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「ここでいいよ」
 あおいは、俊介と一緒に甲府基地を出た。見送りに来てくれたのは佳乃だけだった。仕事中だというのに、小さな花束を抱え、基地の外までついて来てくれた。佳乃はそれをあおいに手渡すと、握手を求めてきた。
「お世話になりました。俊介の事、お願いします」
 あおいは、花束を貰った方とは反対の手で握手した。世話になったのはこちらの方だ。思ったが黙っていた。エペタムに拾われてからある程度時間が経ち、俊介と別行動をとることが多くなった時期があった。そこで俊介を支えてくれたのが、訓練所から一緒の佳乃だった。不安定で無表情になっていく俊介の心の拠り所は佳乃だけだった。今まで弟と一緒に頑張ってきたという自負があるため少し妬いたが、佳乃がいるなら大丈夫だろう、と安心して自分の仕事に集中することが出来た。
 佳乃の白い手が離れ、彼女は次に俊介と言葉を交わした。
「帰ってきてくれて、私は楽しかった。また会いたいから聞いておきたいんだけど、連絡が取れそうな拠点とかはあるの?」
「あの、霞ヶ浦の南の方の……名前がまだない街。そこの近くに立ち寄ったら、吉川(よしかわ)って旅館を覗いてみて」
「立ち寄る暇がなかったら、電話でいいから。菊政雪乃っていう女将さんに取り次ぐよう頼んでくれれば大丈夫。定住地が他に移ったら、その人にお願いしておく。いい人だから、たぶんひと月かふた月くらいは覚えていてくれるんじゃないかな。また住所なくなっちゃったから、他に定住地を移すなんてことはないと思うけど」
 あおいが補足的な説明を始めると佳乃は慌ててメモを取り出した。
「霞ヶ浦の南の名前のない街、そこの、吉川という旅館の菊政雪乃さん、ですね。電話番号は分かりますか?」
「あ、そこのメモ用紙を持ってきたから、渡すよ。その方が早い」
 あおいは凛から貰ったメモ用紙をスーツのポケットから取り出し、手渡した。医師の往診時間を殴り書きした文字の下に、旅館の名前と住所、電話番号が小さく印字されていた。住所には、名前がなくなる以前の街の名前が書かれていた。
「佳乃、今まで俊介の面倒見てくれてありがとね。いつも一緒だから大丈夫なのかと思ってたけど……やっぱり、駄目だった?」
 メモ用紙を大事そうに胸ポケットへ押し込んだ佳乃は、大人びた微笑みを浮かべた。
「私、俊介の事は好きです。でも、異性として見ようとすると、怖くて、どうしても無理でした」
「そっか。いつか、平気になるといいね」
「はい」
「じゃあ、これ以上仕事を邪魔しても悪いから。本当にありがとう。また、そのうち」
 マフラーを巻き少し籠った声の俊介の言葉に、佳乃は頷き、胸の辺りで小さく手を振って体を反転させた。
 後ろ姿が基地の内部に消えるまで見送ってから、あおいと俊介も街路の方へ体を向けた。曇り空に隠れた力強い午後の陽が、雲を黄金色に染め、幻想的に彩っている。再出発の風景としては悪くない。
「佳乃、やつれてたね。目の下に隈もできてた」
 拓真たちが泊まっているビジネスホテルに行く道すがら、あおいは口を開いた。
「姉ちゃんも気付いた?」
「佳乃が疲れを顔に出すくらいだから、徹夜続きなんじゃない? 村田、何かやるつもりなのかも」
「うちの部署もなんだか空気が不穏だった。辞めるって言ったら羨ましがった人もいたし」
「あたしたちって、戻ってきてからはホントに何も知らされてなかったよね。使い捨てだなぁ」
「けど、使い捨てだからすぐに辞められた。それを喜ぼうよ」
「うん。それは嬉しい」
 退職届を出した時には、これからエペタムがどうなっていこうが関係ないというだけで、途方もない解放感が味わえた。自分と俊介に懸けられていた賞金は前の紛争で完全に失効し、十年間縛られ続けていた場所に居らずともやっていける。
