11

 自分より年下に見える三人に同情されてしまった。
 馬鹿にされたように思え頑なに受け取りを拒否したが、目の前で開けられた缶詰を見て、浅井凛(あざい りん)は生唾を飲み込んだ。既に隣の彰は全てを食べ終え、自分の分を狙っている。
「……ど、どうしても食べなきゃいけないなら、食べるしかないか。囚われてるわけだし」
 苦し紛れの言い訳を見ても、缶詰を差し出した俊介と呼ばれる少年は特に気分を害した様子もなく、手渡してくれた。
「え? 凛、結局食うの?」
 横から"結局"を強調した余計な茶々が入り、缶詰と一緒に渡された割り箸を開くところで凛は動作を止めた。
「結局とは何だ。まるで私が自分から進んで食べるみたいじゃないか」
「いや、要らないならくれよ。せっかくのご好意を無駄にする気か?」
 先程まで反論ばかりしていたくせに、心変りが早い。なんて現金な奴だ。
「凛は大人だからなあ。年下からのお恵みなんて受けるほど、落ちぶれちゃいないよな」
「そ、そうだな……」
 もう一度、立っている三人を見回した。そのうちの一人の女が自分のことを無表情に見つめていた。その姿が惨めたらしく缶詰に執着する自分を嘲笑っているように見えたので、悔しくなってそう答えてしまうと、彰は地面にひとまず置いていた缶詰に手を伸ばしてきた。
「あ、やめてよ!」
 凛は思わず彰の手から缶詰を奪い返した。
「ちゃんと食べるよ! 私だって、限界だもん!」
「……素直じゃないんだから、凛お姉ちゃんは」
「意地張ってねえで最初からそうしろよ」
 拓真という肌の浅黒い少年が言うと、初めにぽつりと呟いていた未由が小さく笑った。
 顔が熱くなったが、凛は無視して缶詰に箸をつけた。



「……なんでついてくるわけ?」
 食べ終わって礼を言い、貸して貰っていた水筒のコップを返すと、三人が立ち上がった。
 行く当ても特にない凛たちは当然のようにその背中を追ったが、不意に振りむいたあおいが心底迷惑そうな表情で訊いてきた。
「なんでって……ねえ?」
「そうだなアキラ、こいつらはなんにも分かっていないな」
「国籍がなかったら街に入れない」
「だが、集団ならその代表者が国籍を提示するだけで入れるんだぞ」
「全く、そのくらいも知らないなんて、先が思いやられる」
「旅の常識だろう」
 彰と共に説明し終えたところで、あおいは呆れたように溜息をつき、近付いてきた。
 そして距離を詰めてきたと同時に、彼女の拳が頬に伸び、思い切り殴り飛ばされた。
「そのくらい知ってるっつうの」
 倒れこんだ凛の上に、あおいは圧し掛かった。同時に、少し幼い顔からは想像もできない程の力で、頸部を圧迫してくる。
 どうにかこうにか手を退かそうとするが、離れない。これが本当に女の筋力だろうか。
 するとすぐに横から手が伸びてきて、手を引き離してくれた。
「がっ……げほっ」
 一瞬にして赤く腫れた頬と、圧迫された首の辺りを触りながら涙を堪え呻く自分の姿を、彰は何もできなかったという様子でぽかんと見つめている。
「落ち着けって! まず、説明してやらないと。確かに今のは少し苛ついたけど……いきなり……」
「は? 何で? 何で、説明なんてしてやる必要があるの?」
 あおいが素っ頓狂な声を出した。
「まあまあ。説明くらいならいいだろう、姉ちゃん」
 俊介はそう言ってあおいを宥めると、彼女は反論しようとしたが押し黙り、凛をひと睨みしてからゆっくりと歩きだした。


