00 プロローグ


「大丈夫?」
 阪井直(さかい なお)は、放課後、部活を休んで家に帰ろうとする飯原綾(いいはら あや)を呼び止めた。
 三年生が引退して二ヶ月ほどが経った今、綾は、バスケ部の新キャプテンを務めている。普段なら、風邪気味だからという、曖昧な理由で部活を休むことは、絶対にしない。他の部員からは、多少、煙たがられるほど練習に熱心だと聞く。
「ん? 何が?」
 最近まで女子校だったこの高校では、一日の終わりのざわつく教室の大部分を、女が占めている。その中で綾は、微笑みながら、首を傾げた。
「調子、悪そう」
 朝、会ってからずっと、綾の様子がおかしいと感じていた。論理的に説明できるかと問われたら、いつもと雰囲気が違う、としか答えられないが、気になって一日中、目で追っていた。
「うん。風邪気味だって言ったでしょ」
「そういうことじゃなくて。精神的に」
「平気だよ。心配してくれてありがとう」
 綾は鞄を肩に提げ、歩いていく。
「直」
 教室を出て行く際に、人好きのする明るい笑顔で振り返り、手を振ってくれた。
「またね」
 直は、釈然としないながら、本人が大丈夫と言っているのだからと無理に自分を納得させた。

 陸上部の練習に参加している間も、ずっと、綾の事が頭から離れなかった。練習が終わると、どうしても堪え切れなくなった。
 引っ越してからの綾の家には、一回だけ、招待されたことがある。綾の話によれば、父親の暴力が酷いので、裁判をして別居することになり、綾の母親が知り合いから借りた家に移った、とのことだった。綾は、父に居場所を嗅ぎ付けられたくないから、直以外の誰にも、ここにいることは教えていない、と言っていた。
 自転車で住宅街の一角に辿りついたのは、夜の八時を少し回った所だった。冬の足音が聞こえてきそうな寒さが辺りを包み、陽が落ちるのは早い。だというのに、電気が点いている様子はなかった。直は玄関に立ち、インターフォンを鳴らした。反応はなかった。
 風邪気味と言っていたから、眠っているのかもしれない。そう思い、玄関に背を向けかけたが、部活中からずっとまとわりついてくる茫洋とした不安が、足を止めさせた。何年も綾野友人をやってきて、こんな不安を覚えたことは一度もなかった。
 五回、インターフォンを押した後で、玄関扉の取っ手に、手をかけた。鍵はかかっていなかった。取っ手を引いて入ると、まず、異臭。鞄から、部活で使ったタオルを取り出し、鼻にあてた。こんな臭いの中で、生活しているのか、綾は。
 靴を脱いでフローリングに足を載せた。確かすぐ右側に、途中で直角に折れ曲がった、二階へ上る階段がある。そこを上る綾についていき、部屋に案内されたのは、半年近く前だったか。微かな記憶を頼りに、階段の上り口にある電気のスイッチを押した。天井にぶらさがっている電灯に明かりが点いた。
 照らされた玄関近くは、物という物で溢れ返っていた。ごみの袋がいくつもいくつも転がっている。臭いの発生源の一つは、恐らく、これだ。
「綾、いるの?」
 階段を上りながら名前を呼ぶが、返事はない。心臓の音が慌ただしい。どうしてだろう。根拠なんて、何もないのに。
 二階についてすぐ左に折れ、廊下を少し歩くと、ドアに突き当たった。ノックする。返事はない。ごめん、綾、と心の中で呟きながら、そのドアも開ける。
 綾の部屋は、真っ暗だった。階段の電気をつけた時と同じように、手探りで、電灯のスイッチを探した。どうにか見つけ、押す。
「綾?」
 綾は、部屋の中央にある、こたつ机に、突っ伏していた。思わず眠ってしまったという格好だった。なんだ、と軽く息を吐いた。途端、根拠もなしに勝手に家に入ってきたことが、とてつもなく失礼なことに思えてきた。明日、謝れば許してくれるかな。そう思って、もう一度、綾を見る。
 突っ伏した綾の頭の向こうには、薬剤の包装紙が散乱している。錠剤が入っているらしいそれを、拾って、名前を見た。
 母が、医者に処方されているものと、同じ錠剤だった。先程、息とともに吐き出した不安が、また、沸き立った。
「綾」
 拾った薬剤を床に放り、綾の体を揺すった。何度か揺すっても、起きる気配はない。
「綾!」
 頬を何度か強く叩く。
「からかってるなら早く起きて、綾!」
 しかし、起きない。体から血の気が引いていく。その表現通りの悪寒が、全身を貫いた。
 呼ばないと。
 ……何を?
「き、救急車っ!」
 綾の体を床に横たえた直は、持っていた鞄のファスナーを全開にし、逆さまにした。鞄を激しく振った。文房具や部活用品に混じり、鈍い音を立てて床に落ちた携帯電話を拾う。
「何番だっけ。何番だっけ。何番だっけ!」
 携帯電話を、苛立ちとともに揺らす。
 そして十秒くらい考えたあと、ようやく頭に思い浮かんだ一一九番を押して、発信した。


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