 あの街に戻ったら、とあおいは思った。工場の部品のように働く仕事しか見つからないかもしれない。エペタムの施策が順当に実行されず、差別政策が撤廃されなければ、本当に苦しい毎日が待っているだろう。それほど不安定な状態で、拓真や俊介や浅井兄弟と、いつまで一緒に居られるのかも分からない。しかしそれでもよかった。あの街に戻ったら、そう考えることができるだけで今は幸せだった。
「そういえば俊介、凛たちに、これからどうするか聞いた?」
「凛さんはあの街に戻るって言ってたよ」
「なら、まだ一緒か。よかった」
「最初はあんなに嫌ってたのに?」
 ほどけてきたマフラーを巻き直した俊介は、小さく首をかしげた。
「最初は本当に気に食わなかったよ。でも、慣れてからは楽しかった。そのうちばらばらになるんだろうけど、もう少し一緒に居られたらいいな。ちゃんと話すと、凛は私なんかより大人で、彰は意外と気のいいところがあって。みんなより早く仕事から帰った時、未由が出迎えてくれるだけで和んだしね」
「あー、分かるかも。帰ってきて誰もいないのと未由ちゃんがいるのとじゃ、違う」
「うん。未由が掃除したり洗濯物を畳んでたりすると、駆け寄って抱き締めたくなる」
「や、僕はそこまでじゃないな……」
 あおいはそこで、軽く笑った。
「それはそうでしょ。俊介は凛が好きなんだもん」
「う」
「俊介は姉ちゃん子だったから年上が好きで、あとはボーイッシュな人が好き」
 好みの方は適当に言ったがどうやら図星のようだった。乱れてもいないマフラーをいじり、
「そんなに僕って態度に出てる? 昨日、本人にも勘繰られてたみたいだし」
 と答えた。
「今は分からないけど、あの街に居た時は出てたね。凛と話す時は急に子供っぽくなる」
 俊介は溜息を吐いた。
「凛さんには言わないで」
「分かってるよ。自分で頑張れー」
 目的の、ビジネスホテルがある通りに差し掛かった。あおいは喋るのをやめて周囲を見回し、二日前の記憶に合う看板を見つけようとした。すると、視界の端に見覚えのある赤いフェザーダウンが映った。凛は少し開いた唇の端から白い息を洩らしながら、ビジネスホテルの玄関近くの壁に寄り掛かって空を見つめていた。あおいに気付いた彼女は笑顔になった。
「無事に辞められたみたいだな」
「辞められた。何してんの、こんな寒い所で」
「三時ごろには帰ると聞いたから、待ってたんだ。ホテルに籠って待つだけというのは思いのほか疲れる」
「そっか。わざわざありがとう」
 あおいも笑みを零して礼を返した。凛はあおいの背中に少し隠れ気味だった俊介の姿に気付いたのか、そちらに視線を向けた。
「俊介も、おかえり」
「は、はい。無事に帰ってこれました」
「うん。よかった」
 凛は一瞬だけ、あおいに対してとは違う、くすぐったそうな笑みを浮かべた。
「借りてたタオル、部屋に戻ったら返すよ」
「もう治ったんですか。タオル巻くのは大袈裟でしたね」
 あおいは二人のやり取りを見て、早く拓真に会いたくなった。



***



「拓真」
 ベッドに仰向けになり、露店で買った児童向けの童話を呼んで時間を潰していた拓真は、機嫌のよさそうな声が間近で聞こえて驚いた。本を読むことに集中していて、部屋の扉が開いたことにすら気付かなかった。本を閉じて体を起こした。足元に置かれたバックパックに本を押し込む。
「辞められたんだな」
 エペタムを辞めることができて本当に嬉しいはずの彼女は、頷いただけで特に表情を変えなかった。辞められるという予測に自信があり、再会して二日しか経っていないから、それほどの感慨もないのだろうか。
「拓真、本なんて読めるようになったんだ」
「ひらがなが多いものなら。怪我が治るまで未由にいろいろ教えてもらって」
「言ってくれれば、あたしが教えてあげたのに」
「あの街に行くまで制限時間の中で生活してたんだし、そんな暇なかったろ?」
「それは、そうだけど」
 あおいはふてくされた様子で玄関近くに戻った。
「あたしの服、この中?」
「たぶん。未由が整理してくれたから、俺は中は見てない」
 ボストンバッグのジッパーを開ける音がして目をやった。あおいは服を漁っていた。
