そういう……。悪いこと、訊いちゃったな」
「ううん」
 綾は軽く首を振り、体育館の鍵を投げ渡した。
「出口以外の鍵、締めといたから。最後の戸締りよろしく」
 恋愛か、とため息を吐きながら駐輪場へ向けて歩いていると、なぜだか、蔵本が体育館通路にいた。
 蔵本は、通路脇に設置されたアスファルト造りの水飲み場の、手前側に腰を下し、足をぶらぶらとさせている。月下に映える白い肌は、呆けたような表情すらも、淫靡に見せる。
「練習、張り切り過ぎ。青春してるね」
 こちらに気付いて、軽快な動作で水飲み場から降りた蔵本が、歩み寄ってくる。軽口を叩いた割に、表情は冴えない。
「ついてきて」
 突拍子のない申し出をされても、特に、迷わなかった。土曜日の話し合いで、すべてが終わったとは思えていなかったから。
 三年生でも同じクラスの蔵本たちと、このままお互いを嫌悪し合うのも、一つの選択肢としてはある。けれどその場合、直や柚樹や自分は、蔵本とのやり取りの中で、一連の出来事でお互いに猜疑心を向け合ったぎこちなさを思い出し、それを拭い切れないまま、学校生活を送ることになってしまうかもしれない。蔵本と決着をつけることによって、その可能性を少しでも減らせるのなら、それに賭けてみたかった。
 蔵本に対して強い怯えを抱き、一貫して蔵本との話し合いを拒んでいた直が、土曜日、あれだけ頑張って蔵本の弱さを曝け出させてくれたのだから。今度は自分が、頑張る順番だ。
 蔵本に案内されたのは、部室棟の一画だった。どうやら、その部室には、ドアのあるほうではなく、グラウンド側から入るらしい。窓のあたりに引かれた暗幕を開き、蔵本が先に、部屋へと飛び込む。綾も続いて窓枠に手をかけ、軽く跳んだ。
 暗幕のせいか、外には全く光が洩れていなかったが、中は電気が点いていた。床を覆うように敷かれた青いビニールシートの上に、灰皿代わりにされたチューハイの空き缶や煙草のパッケージが落ちている。
「剣道部の元部室へようこそ」
 蔵本が微笑む。
「澤山たちが勝手に使ってるらしいよ」
 蔵本は空き缶を蹴っ飛ばして目の前のスペースを空け、そこへ座るのかと思ったら、立ったままだった。結果として、水と吸い殻が床に飛び散っただけ。綾はその正面に、静かに座った。空き缶は手で退かした。
「前置きなしで入ろうか。これ、阪井が中学一年の時にいじめを受けていたときの写真」
 腰を屈めた蔵本から差し出されたその写真には、床へ体を押さえつけられた直が、写っていた。
 写っているだけで五人はいる男女に、押さえつけられた直は……服を、着ていない。
「阪井を潰すには、過去を思い出させてやるのが一番かと思ってね。これを撮った奴らに、いろいろ話を聞いたとき、貰った」
 綾は、写真を破り捨てたい衝動をどうにか押さえ、蔵本を睨みつけた。目が、鼻の付け根が、顔が、熱くなってくる。鈍い頭痛が、頭全体に広がっていくのがわかる。
 蔵本は、綾から写真を奪い取ると、転がっていた安物ライターを使って火を点け、床に放った。
「データ元は、壊してきた。外部メモリーもね」
「これを撮ったのは、誰? 教えて」
 蔵本は、また別の写真を鞄から取り出し、渡してきた。
 殺意を伴う頭痛にふらつきながら、どうにか焦点を合わせて、その写真を見る。
 綾が何か大きなジェスチャーをしているのに対して、今の高校の制服を着た直が、口を開けて笑っている。
「阪井はもう、あの連中と、あの中学校と、決別しようとしてる。本人は、卒業なんてふざけた言い方してたけど。君は、友達の門出を素直に祝えないの?」
 潮が引くように、急激に目まいが収まってくる。
「その写真はあげる」
 綾は軽く頷き、自分の鞄に入れた。
「それにしても、飯原も阪井も、お互いのことになるとすぐ、頭に血が上るねぇ」
「仕方ないじゃない。勝手にそうなるんだから」
