28

 目を覚ました凛は、首を動かし隣で眠る未由を見た。彼女は良く眠っていた。布団から出ようとしたが、足を少し動かしただけでひやりとした感触に襲われ、やめた。部屋にある壁掛け時計は五時半の辺りを指している。足先を擦り合わせ、あと少しだけ、と思って目を閉じた。
「お姉ちゃん、そろそろ支度しないと」
 優しく体を揺すられて起きると、六時五十五分だった。起こしてくれた未由とおはようと交わし合い、伸びをしてから勢いよく布団を弾いた。寝癖を適当に撫で付け、荷物から歯ブラシを取り出して部屋の外に出た。この階の宿泊客で共用の、横に長い水道に向かうと、俊介がフェイスタオルを片手に一人で歯を磨いていた。
「おはよ」
「おはようございます」
 手短に挨拶を済ませ、さっさと歯磨きをした。自分も一分か二分は歯磨きにかけているが、凛が磨き終わった後も俊介は手を動かしていた。ずいぶん丁寧に磨くんだなと横目で見てから、凛は歯ブラシを一旦手すりに置き、顔を洗った。冷たい水が重い瞼を強引にこじ開ける。顔を濡らした後で、拭くものを持ってきていないことに気付いた。水が服に流れてこないよう、前かがみのまま俊介に手を差し出した。
「タオル、貸してくれない?」
 手の上にタオルが載せられた。すぐに拭き終え冷水から解放された凛は一息ついて、タオルを俊介に返す。
「ありがと」
 彼は歯ブラシを口から出して濯ぎ、うがいをすると、歯ブラシを置いて顔を洗い始めた。
「ご、ごめん。まだ、使ってなかったのか」
「や……大丈夫です」
 凛は手すりに置かれていたタオルを取って、裏返しにした。俊介が顔を上げた所で渡し直す。
「はい。また後でね」
「あの。凛さん」
 歯ブラシを持ち、部屋に戻ろうと背を向けた所で、呼び止められた。振り返ると、俊介は手早く顔を拭き終えて言った。
「エペタムを辞めるまでは僕らに付き合ってくれるみたいですけど、それから先は、どうする予定ですか?」
 前髪に水滴が付いたままの彼の言葉に、凛は少し考えてから答えた。
「ん、ああ……名前のない街ではここに来る前まで定着支援をやっていたから、もう一度、戻るつもり。それに私は、あの街が好きだし、あの街以外に伝手がない。餓死に怯える生活はもう御免だ」
「そうですか。僕もあの街は好きですよ。凛さんもそう考えてるなら、もう少し一緒に生活ができそうですね」
「俊介もあの街に?」
「そのつもりです。姉ちゃんや拓真が違う生活を望んだとしても、僕はそっちを取る。この手で散々殺して奪い取った生活を……守備隊に追い回されて無駄にするつもりはないですから」
 俊介は最後だけ虚ろな顔つきになり、凛の視線に気付いてすぐに笑顔を繕った。エペタムが彼を使って、紛争の間どのくらいの敵兵を殺させてきたのか気になったが、紛争に関わりのなかった田舎町であくせく働いていただけの自分が、そんなことを訊いたってどうにもならない。かけるべき言葉に迷うと、俊介の方から話題を変えてくれた。
「凛さんは、あの街でどんな仕事をしたいですか?」
「まだ、長期のは、考えてない」
「僕は、何かを作る仕事がしたいんです。壊すんじゃなくて、作る」
「面白そうだな。何かを作る仕事なら、造成途中の街にはいくらでもあるよ」
「そうですよね。だから、あの街に戻りたい。生み出すことが仕事なんて、すごくやりがいがあるじゃないですか」
「あっちに着いたら、一緒に仕事を探そうか? 相談相手くらいにはなれる」
 先程の表情を受けて少しだけ俊介が遠くに感じたが、嬉しそうに将来の話をしているのを聞き、凛は口元を緩めていた。こうして将来の話を聞くなんて、縛り上げられた俊介を見ていた時には想像すら出来なかった。
「前に君を止めた時は相談相手も務まらなかったから、あんまり頼り甲斐はないかもしれないけど、ね」
