自壊

 襟代わりのファーが毛羽立っているベージュのコートは、他の四人のどの防寒着よりもデザインが子供っぽく、年季が入っていて、貧相に見えた。もちろんそんなことは口に出さず、ポケットに手を突っ込んで、ベンチの周りを歩く。今日は寒波の谷間で、温かな日差しが駅前ロータリーにも降り注いでいるけれど、とても、ベンチにのんびりと座っていられはしなかった。
 蔵本たちと話し合いをするから、土曜日を、貸してほしい。そう伝えてきたのは、聡美と柚樹だった。直は二人の前では強く反発し、綾と二人きりになったときには、泣きそうな顔をして、絶対に無理、綾も反対しようよ、と零していた。けれど、結局は直も、聡美の度重なる説得に負けた。蔵本はまだ自分たちを狙っている、それは綾と柚樹が襲われてはっきりした。このままでいたらまた、やられる。
 N駅――柚樹が普段、乗り降りしている駅――の南口のロータリーに、正午。
 それは、柚樹が蔵本に渡していたメモ書きの中身でもある。前から、聡美と柚樹、それに矢崎の三人で、蔵本を止めるための計画を練っていて、蔵本たちをどうやって話し合いの席へ引きずり出すか、というところが問題になっていたらしい。柚樹はその懸念を払拭するために、あのタイミングで、蔵本に紙を持たせた。
 いつもの四人に、今日は矢崎が加わっている。
『私の責任ですから』
 小さな声で、矢崎は言った。約束通り蔵本に返すため、綾は、預かっていたカッターや金槌を、ここに持って来ていたが、それらを見てから矢崎はしばらく、二の句を継げない様子だった。金槌のほうには、かすれながらも小学校の名前が書いてあって、間違いなく、矢崎と蔵本の母校のものだったようだ。
 南口駅前ロータリーのすぐ近くには、交番がある。聡美の話では、頼りになる警察官がいるとのことで、何かあったらそこへ行こう、と決めてあった。その交番に近づいたり、遠ざかったりしていた綾に対し、
「綾、落ち着きなよ」
 直はそう言った。けれど直も、先程までは、街路樹の根本に生えた雑草を、眺めたり引き抜いたりしていた。
 ベンチに座っている三人も、どこかおかしい。聡美は、なんでもない表情をしながら、持参した飴をばりばり噛み砕いては次々に新しい飴を口に含み、柚樹は、音楽プレイヤーを直から借り、音漏れで歌詞がはっきり聞き取れるくらい大きな音で、聴いている。矢崎はベンチに座って背中を丸め、しきりに貧乏ゆすり。
 直に言われたのもあるが、さすがに緊張するのにも疲れてきて、柚樹たちの座るベンチのすぐ隣、ちょうどそのベンチと同じくらいの高さの四角い構造物に座る。
 向かい側には、人が三人、並んで通れるくらいの間隔を空けて、もう一つのベンチがある。蔵本たちと話をするなら、適切な距離だろう。この駅には改札しかなく、近くに大した店もないので、今は人通りも車通りもほとんどない。
「早いね、あんたら」
 その声に駅側を振り返ると、安井がいた。やや遅れて、倉田と蔵本。
 最初、蔵本は、倉田と談笑しながら歩いていたが、途中でふと、視線をこちらにやった。一点で視線を止め、それからは早歩きで近づいてくる。綾は思わず、身構える。けれど蔵本は綾を通り過ぎ、ベンチの真ん中にいる矢崎の前で、立ち止まった。蔵本は無表情で矢崎の首を掴んだ。綾は咄嗟に、蔵本の右腕に飛びついた。拳は、矢崎の鼻先をかすめて、止まった。
「なっん……でここにいる! お前!」
 綾と柚樹を襲った時にすら薄笑いを浮かべていた蔵本が、そんな余裕も見せず憎しみに顔を歪め、矢崎に掴みかかった。
 四人全員で蔵本を引き離すまでに、蔵本はしぶとく手を伸ばし、顔面を捉えようとした。
