17

 スーツ姿の男たちに迎えられた拓真は、彼の背後の地面に叩き伏せられた凛を見据えた。
「冬島あおい」
 拓真からあおいに目を向けた男が、笑いながら言う。
「弟はそこにいる」
 彼は親指で後ろを差すと、店の入り口が見えるように道を開けた。そこには、手を後ろに回され、痣だらけで腫れ上がった顔を俯ける俊介がいた。
 拓真は彰に目を向け、凛を介抱するよう促してからパン屋の中に入った。女店員が部屋の隅で蹲り震えていた。俊介は店の真ん中で座らせられていて、以前俊介の上司だったという男、病院では共闘していたはずの男、岩崎が、カウンターに寄り掛って煙草を吸っていた。彼は特に何を言うでもなく、一瞥をくれただけだった。
「俊介、しっかりしろ! 今、解いて……」
 声を掛けると、俊介が、拓真の存在に今気付いた、というように顔を上げた。腫れ上がった瞼の下に隠れた瞳には確かに涙が浮かんでいる。
「……どう……して、逃げ……」
 掠れた声を必死にしぼりだした彼はそういうと、激しく咽た。
「いいから、黙ってろ!」
 手を縛っていたのは、細い針金だった。それが何重にも、何重にもきつく巻いてあった。俊介の手先は赤黒く変色しかけていた。その手を見て呆然とした時、俊介は気を失って床に顔を突っ込ませようとした。拓真は慌てて手を伸ばし、俊介を支えた。同時に、拓真の目を赤いレーザーサイトが射た。
「……ガキはそろそろ失せな」
 いつの間にか、岩崎が長い銃身のマズルを拓真に向けていた。
「お前……俊介に何をした!」
 銃と、その冷たい目に臆することなく、拓真は岩崎に食ってかかろうとしたが、引き金に手を掛けた拳銃を前面に出されて、俊介を抱き抱えたまま、拓真は動きを止めた。
「奴は上司を手に掛けようとした。当然の制裁だ。死なないだけ、運が良かった」
 どこか苦味のある口調で岩崎は言う。
「あいつは、俺を人質に、部隊を街から撤退させるつもりだったらしいな。結局失敗に終わったが」
「どういうことだ……」
「まだ、気付かないのか。お前と、あおいを、この街から逃がそうとしたんだよ、俊介は」
 それだけ言うと、岩崎は気が変わった、とでも言うように銃を下ろし、腰に掛けた。彼はそのまま歩き始めると拓真の横に立った。
「なのに、お前たちはのこのこと戻ってきた。仲間を蔑ろにできないと考えた俺の、予想通りにな」
「……当たり前だ。俊介を見捨てるなんて、出来るわけがない」
 その言葉を聞いて急にしゃがんだ岩崎は、拓真の胸倉を掴んで引き寄せると、間近で睨み、周りに聞こえないよう、囁くような声で怒りをぶつけた。
「ざけんじゃねえ! 甘ったれて俊介の善意を無駄にしやがって。どうしてそのまま逃げなかった……!」
 拓真は驚きに目を見開いた。
 しかし胸倉を掴んだまま拓真の身体を床に叩きつけるようにしてから離した岩崎は、既に顔から表情を消していた。