 拓真の怪我が治るまでと思い、短期労働ばかりこなしてきた自分にまともな仕事が紹介できるはずはなく、あまり期待されても困るので釘を刺すと、俊介は少し首をかしげた。
「凛さんは頼りなくなんかないです。あの時、僕は誰に止められても黙って行くつもりでした。でも凛さんが来たから、無理だった。姉ちゃんや拓真や彰さんは子供みたいなことばっかりするし、未由ちゃんは常識はあるけど危なっかしいし……。僕が頼りにできるのは凛さんだけなんです」
 頼りにしてくれていることに対し、何か言葉を返せばいいだけだったが、なぜだかうまく言葉が出て来なかった。口を開きかけたまま俊介の前髪についた水滴をぼけっと見つめていると、彼は思い出したように声を上げた。
「あ、呼び止めておいてすいません。そろそろ支度しないと」
 彼はそう言い、自室の前まで歩いていった。
「仕事探しの約束、忘れないでくださいよ」
 そして振り返り、嬉しそうに言う。部屋のドアが開き、閉まるまで、凛は突っ立っていた。俊介はいつものようにフォローしただけなのだろう。だが、それが特別な響きに聞こえたのは自分の思い過ごしだろうか。

 部屋では未由が全ての荷物をまとめ、入口付近に置いてくれていた。歯磨きを入れていたケースを取り出し、しまうと、もう出発準備が整ってしまった。時計を見やるとまだ余裕があった。ベッドに腰掛けている未由の隣に座り、ぼうっとした頭のままで背中を倒した。ベッドが小さかったので、ごん、という鈍い音と共に壁に頭をぶつけた。慌てた未由に大丈夫と言い、体を起こした。
「さっき、俊介とそこで会ってこれからのことを少し話したんだけど……未由は、どうしたい?」
 頭を擦りながら訊くと、未由は少し考えるように視線を彷徨わせ、答えた。
「ん、そうだなぁ……。もし、国籍はく奪されてても受け入れてくれる所があったら、学校に行ってみたいかも」
「そっか、未由、本当だったらもう……高校受験の年か」
 凛の言葉を聞き、未由は慌てて付け加えた。
「あ、でも、はく奪じゃやっぱり無理だよね。お金もないし。無理なら、家事やりながら、仕事見つけたい」
 九歳も離れた妹の気遣いが痛かった。だが、以前よりは、あの時生じた色々な不都合を直視できるようになっているような気がした。前は話の流れで過去から尾を引く出来ごとに触れそうになると、無理に話題を変えたりしていたから、自分でこんな話を始めるなんて考えられないことだった。
 もしかすると、意図せぬ彰の荒療治も効いたのかもしれない。触れないように、触れないようにと絆創膏で覆い隠すよりは、少しくらい空気に晒した方が、傷は乾きやすい。
「私、頑張るから。学校はどうにもならないかもしれないけど、金は貯める。未由が望む道に進めるように」
 未由は上目遣いに凛を見た。
「頑張り、すぎないでね」
 ベッドについていた手に、未由の手が重ねられた。小さくて、冷たい手。
 しばらく手を重ねたまま床を見つめていたら、部屋の扉をノックする音がした。
「そろそろ行ける?」
 続けてあおいの声が聞こえ、凛は未由の手を引いて立ちあがった。



***



 内心の動揺を、悟られていただろうか。かろうじて部屋の中まで動揺を隠し通し、息を吐いた。耳が熱い。俊介は、凛のあの顔……思わず好意が滲んだ言葉を自分が口走ってしまった後で、少しだけ口を開け、こちらの前髪の辺りをぼうっと見つめていたあの顔が、どうしようもなく可愛く見え、慌てて部屋に戻ってきた。この動揺は、黙って部屋から出るのを止めてくれたあの時が、元々の原因だろうと想像した。名前のない街での生活の中で、他の皆が楽しげに話すのを一歩引いて見つめている凛とは、よく話した。そして彼女は岩崎に期限を決められていた自分の変化に気付き心配してくれて、あの夜にも、抜け出したことにいち早く勘付き、わざわざ止めに入ってくれた。戻る決心をしていたとはいえ、彼女の顔を見るとどうしようもなく決意は揺らいだ。
