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 残念なことに、今リバイバル上映している映画は三人の肌に全く合わなかった。
 開始十分であおいが寝て、十五分で俊介が寝た。拓真はどうにか意識を保っていたが、映画の内容はほとんど覚えていない。
 
「……おい、二人とも、起きろって」
 真ん中に挟まれていた拓真は俊介とあおいに呼びかけるが起きる気配はない。よくここまで熟睡できるものだ。周囲の人間は続々と退館していく。
 俊介の額を指で思い切り弾くと、彼はようやく目覚めた。
 あおいにも同じことをしてみたが、こちらは一枚上手だった。全く動じない。
「あーおーいっ! 起きろ!」
 頬っぺたの肉を抓ったり引っ張ったりして、耳元で叫んだ。
 すると、あおいが末尾の怒声を受けて目を開いた。
 頬の肉を抓ったままだった拓真は慌てて離そうとしたが、手首をがっしりと掴まれた。
「……人の顔で何やってんの?」
「あおいが起きねえのが悪ぃんだろ」
「後で何か奢ってよね。ご尊顔拝謁料金」
「意味わかんねえよ。何だそのゴソンガンって。あの、口を半開きにした寝ぼけ面のことか?」
「女の子の寝顔勝手に見といてその反応はないんじゃないの? 失礼な奴ー」
「あー、二人ともやめてくれる、その辺で。他の客が見てるから。ほら、早く出よう」
 起きたばかりだというのにまるでさっきまで起きていたかのような振る舞いの俊介に頷き、頬から手を離した。軽く抓ったつもりだったのだが、あおいの頬っぺたは赤くなっていた。その場所を触りながら、急に真顔になり、もうちょっと手加減してくれてもいいじゃない、と呟いた。ごめんと返してから、拓真は立ち上がった。ついでに、むくれたまま座っている彼女の腕を掴んで、引っ張り起こしてやった。



 帰りに、銭湯に寄ることになった。
 昨日入ってきたあおいは、一緒に行くと言いかけたが、財布の中身を見てから辞めた。夏場真っ盛りで毎日入りたいのが本音だろうが、昨日、少し使いすぎたのだろう。気落ちした様子で歩いていく背中を見て、後で何か奢ってやろうと思った。気遣いを素直に表すのは気恥ずかしいから、ご尊顔拝謁料金の支払とでも理由を付けて。ただ、残念ながら今は映画館の料金を払わされて余力がない。
 機械化された銭湯の入口で俊介が百円を支払い、鍵を代わりに取りだした。二人分とも一人分とも書いていないから、何人で入ろうと同じ値段なのだろう。どうやって維持しているのか疑問に思ったが、ボロ看板の隅に役所の住所が書いてあったのを俊介が見つけ、納得した。そのまま入口に鍵を差し込み、二人で入る。
 錆びついたロッカーを軋ませながら開いた拓真は、服を脱いでその中に手早く詰め込んだ。汗がべたついて気持ち悪い。気になり始めてしまうとどうしようもなく、早く体を洗いたかった。
「先入ってっから」
 なかなか開かないロッカーを諦め、隣のロッカーを開こうとしている俊介に声をかけ、湯船へ続く戸を開いた。

 五十円で開くボディーソープなどが入った箱は、閉じるとまた料金を払わなければいけなくなるので、髪と体を洗い終えてから、湯船に飛び込んだ。存外勢いがついてしまい、子供と入っていた父親の顔に湯水がかかり、迷惑そうな顔をされたので、軽く頭を下げてから、タイルに背中を預けた。
「五十円あった?」
 俊介が隣に座りながら、訊いた。
「ああ、そのくらいなら。この値段ならあおいにも貸せたかもな」
「いいんだよ。あんまり甘やかすとすぐに使い果たすから。一昨日だって節約して三日分、と思ってた食料を一日で食われたし」
 ため息交じりの声で彼は言う。今までにも似たような経験があったのだろう。
「あれは驚いたな……いくら俺がとろくたって、あんなに怒ることねえよ」
「とろいっていうか、時間にルーズなだけだけどね。拓真の場合。滞在が三十時間ってわかってんだからさ、雇用主にちゃんと手取りでって言っておかないと。後でいいや、んで気付いたら仕事終わってた、って感じでしょ」
 図星だった。いつもそれでトラブルになるのに、つい忘れてしまうのだ。誤魔化すように顔を洗った。
「……大体、何でこんなせかせかしなきゃなんねえの? おかしいと思ったことないか? 三十時間ってなんだよ。ここだってさ、多いっつっても一週間だろ? よく考えたら変だよな。こいつらは住むところがあって、俺らにはないってのは」
「いや……まあ、いろいろあるんだよ。この国も」
 長めの髪の襟足の辺りをかきながら、声のトーンを落として言う彼は、どこか遠い目をしていた。あの時の――ここまで生きてくるのには、苦労したんだよと呟いたあおいと、同じ目。
 待遇に軽い文句を言ったつもりだったのに、予想していなかった反応だ。だがそれを問うても、今の俊介とあおいは答えてくれないということは、なんとなくではあるが分かった。縮小しきった国家の枠から外れ、それぞれ独自の展開を進めてきたはずの市町村が、どの場所も浮浪者の滞在時間を決める。考えてみればおかしな話だ。浮浪者が危険だから、と一言で片づけても疑問はない。だがそれにしても、住民との扱いが違いすぎる。この間給料をもらうとき、三十時間という制限時間の話をした途端、出し渋られた。それで受け渡しにもたついている間にタイム・オーバー。守備隊に引き渡されそうになり、あおいと俊介に助けられた。
 何だろう、と思った。まだ自分の知らない日本があるのかもしれない。