 
 茫然自失としていた。激しい暴行を受けた弟を見つめ、拓真とは違って一歩も動けなかった。ようやく状況を理解し、あおいは自らの短絡的な行動を恥じた。逃げなきゃ、拓真、と声を掛けようとしたが、今更遅いと思い至り、また茫然とした。俊介は、分かっていた。自分が、逃げられたらいいねなどと呑気に話しているのを見て、あの組織のやり方を失念してしまっていることを。俊介が一週間前に話していれば俊介の提案に反対して、強行突破の道を選んだだろう。そしてきっと射殺されていた。
 店から、気絶した俊介を肩に担いだ岩崎が出てくる。拓真は驚いたように岩崎の背を見つめていた。岩崎はあおいと目を合わせたが、無言で進んでいき、道路に出たところで立ち止まった。彼はエペタムを辞めてなどいなかった。恐らく、自分たちの監視活動の一環で先の戦闘では協力したのだろう。
「武器使用・殺害禁止。重傷は許可。三名制圧、要捕縛者冬島あおい」
 彼がそう呟くと、あおいたちの正面に集まった四名は、髪の長い一人に全ての武器を預けた。どこかで見覚えのある髪の長い部下は、岩崎の隣に走って行った。
 そうしている間に彰がよろめく凛を抱きかかえて、あおいの隣に戻ってきた。
「訓練と思ってサシでやれ。俊介は俺と宮部が連れて行く」
 その声を聞いた瞬間、あおいは拳銃を取り出し、岩崎に向けて構えた。それを見た彰も、俊介の置いて行った拳銃を取り出し、目の前の一人に銃口を向ける。引き金に人差し指を掛け、二か月前、風呂場で男を正確に撃ち殺したように、引き金を引こうとしたが、あおいの人差し指は凍りついたように動かなかった。引いたら、人が、死ぬ。
 一瞬の躊躇の間に、隣の彰は腕を蹴り上げられていた。抵抗しようとした凛も殴り飛ばされ、あおいがツーハンドグリップで構えた銃にも、エペタムの一人が組み付いてくる。男が凄まじい力を込めてきたので銃は諦め、銃ごとそれを受け流すように手を振り抜くと、街路に男が転がった。
 走って距離を縮め、男の起き上がり様に膝蹴りを叩き込んだ。鼻骨と前歯の折れた感触が右膝に伝わる。よろめいたところに右脛をぶつけようとすると男は腕をかろうじて挟んで耐えた。怒りによるものか顔を真っ赤にして態勢を立て直した男は、あおいの頬を殴る。頬は特に急所ではないうえ、男の拳は体重が乗っていなかった。口内を切り血が溢れ始めただけで大した衝撃はない。あおいは左膝をガラ空きの腹部に直撃させてやり、直後に肘を立てて跳び、男の喉を突いた。くぐもった呻き声を上げた男は、昏倒した。
 あおいは振り返り、凛と彰に攻撃を加え続ける二人を見据えた。
「二人で来いよ」
 吐き捨てるように言ってから、口内に溜まった血を吐き捨てた。


 仲間の思わぬ劣勢に注意力散漫になった目の前の男を殴り倒して何度か蹴りを加えると、店の外に飛び出した。彰と凛は既に倒れていたが、あおいが一人で三人を片付けていた。
 彼女は手の甲で口元の血を拭うと、拓真を一瞥したあと落としていた拳銃を拾い、彼女に背を見せていた岩崎に向けた。
「止まれ!」
 あおいが確実な射程圏内まで徐々に歩み寄っていく。拓真は彰の頬を叩いて「歩けるか」と声をかけ、返答はなかったが引っ張り起こした。岩崎は緩慢な動作で振り向く。俊介を肩から降ろし、両手を上げた。しかしその後、すぐさま右手を振り下ろした。同時に、銃声。あおいの右肩に衝撃が走り、あおいは地面に倒れ込みながら銃を取り落とした。射程圏内まで歩いて行ってしまっていたあおいはすぐに岩崎に制圧された。拓真は彰を放り駆け出そうとして、止まった。引っ張り上げられたあおいの頭に、あおいの落とした銃が突き付けられていた。
「狙撃班! 車を回せ!」
 岩崎は遠くにいるエペタムの班員に怒鳴ると、だらしなく気絶した部下たちを一瞥し、溜息を吐いた。それでもあおいのことは離さない。
「離してっ! 岩崎さん、お願い! 見逃してください……!」
 激しく抵抗するあおいと、視線が一瞬交錯した。彼女は右肩から流れた血をシャツの袖から滴らせ、涙を溜めながら、誰が見ても無駄と分かる抵抗をしていた。
「……全員、気絶させただけで終わりか? 甘ぇよ。俊介は、二対一でも俺と三村を殺す気で喰らい付いてきたぞ」
「俊介とあたしは違う! あたしは、もう、人なんて殺したくない! 殺せないんです!」
「堕ちるところまで堕ちたか……」
 岩崎は残念そうに呟いた。黒塗りの4WDがその隣に滑り込む。中から同じくスーツ姿の男たちが現れた。岩崎は彼らに俊介を預け、仲間の回収を命じた。あおいの拘束は隣に立っていた長髪の男に託された。
 あおいの身体から岩崎の銃が離れた瞬間、拓真は殴りかかった。しかし渾身の右をあっさりとかわされ、反対に体勢を崩してしまう。
「お前が腑抜けた原因がこいつにあるんだとしたら……。こいつを殺せば、少しは目が覚めるか?」



