エピローグ

 差し出されたしょうゆラーメンの容器を引き寄せ、割り箸を割って一口目を掴み、啜った。一時期はほとんど毎日のように付き合わされて嫌いになりかけたラーメンも、久しぶりに口に運ぶと以前よりも格段に美味しく感じられた。わざわざ遠出して屋台まで食べに来た甲斐がある。
 四人が余裕をもって、五人でもなんとか座れる屋台の席は、拓真とあおいと俊介、凛と未由で占められていた。彰と佳乃は、仕事の休みが合わず来られなかった。
「おじさん。あたしたち、前にもここに来たんだけど、覚えてる?」
「悪いな、あんまり客の顔は覚えてねんだよ。歳だから」
「えー、また来ますって言ったのに」
「悪いな」
 屋台の主人は、既に食べ終えて端に寄っていたあおいの前にお冷やを置いた。あおいはそれを一息で飲んで「おかわり」と言った。
「ただ、そっちの兄ちゃんは覚えてる。一人で来た時、特別うまそうに食ってくれたから」
「本当ですか? 嬉しいなぁ」
 俊介は軽く笑ってから、容器に口をつけてスープを勢いよく飲み始めた。あおいと俊介にとって、ラーメンのスープはすべて飲むのが食べる際の礼儀だ。
「私も覚えててよ」
「絡むな、あおい」
 あおいは二杯目のお冷やを飲み、拓真を横目で見た。
「俊介、全部飲んだりしたら体に悪いぞ」
 凛は初めて俊介がラーメンを食べる所を見たらしく、注意している。
「ラーメンはスープも全部飲まないと食べたとはいえないんです」
「そんなの初耳だな」
 凛は小さく笑ってから、俊介たちより少々遅れ気味に差し出された味噌ラーメンに視線を落とした。
「何で味噌を頼んだんですか。ここはしょうゆですよ」
「そうだよ、凛。ここはしょうゆがおいしいって教えてあげたのに」
 一旦スープを飲むのをやめた俊介が凛の注文に文句をつけ、あおいも同調した。俊介とあおいは普段の食事では何も干渉してこないが、ラーメンだけはうるさい。
「私は味噌が食べたい気分だったんだ」
「もったいない。ほら、飲んでみてください」
 俊介は味噌ラーメンの容器に入っていたレンゲを取り、しょうゆのスープをすくって凛に手渡した。凛は仕方ないなといった様子で口に運んだが、
「確かに、おいしい」
 飲み終えると唸っていた。
「次はしょうゆを頼むことにする」
 凛が味噌に手をつけないうちからそう言うと、屋台の主人は「味噌も自信作なんだけどなぁ」と苦笑いした。

「すごく、おいしかったです」
 帰りのバス停までの道を歩く中、一人静かに食べていた未由は顔を綻ばせて言った。
「次に来る時は、お兄ちゃんと佳乃さんも一緒に来れるといいですね」
「だな」
 今日は来られなかったが、彰は凛に対して暴言を吐いた時から、既に何度も謝罪を繰り返して二人との関係を修復し、戦場から逃げ行き場のなかった佳乃も、六人の生活に加わった。もうすぐ開戦から二ヶ月が経つが、大所帯の割にあまり問題も起きず、田舎町では戦争の音が遠鳴りするだけで、今のところは平穏に過ごせていた。
「明後日の審査、みんなで受かってまた来ようね」
 あおいの言葉に、拓真は頷いた。誰よりも勉強に打ち込んできた自信があったし、必ずいい結果を残すという気持ちで、明後日の試験には臨む。
「受かるよ。皆、あれほど勉強してきたんだから」
 発表された合格率が九パーセントだった前回試験を突破後、保証金も支払い定住権と簡易国籍を取得した凛は、合格者の余裕を見せつけるでもなく、優しい眼差しで言った。
 合格すれば、それぞれがあの街での定住権を得て自立し、旅館を拠点としなくなる。その時にこの生活は終わりを告げるだろう。あおいや俊介と関わらなければ人を殺めるなどということとも無縁で済んだ。あれほど葛藤して苦しまずに済んだ。それでも今は、こんなに楽しい時間が終わるなんて、考えたくなかった。これからも同じ街の中で生活していくことに変わりはないし、関係がすぐに消えてなくなるわけではないが、そう分かってはいても、辛かった。

「拓真は、定住権取れたらどうするの?」
 考え事をしているうち、少し四人から離れ気味になっていた。あおいは歩調を緩め、拓真の隣に来た。
「適当に住むとこ探す。結構、金は貯まったし」
「そっか。それはそうだよね。自立できる環境になってまで助け合ってても、慣れ合いになるだけだもんね」
「慣れ合いとまでは言わないけど。先には進めない気がする」
 あおいは頷き、
「あたしと居るのも、慣れ合いになっていくと思う?」
 静かな口調で訊いた。拓真はあおいに目を遣った。
「取れたらの話だろ。今はそこまで考えてない」
「定住権が取れても取れなくても、質問は同じだよ?」
 あおいは微笑を浮かべたが、彼女が曖昧な答えを望んでいないのは、挑む様な目を向けられていることで分かった。拓真の答えは決まっていたが、誤解を与えないような言葉を考え、逡巡した。
「迷うんだ」
 あおいが小さく呟いた。
「答えは決まってる。どう言ったらいいか考えてんの」
「いいよ。ぐじゃぐじゃ考えないで。拓真らしくない」
「あおいとは、慣れ合いにはならない」
 拓真は単純に、そう答えた。
「この先どうなるかわかんねぇけど……俺には絶対、あおいの助けが要る」
 答えを聞いたあおいは、屈託のない笑みを零した。
「あは、改めて言われると照れるね、なんか」
 あおいの笑顔を見ることが出来るだけで、やがて迎える穏やかな時間の終わりが、少しだけ楽しいものになるような気がした。拓真はその笑顔を包むようにあおいの左頬に手をあて、親指で軽く目元を撫でた。

「あおいさん、拓真さん」
 それから少し間を置いて未由の声が聞こえ、拓真は慌てて手を離した。三人がいつの間にかこちらを見ていた。
「そういうのは二人きりの時にやってくれませんか?」
「うん。鬱陶しい」
「じゃれるなら場所を考えろ」
 笑顔で言った未由に、俊介と凛も言葉を繋いだ。
「分かったから。全員で言うな」
 拓真は適当に流したが、あおいは少し顔を赤くして「勝手に見ないでよ」と呟き、黙り込んだ。ごくたまに見せるこういった表情が本当に可愛いと思ったが、もちろん口には出さない。そんなことを口走れば今のもの以上にきつい小言を貰うに決まっている。
 バス停まで、あとどのくらいだろう。拓真は、先を行く三人の更に先へと広がる、整備途中の街路へ目を向けた。先程のようなあおいの笑顔を一番近くで見ることができるのだとしても、ずっとバス停に辿り着かなければいいのにと、心のどこかで思ってしまう自分が居た。




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