22

「私たちは、人口十万人程の街の、首長の子供だった」
 月から目を切った凛は、手近なコンクリート片の上に座った後で、零すように呟いた。

 凛は、現在の放浪とは無縁の裕福な家庭の中で、とても可愛がられて育った。不安定で内紛の火種があちこちに転がっている世の中だったが、凛は親の庇護に加え生来の人当たりの良さから小中高と友人に恵まれ大過なく成長し、街の外からも数多く通う生徒のいる有名な地元大学に合格した。あまり勉強を続けることには興味がなかったが、親の強い勧めで入学した。既に高齢になりつつあるにもかかわらず、首長と言う激務に未だ携わる両親を想い、二つ年下の弟と、小学校高学年の時に生まれた妹、二人の将来に支障がないよう、卒業までに就職を決めようと毎日勉強に打ち込んだ。そしてその中で、当然のように、恋愛も経験した。
 木村とは、大学一年生の夏ごろ、学校付属の図書館で、席が目の前になったのが最初だった。レポートが進まず悩んでいると、正面に座っている木村が話しかけてきた。
「さっきから、一行も進んでないね」
「うん……」
 凛は顔を上げ、声の主に頷き返した。
「漢字が、分からなくて」
「え?」
「キガ、ってどう書くんだっけ」
「あ、ああ。こう、かな」
 木村は自分のレポート用紙に飢餓、と書いて、凛に見せた。
「ありがとう。助かった」
「……そんなんでずっと唸ってたの?」
 呆れたように言われ、凛はむっとした。
「そんなんで、って何だ」
「いや……。辞書とか使えばすぐ……」
「辞書は全部貸し出し中だった」
「後で友達に聞けば」
「今日の午後提出」
「なら、最悪、平仮名で」
「あの教授、漢字で書かないとうるさいんだよ」
 そう言うと、木村はなんだか口をもごもごさせた後、薄く笑った。
「次、分からない漢字があったら聞いて。俺、得意だから」
「本当? じゃあ、次もお願い」
 凛も、笑顔で返した。
 それから、図書館でよく一緒に勉強するようになった。木村は少し頼りない体つきではあったが、いつも静かで、優しい面立ちをしている男だった。凛は自分自身が表裏が無くはっきりとした性格をしているからか、そういった静かな知性を感じさせる男に惹かれる所があった。くだらない日常のやり取りから生活での愚痴まで、真剣に耳を傾け、いつも静かに自分の考えを述べる彼と居るだけで、なんだか気分が安らいだ。
「凛ってさ」
 二月に入った頃から、木村は凛のことを名前で呼んでいた。凛は気恥ずかしく、名字を呼び捨てにしたままだった。
「喋り方、おじいさんみたいだよね。何何だろう、とか、君は、とか」
「え、私は、ただ、小さいころからおじいちゃん子で……もしかして、この喋り方、変? やめたほうがいい?」
 彼が一言呟いただけで、友人に言われても気にしていなかった言葉遣いが、急に気になり出す。とても口に出しては言えないが、木村は自分の隣にいなくてはならない存在になりつつあった。
「でも、気がついたらこの喋り方になっていた……この、この喋り方になっていたので。ん? この喋り方に……?」
「り、凛。何も、悪いなんて言ってないだろ。落ち着けって」
 彼は単なる呟きが予想以上に凛を混乱させたことに慌て、言葉を付け加えた。
「そ、そう……?」
 凛は少し顔が赤くなったのを自覚した。赤みを隠すように、当時はまだ傷の無かった右頬を、軽く掻いた。凛の周りの友人たちは、自分が木村を好きであることなどとうに気付いていたに違いない。
「なんか、独特で面白い。好きだよ、その、喋り方」
「あ……ありがとう」
 一瞬、自分の事を好きだと言われたのかと思った凛は、それから少し、落胆した。
 そんな一進一退の時期を乗り越え、凛と木村は交際を始めた。友人や家族とは別に、一緒にいるだけで幸せを感じることの出来る存在があることを、凛は初めて知った。告白された時の嬉しさ、付き合い始めてからの日々の楽しさ、女友達と歓談している姿を見つけて感じた嫉妬、他にも、本当に深い感情を経験した。世情のさらなる悪化、成績の低下、親の叱責、いろいろな不安もまとわりついた。しかし総合的に見れば、今までで一番楽しかったのがこの時期だったと思う。

