終章 蔵本瑞葉
壊したくなる

 綾は咄嗟に、ジャージが入って膨らんでいる鞄を盾にして、顔の前に滑り込ませた。
 かろうじて間に合い、カッターは鞄に刺さった。蔵本はカッターを引き抜き、別の角度から顔を狙ってくる。また鞄で防ぐ。
「柚樹を中に入れて、鍵閉めて!」
「は、はい!」
 綾が後輩たちに怒鳴ると、蔵本は笑いながらカッターを突き出してきた。顔を狙う三度目の刃を、かろうじて遮った。けれど今度の蔵本は、鞄に刃を突き刺したまま、力を込めて突っ込んでくる。自分の鞄によって視界を塞がれ、死角から繰り出された蹴りを、腹にもらった。
 爪先に腹を抉られ、胃が捻じ切れるかのような痛みが走った。練習終わりで足に疲れが来ていた綾は、踏ん張ることができず、足元のコンクリートへ前のめりに倒れた。手をどうにかついたが、擦りむいた。蔵本の追撃はなかった。
 コンクリートへ寝そべった態勢のまま、吐き気を堪えながら後ろを見遣ると、震えるだけの存在になってしまった草場のそばに、マネージャーと三瀬、斉藤、それに柚樹までが倒れていた。
「無視し続けろって言ったのに、どうして、仲良くしちゃってるのかなぁ」
 蔵本に見下ろされている柚樹は、肩で激しく息をしながら、手だけを動かして、後ろに下がろうとする。逃げ切れるはずもなく、カッターを握り直した蔵本に、徐々に間合いを詰められていく。
 すると、体育館の中から、何かが飛んできた。それは蔵本の体を見事に捉えた。コンクリートの上に落ちたその物体を見ると、バスケットボールだった。よろけた蔵本に、次々にぶつけられた。蔵本は柚樹を諦めたのか、すぐさま反転して、こちらに向かってきた。バスケットボールは、ここまでは届かない。這いつくばっているこちらに、カッターを突き下ろしてきた。体を捻じり、手元にあった鞄を手繰り寄せ、受け止める。顔狙いだと知っていなかったら、防げなかっただろう。
 蔵本は、綾の上へ馬乗りになると、カッターが刺さったままの鞄を、放り投げた。
 今の蔵本には武器がない。殴り合いなら、どうにかなる。反撃しようと、手足を必死に動かすが、蔵本の肘が先ほどの爪先と同じ位置に叩き込まれ、綾はその出鼻を挫かれた。痛みに耐えるため体を丸めることすら許されず、涙が溢れて目尻を濡らした。
 目を強く閉じ呻く綾の頬に、冷たくて硬い何かが、あてられた。
 薄目を開けた綾に対し、蔵本がこれみよがしに見せつけてきたのは、金槌だった。
「芝原! こっちに来い!」
 綾の目をまっすぐに見据えたまま、蔵本は怒鳴った。
 馬乗りになられて下半身の自由が利かない。左手で首元を抑えつけられている。残ったのは腕だけ。蔵本の体に攻撃を加えることはできるが、直後に金槌が振り下ろされるだろう。
「武器は一つとは限らないよ、綾ちゃん。左手にずっと持ってたのに、気付かなかった? それにしても、運動部が六人がかりで、私みたいなの一人、止められないなんてね。情けない」
「なんで、僕以外の人間まで」
「理由なんかないよ。ただお前の存在が苛ついてしょうがないだけ。あー本当、喋られるだけで苛々するなぁ。どうしよっか。これで顔の形変えちゃおうか」
 蔵本は、綾の頬を、金槌でつついた。
 あまりにもさり気ない言い回しに、綾は一度、その言葉を聞き流した。そして改めて蔵本のやろうとしていることに気付く。
 気付いたが、動いたら容赦なく金槌を振り下ろす、と、蔵本の目が言っている。パニックになって暴れることなどできなかった。
「頭、どうかしてるよ」
 先程の蔵本の言葉に従ったらしい芝原の声が、頭上に聞こえる。
「褒めてくれてありがとう。後輩が残ってるのは予定外だったけど、これで全員、揃った、か。私が許すまで、誰も動かないで。人質はこいつね」
 そういうと、蔵本が、前のめりに身を屈めてきた。両手を綾の両耳の近くに突いて、微笑んだ。金槌を持った手で、髪を優しく、撫でられる。同性の自分でも、これほどの至近距離で蔵本の微笑みを目にしてしまうと、心を奪われそうになる。けれど状況が状況だけに、それは避けることができた。
「私、飯原のこと、好きだよ。私に怯えないで話しかけてくれたのは、久美と彩華抜きだと、飯原だけ」
 温かな唇が、耳に、微かに触れた。そこまで近づいての耳元での囁きに、綾は顔が赤くなっていくのを感じる。肌に心地よい蔵本の黒髪が、額や頬にかかっている。
 蔵本は、上体を元に戻した。
「それ以上に、嫌いだけどね。私を"あんな連中"と同列扱いした教師も死んでほしいけど、原因を作ったのは飯原の自殺未遂だから。けど、いつも通り、やろうとしたら……阪井のせいで調子が狂った。今、あいつがいないうちに、いろいろ試してみるよ。もう一回、自殺したくなるくらいでやめてあげるから、安心して」
 耳触りの良い鈴の音を、直接耳朶に注ぎ込まれていた綾は、ややぼうっとして、そこで我に返った。
 そういえば蔵本は、染谷のことを、呼んでいない。
