1章 崩れる信頼
1 楽になりたかった

 目が、覚めてしまった。
 どうして。
 綾はゆっくりと開けた目で、今自分がベッドに横たわっていることを確認した。仕切りのカーテンに、ぐるりと取り囲まれている。
 母は、翌日の午前十時にならないと帰って来ない。父はどこにいるかも分からない。そのうえで、薬を飲む際の注意事項に大きく反することを、実行した。
 仕切りがあるなら、個室ではない。点滴以外、特別な医療器具がついていないということは、軽症。死ねなかったという事実が、徐々に、現実として認識されていく。
 そこで、カーテンが突然開けられた。
「綾?」
 髪の毛がほつれ、目もとに濃い隈がある。マスクをしていたせいで、一瞬、誰だか分らなかった。
 よく見れば、母だった。
 マスクを取った母は、点滴してあるのとは逆の、右腕にすがりつくようにした。そこへ額を押し付け、しばらく、動かなかった。
「よかった」
 母は、そう囁き、嗚咽を洩らし始めた。
 そんな母を見て、特に意識をすることもなく、涙が出てきた。点滴の針がついた左腕を持ち上げ、両目に押し付けた。
「ごめん」
 そうとしか、言えなかった。
 ちゃんと死ねなくて、ごめん。
 どうして、生き残ったのだろう。自分が死ねば、母は、自由になれたのに。
 少し考えてから、それは独善か、と思い直した。
 自分が、楽になりたかった。

 薬の効果が抜けきらず、ずいぶんと眠ってしまっていたらしい。
 木曜日に自殺未遂して、目覚めたのは土曜日の夕方だった。その日のうちに退院手続きが済んだが、翌週はまるまる学校を休んだ。
 学校へ行くことになったのは、翌々週の月曜日から。母はもうしばらく学校を休むことを提案してくれたが、それはやめておいた。直はきっと、自殺未遂の事について、黙ってくれているだろう。失敗してしまったのなら、話が大げさになる前に、これ以上母に迷惑をかけないように、日常へ戻らなければ。
 居間のテーブル近くの床には、すでに母が座っていた。トーストをかじりながら、朝のニュース番組を見ている。
 母はあれから一度たりとも、自殺の理由を問い質しはしなかった。かといって、娘が自殺未遂したという事実を、なかったことにするわけでもない。ぎこちない部分を隠さず、接してくれることが、今はひたすら、有り難かった。
「綾」
「ん?」
「クラスメイトの阪井さん。あなたからも、しっかり謝っておいてね」
「わかってる。何回も、聞いてるよ」
「通報が早かったから軽症で済んだと、お医者様には言われたわ。阪井さん、綾が倒れた翌日は、学校を休んで、ずっと病院にいてくれて。お母さん、心細かったから、とても助かったのよ。警察の事情聴取に応じてくれたり、ご迷惑をおかけしたんだから、とにかく謝りなさい」
 あれから十日が経ったいまも、直とは、一度として連絡を取っていなかった。
 どう、感謝の気持ちを伝えればいいのか、分からない。今はまだ、感謝だけでなく、余計な事をしてくれた、という思いもある。相談もせず勝手に自殺未遂の騒動を起こしたことに対する申し訳なさも、ある。この、自分でも把握しきれない感情の海に溺れたまま連絡を取れば、理不尽な八つ当たりをして、関係を壊してしまうかもしれない。怖くて仕方なくて、電話をかけることなんて、とてもできなかった。先週は毎晩、携帯電話を手に持ったまま布団に潜り、身を丸めていた。
 自分の分のトーストを焼き、マーガリンを塗った。今日からは、生き残った間抜けな身体を引きずって、日常を再開させなければならない。焼いたばかりのトーストを早々に食べ終えて、その場に根を張って動かなくなりかけた身体を、奮い起こした。
 ……逃げるな。自分の行動の結果には、自分で責任を取れ。
 父親を反面教師として生きてきた綾は、今日もまたそう自分に言い聞かせ、朝の身支度を済ませた。
 風邪をこじらせたということにして、何食わぬ顔で教室に入り、いつものように毎日を過ごす。そんな絵図を描いて、綾は、家を出た。

