3−4 父の手

 ベッドの上に座り、ミュージックプレイヤーで環境音楽を聴いていた。
 自分だけの世界に逃げ込んでいると、突然、静謐な音の世界に、怒声が混じり始めた。
 一階での父と母の口論、だった。二階の直の部屋まで、しかもイヤホンを両耳にした状態なのに、聞こえてくる。
 イヤホンを外す。外した途端、口論の内容が聞き取れるようになった。
「介護もまともにできない、何の相談もなく精神病院へ通い出す。おふくろの認知症も悪化させて、今度は直が不登校! お前は俺にどれだけ恥をかかせれば気が済む! どこから洩れたのか知らんが、会社のバカどもの間で噂が広がってるんだぞ!」
「なんで全部私のせいなのよ! あなたが自分の親の介護を私ひとりに押し付けたのが最初でしょ!」
 昼夜逆転の生活が回り回って、今日は、学校に通っていた頃と同じサイクルで過ごせた。そのせいで、こんな口論を聞く羽目になってしまった。
 介護に疲れ果てて抜け殻のようだった母が、金切り声をあげている。
 もう一度イヤホンをつけ直そうとしたが、母の反論のせいで父がいつもよりも熱くなっている気がして、できなかった。聞いていないと、何が起こるか分からない。
「仕事が忙しい忙しいって言って、相談しても相手にしてくれなかったじゃない。病院の先生に相談に行って、何か問題がある?」
「なんだその口の利き方は!」
「だいたい、私だけで二人も面倒見切れるわけなんてないのよ。介護士に手伝いを頼もうとしたって、世間体が悪い、必要ないの一点張りで! 毎日毎日あんな生活して、頭がおかしくならないほうがどうかしてる! 私が弱ってるのを見て、あなた、一回でも介護を手伝った? 手伝ってないわよね?」
 そこで、何かが割れるような、大きな音がした。直は身を縮め、布団を引き寄せた。母は黙り込んでしまった。
「言い訳はもういい! ふざけやがって!」
 また大きな音がした。扉の閉まる音が続く。そして、階段を上がってくる音。どんどん近づいてくる。直は咄嗟に、布団へ潜り込んだ。
 部屋の扉が開けられた。
「おい! お前、いつまでそうやってるつもりだ! そんなに俺が気に入らないか。そんなに俺の事が憎いか。そうやってれば俺がいつまでも養ってくれるとでも思ってるのか!」
 体を縮め、耳を塞ぐ。布団がひきはがされた。腕を引っ張られる。
「立て!」
 目を強く閉じ、めいいっぱいベッドに重心を傾けるが、今までにないくらいの力が腕にかかり、背中から床に落ちた。息が詰まった。そのまま、引きずられていく。
 強い恐怖を覚えたと同時に、中学一年の光景が瞼の裏によみがえった。廊下をこういう風に引きずられて……それから、美術準備室に。
 もうすぐ階段なのに、父は腕を掴んだまま離さない。そのまま、階段を下り始めた。直は引きずられたままだった。階段の角に、背中や頭を何度もぶつけた。皮膚も激しく擦れて、痛みが走った。そして一瞬の浮遊感のあと、今までで一番の衝撃が背中と後頭部を襲った。しばらく息ができず、苦しみ呻いた。顔をしかめながら目を開けると、父がこちらを見下ろしていた。階段がすぐそばにあった。階段の途中から、階下に放り投げられたようだった。
 髪を掴まれ、無理矢理体を起こされた。
「泣いたって無駄だ。行くなら、明日から学校に行け。行かないなら、すぐに家から出て行け」
『今さら泣いたって無駄だから。やめてほしければ、学校に来なきゃいいんだよ』
 父の顔が、こちらを覗きこんでいた。
 何人かの女の顔が、こちらを覗きこんでいた。
「学校に行くか、家を出るか。どっちにするんだ?」
『学校をやめるか、この生活を続けるか。どっちがいい?』
 学校に行けば、蔵本の容赦のない攻撃が再開される。きっと、退学するまで。綾だって自分を疑ったままで、誰も助けてなんてくれない。学校に行かなければ、家を追い出される。
 学校に来れば、こいつらは容赦しない。いじめはますますエスカレートする。学校に来なければ、父に激しい叱責を受ける。
「行かない」
『やめない』
 髪を掴んだまま、父は、立ち上がった。
 髪を掴んだまま、女は、立ち上がった。
 腹部に今も残る、やけどのあと。風呂に入るたび、鏡に映る、その汚らしい残滓。医者にしか見せたことのない焼け爛れた傷跡。弱い人間の、烙印。