「阪井も、私が飯原を潰そうとし始めたとき、真っ先に噛みついてきて」
 灰になりかけている最初の写真を見つめながら、俯き加減に言った蔵本の声が、小さくなった。
「そもそもあれが、失敗の始まりだったんだよなぁ。阪井のことを調べて、なんでこいつ普通の顔して生きてるんだよって、怖くなって……。怖いなんて、小学生の時に捨てた感情だと思ってたのに。怖かった。阪井のことが、怖くて、理解できなかった」
 後ろの壁に、蔵本は、背中を預けた。
「こんな写真を撮った奴をぶっ殺してやりたい。飯原、さっき、そう思ったでしょ? 私に対しても思ってるだろうけど。私の意識の中心にあって、ずっと消えない邪魔なものが、それ。どう壊そうとしても、中心に居座って、ぴくりとも動かない。だから、阪井がなんであんなに、嬉しそうに笑えるのかが分からないんだよ、私には」
「私はどう頑張ったって変われない。だから、私が土曜日に言った言葉は的外れ。そういうこと?」
「たぶん、そういうこと」
 蔵本が二つ目の空き缶を蹴っ飛ばして更にスペースを広げ、今度こそ本当に、座った。
「聞かせてよ、飯原。どこをどう捉えれば、私が大丈夫な部類に入るのか」
「わかった。具体例、挙げる」
 あの歓楽街にはいろいろな人がいた。
 高校生の娘がどこかへ消えた途端、それまで近所中に響いていた取り立ての声が止み、以後もそこで暮らし続けた夫婦。たまたま目が合った中学生の男子を、数時間にわたる暴行のすえ気絶させて衣服をはぎ取り、車道の真ん中まで引きずって放置したことにより、逮捕された会社員。友人に勧められた大麻を入り口として、覚せい剤にまで手を伸ばしてしまい、購入資金欲しさの強盗傷害で逮捕された幼馴染のお兄さん。未認可風俗店の店長の娘に手を出そうとして、骨という骨を折られた中年男。娘の目の前で母以外とのセックスを見せつける父親……。
 殺人なんて大それた事件はひとつもなかったけれど、それ以外の話ならいくらでもある。
 淡々と実例を挙げていくと、蔵本が途中で話を遮った。
「いい、いい。もういいから。聞いてて気分悪くなってくる」
「へえ。意外に繊細なんだね」
「飯原の言い方に、悪意がありすぎ。例に挙げた連中のこと、軽蔑しきってるでしょ、どう考えても」
「それは、当たり前だよ。あんな風になりたくない、そう思ってる例を挙げたんだから」
 本当のことを、言った。相手が蔵本以外だったら、自分の育ってきた境遇、ましてや、その境遇について思っていたことなんて、言わなかっただろう。けれど、矢崎への行いなど、事件化されていないほうがおかしい蔵本に対して、そんな遠慮は要らなかった。
「もし蔵本が変われないなら……このまま復讐を続けるなら、僕が蔵本を、さっき挙げた人たちの末尾に付け加えて、終わり」
「同列にされたくなければ変われ、か」
 ため息交じりに呟いた蔵本が、鞄からまた、何かを取り出す。
 止血のため、蔵本の腕に巻きつけたTシャツ。
「これ。忘れないうちに返しとく」
「ああ」
「前のは血まみれで使い物にならないから、同じの買ってきた」
「……それは、わざわざ、どうも」
 よく見ると、同じようなもの、ではなく、全く同じところに全く同じ模様が入っている、正真正銘の同一商品だった。
「こんなことにかける時間があるなら、自分のために使いなよ……」
「気が紛れるんだよ。字面だけの情報を辿ってると」
「変にフェアだよね、蔵本って。普通、あれだけのことをしたあとに、そこまで手間かけて贈り物する?」
「普通、あれだけのことをされたあとに、身勝手な相談に乗る?」
 皮肉な笑みで返され、綾は言葉に詰まった。
 しかしいつもの蔵本に戻ったのかと思ったのも一瞬で、すぐに口元から笑みが絶えた。
「君の言葉、信じてみるよ」
「え?」
 声が小さすぎて聞き取れず、心持ち、顔を蔵本のほうへ近づける。