 頬の腫れはそこまで酷くはならず、拓真が鞄の中から取り出し渡してくれた湿布を貼ってからは段々と引いていってくれた。殴った張本人のあおいは、無表情で先頭を歩いている。
 話に拠れば、この三人は、特に目的もなく街と街を歩き渡り放浪して生活しているのだそうだ。名前は冬島俊介、三瀬拓真、冬島あおい。年齢は十七から十九まで。あおいと俊介は姉弟で元エペタムのメンバー、そしてあおいと、シンガポールから移住してきた日系二世の拓真は恋人同士らしい。
「拓真か。良い名前だな」
 歩きながら説明を受けていた凛が頭に浮かんだことをそのまま言うと、拓真は少し照れたようにありがとう、と返してきた。
「いやいやいや、凛、そこに感心してる場合じゃねえよ! エペタムって言やあ、あの極悪な暗殺者集団……」
「まあ、街の人間から見ればそうなるね。否定しないよ。ここはしっかり説明しておかないと後々面倒だからね」
「……俊介、自分の立場を広報しすぎ。なんでこんな奴らに、そこまで話す必要があるの? しかも、後々ってまさか、俊介まで……」
「事実だから。……それでも、ついてくるつもり?」
 俊介が優しく、だがそれでいてどこか厳しい表情で言った。
「あのさ、凛……。やっぱ、辞めようぜ。な? さっきの、見ただろ? 怒らせたら、さっきみたいに殴られるじゃ済まねえかも知んねえし……」
 彰が完全に怖気づいた様子で耳打ちしてきた。
 しかし凛は、今この機を逃してしまえば、状況を打開する方法など何も残っていない、という考えだった。一人ならともかく、三人では警備の目は誤魔化せないし、一人でどうにか入ったとして三人分の稼ぎを出す自信もない。このまま過ごして、もし体の弱い未由が体調を崩してしまったら……。十近く年下の妹は、昔から可愛くて仕方がなかった。彼女には何が何でも生き延びて欲しかった。
「……このまま野垂れ死ぬのは絶対に御免だ。できれば同行させてもらえないだろうか」
 頼み込むしかないと思った。
 凛が言うと、俊介が笑みを浮かべ、口を開こうとした。
 しかしそれを遮る声があった。
「ふざけないで」
 あおいだった。
「随分と都合が良すぎるんじゃない? 助けたからって勘違いされても困るんだよね。あれは拓真が勝手にやったことだから。あんたたちみたいな無礼な奴ら、ついてこられても邪魔なだけだよ。あたしは反対。気持ち悪いんだもん、甘ったるくて」
 冷淡な声が耳朶を打った。



   ◇



 苛々する。
 何なんだ、この三人は。
 様々な刻苦を世に言う犯罪者としてどうにか潜り抜けてきたあおいにとっては、彰という男の主張が、偽善者面をしているようにしか見えなかった。拓真は人殺しはしていなかったが、盗みは散々やってきたと言っていた。そのくらいして、初めて生き延びることができるのだ。街から追放されて、国籍すら奪われ、こんなに頬が痩せこけて餓死の一歩手前まで来ているというのに、この期に及んで他人の心配をするなど、正気の沙汰とは思えなかった。甘い考えも度が過ぎて、気持ちが悪い。そんな甘い考えで、他人に擦り寄り生き延びることができるなら、人を殺し、殺し、殺してきた自分の行動は、何だったのだろう。