 そしてその幸せは、あっけなく終わりを迎えた。両親を殺され、国籍をはく奪され、街を追放されて、凛は浮浪者になった。きっかけは、二年の夏。木村が反政府運動に傾倒し始めたことだった。
 世情の悪化を受け、反政府運動の機運は高まる一方だった。エペタムを筆頭に、各街で反政府団体が扇動を行っていた。街なかで反政府運動が盛り上がってしまっては、政府から目を付けられる。凛の父親である首長は当然、集会の禁止などを訴え、運動を排除していった。凛の父親が守備隊に命じて集会を強制解散させた際に傷を負った木村も、凛と凛の父親は別だから、と言ってくれた。凛はどちらの活動にも興味がなかったが、心配して反政府運動を辞めるように説得した。彼は聞く耳を持たなかった。凛も結局は政府側の人間なのか、と罵られたこともあった。凛は悲しくなったが、諦めずに、何度も何度も説得をした。
 だが、凛のささやかな説得もむなしく、通っている大学にエペタムの分隊の拠点が置かれるようになるまで、時間はかからなかった。
 こともあろうに、エペタムに協力した大学生による反政府集団は、木村がリーダーだった。木村とエペタムの分隊に扇動された大学生たちは反政府運動に陶酔し、凛の周りの友人までもが活動に参加し始めた。学校は授業どころではなくなり、エペタムの分隊と生徒たちの占拠する無法地帯となった。大学に入り込んだエペタムの分隊は、熟練した戦闘集団だった。鎮圧にあたった街の守備隊も日に日に死者を増やし、エペタムのそばに学生がいるからと言って加減はできなくなりつつあった。

 その日、凛は、エペタム分隊の支援のために構内に立て籠ると言って聞かなかった木村に付き添っていた。大学生たちの中で唯一と言ってもいいほど冷静だった凛は、だからこそ、不気味な陶酔の中に木村を置き去りにしていくことはできなかった。木村の目はぎらついていて、普段の優しさなどは微塵も感じられなかった。守備隊の攻撃は苛烈さを増している。何かあれば、彼を止めなければならない。その攻撃から、彼を守らなければならない。胸に括り付けた決意は確かで、揺らぐことは無かった。
 だが、その日は、政府軍の援兵を受けての、エペタム分隊掃討作戦の実施日だった。圧倒的な火力で急造のバリケードを突破し、政府軍と守備隊は凛と木村のいる場所にも突入してきた。木村を止めようと手を伸ばして袖を引っ張ったが、無用の心配だった。政府軍の兵士の眼光は怖ろしいほど鋭く、木村はその目に射られただけで立ち竦んでいた。先程まで木村と談笑していたはずのエペタムの兵士たちは負けじと応戦し、目の前でエペタムと政府軍の殺し合いが始まった。陶酔の現実を見せつけられた格好だった。エペタムの分隊も苛烈に抵抗したが、多勢に無勢、全員が射殺された。
 血が吹き荒ぶ殺し合いを間近で見た大学生たちは、夢から醒めた。しかし、醒めるのが遅すぎた。政府軍は、エペタム分隊を掃討したのち、場に居た大学生全員を拘束した。もちろん、凛も、木村も。
 そして、政府軍は、反政府活動を行ったリーダーを炙り出そうとしていた。