「だーかーら。君の言葉を信じる。こだわるのはやめる」
 綾の目を見て早口で言い切った蔵本は、すぐに視線を外した。見間違いかもしれないが、耳が赤い。
 初めて見る蔵本の表情に、綾は笑みを零す。
「変われると思うよ」
 蔵本は一度だけ、しっかりと頷き返した。それからすぐに鞄を持って立ち、部室の暗幕を開いて窓枠から外に飛び出した。
 ひとり残された綾は、丁寧に畳まれていたTシャツを更に小さく畳み直そうとして、型紙が入っていることに気付いた。そこまで買った時と同じ状態を意識する必要はないのに。呆れながら型紙を取り出すと、そこにサインペンで文字が書いてあった。
『ありがとうございました。私の幼稚な復讐を、あなたたちが体を張って止めてくれたこと、忘れません。』
 止め、はね、払いがきちんとしている、柔らかで美麗な筆致。どう足掻いても角ばった無骨な字しか書けない自分とは、大違いだった。
 何度か見惚れるように読み返したあと、今、この場で誰かに見つかったら、自分だけが吸い殻や空き缶の持ち主とされることに気づき、慌てて型紙とTシャツを鞄に突っ込んだ。


 元剣道部の部室から出ると、蔵本と二人きりでいた疲れが、どっと押し寄せてきた。寒さと部活での練習疲れも追い討ちをかけてきて、足が思うように進まない。
 だが、ふと見た駐輪場の手前に、直がいるのを見つけ、自然と足が速まった。直は、アップ気味に後ろ髪を束ねた部活中の髪型のまま、音楽を聴いていた。
 こちらに気付いていないのかと思ったら、急にイヤホンを外した。
「練習疲れ?」
「ん、練習は普段通り」
「じゃあ、蔵本関係」
「当たり。そんなに分りやすかったかな」
「私のところにも、来たから」
 言いながら、直は自転車を探し始めた。
 その背中に背負っているものは、あの写真で、蔵本に教えられていた。
 どうして言ってくれなかったの、なんて、言えない。自分だって、直に対して何の相談もせず、自殺未遂に及んだのだから。
「綾、久しぶりに、一緒に帰ろう」
 こちらを振り返った直が、怪訝な表情になる。
「えっと……。泣いてる?」
「あ、うん。そうだね。たぶん」
「え、あ、私、何かした?」
「してないしてない。大丈夫」
 話したい。
 もっと、いろいろなことを、たくさん、話したい。


◆◆◆


「でも、本当は、普通の生活を、送りたかったんです。友達と、くだらないことで笑い合うような、何の変哲もない日常を、送ってみたかったんです。
 できませんでした。わたしは、人格形成に大きな影響を与えるという、小学生の時期に、いないものとされ続け、挙句の果てに嬲られ続けたからです。鬱屈を、どこかにぶつけなければ、自分が終わってしまっていました。これは言い訳なんでしょうか。言い訳でしかないんでしょうか。
 本当は、こんなやり方じゃなく、飯原さんと、関わってみたかったんです。高校に入って初めて、久美と彩華以外で話しかけてくれたのが、飯原さんでしたから。そっけない対応しかできませんでしたが、本当に、うれしかったです。
 飯原さんが自殺未遂したとき、飯原さんについて好意的に思っていたことを知っているのはわたし自身だけで、周りは、そうは思ってはくれませんでした。今までのわたしの行動が原因です。けれど、自殺未遂の原因が、わたしのいじめによるものだなんて、決めつけられたら……いくらわたしの行動が原因とはいえ、我慢できませんでした。わたしがこの世で一番嫌悪している人間たちと同列にされたら、今までわたしのやってきたことに、激しい矛盾が生じてしまいます。
 あなたの疑問には答えましたよ。
 まだ駄目ですか? このあと、友人と約束があるんですが……。ああ、その友人について。わたしの幼稚な復讐に付き合ってくれた、とても善良な人たちですよ。