 女たちの手は外れなかった、父の手は外れた。
 悲鳴を上げて、父を玄関のほうに突き飛ばした。
 腹を押さえながら走った。服を着たまま脱衣場を通り過ぎ、そのままシャワーに取り付いた。一番冷たい水にして、頭から冷水を被った。上だけ脱いで下着姿になり、腹にシャワーのノズルを押しあてた。冷たい。冷たい。冷たい。これで、だいじょうぶ。腹からノズルを離し、シャワーを上部に固定した。
 そのまま、冷水を頭からかぶり続けた。ふと鏡を見ると、唇が紫に変色していた。
 これでだいじょうぶ。これで痕は残らない。
 父が風呂場のドアを押しあけた。下着姿を見られたが、気にならなかった。だって、これで、だいじょうぶなんだから。
 父が、直の手からシャワーを奪い、冷水を止めた。そしてこちらを見た父の視線は、腹部に集中した。父はそれからすぐに自分の着ていたワイシャツを脱ぎ、被せてきた。そしてなぜだか、強く、抱き寄せられた。父が自分から触れてきたのは、久しぶりだった。
「何だ? 何なんだ、その腹の傷は……」
 父の声がかすれていた。そこに怒りは読み取れなかった。
 温かい人間の体を感じたら、急に、寒気が激しくなった。気温はもう、冬の装いだった。力を抜いて、やや骨ばった父の胸に、体を預ける。
 そうしているうち、徐々に、記憶と現実の混線が、ほどけていった。
「中学の頃、いじめられてて、つけられた傷」
「お前、そんなこと、一言も」
「先月、人差し指の骨、折ったのも……本当は、部活が原因じゃなくて」
 ひどくべたついているはずの髪の毛に、父の手が割りこんできた。より強い力で抱き寄せられた。息苦しくなり、言葉を切らざるを得なかった。
 耳元で、何度も何度も、謝罪の言葉が繰り返された。

 母は、直が引きずり回されたのでパニックになっていたが、寒さに震える直が風呂場から出て行くと、すぐに、着替えを用意して、居間にあるヒーターの温度を上げ、しばらく体をさすったりしてくれた。父はその間、母に対しても、何度も謝罪の言葉を口にした。どうかしてたんだ、と何度も何度も弁解めいた謝罪を繰り返した。普段は厳格なイメージのある父が頭を下げ続けるその姿は、プライドも何もなく、非常に情けないもので、母も毒気を抜かれてしまったようだった。
 やがて、家族揃っての大喧嘩の心労でか、母が疲れた表情を見せ始めたので、
「後は俺がやる」
 と、父がやや強引に寝室へ連れていった。
 直はその間、ダイニングテーブルに座り、父が用意してくれた温かいコーヒーを啜った。服も着替え、暖房の利いた部屋でそうしているうち、だんだんと、寒気もなくなっていった。
 なぜだか丸く収まりかけている。直はまた一口、コーヒーを啜った。
 蔵本が脅しの材料のように使った「中学時代のトラウマを抉り出す」ということを、ほんの三十分ほど前、父にされたばかりだった。それなのに父は、突然、直を抱きしめたり、パニックになった直を、それにいじめの傷跡を見て、声をかすれさせたりと、突飛な行動を取り、こちらを翻弄している。現実世界と混線したほど鮮明に残っている中学時代の記憶が、家族の体温の前では、予想以上にあっさりと、熱を失っていったのにも驚いたが、父の意外な行動に対する驚きのほうが、今は、上回っていた。
 仕事人間で、ろくに話しもしようとせず、寝たきりひとりに認知症ひとりの介護は母と娘に任せきり。世間体や慣習に囚われて、母の精神病院への通院や、介護施設の手助けを借りることも許さないような、人間なのだ。普段の父は。それが、今夜は、明らかにおかしい。
 それとも、と直はコーヒーを啜る。父の事を誤解していたのは、こちらのほうなのだろうか。
 いじめられている、などと言えば、お前に原因がある、自分で何とかしろ、と断罪されそうな気がして、ずっと、言い出せなかった。けれど、あのかすれ声は……演技とは思えない。自分は何か、大変な思い違いをしていたのではないか。
 コーヒーを飲み干したら、父が居間に戻ってきた。
「あーそのーなんだ。さっきは、成り行きとはいえ、その、急に風呂場に入ったりして、悪かったな。まさか下着姿になってるとは思わなくて」
 ……こんなことを言う人だったか?
