20

 甲府基地内の情報照会所の中で、俊介は使用していたパソコンをシャットダウンした。
 情報が更新されていないということは、拓真たちがまだ動いていないということだ。県境の検問で引っ掛かった者の名は、共有情報として提示されている。俊介は自前のパソコンを持っていないため、こうして照会所に足を運んでいた。
 あれから、四カ月が経つ。
 復帰してから満三カ月は、常に前線で激戦を重ねた。自分でも生きているのが不思議なくらいで、時間の経った今も銃を手にしていないことの方に違和感を覚えるほど、戦闘に馴染んでしまっていた。しかしその働きのおかげで、俊介を取り巻く警戒の目は随分と緩んだ。主要戦闘の終わった一カ月前からは能力を発揮する場もなく後方の雑務処理に回され、こうして休暇も貰えている。機密にかかわるような立場ではなくなっているというのもあるが、既に、自分から仕事を辞めたとしても、問題なく受理されるであろう立場だ。自分とあおいを戦闘要員として引き戻した岩崎も、まさかたった三カ月で主要な戦闘が終わるとは思ってもみなかったに違いない。
 しかしながら、俊介もまた自由の利かない立場を思い、拓真たちから来てほしいと書き残して国籍証明書類を置いてきてしまった。ある程度自由になれた身とはいえ、国籍証明書類が拓真の手元にあるままでは、動こうにも動けない。県境を跨ぐ際には国籍証明書類が依然として必要であるし、エペタムとはいえただの事務員の休暇旅行では、書類提示が求められる。一カ月前、山梨の甲府基地に姉のあおい、同僚の伍代と共に異動になった今は、茨城に居る拓真に会いに行くには、どうしても国籍証明書類が必要だった。
 いま手元に国籍証明書類があるのは、あおいだけだ。県境検問通過の国籍証明は、代表の一名だけでいい。拓真たちを探しに行くには、彼女を説得する必要があった。


 俊介は情報照会所を出てから、飾り気のない無骨なコンクリートに囲まれた廊下を歩いた。そして、冬島あおいと書かれたネームプレートの差してある部屋の扉を見つけると、そこをノックした。だが、扉を数回ノックしても、反応はない。
 それから何回か繰り返して叩いたが、同じく反応はなかった。
 俊介は、また部屋に居ないのかと帰りかけたが、少し待とうと思い直し、扉の右手にあるコンクリートの壁に寄り掛かった。ひやりとした感触が背に伝わる。今やこの冷たいコンクリートと遜色の無いくらい、彼女の心は冷え切ってしまっていた。
 甲府に配属されてから、休暇が同じ日になったのは今日が初めてだった。仕事中にすれ違っても、彼女は笑顔を見せてはくれなかった。殆どの場合は、視線を交わしただけ。一度、拓真を探しに行こうと説得を試みたことがある。彼女は差して興味が無さそうに、「だから何?」とだけ訊き返して、それきり俊介から目を切った。俊介は、彼女を呼び止めることができなかった。彼女の中では、拓真は過去の人間だった。俊介は岩崎がそこまでするとは思わないが、彼女にとっては、もう、死んでいる、彼女の目の前で岩崎に撲殺された、過去の人間。
 それからというもの、彼女はいつ来ても部屋に不在で、まさか仕事中に抜け出して違う部署の彼女を説得しに行くわけにもいかず、休暇が同じこの日が説得する二度目のチャンスになった。
 壁に寄り掛かったせいか、微かに音楽が聞こえていた。俊介はあおいとの数カ月を思い出しながらその音を聞いていた。初めは隣の部屋の兵士も休暇でそれが伝わってきているのかと思ったが、どうもあおいの部屋から聞こえてくるようだった。
 俊介は壁から身を離し、もう一度部屋の扉をノックした。
「姉ちゃん、いる?」
 大きめの声で扉を強く叩くと、微かに聞こえてきていた音楽が止んだ。
 しばらくして扉が開き、寝間着に上着を羽織っただけのあおいが顔を覗かせた。彼女は何も言わずに、部屋の奥に進んでいった。


 部屋には、蔵書の揃った本棚と、音楽が流れていたコンポ以外には何もなかった。いや、最低限自炊に必要な器具は置いてあったが、彼女らしくない、病的なまでの丁寧さで仕舞われ、部屋全体がひっそりと静まり返っているようだった。何もない、と感じたのはそのためだろう。
 俊介はその不気味に静まった部屋の奥に通された。そこには毛布の上にコンポのリモコンだけが載っているシングルベッドがあり、脇には三脚のテーブルがあり、彼女はベッドの端に腰かけ、俊介は三脚テーブルの近くの、その二つ以外に何も置かれていない部屋の床に座った。
「何か用?」
 あおいは、どこを見ているのか分からない目で呟くように言った。
「用は、特に」
 気圧され、思わず誤魔化してしまう。
「ないの? なら帰ってよ。久しぶりの休暇なんだから」
 彼女は溜息を吐くのもはばかられるといった様子で、さも鬱陶しく、不快な人物と相対しているように俊介の事を見た。
「どうしたんだよ……姉ちゃん」
 その目に射られ、俊介は呟いていた。
「前は、そんなじゃなかったよ」
「前? 前っていつ?」
 あおいは、しばらく見ない間に伸びた髪へ右手を埋めて、首を傾げた。
「四カ月前?」
 そう言うと、彼女はしばらく考え込んだ後、手を後ろについて天井を見上げた。
「ねえ。いつまで拓真にこだわってるつもり? もう、どうでもいいじゃない。死んだ奴の事なんか」
「どうでもよくないだろ? 前にも言ったけど、拓真はまだ、生きてるかもしれないんだ」
「いつまで馬鹿な事言ってんの?」
 あおいは感情の籠っていない声で言った。
「何だよ」
 俊介は気圧され、再び呟く。彼女は感情の無い目を徐々に変化させ、侮蔑するように俊介を見始めた。
「何なんだよ、その言い方は……」
「あんたが居なければ、拓真は死ななかった。なのに何でそんなことが言えるの? 岩崎は、私の、目の前で、拓真を殺したんだよ。あんたが、呑気に、気絶してる横でね。俊介が捕まらなければ、拓真は、岩崎に歯向かいなんてしなかった。私達と、はぐれるだけで、今もどこかで生きてた」
「い、言いがかりはやめてくれ! 僕は、姉ちゃんたちだけでも逃げてくれればと思って」
「へえ? 俊介が自己満足に浸って勝手に消えたせいで死んだのに、まだそんなことが言えるんだ」
 そう言うと、彼女は笑った。
「もう、いいよ。分からないなら。目障りだから、早く帰って」