「見逃してやったんだろ。殺してやりたいの我慢して、たったあれだけで見逃してやったんだろ!」
「蔵本! 何かしたら、交番に駆け込むよ」
「それがどうした。行けよ! こいつは……こいつだけは……」
「瑞葉!」
 四人で必死に押し留めていたが、蔵本の下の名前が呼ばれたと同時に、背後から手が伸び、一気に蔵本の力が緩んだ。
 蔵本を羽交い絞めにしたのは、安井だった。
「頭冷やせ!」
「どいて! 久美まで味方するつもり? そこの下衆の!」
「矢崎、腕を!」
「離して!」
「早く!」
 いまだに暴れ続ける蔵本を安井や直たちと一緒に押さえつけながら、綾は横目で、矢崎の様子を窺った。矢崎が言われた通り、腕まくりをした。矢崎の肌を、信じられないほど多くの傷跡が這いまわっていた。縦、横、一直線のラインが何本も走り、傷跡が重なっているところもある。
 横から倉田がやってきて、矢崎の腕を取った。
「瑞葉、見て」
 倉田の言う通りに、蔵本は、矢崎に視線を遣った。
「こいつの体にはまだ、ちゃんと、残ってるよ」
 倉田はすぐに、矢崎から手を放す。続いて羽交い絞めにされた蔵本のほうへと近づいた。
「だから泣かないで」
 蔵本を抑えるのに必死で気付かなかった。
 彼女のもともと白い顔が、さらに色味を無くした真っ青な顔になっていた。その頬を、幾重にもできた涙の筋で汚していた。倉田が優しく髪を撫でると、蔵本はそのまま、顔を俯かせた。
「離れて。鬱陶しい」
 蔵本は小さく、濡れた声で、そう呟いた。

 向かいのベンチで、安井が蔵本の肩を抱き、泣き止むのを待っている。
「聞いてないなぁ。なんで矢崎がいるの?」
 ひとりだけでこちらに近づいてきた倉田が、のんびりとした口調で、綾に問う。けれど目は真剣そのもので、綾はたじろいだ。
「何で、って……」
「私のせいだから」
 蚊の鳴くような矢崎の声が、聞こえた。
「私の責任だから」
「ああ、そうだよね。瑞葉がああなったのは、貴方の責任もあるよね。よかった、自覚してるみたいで」
 倉田がせせら笑った。
「倉田、その……責任って何」
 直が、何かを噛み殺したような表情で、倉田に訊く。
「打たれ強いなあ、阪井さんは。私たちが何をしたのか、忘れたわけじゃないでしょう」
 途端に直が、眉尻を下げ、視線を足元のコンクリートへ向けた。その代わりに、綾は、倉田の目を真正面から睨んだ。
「倉田。直がどんな気持ちでここまで来たか、分かってないみたいだけど。直をまだ追いつめるつもりなら、許さない」
「はいはい。そうですか。信頼関係を取り戻したわけですね。妬けるなぁ、そういうの」
「こんな時に、ふざけないでよ」
「でも、私と瑞葉と久美だって、負けてないと思うよ。私たちは絶対、何があっても、瑞葉を疑ったりなんかしない。飯原さんと違ってね」
 倉田は綾から目を逸らし、矢崎を見据えた。
「小学五年生のころ、だったかな。瑞葉は、いじめられてた。勉強が全くできなくて、低学年のころから、クラスメイトにも担任にも、いない人間として扱われてきたみたい。瑞葉と一度も同じクラスになったことがなかった私も、知ってるくらいには、有名だったよ。ずっとひとりで、瑞葉は過ごしてたんだと思う。けど、あの顔のつくりでしょ? 五年生のころから、男子と男の教師にだけは、優しく扱われるようになって……それに嫉妬する奴らが、いた。矢崎もそのひとり」
「彩華。それ以上言わないで」
 まだ嗚咽を零している蔵本が、乞うように言った。倉田は頷き、