 綾の通う学校は、市街地の中心部にある。校舎は小高い台地の上に建っているので、長い勾配をもつ坂が、通学路になっていた。自転車で通っている綾は、その坂にさしかかった辺りから押して歩く。その長い坂の両端には、銀杏の木が植えられている。鮮やかな黄色の葉が、風に揺られて舞い踊る中、綾は自転車を押し続けた。
 裏門から入り、体育館の裏手にあたる駐輪場に、自転車を停めた。いつもは、体育館で朝練をこなしてから、直接、教室に向かう。体育館を視界に入れながら、三階にある教室に向けて歩くのは、あまり慣れない。十日ぶりに見た体育館は、どこか、よそよそしかった。
 下駄箱で上靴に履き替えていると、クラスメイトの女子がやってきた。友人というほどではないが、それなりに話はするので、おはよう、と挨拶をした。しかし女子は、綾の足元を見たまま歯切れの悪い挨拶を返してきて、そのまま、先に教室に行ってしまった。少し不安になった。だが、直が誰かに言うはずがない、と考え、綾はその女子の背中を見つめながら、教室に向かった。
 二年一組の教室の扉の前で、一度、深呼吸をした。開ける。音に反応した、何人かの女子が、こちらを見た。しかし一様に、ぎこちない動作で視線を逸らした。
 綾は嫌な汗が滲み始めたのを感じながら、鞄を机の脇にかけた。教室を見渡すと、いつも一緒に昼食を食べている三人のうち、一人だけ、既に来ていた。青野(あおの)柚樹(ゆずき)。柚樹は綾と同じバスケットボール部の一員で、ベンチ入りも怪しい実力だが、練習には決して手を抜かない。物事に対してどこか冷めていて、あまり愛想のいいほうではないけれど、キャプテンという慣れない立場の自分を、さりげなく補佐してくれもする。
「柚樹」
 顔を伏せていた柚樹に、机の正面から声をかける。柚樹は大儀そうに、綾を見上げた。
「ごめんね、何日も休んで。練習、大丈夫だった?」
 柚樹は端正な双眸を細め、それから逸らした。返事もない。
 眠りを妨げたことに対して、怒っているのだろうか。
「起こしちゃったみたいだね。また、後で」
 しばらく経っても反応がなかったので、綾は、諦めて、立ち去ろうとした。
「よく、平気でいられるね。周りの迷惑も知らないで」
「えっと……何の、こと」
 振り返りざま、自然に、笑みが零れてしまう。自分でもわかる、相手に媚びようとする、卑屈な、笑み。
「何、笑ってんの?」
 どきりとするほど、冷たい声音。今までにも、不機嫌な柚樹に接したことがあったが、その比ではなかった。
 一瞬にして、羞恥に頬が染まるのを感じた。笑みを消し、柚樹の席から離れる。
 綾の席は、真ん中の列の左側、前から三番目にあった。周りの視線から逃れる事の出来ない、席。
 ――何、笑ってんの?
 席に戻ってからも、同じ言葉がずっと、頭の中をリフレインしていた。早くホームルームが始まってくださいと祈りながら、ぎゅっと目を閉じていた。

「よかったな、無事で」
 連絡事項を伝えるためにやってきた担任が、開口一番、そう言った。いつもは担任が注意してもお喋りが止まず、賑やかなはずの教室は、静まり返っていた。担任の声が、やけに大きく、響いた。
 咄嗟に返事が出来ず、黙って、頷いた。
「辛いことがあったら、なんでも相談しろよ?」
 優しげな、笑み。
 綾は、全員の前で、晒しものにされたような気がした。また、顔が熱くなっていくのを感じた。平常心でいようと思えば思うほど、留めようがない。
 一言目はともかく、二言目は、病欠明けの生徒を気遣った言葉じゃ、ない。そして、ホームルームの時間の頭に、わざわざ言った。
 全員、知っているんだ。自分が、自殺未遂した事を。
 クラスの人には、黙っておいてくださいと……あれだけ、頼んだのに。あれだけ、頼んだのに! 憎しみ込めた目で担任を睨もうとして、ふと、気付く。担任じゃない人間も、知っていた。教室の後ろの入り口のほうを見遣る。
 目が合うと、直は、まず驚いたように目を見開き、その後で、こちらを睨み返してきた。
 綾は一瞬にして自分の失態を悟り、すぐさま、担任へ視線を戻した。
 いまのタイミングで見たりすれば、あからさまに疑いを向けているようなものだ。体調が悪そうという理由だけで、家にまで、見に来てくれた友人に対して。学校を休んでまで、病院に付き添ってくれた人間に対して。
 担任は、こちらの返事を待っているようだった。
 静まり返った教室が、恐ろしかった。早くこの時間が、過ぎ去ってほしかった。
「ご迷惑、おかけ、しました」
 どうにかそう絞り出し、周囲の視線から逃れるため、顔を俯かせた。


inserted by FC2 system