「シャツがしわしわだ」
「無理やり押し込んでたからな」
 拓真が言うと、あおいはネクタイを緩め、スーツの上着を脱いだ。ワイシャツのボタンの一番上に手をかけた所で、ふと顔を上げた。
「あっち向いてて。見たら潰すから」
「だから、何を潰されんだよ……」
 拓真は、前に似たようなやりとりをした時と同じように、大人しく壁に体を向けた。

 あおいが着替え終えると、拓真とあおいは鍵をフロントに返して荷物をホテルの外に運び出した。まだ他の四人が来ていないようだったので、玄関脇で時間を潰す。隣に居るあおいは、拓真が初めて見た黒いセーターと、夏に穿いていた水色に近いジーンズを身に着け、そこら中にこびり付いたけばをむしり取っている。荷物は地面に置き、上に着る白い外套は抱え込んでいた。
「やだなぁこんな服」
「自分でスーツ脱いだんだろーが」
 あおいは「堅苦しいんだよあれ」と口をとがらせた。
「ねえ、気になってたんだけどさ、こんなの、前は持ってなかったよね」
 拓真が雑踏に視線を戻そうとすると、着ているブルゾンの袖が引っ張っられた。
「買ってもらった」
「誰に」
「凛に」
「へええぇ……」
 あおいは袖から手を離して、それきり、黙り込んだ。無言の圧力を感じた拓真は咳払いをした。
「別にプレゼントとかじゃねぇって。あおいに貰った外套はちょっと目を離した隙に盗まれてて、上に何も着ないで歩かないといけなくなったから、凛が気を遣ってくれただけ」
「要するに、あたしがしっかりした生地を選んでプレゼントした外套はどっかの誰かにタダであげちゃって、凛にプレゼントしてもらったブルゾンをいま着てるってことね」
「だからー、違うんだよあおいさん。選んだのは自分だし、その金は借りただけ。あとで返すの」
 話をしているうちに、凛と未由が玄関から出てきた。
「ごめん。少し意地悪なこと言った」
 あおいは拓真にだけ聞こえる声量で呟き、二人を呼んだ。
 エペタムの職員カードは退職届の受理が完了した場で焼却させられたということで、ここからは一般市民として行動しなければならない。法外な金額を請求される電車に乗ることは諦め、常時スシ詰め状態のバスでの移動に切り替えることにした。六人は甲府発、日野行きのバス停の列に加わった。バスは道路が修復されている区間、しかも友好地域の行き来の手段としてしか走っておらず、条件の悪い土浦周辺では乗る機会がなかった。
 外套のフードを目深に被って歩いていたあおいは、列に加わるなりその場にしゃがみ、表情が窺えなくなった。車がときどき往来する道路を黙って見ている。機嫌がいい時のあおいは割と饒舌になって訊いてもいないことを喋り立てるが、今は黙り込んだままだった。部屋に入ってきたとき、機嫌良く声を掛けてきたのは気のせいではなかったはずだ。
「拓真」
 名前を呼ばれ、拓真は考えるのをやめてあおいを見た。彼女はしゃがんだまま頬杖をついて、変わらず道路を見つめている。
「四カ月の間さぁ、結構、楽しかったでしょ」
「は?」
 質問の意図が分からず、訊き返した。
「んん……なんて言ったらいいか自分でも分かんないんだけど。あたしなんかいなくても、凛たちと一緒で、楽しかったのかなぁって」
 言い直して貰い、ようやくあおいの言いたいことが分かった。間髪入れずに否定した。
「楽しいわけねぇよ」
 口調が厳しくなってしまい、前に並んでいた未由が驚いて振り返った。
 楽しかったはずはない、と心中で繰り返した。凛たちは優しく接してくれ、いい友人関係を築けてはいたが、言うまでもなくあおいや俊介に替えはきかない。目の前であんなに痛めつけられた二人を見ていただけで、体が治らなければ生きていることすらも知らせることができない自分に心底苛立っていた。岩崎の言葉を信じ、拓真が殺されたのは自分の責任だと思ったあおいは辛い毎日を送っているのではないかと心配していた。そして実際に、その通りだった。