 俊介は手に持っていたタオルを握りしめた。過ごした時間は短いはずなのに、これじゃ完全にあれだ、と思った。だが、まだ身辺整理もついていないような状態で、この感情を具体的な単語に置き換えてしまうのは怖かった。凛はああ言っていたが、これからも一緒の街で生活できるという保証はまだないのだ。エペタムの残務整理の後、二度と会えなくなるかもしれない。
 そろそろ出るよと扉の外からあおいの声が聞こえ、俊介は考えるのをとりあえずやめた。彰とともに荷物を担いで部屋の外に出ると、他の四人は既に階段の手前に集まっていた。凛には視線を向けないようにして、階段を降り始める。このホテルは一時間単位で料金が加算されていくことになっていて、六人は十五時間分を前払いしていた。七時半までに出ないと料金が上積みされてしまう。
「あたし、やっぱり今日、出しに行こうと思うんだけど。俊介はどうする?」
 あおいは手に持った紙に視線を合わせたまま、階段を降りる。俊介が彼女の肩越しに文字を追うと、表題には退職届と書かれていた。願いではなく、届け。退職する予定日は明後日になっている。
「僕も今日にしようかな。今は別に何も業務抱えてないし、部屋の荷物はエペタムの備品がほとんどだから、退職の処理もすぐ終わる気がする」
「けど、いきなり辞めたりしたら困る奴らがいるんじゃないか?」
 彰が口を挟むと、俊介の代わりにあおいが軽く笑って答えた。
「いないよ」

 ホテルを後にすると、出勤前の人々で街路は混雑していた。新三国には戦争に巻き込まれた形跡もなかったが、ここまでの賑わいも当然なかった。俊介たちが抱えている大荷物を迷惑そうに避けて追い抜いていく人々の中には、街路の脇に並ぶ屋台で朝食を済ませて行く男や、『五分でスピードメイク!』と書かれた看板が掲げられた場所に立ち寄る女もいる。邪魔くさいなどと小言を言われる度に未由がわざわざ謝ってはぐれそうになっていたので、俊介は彼女の腕を取って凛に呼び掛けた。
「未由ちゃんと手繋いであげてもらえますか? 荷物持ちますから」
 両手がふさがっていた凛から、ボストンバッグを受け取った。予想以上に重くて少し腕が下がり、慌てて抱え直した。
「あ、公園みたいなとこがある」
 そうしている間に前を歩いていたあおいが断りもなく横道に逸れ、姿が見えなくなった。後を追うと、横道の先には小さな児童公園があった。普通に歩いていれば見落としていたような小さな公園だった。葉のついていない冬の木々に囲まれたその場には、遊具が数点と、ベンチが一つ置かれているだけ。
「出勤の混雑終わるまでここで休もうよ」
 地面にスーツケースを置き、一台しかないブランコに座ったあおいが言った。人混みが嫌いなあおいは、こういう静かな場所を見つけるのが上手い。
「それでいいよね?」
 俊介は後ろに居た皆に言い、ベンチに座った。
「すごい人混みだったな」
 未由が座るものだと思って隣を空けておいたが、そこに凛が座って、俊介は端に寄った。
「甲府は毎朝こうです。甲府の前に居た場所はもっとすごかった」
 なんでここに座るんだよと俊介は心中で呟きながら、凛の顔を見ないようにして答えた。未由は誰が遊ぶのか分からない平均台の上に拓真と共に座り、彰は滑り台の先端にいた。
「前はどこに配属されてたんだ?」
「色々回りましたよ。前線が移動する度に街と街を行ったり来たりしてましたから。代表的なのは、沢渡、中原、桜川、前橋。でも一番活気があったのは、サジキハラ。紛争中だろうがなんだろうが自分の仕事は続くんだって感じで、出勤ラッシュ時はバス乗り場が殺気立ってました」
 自分はそんなバス乗り場の近くを、軍装で歩き回っていた。
「その街、大きな大学があることで有名だろう」
「はい。街の内外から優秀な生徒や高名な学者が集まってるとかで、何度も巡回しました」