***



 決して強くはやらない。拓真の一動作一動作を軽々と避けながら、適度な強さで甚振っていく。素手でのやり取りならばあおいと張り合うことのできる拓真が一方的に殴りつけられていた。岩崎は、別格だった。
 何故だろう。既に、岩崎と目が合った時から諦めていた。粋がって三人を殴り飛ばした所で、どうせ岩崎には敵わなかったからだ。それなのに、諦めているはずなのに、涙が止まらなかった。拓真、と呟いてみた。拓真、と声を掛けてみた。拓真、と叫んでみた。何も変わらなかった。哀しさが増すだけだった。拓真が、岩崎の腕を掴んで、反撃を試みるが、空いてしまった左胸を、簡単に殴られてしまった。心臓は中心の辺りを手慣れた人物に思い切り殴りつけられると、気絶してしまうはずだった。岩崎は手加減して、気絶寸前の激痛を与えていた。拓真がコンクリートに蹲り、呻きながら転がっているのを、岩崎は冷然と見下ろしていた。
 起き上がったところで、顔面に一発。また拓真が倒れる。それでも諦めない拓真が、瞼を切り血で塞がってしまっている視界の中で、立ちあがりながら闇雲に殴りつけた。その拳は空を切り、そのまま倒れそうになったところで手を突いて堪える。そこに、岩崎の踵落としが極まって、堪え切れなくなりコンクリートに顔がぶつかる。
(もう、やめてよ、死んじゃうよ、拓真)
 どこか傍観者になっているような気分に陥っていたあおいは、我に返ったようにそう叫ぼうとするが、先程叫びすぎてからはエペタムの隊員に猿轡を噛まされてしまい、どうすることもできない。
 しかし拓真は、拳をコンクリに突き立て、なおも立ち上がろうとしていた。
「でめぇらは! が……がっでなんだよ!」
 殴り合いの中で初めて言葉を零した拓真が、血が絡まった喉奥から濁音を発すると、そのまま咳き込んで血を吐き出し、ふらつきながらも立ち上がった。
「一時除隊で夢見させておいて、日本を巻き込む戦争の準備が出来たらハイ戻れって、ふざけんな……。なら、最初から、夢見させるようなことすんなよ」
 岩崎は、立つのがやっとの拓真の言葉を黙って聞いている。
「俺は、知ってる! 浮浪者だって、武力に訴えなくても生活していけることを……教えて貰ったんだ、そこの女に! あんたらは、ただ単に楽に生きたいだけなんだ。そうやって、耐えて耐えて必死に生活してる奴らを馬鹿にしてる……。確かに浮浪者への差別や偏見はある。でも、だからといって、無関係の人たちまで巻きこもうとするお前らのやり方は認められない……! もう、止めろ! これ以上戦争が起きたら、悲惨な結果になるのは目に見えてる! 日本は滅ぶぞ!」
「……そうだな。確かに日本は滅ぶかもしれない。だが、少数とはいえない人間を排除してまで手に入れた机上の平和が、未だに多くの餓死者を出している現状をどう見る? お前らみたいな若くて働ける奴はいい。だが、病気や老齢によって働けない奴らはどうなる! それこそ自分のことしか考えていない餓鬼どもの論法だ! 光信さんは日本を変える。米軍は不介入と中国などへの牽制を約束した。今回仕掛ける戦争はこっちの勝利が、始まる前から決定事項だ。それに現代戦は短期でケリがつく。これを逃したら、もう日本を変える好機は二度と訪れない!」
「ざけんな……。短期で終わる保証なんてどこにある。これ以上戦乱を起こしてどうするつもりだ……。あおいや俊介みたいな奴らが、また増えるんだぞ! 憎しみが生まれれば憎しみでしか気持ちは満たされなくなる。光信なんてただの夢想家だ! 勝手に一人で戦争起こして、くたばっちまえ!」
 拓真が叫んだ時、光信を侮辱された岩崎は手加減なしのハイキックを拓真の頭に打ち据えた。岩崎のそれは、当たり所が悪ければ死ぬ。地面に何度目かの卒倒をした拓真は、先程までとは違いしばらく起き上がらなかった。
 あおいは両腕を抑える長髪の男の拘束を逃れようと、必死に暴れたが、上手くいかなかった。しかし足を拘束されていないことをようやく思い出し、押さえられた手をそのままに、左側の髪の長い兵士の腹へ蹴りを極(き)めた。微かにゆるんだ拘束を見逃さず、あおいはそれを振り払うと、猿轡を外しながら、拓真の前に駆け込んだ。事態は収拾を見せ始めていた。誰もあおいのことを無理に引き留めようとはしなかった。
「拓真! 拓真ぁ!」
 うつ伏せになった彼の肩を掴んで揺らすと、ぴくりと身体が反応した。コンクリートに突かれた手と共に頭がゆっくりと上がってくる。
「待ってろ……。今、俊介を、取り返して、くっから……」
「無理だよ! もう、いいから。もういいんだよ。あたし、大人しく、岩崎さんについていくから! エペタムに戻って、いっぱい人を殺してくるから!」
 額と瞼が割れ、鼻と口からも血を流して血だらけで、満身創痍の拓真は、笑ったように見えた。
「さっき、あおい、撃てなかったよな。岩崎の、こと。これでもう、俺のこと、責められねえよ。あおいも、甘ったれだ。……でも、安心した。今の、あおいが、人なんて、殺せるわけねえもん」
 可笑しそうに、強がっているように、今度は確かに、拓真が笑った。
 あおいの肩を掴んで立ち上がると、彼は声を上げながら岩崎へ突進した。
 振り返ったあおいの目に飛び込んできたのは、拓真が突き出した拳を岩崎の左手が掴んでいる所だった。岩崎はそれをあっさりと振り解き、右手で拓真の肋骨の辺りを殴った。呻き声とも取れない声を発して倒れた拓真を、岩崎は何度も何度も、徹底的に蹴りつけた。あおいは止めさせようと、泣きながら岩崎の背に縋り付いた。
「やめてください! 岩崎さん、もう、やめて! もう、人が殺したくないなんて、二度と言いません! だからっ……だから拓真は……拓真だけは殺さないで……」
 止めようとしている間にも、岩崎は蹴り続けていた。
「お願いですっ! お願い……二度と、あんなこと、言わないからぁっ!」
 涙が岩崎のスーツを激しく汚していく。彼はそこでようやく、動きを止めた。
「……ああ。もう、そんな甘いことなんて言えねえよな」
 あおいはいかにも優しげな言葉を聞いて、安堵のあまり腰を落としてしまった。
 

