23

 昨夜は、遠目に凛たちの姿が確認できる場所まで歩いていき、寝袋に入ってからすぐ眠った。そして今朝はまだ日が昇りかけの時間に起きてしまい、起きてすぐに、後悔した。凛の泣き顔を思い出したからだった。自分の短気で口喧嘩を始めた時は、興奮が収まるとすぐに後悔が襲ってくる。彰は、寝袋から体を出して、折り畳み、バックパックに戻した。
「謝ろ……」
 ぽつりと呟いて、寝袋が三つ適当に並んだ所へ歩いて行った。
 まだ、全員が眠っているかと思ったが、近付いていくと凛だけが起きていた。彰は、凛が背を向けて座っている瓦礫に歩み寄った。日の出の方に目を凝らしていた彼女は、砂利を踏みしめる音で気づいたらしく、振り返った。彼女の右頬には、いつものように縦の裂傷が走っている。自分が、状況を呑みこめずに取調官という職業の男に盾ついたとき、守ろうとしてついた傷だ。凛も、罪をなすりつけられた、被害者なのに。どうして、昨日はあんな言い草で彼女を泣かせてしまったのだろう。未由の言うとおりだ。
「何?」
「昨日は、ごめん」
 彰は、おずおずと言葉を切りだした。視線だけ寄越していた彼女は、体もこちらに向けた。
「昨日は、あんなこと言ったけど、いつも、あんなこと、思ってるわけじゃない。俺、馬鹿で、短気だから、頭に血が上ると、ああやって、すぐ馬鹿なこと言って、さ……。あー、なんて言えばいいんだろ。馬鹿な事言って……馬鹿な事言ってばっかで、ごめん」
 顔を上げた。瞼が腫れ気味の凛は彰をじっと見つめ返し、少しの間を空けた後で、口を開いた。
「知ってるよ。彰が短気なのは。少し、喧嘩自体が久しぶりだったから、加減が分からなくなっただけなんだろう?」
「や、まあ……」
「私も、悪かった。不安で苛々してるのが分かってたんだから、なじるんじゃなくて、勇気づけるべきだったよ」
「なんで、そんな、あっさり」
 彰はぎこちなく言葉を返した。
「私は彰みたいに……意固地になるほど子供じゃない」
「けど……」
「しつこいなぁ。まだ何か言葉が必要?」
 突然発せられた硬い声にたじろぎ、一旦、会話が途切れた。
 そのまま突っ立っていると、凛が先に動いた。彼女が近付いてくるのをぼうっと見ていたら、頬のあたりで鈍い音がした。何の準備もしていなかった彰は、よろめいた拍子に瓦礫に躓き、尻もちをついた。
 体を起こした時、凛は俯いたまま、何度も鼻をすすっていた。



***



「さっきから気になってんだけど、何その顔」
 拓真は、腫れ上がった彰の左頬を見つめた。彰は問いには答えず、水の入ったペットボトルを頬に当てて、神妙に歩き続けている。彰には早朝、起き抜けに謝られた。謝る相手が違う、と言うと、凛にはもう謝ったと言っていた。その時には腫れ始めていたから、やはり凛に殴られたのだろうか。
 細々としたあぜ道が開けて二列でも他の通行人の邪魔にはならなくなり、昨日とは打って変わって黙々と歩いている彰が一番後ろで、その左斜め前を拓真が歩いている。拓真の前には未由の背中。その右隣の凛は俯きがちに歩き、未由は今朝から彰を一瞥ともしない。
 それは昼の休憩も同じだった。車道沿いに敷設された適当な縁石を見つけ、腰を下ろして食べたが、三人の間で会話は無く、間に挟まれた拓真も話をする気にはなれずに黙っていた。寒さ和らぐ絶好の晴天の中で、車の通らない車道を、時折思い出したように往来する靴々を眺めながらパンをかじる。ここに俊介がいたら、うまく取りなしてくれるのかもしれないな、と拓真は思った。