 そこまで言ったところで、どうして知っているんだろうと思い凛の顔へ問う目を向けた。しかし凛は俊介の目を黙って見つめ返しただけだった。
「大学はどんな様子だった?」
「え、ああ、平和そのものでしたよ。ただ、何年か前にその大学に籠ったエペタムの分隊員が二十名も玉砕したってことで、大きめの石碑が建ってましたけど」
 そうか、とだけ凛は呟いて、視線を地面の砂に落とした。理由を訊いてはいけないような気がして、俊介も下を向いた。スズメの群れが可愛らしい声を出しながら餌を探し、出勤時の喧騒が遠鳴りしている。淡く吹く風が顔を冷たく煽った。
 不意に凛が、落ちていた木の枝を掴み、しっかりとした枝運びで地面に線を書き始めた。
『桟敷原』
 少し経つと線は文字になっていた。凛の手首が動き、放たれた枝が放物線を描いて落ちた。
「上手いですね」
 思ったままの事を言うと、凛は軽く笑った。
「こんなのに上手いも下手もない」
 可笑しそうに言った声につられて、俊介も少し笑う。
「何で知ってるのかは、あの街に戻ったらゆっくり話すよ」
 凛は笑んだまま言ったが、声には疲れが滲んでいた。
「む、無理して話さなくてもいいですよ」
 気を遣って言うと、凛は顎の辺りを触った。
「確かにあえて話すことでもないが……。俊介が、なんだか聞きたそうにしていたから」
「いや、僕は聞きたいです。でも今、疲れたような声出したんで」
「君は気を遣いすぎるな。声音にまでいちいち反応していたら持たないぞ。それに、あまり気遣い過ぎると嫌味になるから気をつけたほうがいい」
 たしなめる口調で言われ、俊介は言葉に詰まった。拓真やあおいにも時折注意されたことがあるが、信頼している相手に対して気遣い過ぎるのは、他人の顔色を窺わなければ生きていけなかったころからの、癖だ。
「鬱陶しい?」
「そうじゃない。気を遣っているのに嫌われても馬鹿らしいだろう」
「そんなに嫌味っぽく聞こえましたか」
 エペタムに拾われた後は、無能なら死ぬ、拾った側の気分を害せば捨てられて死ぬ、と自分に言い聞かせてきた。組織の中で有能と言われるには、細かなことにまで気を回す努力が必要だった。だが人と人との付き合いにおいては、度が過ぎるのかもしれないとは、自分でも思っていた。自覚しているだけに、口調がきつくなってしまった。しかし凛は涼しい顔で答えた。
「人によっては。私はそうは思わないけど」
「ならどうして言ったんですか」
「深い意味はない」
「それじゃ、意味もない言葉にむきになってる僕が馬鹿みたいじゃないですか」
「俊介」
 凛にゆっくりと名前を呼ばれ、俊介ははっとなった。恥ずかしくなってそれ以上突っかかるのを辞めた。
「私、断定的で偉そうな物言いばっかりするから、少し誤解させたかもしれない。今のは、俊介が心配だから言ったんだ。そこまで気を遣っていると、人と接するたびにストレスを抱え込んでいそうじゃないか。それを心配して言った」
 強調するためなのか、心配していることを二度繰り返して言った彼女に対して、俊介は謝罪の言葉を呑みこんだ。
「あ……そう、なんですか」
 我ながら単純だと思うが、凛が優しく諭すように言うだけで何も言葉が出て来なくなった。自然に話が出来て忘れていたが、凛がすぐ隣に座っていることを改めて意識してしまい、俊介は立ち上がった。
「えっと、朝ご飯、買ってきますね。皆にもそう言っといてください」
「ん、買い出しなら私も行く」
 凛から逃げるために発した言葉に反応し、彼女も立ち上がった。
「一人で大丈夫です」
「二人でも大丈夫だろう」
 意識した状態で二人きりになるのは避けたい。何か言おうとしたが、凛は暇そうにブランコを揺らしていたあおいに向けて、「俊介と朝ご飯買ってくる」と言ってしまっていた。