「リーダーは木村、お前だと、ほとんどの生徒が証言している。浅井、あんたは木村と近しい立場にあったようだな。どうなんだ」
 凛と木村は、同じ取調室に入れられていた。隣り合った椅子に、二人で座っていた。正面では、机に調書を置き、ボールペンをくるくると回している軍服を着た兵士が、やる気なく凛を睨(ね)めつけていた。灰、という印象しかない部屋には、他にも五人の兵士が、凛たちを圧迫するように立っていた。本当の事を話さなければ、何をされるか分からない。その恐怖から、よっぽど本当の事を話してしまいたかったが、それはできなかった。木村がリーダーだと言ってしまえば、彼は殺されてしまうかもしれない。揺るがぬ決意を胸に、凛は首を横に振った。
「違います。木村は、周囲の人間に罪をなすりつけられただけです」
「成程……」
 そう言った後、彼は突然、ボールペンを握りしめた。どうしたのだろう、と思った時には、右手の甲に深々とボールペンが突き刺さっていた。骨を砕かれ、肉を貫かれた凛の悲鳴が、取調室に響いた。隣に座っている木村が、泣きそうな目で凛の事を見つめていた。それから、取調官は円を描くようにボールペンを回した。もちろん、深々と刺したまま。凛はあまりの痛みに、身を捩った。
「恋人を庇いたい気持ちはわかるけど。嘘は駄目だよ。浅井凛」
「ほっ、本当、でっ」
「へえ?」
 円を描く右手を止め、彼はボールペンを捻じり抜き、同じ右手の甲の違う場所に突き刺した。凛はまた悲鳴を上げ、涙と涎が調書の上に零れた。しかし、調書の上に零れたというのに、取調官は紙を取り換えるそぶりもなかった。調書かと思っていた紙は、何も書いていないただのわら半紙だった。机に突っ伏し激痛に喘いでいると、ボールペンが抜かれ、次は左手の甲に突き刺さった。右手の甲の時よりも丹念に、傷口を抉るように、ぐりぐりと円を描く。もう、悲鳴を上げることもできなかった。ただ泣くしかなかった。
「言えよ。リーダーは木村です、って」
 冷酷な声が、遠くで響く。
「ち、ちが、違いっ、ます!」
 凛は、泣きじゃくりながら言った。
「強情だなあ」
 感心したように、取調官が言う。彼は、肉を抉りきるようにしてボールペンを引き抜いた。冷や汗が背中を濡らし、気持ちが悪い。取調官は、立ち上がった。机の上でだらしなく涎を垂らし、上目遣いにそれを見た凛は、椅子から蹴り落とされた。硬い床に、頭を打ち付ける。
「さて。木村君。君にも、聴取をしようじゃないか。君は男の子だから、浅井より少し痛くするけど」
 取調官は、言うが早いか腰に差していたナイフホルダーから、ナイフを抜いた。それを、木村の手の甲に突き刺す。間髪置かずに、そのナイフを逆手に持ちかえ、手の甲から中指までを一気に引き裂いた。
 悲鳴どころか、絶叫が取調室に響き渡った。
「次は、どこを裂こうか。どこがいい、浅井凛」
 返り血を浴びてなお、冷静な取調官が凛に目を移す。彼は、木村ではなく、凛に訊いた。
「早く答えないと、代わりに首を裂く」
 凛は残忍な視線を受け止めたが、あまりの恐怖に、口が利けなかった。だが、木村の右手が、真っ二つに裂かれているのが見えた。言わないと、本気で、やるつもりだ。
「ふ、服」
「体の部位で答えろ」
 やっとの思いで絞り出した答えを、取調官は鬱陶しそうに切り捨てた。
「……う、で」
 次の答えは、忠実に実行された。木村は、右腕の皮膚を裂かれて削がれ、酷い場所では筋肉を露出した。彼はあまりの痛みに耐えきれず暴れたが、周りを囲んでいた男たちにひたすら殴られ、すぐに落ち着きを取り戻させられた。
「次」
 凛は、もう何も言えなかった。両手で口を押さえ、泣きながら首を振った。
「次は? 言えよ」
 取調官は、笑った。凛は助けを求めるように、木村へ視線を投じた。木村は涙と絶望を垂れ流した顔で、凛の表情と取調官の表情とを一瞥し、涙で焦点がぼやけている凛にも分かるくらい、震え出した。歯がかち合う音が、取調室に木霊した。
「浅井」
 そして木村が、震える声で口を開いた。ん、と取調官が訊き返す。
「あ、浅井、凛が」
「浅井凛が?」
「浅井凛が、こっ、今回のっ、首謀者、です」
 木村は、確かに、そう言った。聞き間違いであってほしいと思ったが、確かに木村の口から出た言葉だった。
「へえ……」
 思案顔になった取調官に、取り巻きの一人が耳打ちをした。
「浅井凛は首長の娘、か」
 取調官は楽しそうに呟いた。