 結局、昼休憩の後も会話がないままだった。陽が落ちかけた頃に、今日の目標である小さな街を見つけるまで、歩き通した。未由は彰に対しての怒りから意地になっていたが、見るからに限界だった。
「泊まるとこ、探すか」
 俊介の国籍証明書類を使い検問を通り抜け街に入ったはいいが、誰も何も言い出さなかったため、拓真が提案した。
「そうですね」
 未由が同意し、彰も軽く頷いた。
 相も変わらず気詰りする雰囲気の中で整備されていない砂利道を建物沿いに歩くと、宿は数分で見つかった。拓真はほっと息を吐いて、バラックのような簡易ホテルの中に足を踏み入れた。そこは見掛け通りに狭く、レジスターの隣に胡散臭い英字説明が添えられた避妊具が置いてあるだけのカウンターには中年の女が一人で座っていた。
「何名様で? 何泊?」
 煙草を片手にけばけばしい付けまつ毛を瞬かせた彼女の酒焼けした声に、四名で一泊と答えた。
「先払いね」
 彼女の提示した金額を渡し、代わりに部屋番号の入ったただのキーを受け取る。
「あ、これ要らない? 安いよ」
 レジスターに金を入れる手を止め、避妊具の端を摘まんで軽く揺らした彼女に対して首を振り、奥へ進んだ。
 渡されたキーに書いてある部屋番号は二〇四。部屋の前に着き、鍵を開けた。そこは採光など考えもしないような間取りで、薄暗く、寒かった。隅に積まれた布団を四つ並べただけで足の踏み場がなくなりそうな部屋だ。
「先に布団を広げてみた方がよさそうだな」
 拓真たちはそれぞれ自分の布団を運び、奥から拓真、彰、凛、未由と並べた。布団を並べて改めて部屋を見ると、本当に隙間がなくなった。仕方なく、荷物は三和土に脱いだ靴を端に寄せて、そこに置くことにした。
「なんか夜に食う奴買ってくるけど、食いたいのある?」
 荷物を下ろして、財布だけ取り出した拓真は三人に向かって訊いた。
「あ、お、俺も行くっ」
 毛布の匂いを嗅いで顔をしかめていた彰が、慌てた様子で三和土まで来た。

 小さな商店で、手作りのサンドイッチのランチボックスを四つ、一リットル入りの水を二本、レジに並べた。未由が簡単なものでと言い、凛がなんでもいいと投げやりに答えたのが、夕食の注文。代金を支払って一日歩き通した重い足を引き摺り、彰と共に店の外に出る。
「これから、どうする? 今日、一言も口聞いてもらえてねぇだろ。未由と凛が話してるのも見てない」
 喋るたびに白い息が出る。街灯の少ない夜道では二人の靴音しか目立った音は聞こえなかった。
「どうすればいいか分かんねえんだよ」
 彰は情けない声を出し、呟くように言った。
「一回謝っても駄目で、一回殴られても駄目だった。ならしょうがない、って諦めんの?」
 いくら苛々していたとはいえ、あの物言いは事情を知らなかった拓真ですら不快になるほどのものだった。相手に許してもらうのを待っていればいつまでかかるか分からない。
「地道にやってくしかない……か」
 彰がまた呟く声が聞こえた。
「手伝おうか」
「自分で何とか考えてみるわ」
 彼は断って、ポケットから何かを取りだした。
「何それ?」
「キーホルダー。鍵に付ける奴。凛、昔の家の鍵をまだ持ってるんだよ。それにつけたらどうかなと思って」
 いつの間に買っていたのか、目と目が非対称で口がにんじん、木の棒が両側からに突き出している小さい雪だるまのぬいぐるみが、彰の手元にはあった。
「かわいいな」
 ぬいぐるみの頭を何度か摘まんだ。柔らかい。

 ホテルの部屋に戻ると、一番端の布団で既に未由が熟睡していた。起こさないように静かに靴を脱ぎ、未由の布団を跨いだ。
「ありがとう」
 彰が凛に、半額の札が貼られたサンドイッチのランチパックを渡すと、もちろんいつものような笑顔は見せず、一応といった風情ではあったが、意外にも礼の言葉が聞こえた。
「いや……あ、あとこれ」
 彰は照れたように雪だるまのキーホルダーを差し出した。
「昔の鍵に、つけたらどうかなーって。ほ、ほら、そのままだと失くすかもしれないし」
 ランチパックのタマゴサンドから手をつけた拓真はもそもそと口を動かしながらその様子を眺めていた。受け取るかな、と見つめていると凛もまたぬいぐるみの頭を触り、それからキーホルダー全体を掴んだ。
「くれるなら、貰う」
 凛も若干困惑気味で、貰ったキーホルダーをしばらく眺めてから、バックパックの重ねてある方に行った。何度も自分の近くを歩かれている未由が呻いてから寝返りを打つ。
「無視されなくてよかったな」
 そう言ってから、ペットボトルの水を口から離して流し込んだ。彰は静かに頷いた。




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