 しかし、腰を落としたあおいの視線の先には、もうぴくりとも動かない拓真がいるだけだった。
「お前の甘さの元凶は、死んだんだから」




***



 あおいは、地べたに座り込んだまま、悄然と目を見開いていた。 
 拓真は、死んだ。
 拓真は、二度と動かない。 
 拓真は、もう二度と、笑いかけてくれることはない。
 こんなことなら、とあおいは思った。
 こんなことなら、素直に、エペタムへ戻るべきだった。俊介が囚われた時に、決断するべきことだった。拓真との生活なんていらない。拓真がどこかで生きていてくれるなら、それだけで良かった。
 でも、拓真は、もう二度と動かない。二度と動けない。
 自分が、人なんて殺したくないと言ったせいで。拓真のことが好きだと思ってしまったせいで。岩崎さんは、彼を、殺してしまった。

 いつの間に隣に来ていたのか、長髪の男があおいのことを引っ張り上げた。
「要捕縛者確保。撤退準備完了しました」
 あおいは、抵抗しなかった。
 抱えられるまま、黒塗りの4WDに乗り込んでいた。
 外で銃声が聞こえたような気がしたが、もうどうでもよかった。



***



 あおいが気絶させた他のスーツ姿の男たちが、車の中に押し込まれていく。騒がしくなった場を受け、気絶から一時的に立ち直った凛は、遠のく意識を律し立ち上がると同時に彰の手に取り付き、手に握られていた拳銃を掴んだ。あおいが、最後に車外に残った一人、長髪の男に抱えあげられていく。彼は、こちらに気づいていない。
 初めて握った銃を手に、銃口を長髪の男に向けた。風呂に入りがてら、聞いたことがある。こうやって、両手でしっかり握って肩と肘を直線にして、目標の中央に向けて引き金を絞ればいいんだろう、あおい? 凛はあおいに言われた言葉を思い出しながら、引き金を絞った。しかし、妙な金属音が響いただけだった。
 ……そうだ。安全装置を外さないと。彰も、外し忘れていたんだな、と凛は思った。朦朧とする意識の中で安全装置を外し、凛は目標を探した。もう目標は、車に乗り込んでいた。凛は、車に向けて発砲した。しかし、体が反動で揺れ、弾は全く関係のない街路に叩き付けられた。それから、闇雲に撃った。二発、三発、四発……。

 全てを撃ち尽くした時には、もう車は走り去っていた。

 ……ああ、あおい。やっぱり、私には上手く撃てないな。
 また今度、風呂で、教えてくれないか。
 今みたいに、足手まといには、なりたくないから。

 凛は、そこで再び意識を手放した。




inserted by FC2 system