 改めて父との会話を思い浮かべてみようとしたが、ここ何年か、まともに会話をしていなかったことに、思い至った。寝る前には帰って来ず、朝起きればもういない。そんな生活を、ずっと、繰り返してきた。
「別に、気にしてない」
「そうか……」
 父はそう言うと、直から目を逸らして小さく唸った後、テーブルに置いてあるリモコンを手に取った。父はそれをテレビに向けかけて、やめた。また唸る。
「何?」
 テーブルに肘を突きながら訊くと、父は溜息をついて、直の正面に座った。
「さっきはあんな手荒な真似をして、済まなかった。最近、会社でな」
「もう聞いた」
「そ、そうだな」
「だから、何の用?」
「いじめのこと、なんだが」
「うん」
「先生には、相談したのか?」
「相談するも何も、加害者だと思われてるし」
 直は、自分が不登校に至った経過を、何気なさを装って父に語った。母相手なら、とても冷静に語れなかっただろうが、距離感のある父だから、むしろ、落ち着いて、他人事のように話すことが出来た。
 父は目を瞑って俯き、聞いているのかいないのかよく分からなかったが、相槌が欲しい所で、ときどき首が上下に動いた。
 話が終わったとき、父はようやく目を開き、直をまっすぐに見つめてきた。まともに目があったことすら、久しぶりで、妙に気持ちが落ち着かなかった。
「中学時代も、一人で耐えてきて、今も、一人で耐えようとしてたんだな」
 そして父親みたいなことを言い出すものだから、目鼻の奥が痛くなった。
「すまなかった」
 駄目だ、と直感した。
 これ以上、踏み込ませたら、こちらの弱みにつけ込んで、今までの事を全て、うやむやにされる。それだけは駄目だ。絶対に、許してはいけない。
「やめてよ、今さら!」
 立ち上がり、父を見下ろして怒鳴った。
「散々、家のこと、放っておいてさ。こう言う時だけ、父親面? あんたのせいでお母さんがあんな状態になったのに? 実の両親だからってあんたが甘い態度取ってるから、あのジジイがつけあがるんでしょ? あいつの口にタオル詰め込んでやろうって思ったこと、何回あると思ってんの? ふざけんなよ。本当にふざけんな。お前の事情なんて知るかよっ!」
 父の口もとが、歪んだ。
 ほら。
 どうせまた、さっき母に対してぶつけたみたいに、自分勝手な怒りを、吐き出すんだろ?
 早く、化けの皮を剥いで見せろ。
 父は、口もとを歪めたまま、じっと、直を見つめてきていた。
「そっちが会社のことばっかり考えてる間に、私は……私はさあ! 一生消えない傷つけられて、一人で遠くの病院行って、お年玉まで使って治療費払って……。ねえ、馬鹿みたいでしょ。いじめられてることで、あんたに人格を否定されるのが恐くて、必死に、隠してたんだよ……」
 しかし、うやむやにさせないように、父を怒らせようとしていたはずなのに。吐き出す言葉が、自分でもうまく制御できない。
「何で相談しなかったって、言う方は気楽でいいよ? でも、母さんはあんな状態だったし、家にいる時のあんたはいっつも死にそうな顔してたしさあ、言えるわけないよ……」
 目から零れ落ちそうになるものを必死に堪え、父を睨んだ。
 泣いたら、全部、無かったことになる。祖父の罵声を浴びた母が、何を言い返すこともできずに介護部屋の隅でうずくまっていたことも、外へ必死に何かを探しに行こうとする祖母に対し、母が泣きながらすがりついたことも、母がそんな状態になってしまったせいで、いじめの事実を家族に伝えられなかった自分がいたことも、全てが、なかったことになる。
「直」
「どうして急に、父親みたいな態度! さっきまで、腕引っ張って、家中、引きずり回してたのに! そのせいで、中学時代のことなんか、思い出したのに!」
 父も立ち上がった。抑えが利かず、立ち上がったばかりの父に対し、右の拳を叩きつけていた。父は、殴られてやや顔を傾けたまま、言った。
「すまない」
 更に一発殴ろうとすると、今度は軽く、左手で、受け止められた。
「俺はここ何年か、自分の事だけしか考えて来なかった。だから、お前の苦しみは、分からない。でも俺は、五十年近く生きてきて、お前みたいなパニックを起こした人間を、初めて見た。いじめが、お前にとって想像を絶する苦しみだったということを、想像することは、できる」
 そのまま、抵抗、しなかった。
 父の左手の掌に包まれた右手は、人差し指の骨折が治っていなかった。痛みが右手を支配していた。
 それを、父の手が包みこんでくれていた。
「明日から、今の高校には、行かなくていい。お前がこれ以上、苦しむ必要は、どこにもないんだ」
 静かに、頷いた。
 またひとつ、敗者の烙印が焼き入れられた気がした。
 そして、
「父さん、どうしたら、人とうまく付き合えるのかな」
 気付けば、馬鹿みたいに甘えた声を、出していた。
「もう、いじめられるのは、やだよ……」



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