 彩華は五年生の時、クラスメイトの彼氏を横取りしてしまいました。これについては、擁護できませんね。彩華が悪いです。けれど、その結果生じた低俗で下劣な報復は、復讐を開始した時点のわたしでも、実行を躊躇うほどのものだった。そのことだけは、言っておきます。小学生がどうしてあそこまで……いや、小学生だからこそ、かもしれない。
 んー、そうでしょうか? あなたも、いざ彩華に言い寄られたら、一週間と持たずに、彩華の言い成りになっているかもしれないですよ。
 久美は、担任教師よりも背が高く、目つきが気持ち悪いという理由だけで、でしたね。頑丈そうに見える分、何をやっても許されるという空気が、彼女を気が狂うぎりぎりのところまで追い立てていました。
 わたしと久美と彩華は、六年生の教室で一緒になりました。先生たちが気を遣ってくれたんでしょう。一緒のクラスには、三人それぞれのいじめを主導する立場の人が、ひとりもいませんでした。いわゆる取り巻きだけでした。
 わたしたちは、ちょっと脅せばすぐにこちら側へ寝返る人間を優先的にあたり、他のクラスに押し込められたリーダー格たちを、孤立させていきました。クラスが分かれただけで、薄情なものですね。久美は最初から、手伝ってくれました。途中まで様子を見ていた彩華は、復讐が軌道に乗り始めると、調子よく、押しかけてきました。
 彩華もいい子ですよ? 確かに、行動の一つ一つが無邪気な打算にまみれていますが、その奔放さに、わたしも久美も、救われてきました。彼女も、わたしと久美と一緒に過ごす時間を、帰る場所だと思ってくれているみたいですからね。それに最近は、彩華の行動も落ち着いてきました。わたしだけが、子供のままです。
 続けます。わたしたちは、復讐を決行しました。先生にも親にも感付かれないよう、細心の注意を払って。
 武器は、一部にしか使っていません。加害者としては、わたしたちをごみくずのように扱い甚振ったくせに、被害者となると、小学生の脆い部分がむき出しでした。取り巻きに裏切られたことだけでも衝撃的な出来事だったでしょうし、ましてやその取り巻きに様々な攻撃を受けてしまえば、ひとたまりもなかったんでしょう。たいていはすぐに不登校になり、うまく耐えた奴も、中学で不登校になりました。
 今のところ、報復を受けたことはありません。あまり表立っては危害を加えませんから。
 はい。わたしたちは、人間関係をちょっといじくるだけです。
 ああ、矢崎は、特別なんですよ。わたしも暴行を受けていたし、久美や彩華への暴行にも噛んでる。まあ、矢崎はあんな優等生面してるから、一方的にわたしたちが嬲っているように見えますけど。一番、神経を擦り減らされたのは、抵抗の激しい矢崎への報復でした。小学生のときも、矢崎だけにはうまく逃げ切られましたから。あのあばずれ女は……。あ、矢崎の話はこのくらいにしておきましょう。考えただけであなたに八つ当たりをしたくなります。
 飯原さんたち? 四人のうち、誰かが欠けていれば、うまくいっていたかもしれませんね。もちろん、今は感謝してます。皮肉じゃなく、ね。
 あの。そろそろいいでしょうか。久美と彩華との待ち合わせ時間が近づいています。
 だいたいのいきさつは包み隠さず話しました。あなたにも迷惑をかけましたが、これだけ話せば見合うはずです。改めて告発したければ、ご自由に。
 はあ。最後の質問がそれですか? 何もしなかったのは単純な理由です。だってあの子、反則的に可愛いじゃないですか。留年は避けられそうで、安心しているところです。気持ち悪がりたければどうぞ。恋愛対象がおかしいのは自覚してます。
 では、失礼します。
 ええ、もう、二度と。
 ――恩返しは、終わりましたから」


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