「私は男に媚びてるせいでいじめられてたし、久美はあの大きい図体のせいでいじめられてた。その三人が、六年生のとき、一緒のクラスになった。後はそこから想像してよ? 私たちが誰に加害して、誰を退学に追い込んできたか」
「ぼ、僕と直は、蔵本のことなんて、知らない。高校から、この町、だよ」
「だから、想像して? いじめをやる連中と同列にされたことを、瑞葉がどう思ったのか」
「でも、それは、周りが勝手に……」
「そうだよ。瑞葉のは、ただの、八つ当たり。だけど私たちには、その気持ちがわかる。……矢崎が最後だった。矢崎で終わった。これで瑞葉は大丈夫。私はそう思った。けど、貴方と阪井さんがその邪魔をした。だから、飯原さんへの八つ当たりを、手伝った。そのためには、阪井さんは、排除しなきゃいけない。瑞葉も私も久美も、誰にも、助けてなんてもらえなかった。阪井さんみたいに、自分を犠牲にして、助けてくれる人はいなかった。阪井さんは異質。阪井さんは怖い」
 倉田は笑って、直のほうに目をやった。
「あの時、久美が、阪井さんに言ったよね。いじめられたことのある奴は、目を見ればわかる、烙印が押しつけられてる、無策でいるからこうなる、って。あれは全部、自虐。久美の顔、見てなかっただろうけど……。必死だったよ、久美も」
「あの時……?」
「なんでもないよ」
 直が誰に向けるでもなく、呟いた。続けて倉田に向き直り、
「理由は分かった。けど、私たちには何の関係もないよね。そんな同情を買おうとするような話して、どうするつもり? まさか今さら、仲直りしたいとでも言うわけ?」
「違う。非を認める。だから……瑞葉から取り上げた二つを、返してほしい。それと、学校や警察には、言わないで」
「非を認める……。認める。認めるから何? あれだけ好き放題やってきて……。一歩間違えば、取り返しのつかないことになってたんだよ」
 直と倉田が、しばらく視線を交錯させた。
 すると、倉田は黙って、直に手を差し出した。そして人差し指を残して、拳を丸める。
 直も無言のまま、倉田の人差し指を掴んだ。そして、徐々に反対方向へ、曲げ始めた。
「いい? 私、本当にやるよ」
 何も応えない倉田は、目を閉じた。その眉が痛みに顰められていく。人差し指に何かあるのだろうか、と考え、すぐに思い出した。直の人差し指に包帯が巻かれていたこと。あれには、蔵本たちが絡んでいたということだろうか。
 蔵本や安井はどう動くのか。ベンチのほうをちらりと見遣る。蔵本が既に立ち上がっていた。歩み寄り、倉田の肩に手をかける。
「彩華。私が代わる」
「え、ちょっと、瑞葉……」
 蔵本はやや手荒に、倉田を押しのけ、右手の人差し指を、直へと差し出した。
 直は一気に、蔵本の指を反対方向へ折り曲げた。そこに、倉田に対するような遠慮はなかった。蔵本が悲鳴を噛み殺した小さな声を発し、その場にうずくまった。
 続けて蔵本は、そのままの態勢から、足元を覆うコンクリートに、額を二度、叩きつけた。次に懐から何かを取り出し、右手を左肩に叩きつけた。
 蔵本は立ち上がり、こちらを振り向く。右手人差し指は変な方向へ曲がっている。額から血を流し、左肩にはカッターが突き刺さっている。そして蔵本は刺さったカッターを、横に滑らせた。肩口の皮膚が裂け、血が飛び散った。後から後から、血が流れ出ている。
「これで怪我の程度は、阪井と青野と、同じくらいになったかな?」
 カッターをコンクリートの上に放った蔵本は、目に涙を滲ませながらも、唇の端を柔らかく上げた。


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