 凛はそれから、首長の執務室に連行された。
 執務室の扉が、蹴り開かれる。
「首長」
 先程の取調官が、同行していた。
「あなたの娘が、反政府運動に加担した容疑で逮捕されました。しかも、主犯格です」
 手錠をかけられて、両脇を政府軍の男に挟まれた凛は、虚ろな目で父親のことを見つめた。娘の憔悴しきった顔を見た秘書代わりの母が、お茶を載せていたお盆を、床に落とした。
「まさか、賢明な首長で知られるあなたが反政府運動に加担していたとはね」
 ろくに説明もせず、断定口調で、取調官が言う。
「と、突然押し掛けて何を言っている。娘を離せ!」
「これから、取り調べを開始する」
 父と母は、あっという間に、ロープで縛りあげられた。そして、取り調べと言う名の拷問が始まった。腕を折られ、足を捻じられ、ナイフに皮膚を裂かれ。四肢が言うことを聞かなくなったうえで、顔や腹を蹴り上げる。
「エペタムの他の分隊の拠点はどこだ。早く言え」
「こ、こんな横暴が、許されると思っているのか!」
 そうだ。そんなこと、父親が知るわけがない。殺してくれ、と凛は思った。自分が、妙なことに首を突っ込んだせいだ。両親に非は無い。殴るなら自分にしてくれ、自分を殺してくれ、と思った。
 しかし、そんな願いは通用しなかった。見る見るうちに母が弱っていき、男の十数度目の蹴りを受け、動かなくなった。父も、しばらくして、それに続いた。
「あ? 二人とも死んじまったよ。残念だなあ。……県司令部に連絡。応援を要請しろ。この街を政府直轄にする準備だ」
 取調官たちは手際よく事後処理を開始した。凛は涙も涸れ、ただ呆然としている他無かった。
「首長選挙のときに厄介だから、ガキは国籍をはく奪して追放。反政府集団との癒着まみれの一族に代わり、とでも言っときゃ勝てんだろ。……他にも二人? 連れて来い」
 両親の遺体が片付けられ、血痕のこびりついたカーペットが剥がされた首長室に、彰と未由が通されたのは、一時間後の事だった。二人とも学校から呼び出されたらしく、彰は高校の制服、未由はランドセルを背負ったままだった。
「お姉ちゃん?」
 未由が、状況が呑み込めてない様子で目を白黒させている。凛は後ろ手に手錠をかけられたまま、取調官と並んで立たされていた。
「いいか。今日からお前ら三人、国籍をはく奪されて、街から追放だ」
「は? ど、どういうことだよ、それ! だいたい、お前ら誰だ? ここ、執務室だろ? オヤジはどこにいる!」
 威勢よく言った彰に、取調官は溜息を吐いた。
「やめろ!」
 凛は、微かに残っていた気力を振り絞り、叫んだ。
「追放するなら、私だけでいいはずだろう!」
「駄目だ。家族全員が反政府集団に加担していたと言うシナリオが重要なんだ」
「シナリオ? そんなもの、どうにでも書き換えろ!」
「だから、無理だって。国籍をはく奪して、追放だ」
「やめろって言ってるだろう! 弟たちは関係ない!」
 凛が四たび叫んだ姿を見て、取調官はナイフを抜き去り、一瞬で凛の右頬を切り裂いた。凛はついに立っている気力もなくなり、床に倒れ込んだ。
「人前に出るのが怖くて仕方ない顔にしてやろうか」
 その言葉に、涸れたはずの涙がまた零れ落ちた。
「……ごめん、なさい」
 凛は、意識を手放す前に、そう呟いた。

 次に目を覚ましたのは街の外で、凛は彰に背負われていた。



***



 一度語り始めると、凛は止まらなかった。憑かれたように、話し続けた。そして最後まで語り切った時、凛は、再び泣いた。初めて聞く話もあったらしく、拓真だけでなく未由も、凛の話に聞き入っていた。
「それは、凛の……凛のせいじゃない」
「うん……そう、思うようには、してる」
 凛は指で目頭を抑え、地面を見つめながら、言う。
「……なんでそんなに、頑張れんの」
 あおいですら、八年近く経ってからようやく怨嗟から我に返ったと言っていた。三年間、弟たちを連れて街にも入れず放浪して、不慣れで間抜けな脅し方で食料を奪おうとしたあの時まで、彼女はどんな葛藤を押し留めて日々を過ごしてきたのだろう。どうして明るく振舞えているのだろう。
 凛は拓真の言葉には答えず、自嘲するように笑った。その右頬には、縦に走る古傷があった。




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