「安井と倉田が、いないね。澤山も」
 声が震えているのが、自分で分かる。蔵本なら、本当に、やる。綾が自殺したくなるほどの何かを。
 けれど今は、時間を稼がなければいけなかった。
「あの二人を、こんな個人的な行動に付き合わせるわけにはいかないよ。澤山はただの外注業者」
「個人的な、行動?」
「今朝、阪井が登校してから、気持ち悪くてしょうがない……。頭痛も、吐き気も、収まらない。何なんだろう、あいつは。あいつを見てると、あいつが守ろうとしてるもの全部、八つ裂きにしたくなる。お前を壊したくなる」
 ゆっくりと、金槌が振り上げられた。蔵本の左手に力が入り、喉笛を絞めつけてくる。息ができない。避けられない。
 そこで染谷が、蔵本の背後に立っているのが、視界に入った。
 避けられないならと、自由の利く両手で、蔵本の腹の辺りを突いた。腰の辺りを圧していた温かみが、消えた。衣擦れの音だけが聞こえる中で形勢は逆転し、蔵本は、コンクリートの上に、うつぶせで押し付けられていた。染谷と芝原、男二人によって体の自由を奪われ、体格的にはここにいる誰よりも小さい蔵本は、身動きが取れないようだった。
 綾は立ち上がり、柚樹や草場がいるほうに駆け寄った。綾が柚樹に声を掛けようとする前に、
「青野、怪我は!」
 蔵本の両腕を拘束した芝原が、訊ねる。
「平気。もう血も止まったし、意外と浅かったみたい」
「そっか、よかった……」
「芝原。えっと……ありがと、ね。芝原が機転利かせてボールぶつけてくれなかったら、もっと酷いことになってた、と思う、から」
「あ、ああ……。うん。そうならなくて、嬉しい」
 妙に照れ合って、場違いな初々しさを漂わせている男女から目を逸らし、後輩の一人一人に声を掛けた。いずれも蔵本の突然の行動に対する驚きからは回復していて、傷を負っている後輩はいなかった。カッターや金槌は、綾と柚樹以外に対して、使わなかったらしい。あくまで対象は綾と柚樹、ということだろうか。変な所で、フェアだ。
「警察とか、先生とかに突き出そうか? 傷害事件になってもいいくらいだけど」
 染谷が、蔵本の背に右膝を乗せたまま、柚樹に聞いた。
「私は、大事にするつもりはないかな。服の生地が厚かったから傷は浅いし、今ちょっと、家のことがごちゃごちゃしてて、関わってる余裕ない」
「んん……飯原とか、一年とか、怪我は?」
「大丈夫」
「私たちは全員、軽いあざとか、です」
「なら、解放するしかない、か? いつまでもこのままでいるわけにはいかないよなあ」
 綾はその会話の間に、遠くに落ちていた鞄を拾い、突き刺さったままのカッターを引き抜いた。中学生の時から使ってきた安物鞄は、穴だらけだ。
 刃についた血は、乾いている。裏返してカッターを見てみると、刃を覆っている黄色い部分に、
『  小 校  図画工 室 NO.4』
 と、黒のマジックで縦に書いてあった。かすれた文字で、ところどころ剥げてはいるが、小学校の図工室に保管されてあったものだろうということは、予測がつく。
 なぜこんなものを、蔵本が……。
 気になって、金槌を奪っていた芝原に、それを見せてほしいと頼んだ。見ると、金槌の取っ手にも、同じようなことが書いてあった。
「こいつ、離した瞬間、襲いかかって来たりとかしねぇよな?」
「あ、ちょっと待って」
 柚樹が言い、蔵本の近くに寄った。そして鞄からルーズリーフと筆記用具を取り出し、壁を下敷き代わりに、何かを書いた。柚樹は書き終えるとルーズリーフを折りたたみ、それを、蔵本の手に握らせた。
「カッターと金槌、返してほしければ、これを読んで、言う通りにして。みんなに何かやったら、カッターについた血を証拠にして被害届出すから。金槌は捨てる」
「分かった。言う通りにする」
 捕まえられてから初めて、蔵本が口を開いた。喋り口は淡々としたものだった。
「じゃあ、離すぞ。いつでも反撃できるようにしとけ」
 染谷がまず、蔵本の上から膝を退け、続いて芝原が腕を離した。
 周りが身構える中、蔵本は立ち上がって、スカートやブレザーについた土汚れを払った。柚樹に渡された紙をその場で読み、折り畳んでブレザーの胸ポケットに入れ、ゆっくりと、正門のほうへ歩き出す。さすがの蔵本でも、男子を含めた八対一では勝ち目がないと、分かっているのだろう。
 蔵本の小さな後ろ姿が見えなくなると、大きなため息をついた。おそらく全員が同時に。
「クウ、まだ立てない?」
 柚樹が声を掛けた草場は、まだへたり込んだまま、壁に背中を預けている。
「ごめんなさい、もう少し。青野センパイが怖いって言った人は、あの人ですね」
「うん。さっきも、精一杯、虚勢張ってた」
「虚勢張れるだけ、すごいですよ。あれが怖くない人なんて、いるんでしょうか。まだ震えが止まらないです」


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