 少し重苦しくなってしまった雰囲気を振り払い、拓真は立ち上がった。
「ま、いっか。これ以上喋ってたら茹だりそうだ。さっさと出よーぜ」
「うん。そうしようか。……そういやうまいラーメン屋見つけたんだけどさ、戻ったら姉ちゃんも誘っていかない? スープがなんか、すごく好みだったんだよ」
「んじゃさっさと戻るかー」



***



 部屋をノックする音が響いて、枕を抱いて眠っていたあおいは目を覚ました。
 鍵、閉めたんだっけ。
「ごめーん、今開けるー」
 蚊に刺された太腿の辺りをかいてから寝ぼけ眼のまま起き上がり、ドアに近づく。
 そしてドアを勢い良く開くと、見知らぬ男が立っていた。
 次に飛び込んできたのは、ナイフ。完全に虚を突かれたあおいは咄嗟に避けようとするが果たせず、ナイフが左腕に思い切り突き刺さった。痛みに声を漏らすと同時に室内を走り、拳銃のある所まで戻ろうとした。しかし相手も素早くそれを追い、あおいの背中を蹴り飛ばす。顔面から壁に突っ込んだあおいはそれの痛みを感じる間もなく髪を引っ掴まれ、何度も壁にぶつけた。五回目の辺りでようやく離れた腕は今度は肩を掴み、そのまま膝蹴りが腹に入った。三回目でどうにか足を挟み、後ろに跳んで相手との距離を取った。腕に刺さっていたナイフはその際に男に回収されていた。
 いくら物騒な世の中とは言え、警察の機能は街とは別に存続している。中央から派遣される警官が、大小はあれ、どの町にも在中している。だから、銃声が聞こえたとなればホテルの従業員が守備隊ではなく警察を呼ぶだろう。しかし男は銃を持っていなかった。あくまで肉弾戦を仕掛けてくる。
 二人とも、早く戻ってきてよ。援軍を期待しながらも既に大きく肩で息をするこちらを見て一瞬せせら笑った男は、銃をしまってある鞄を背にし、じりじりと近づいてくる。勝利を確信し獲物をいたぶる猛獣の目。しかし油断はない。ベッドに飛び乗り男を振り切ろうとするが、軍用と思しき大型のナイフがちらつく。そのことに悪態を吐く間もなく繰り出される突きは見たこともないくらい鋭い。そして突きを避け隙が見えた思うと今度は横薙ぎが襲ってくる。どうにか力を抜いて首をかがめて避けた。
 ……完全に殺すつもりだ。理解すると、一気に汗が噴き出してきた。レベルの違う狙撃手に狙われていた時と同じ感覚。死にたくないと、感情を殺した頭ではなく体が訴える。硬く弾力のないベッドからすぐさま下りたあおいは、チェストに乗った電気スタンドを引っ掴み男目がけて投げつけた。が、男はそれを左手で受け止め、右手でまた突きを繰り出してくる。避ける間もなく、それは鎖骨の辺りを抉った。そして素早く引き抜かれ、今度は確実に急所を捉えようとした。

 そこでようやく、銃声。
 男の背に見えるのは拓真だった。しかし銃撃下手は相変わらずで、それとも慌てて撃ったからなのか、男にかすりもせずに電気スタンドを割った。俊介の姿は見えない。警察でも呼んでくれているのだろうか。随分と長い風呂だったねと皮肉ってやりたい気持ちもあったが、男が舌打ちをして、素早くあおいを盾にしたため果たせなかった。
 そしてじりじりと拓真から離れ、窓際を確保。あおいの首にナイフを突き立てたまま、器用に窓の鍵を外し、開いた。
「……っくま……撃てぇ!」
 けん制でもいい。撃って、この男の命を脅かせ。このまま容易く逃げられてはたまらない。
 しかし自分を盾にされている拓真は、銃を構えたまま撃つ気配を微塵も見せない。生命の危機がないと安堵したためか、後ろでふっと息を漏らしたのが聞こえた。
 まずいと呟いたのは心中だけで、羽交い絞めにされた体は言うことを聞かない。
 同時に、男はあおいの首筋を横一線に引き裂いて、それから悠々と外に飛び降りた。今更のように銃声が鳴った。
 やっぱり撃つの下手だなぁ、拓真……。そんな呑気な考えがよぎったのとは裏腹に、首から激しく血が噴き出す。

 なんとなく分かった。この血は、止まらない。




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