***



 並んで歩いているのに、いやに距離が空いている。時々雑踏の中で俊介のことを見失いそうになり、凛の方から慌てて近付く。そうするとまた、ほんの少しずつ距離が開いていく。会話もない。俊介の様子がおかしくなったのは、一緒に買い出しに行くと言ってからだった。また気を遣っているのかと思い押し切ってしまったが、今考えれば凛について来られるのを嫌がっているような、そんなそぶりだった。
「俊介、弁当屋には後どのくらいで着く?」
 凛と俊介の間に別の会社員がいて、凛はその会社員の後ろ背から声をかけると、俊介は前を向いたまま、
「あと二、三分です」
 と答えた。
 それから黙って歩き、サンドイッチや惣菜を売っている店に着いた。その店も、昼食を買っておきたい会社員がたくさんいて大変な混雑だった。未由と彰の分は凛が適当に選び、俊介は拓真とあおいの物を手に取った。俊介は手慣れた様子で人混みをかき分け購入したが、人混みとは無縁の生活をしばらく送っていた凛は上手くレジまで辿り着けない。俊介に代わりにレジまで行ってもらおうかと思い周囲を見回したが、既に彼の姿はなく、のたのたと列が進むのを待つしかなかった。
 周囲の男性会社員と体がぴったりと密着した気持ち悪さを抱えて列が進むのをじっと待ち、ようやく買えたが今度は思うように出られない。俊介の姿はなおも見当たらない。手伝わなくてもいいから待ってくれてたっていいのに、となんだか泣きそうになってもがいていると、腕を掴む手があった。顔を上げると、俊介だった。強引に腕を引っ張られる。凛は俊介の意外な腕力の強さに引きずられ、周囲の会社員にぶつかり迷惑をかけながら、どうにか店の外に出ることが出来た。
「何やってるんですか。あんなとこでじっとしてたら痴漢に遭いますよ」
「そ、そんな事言ったって、出られなかったんだよ。大体、俊介が私の事を置いていくから」
 自分の要領の悪さは棚に上げ、俊介が自分を置いてさっさと行ってしまった事を愚痴った。
「気遣い過ぎるなって言った事、やっぱりまだ怒ってるんだろう」
「ち、違いますよ。少し注意されたくらいでいつまでも根に持ったりしないです」
「じゃあどうしてさっきから、そんなによそよそしい態度を取るんだ」
「それは」
「それは?」
 問うと、俊介は黙り込んだ。そして道のど真ん中で突っ立っていたため、凛は後ろから会社員の人にぶつかられ、よろけてしまった。
「あ、ごめん、ごめんな」
 優しく謝られたのはよかったものの、右腕にぶつかられたために、サンドイッチが入ったビニール袋から手を離していた。更に悲惨なことに凛はそのビニール袋の上に思い切り乗ってしまい、バランスを崩してコンクリートに顔から倒れこみそうになった。咄嗟に手をついたが、皮膚が擦りむけた痛みが走った。
「邪魔だよ、何してんの」
 小言を浴びせられ、凛は慌てて、潰れてしまった弁当を持ち直した。立ち上がった所でまたぶつかられ、今度は俊介が肩を掴んで支えてくれた。少しずつ視線を上げていくと、目が合った。雑踏の中でとろとろしている自分を、普段は頼りにしてくれているらしい俊介に見られたのが情けなくて、顔が熱くなった。俊介は何も言わず、凛の手首を掴んで歩き始めた。
「大丈夫ですか」
 公園のある横道に入った直後、俊介は凛の手を掴んで、手のひらを表にした。意外と強く擦りむいていて、結構な量の血が滲んでいた。
「ごめん、もたついてばっかりで。こんなことなら、俊介が一人で行った方が良かったな」
 持っているサンドイッチのパックは、幸い、二つ潰れただけで済んだ。一つはもちろん自分で食べて、もう一つは誰かにどうにか食べてもらうしかない。そんなことを考えていると、俊介が手のひらの傷口を優しく撫でた。凛は思わず手を引いた。
「くすぐったい」
 笑いながら言えば、俊介は目を合わさず公園の方を向いた。
「公園の水道で洗いしましょうか」