***



 俊介は自分から場を後にした。あおいのあまりの言い草に、苛々していた。あと一言付け加えられていれば、殴っていたかもしれなかった。
 深呼吸をしてから、自分の部屋の扉を開ける。電気が点いていて、俊介のもの以外の靴が一足、三和土(たたき)に行儀よく並べてある。俊介はそれを見て驚いたが、気を取り直してその隣に靴を脱いだ。入ってすぐ右側に台所とその隣の窪みに納まった冷蔵庫があり、トイレ一体型のバスルームが左側にあり、そこを過ぎると、俊介が生活している空間があった。俊介はベッドに寄り掛って座っている女性に目を遣る。彼女は視線に気づき、俊介の貸した本に落としていた目を上げた。
「何で居るの?」
「ああ、鍵、開いてたから」
 彼女……伍代佳乃(ごだい よしの)は、あまり手応えのない声音で答えた。


 佳乃とは、組織の訓練所で一緒になって以来の同僚だった。
 彼女はわずか八歳で奴隷として歓楽街から歓楽街へ転々と売られ、最後に買った主人が睡眠中に油をかけてライターで火を点け重傷を負わせ、その逃亡中に村田という幹部の一人に拾われた。
 その経歴は俊介やあおいなど、訓練所に居る子供たちの中でも異彩を放っていたが、なぜだか自分とだけ馬が合い、親友と呼べる仲になった。
 通常は大人になるにつれ恋愛感情を持つようになるものなのかもしれないが、彼女は売られている最中に様々な虐待を受け、誰に対しても性的な感情は持ち得なくなったため、俊介とは恋仲にならなかった。俊介の方は彼女の事を意識していたが、その気が全くないことを何度も説明されて随分昔に諦めた。
 一時除隊の期間を経て組織に戻ってからは、久しぶりの再会を喜んでくれた数少ない同僚の一人で、今ではすっかり昔のような関係になった。時間が合えば基地内の食堂まで行ってよく一緒に食事をする。この場所に戻ってからは、俊介にとって、ただ一人の友人だった。
「何だか、苛々してる?」
 佳乃は本に視線を戻し、淡々と訊く。
「姉ちゃんと会ってきた」
 俊介は憮然として答え、床に敷かれた安っぽい絨毯の上に座った。佳乃と同じようにベッドに寄り掛かるが、彼女と隣り合う距離は少し空けてある。
「前にも言ったと思うけど、姉ちゃんは、拓真が死んだと思ってる。でも僕はそうは思わない。岩崎さんが、関係の無い人を殺すはずはないから」
 本のページを繰る音が隣で小さく聞こえた。
「部屋に行ってもう一度説得しようとしたら、あんたのせいで拓真は死んだんだ、って言われてさ。思わず殴りそうになったから、戻ってきた」
「思わず? 珍しいね。俊介があおいさんに怒るなんて」
「……僕だって、苛々する時もあるよ」
 姉に、あのような目を向けられた時には。
 あおいは、自分の事を本当に憎いと思ってあのような目で見つめてきたのだろうか。だが、本当に憎いと思っているなら、部屋にすら入れようとしなかったはずだ。まだ、修復の見込みはあるのかもしれない。
「これだけ時間が空いたのは岩崎さんにやられた拓真の身体がぼろぼろだったから、すぐに動けなかったんだよ。……絶対に生きてる」
 俊介は、正面を向いたまま、独り言のつもりで呟く。隣に座っていた佳乃が、ぱたんと本を閉じた。


 早めの夕食がテーブルに並んだのは夕方五時半頃だった。ご飯とサラダと味噌汁、鶏もも肉を焼いて塩コショウで味付けし、炒めたミョウガを絡めたものが一品ずつ。二人で分担して作ろうと提案したが、佳乃は慣れた手つきで台所を漁って、ひとりで手際よく作り上げてしまった。
「あおいさんは、目の前で見たから」
 黙って佳乃の白い指先を見つめ、サラダに添えられていた冷やしトマトを咀嚼していると、唐突に佳乃が言った。
「何を?」
 俊介はトマトを飲み下してから、鶏もも肉を取ろうとしたところで箸を止めた。
「あおいさんは、目の前で、岩崎さんの口から、殺したって聞いたから。俊介のほうを信じて、期待したくないんだよ」
 料理している時も黙っていた彼女はそう続けた。それから味噌汁のお椀を持って口を付けて、啜る。俊介は止めていた箸を動かし、鶏もも肉を取った。




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