「あおいも俊介も助けられなくて、せめて生きてることだけでも知らせたいのに四カ月も動けなくて、その間にもあおいが人殺しの手伝いをさせられてる。なのに、俺だけ楽しかったかなんて……どういう発想したら訊けんの?」
 言っているうちに腹が立ってきて、拓真は苛立ちまぎれに言葉を重ねようとした。
「そうですよ。拓真さんは楽しんでなんかいません。ずっとあおいさんと俊介さんのことを心配してたんです。最初は治療をしっかり受けてくれなくて、大変だったんですから」
 そこで、様子を窺っていた未由が割って入った。未由が強い口調で話す所を初めて見た拓真は、続けようとした言葉を飲み込み、じっと彼女の横顔に見入った。強い口調なだけでなく、あおいを咎めてすらいた。
 あおいはゆっくりと立ち上がり、フードを取って未由に相対した。お互いに何度か瞬きするほど見つめ合った後、あおいが先に目を逸らした。
「安心したって言ったら、怒る?」
 予想していなかった未由の援護を受け、怒るかと訊かれて怒るような気勢は削がれていた。
「安心って、どういう意味」
「あたしが居ない間も、拓真は楽しく過ごしてました……なんて言われたら、耐えられない。あたしは、拓真がいない毎日が、辛かったから」
 あおいは俯きがちに拓真の胸の辺りを見据え、小さな声で言った。
「そんなの、俺も同じだよ」
 拓真も小さな声で返した。黙って向き合っていると、特徴のある開扉音がバス停に響いた。その音に呼応して人々がバス車内に吸い込まれていく。あおいの後ろには人はいなかったが、横目で見た列の進みが早かったので拓真は前を向いた。まだ後ろを向いていた未由と目が合った。彼女はくすりと笑ってから、何事もなかったかのように乗車口へ向かった。
 
 バスの中では、席に座れない乗客が隙間なく車内を占領していて、最後尾だった拓真とあおいは、乗車口のタラップからも上がれなかった。後ろ背に扉が閉まった。このバスでは金は先払いだとあおいに聞いていたが、後から払うしかないだろう。
「このバスって、途中からでも乗れる?」
「たぶん。途中で何回か、止まると思う」
「なら、あおいが前で」
「なんで?」
「なんとなく」
 単純に、他の乗客とあおいが密着するのが嫌なだけだ。凛や未由が居る前の方がその範囲は少ない。
 バスは低速で運行していた。こんな調子では 日野まで二時間というのも怪しい。だが一応は信号で止まるまで待って、立ち位置を変えた。信号がある道路を通るのも随分久しぶりだった。あの地域にはなかったものが甲府には色々あって、あの辺りは本当に治安が悪く、被害も深刻だったんだな、と改めて認識させられた。間もなくエペタムの施策が実行されようとしている中、そんな場所にわざわざ戻る必要はないのかもしれない。それでも、まだ具体的な内容が公表されていない不確実なものに頼るよりは、賢明な気がした。
 次にバスが止まったのは、信号ではなく別のバス停だった。乗車口が開き、数名が乗り込んでくる。拓真はあおいと未由に限界まで詰めるように言ってからは踏ん張っていたが、それではどうにもならないようだったので、タラップの上につま先だけ乗せ、ちょうど横にあった棒に捕まった。ようやく扉が閉まる音がした。バスが走り始めた途端、慣性で乗客が揺れ、つま先立ちに近かった拓真は煽りを受けて倒れそうになった。しかしあおいがブルゾンの肩口あたりを掴んでくれて、どうにか踏ん張ることが出来た。あおいはそのまま、生地が破けそうな勢いで引っ張った。おかげで踵までしっかりと足場が出来た。
「よろよろしすぎ」
 あおいはそう言うと手を外し、拓真の手首を掴み直して引いた。厚着の乗客が密集していて、冬だというのに暑くて息苦しい車内にあって、手は少し汗ばんでいた。拓真は腕を軽く揺らして解くように促した。そして一旦離れた手を、自分から握り直した。外套の袖とブルゾンの袖に隠れ気味になるそれぞれの手が、べたべたとして気持ち悪く、鬱陶しかった。




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