26

 拓真たちは無事県境まで歩き通したあと、新三国橋で行っていた検問に引っ掛かり、新三国支部で拘留された。拘留場所は想像していたような薄暗い牢ではなかった。真っ白な壁に覆われ、隅には背負ってきた荷物、中央には布団が積まれているだけの部屋だったが、そこには錆びついたトイレとシャワーが一体になった部屋が、西側に出っ張る様にして作られていた。トイレは臭いが酷く、シャワーには出水制限がついてはいたが、それだけでも、ここは拘置所とは全く異質な場所なのだと想像がついた。凛と未由は随分気が楽になっただろう。
 しかし拘留されていることには変わりなく、特にすることもないので、拓真は一日のほとんどを考え事や睡眠、朝昼夜と出されるひとかけのパンをゆっくり食べることで潰した。四人まとめて同じ部屋に入れられていたので時々は話もしたが、先日の彰の言動の影響がそこにも出ていた。話そうとすると、拓真と彰、拓真と凛、拓真と未由、凛と未由といった一対一の会話になってしまい、やはりどこかぎこちなかった。
 そんな中で一週間が過ぎ、いい加減考え事も思い浮かばなくなってきた頃、面会の申し入れがあったと、職員に呼び出された。


 俊介とあおいが姿を見せた瞬間、この四カ月の中で初めて、情けなさや惨めさといった気持ちが純粋な安心感に圧倒された。喜びよりも、微かな光明として縋ってきた期待が損なわれなかった、安堵の方がはるかに強かった。上手く会話が出来るか不安だったが、拓真はどうにか言葉を絞り出し、会話を繋げていった。途中、俊介が今回の事に責任を感じているということも垣間見えたが、拓真の心中では、三人の間に隔たった時間を埋めたい気持ちが勝っていたので、苦笑で返した。
 俊介との会話が途切れ、拓真はゆっくりとあおいに視線を移した。
「あおいは? 元気だった? 少し、髪伸びたみたいだけど」
 岩崎に蹴られ、地に伏した後も発せられていたあおいの声は、今でも思い出される。しかしこれだけ時間が空けば、その声を聞いていなかったかのように振る舞うことくらいはでき、拓真はなるべく気楽に聞こえるように言った。しかしあおいは、俯いたままだった。
「死んだんじゃなかったの?」
 呟くように返され、拓真は太ももの上に置いていた両手を握り込む。
「あー……。どーにか、生きてる。あいつは命に関わる部分は手加減したみたいだったけど、骨を折られたりはしてて、行動が遅れた」
「そう、なんだ」
 どう説明すればいいのか分からず、歯切れの悪さを自覚しながら言った。あおいはひとり呟いた後で顔を上げ、空笑いをした。
「あは、やだなぁ、思い違いで、こんな……。たった四カ月我慢すれば、また会えるようになったのにね。そんなこと、考えもしなかった。勝手に拓真たちを内輪揉めに巻き込んで、俊介のこと信じないで、酷いこと言って」
 言い終えた後には、まともな言葉を差し挟む余裕もなかった。あおいは目元を手の甲で拭って、立ち上がった。
「ごめん、少し、席外す」
 俊介が止めようと腰を浮かしかけたが、あおいは既に部屋を飛び出していた。
「俊介、追いかけない方がいいって」
 扉が閉じた後で、拓真は俊介に言った。
「いろいろ……あったんだろ、あおいも」
 俊介は頷き、スーツケースを手に取った。
「とにかく、元気なのが確認できて安心した。姉ちゃんもいなくなっちゃったし……今から身元引き受けの手続きをしてくる。ちょっと待ってて」

 拓真は拘置されている部屋に戻され、無事、俊介たちと面会できたことを三人にも話した。三人は三様に、安堵の表情を浮かべた。
「よかったですね、拓真さん」
「こんなとこまで来たかいがあったな」
 少し興奮気味に言った二人に礼を返し、拓真は床に座って壁に寄りかかった。柄にもなく緊張していたせいか、冬だというのに背中には汗がへばりついていた。
「生きてたんだ」
 凛が嬉しそうに、ぽつりと呟いた。拓真はそれを確認すると、急に眠気に襲われて目を閉じた。