 まだよそよそしいが、怒っているわけでも嫌われているわけでもないようだというのは分かったから、理由は特に訊かないことにした。
「潰れたのは、僕が一つ食べますから」
 皆に弁当を配る最中、俊介は凛だけに聞こえる声で言った。凛は俊介の提案に礼を言い、彰と未由にはプラスチックトレーに入った綺麗なままのサンドイッチが渡された。配り終えた後、この小さな公園には水道がないことに気付いた。どこか近くに水道がないか探すしかない。凛は、潰れたサンドイッチの入った袋を持ったまま歩き始めた。
「どうしたの?」
 他の四人は、並んで座れる平均台に皆いて、おいしそうにサンドイッチを頬張っていた。その中からあおいが訊いてきたので答えようとすると、すぐ近くで俊介が代わりに答えた。
「凛さん、ぶつかられて転んじゃって。手のひら擦りむいてるから、洗える場所探してくる」
「一人で大丈夫だよ」
 そう言うと、
「二人でも大丈夫ですよね?」
 先程の凛の答えを真似て、俊介が言った。

 
 雑踏のない横道は民家が多く立ち並んでいた。時折、スーツ姿の俊介を伏し目がちに一瞥していく住民とすれ違う。その中をしばらく適当に歩いていき、別の公園を見つけた。先程のよりも割と大きめで、ちゃんと水飲み場がある。
「結構歩きましたね」
 蛇口を捻り、手を水に浸すと傷口がしみた。痛みを堪えて俊介の言葉に頷いた。
「わざわざ付き合ってくれてありがとう」
「傷、結構酷かったですけど大丈夫そうですか?」
「放っとけば治る」
 蛇口を止め、手についた水を切った。俊介は「だめですよ」と注意した。ポケットから今朝のフェイスタオルを取り出して、凛が締めた蛇口を再び回す。水に浸したタオルをきつく絞り、凛に手を差し出すよう言った。
「いいよ。そこまでしないで」
「だめです」
 にべもなく言い切られ、凛は諦めて手を差し出した。俊介は傷を覆い隠すように何回かタオルを回した。巻き終わると端を縛った。巻く時は事務的だったが、縛る様子に優しさが滲んでいた。凛は右手を握ったり開いたりして感触を確かめてから、笑みを浮かべて弁当の入った袋を持ち上げた。
「食べよう」
 手近なベンチに座ってビニール袋を開けば、目に飛び込んできたのは潰れて具材がごちゃまぜになったサンドイッチだった。凛は俊介にそのうちのひとつを手渡し、手元に残ったトレーのふたを開けた。もうこれは、サンドイッチ用のパンに挟まれた何かだ。
「優しいな、俊介は」
 こんなもの、誰も好き好んで食べはしない。
「ど、どうしたんですか、急に」
 一つ食べ終え、玉子まみれになった親指を舐めていた俊介が、焦った口調で言った。
「前にあの街に居た時、仕事終わって帰ってくると、自分だって大変なのに心配して声を掛けてくれたりしてただろう。今日だって、未由のことをちゃんと見ててくれたり、こんなの、一緒に食べてくれたりして、さ。救われるんだよ。何年も、人の優しさとは無縁の場所で生きてたから」
 俊介の方を見たが、彼は目を合わせようとしなかった。照れたにしては少しおかしな反応だ。今朝の言葉も思い出し、一瞬、自分の事が気になっているのだろうかと想像したが、それは自意識過剰か、と打ち消した。
「僕も、凛さんには救われてますよ。今だって」
 打ち消してすぐにそんな言葉を言われ、ハムを飲み込もうとしていた凛はむせた。
「なんで」
「それは訊かないで下さい」
 俊介は苦笑いで誤魔化した。ただ頼りにしてくれているのか、それとも異性として見られているのか。どっちなんだろう、と凛は俊介を観察したが、そこからは普段の俊介に戻ってしまって、自分のことをどう思っているかなどわかりそうもなかった。凛は最後のサンドイッチを口に運び、俊介の横顔をもう一度じっと見つめてから、地面に視線を遣った。




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