***



「えーと……」
 拘置場所から出るとスーツを着た俊介が困ったように四人を出迎え、頬を掻いた。彼の隣に、あおいはいなかった。しかし探せばすぐに見つかるだろうと思い、とりあえずは俊介に視線を戻す。
「久しぶり、みんな」
 拓真に挨拶を済ませていた俊介は、三人を見回した。何と声を掛けようか迷っている様子の俊介に対して、凛が先に口を開いた。
「あれから、こぶができて寝るとき痛かった」
「あれって……あ、あの時はごめんなさい、凛さん」
 俊介が反射的に謝ると、凛は彼の頭に手を置き、乱暴になで回した。
「もうあんなことしないって約束できるのか」
「はい。しないです」
 いつもしっかりしている俊介が子供みたいな謝り方をするのが新鮮で、拓真は笑みを堪えながらその様子を見守った。前から思っていたが、俊介は少し凛の事を意識している気がする。
「なら、いい」
 凛は俊介の頭から手を離し、笑った。
「また会えて嬉しいよ」
「僕も、です」
 答えたあと何秒か間があり、凛と目を合わせたままの俊介の顔が少し赤くなった。彼はそれを誤魔化すように視線を外して未由を見た。
「未由ちゃんも、よくこんなところまで……体は大丈夫?」
「はい。疲れましたけど、ちゃんと会えたから平気です」
 一週間の拘置暮らしで疲弊が体全体に滲んでいる未由は、笑顔でその疲弊を押し隠し、答えた。
「彰さんは、三人に迷惑かけなかったですか?」
「なんで俺だけそんな扱いなんだよ……」
「でも、迷惑かけてたのは本当だよね」
 未由が少しむっとした様子で、だが随分久しぶりに彰に対して口を開いた。彰は戸惑って口をもごもごさせて、ああともうんともつかない言葉を発した。
「さっきから気になってたんだけど、あおいは」
「あ、ちょっとさっき、拓真と話してる途中で、部屋から出て行きました」
「どうして?」
「姉ちゃんは拓真が死んだと思ってて……少し、混乱してるみたいです」
「そうじゃない。どうしてすぐに探さないんだ」
 凛が少し苛々したように言ったので、拓真は横から口を挟んだ。
「泣いてたから、余計な事しない方がいいって、俺が」
「いくらあおいでも、放っておいていいわけがない」
「そうかもしれないけど」
「君はあおいが心配じゃないのか? 心配なら、すぐに探した方がいい」
「でも、あいつは泣いてるとこなんて人に見せたがらないと思うし……」
「そんなの、言われてから考えればいいことだろう」


 凛に気圧され思い直した拓真は、玄関で待っているよう四人にお願いしてから、面会した場所まで戻り、付近を探し始めた。しかし面会室の辺りにある部屋はどれも鍵がついていて、関係者以外は入れないようになっていた。すぐに行き詰まり、どうしようかと考え込みながら歩いていると、トイレの目の前を通り過ぎた。足を止め、トイレのドアを見つめる。男子用と女子用に分かれていたので、まず男子トイレに入った。
「いるわけねーよな……」
 個室は全て空で、人の姿はない。
 入口に戻り、女子トイレの前に立つ。拓真はしばらく突っ立っていたが、周囲に誰もいないことを確認すると、誰もいませんようにと祈りながらドアを開けた。
 トイレの中は縦に細長く、二人が並んで歩けるかどうかといった空間と、個室が四つあった。祈りが通じたのか、誰とも鉢合わせしないで済んだ。手前の三つの個室のドアは全て開いていたが、一番奥のドアだけが閉まっている。拓真はその個室に向かって、躊躇いがちに声をかけた。
「あおい?」
 しばらく、間があった。
 人違いだったらすぐに逃げようと拓真が身構えていると、返事が聞こえた。
「誰ですか」
 聞き間違えようのない声。あおいだ。だが、その言葉はどこかよそよそしい。
「や……拓真。三瀬、拓真」
「男の方……ですよね。どうして女子トイレなんかに?」
 どうやら、すぐに出てきてはくれないようだった。誰かが入ってきたら面倒だと思ってあおいの隣の個室に入り、鍵をかけた。
「はぐれた知り合いを探してるんですよ」
 未由の真似をして、丁寧な言葉で返した。
「知り合いってだけで、こんなところまで探しに来るんですか」
「大切な知り合いだから」
「へえ」
「言葉遣いは汚いし、食事の仕方も汚い、性格は全体的に雑で、女とは思えない奴なんですけどね」
「あー……そうなんですか。あたしの知り合いの男にもいますね、そういうの。貧乏で、汚らしくて、一緒に暮らしてる女の子に迷惑かけてばっかりのバカが」
 なんとなく場を和ませよう思った拓真は、適当にあおいを貶した。しかしあおいの切り返しは容赦がなく、自分からけしかけたにもかかわらず気分が悪くなった。何かを言い返そうとすると、入口のドアが開く音がして、拓真は慌てて口を閉じた。一番奥の個室に入った人の衣擦れの音が嫌に大きく聞こえ、なんだか申し訳ないような気持ちになってじっとしていると、彼女はすぐに用を済ませて出て行ってくれた。
「今の人は違うんですか」
 淡々とした声が聞こえ、まだ続けるのかと思って溜息を吐いた。また人が来る前に出たい。
「出て来いって、あおい」
 拓真は軽く跳ぶと個室を区切る板の縁に手をかけ、あおいのいる個室を見下ろした。
「見っ……見ないで。……ください」
 スーツ姿で板に寄り掛かっていた彼女は、すぐに気付いて顔を背けた。
「次に人が来る前に出たいんだよ。困る」
 拓真は飛び降り、鍵を開けて外に出た。あおいの籠る個室の前に立つと、もう一度声をかけた。
「今、どうしても顔を見られたくないなら、玄関で待ってる。けど、少し恥ずかしいくらいだったら」
 言葉の途中で、個室の鍵が開く音がした。
 彼女は俯きがちにドアを押し開け、おずおずと顔を上げる。
 一瞬、笑顔が浮かんだように見えたが、それはすぐに歪んだ。あおいは顔を拓真の肩にぶつけ、胸の辺りを手で掴んだ。そして顔を押し付けたまま、何かを喋る。当然のように聞き取れなかったが、訊き返しはしなかった。体を震わせる彼女の頭を抱え、ただじっとしていた。
「本当に、死んだのかと思って……」
 そしてかすれた声が今度ははっきりと聞こえて、拓真は彼女を抱く腕に力を込めた。




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