「……それなら、私たちはいい。どうか、未由だけでも……」
「そうやってもっともらしいこと言って、妹を出汁に使うつもり? 自分は頭下げもしないで? はっ。プライドだけは一流なんですね、凛さんって」
「おい、あおい……」
 横から口を挟みかけた拓真を手で制し、あおいは凛のことを睨んだ。
「人に頼るな。追放されたのは自分が選んだ道なんだから」
「い、いえ、追放されたのは……」
「ガキは黙ってろ!」
 未由が遠慮がちに口を開いたのを一喝し、あおいは凛にまた視線を向けた。怒声に肩を揺らした未由は涙目になり、口を噤んだ。
「……苛々するなぁ。あんたらみたいのなんて、日本中にどこにでもいるんだよね。あたしたちは散々見てきた。街から追放されたくらいで、なに被害者ですって顔してんの? 平和ボケした街の奴らとおんなじ顔。くだらない。もっと必死にもがけよ。政府は犯罪以上のこと、いくらでもやってんだよ! そんな政府が作った法律に縛られて、莫迦じゃない?」
「……だからといって、犯罪に走るのはおかしい。おかしいのは、政府だけで十分だ」 
「また正論。思想だけは立派なんだ」
 ついさっき、略奪に失敗して投降したばかりのくせに、どうしてそんな台詞が吐ける。
 虫唾が走ると共に、なぜだか胸の奥底がちくりと痛んだ。
「追放されるまで何も苦労してこなかった街の人間に、そんな口先だけの正論、言われたくないね。あんただって、追放されなければ幸せに過ごせたんだろうが……。生まれた時から搾取される側の気持ちなんて、あんたらには分からない。作ったそばから作物が搾り取られていくんなら、こっちも奪って生きていくしかない。他人の人生を踏みにじる勇気がないなら、死ぬしかなかった」
「……なんだ、君も不幸自慢か? さっき言ったことと矛盾しているぞ。"なに被害者ですって顔してんの?"なんだろう?」



***



 目の前の女が感情的にぶつけてきた言葉を咀嚼し、凛は冷静に言葉を紡いだ。立場は下で、またあの拳が飛んでくるとも分からなかったが、だからと言って彼女の言っていることが正しいとはどうしても思えなかった。
「う……うるさい! 不幸自慢なんかじゃない」
「私程度の不幸を背負った人なら、日本中にどこにでもいる? 言われなくてもそんなことは分かっている。だからこそ……だからこそ、この程度で犯罪に走るわけにはいかないんだ。他人の人生を踏みにじることを勇気なんて言うのは間違っている」
「……分かったような口、利かないで」
 返答に窮したあおいは、しばらくの間を空け、そう、静かに呟いた。
 表情には先程と違い、迷いが感じられる。
「とにかく、あたしたちについてくるのは、やめてよね。自分たちでどうにかして」
 あおいはそれきり話を切り上げようとした様子だったので、凛はその肩を掴んだ。
「……頼む。私たちの力量では、国籍もなしに生き延びていくことはできないんだ。君から見れば、まだ努力が足りないのかもしれない。しかし……これでも、なんとかしようともがいている」
「……だから?」
「お願いだ! 行動を共にさせてくれないか」
「お……俺からも、頼む。言動が気に障ったなら謝る。俺、頭はあんまり良くないけど体力には自信があるし……手伝えることなら何でも手伝うから」
 彰が横から言うが、あおいは肩を掴んでいる凛の手を払った。
「……早く行こう。拓真、俊介」
 ここで置いて行かれたら、本当に、どうすればいいか分からない。
 他人の人生を踏みにじれとあおいは言ったが、そんなこと、できそうにない。
 他人を踏み台に成功するような人生は果たして、"生きている"と言えるのだろうか。
 両親のように人々から好かれ尊敬されることはなくとも、出来ることなら、真っ当に生きたい。
「ま、待ってくれ!」
 凛は意を決して、地面に膝をついた。
「……しつこいなぁ。駄目だって言ってん……」
 あおいがうんざりした様子で振り向いたと同時に、凛は地面に、両手と額をつけた。
 悔しかった。しかしそれでも。
 それでもまだ、人間として、生きていたかった。
 他人の人生を、不幸の連鎖に巻き込むことなく、生きる方法がある。
 その方法が目の前に転がっているのに、みすみす逃すわけにはいかなかった。
「缶詰を恵んでくれたのは感謝している。図々しいのは承知で、お願いだ。まだ……まだ、私は人間として、生きていたい……。彰も、未由も、私も。君たちから見れば生温いかもしれない。けど、必死なんだ」
 安っぽい自尊心なんて、二人の命や、他人の人生に不幸を課すことに比べたら、ゴミみたいなものだ。
 思い切り両目を閉じて、悔しさと、惨めさから溢れてくる涙をどうにか堪え、言葉を繋いだ。
「非礼は心から詫びる。迷惑は掛けない! だから、この通りだ。頼む……! 人としての矜持も、彰も、未由も……まだ、失いたくないんだ」


 しばらく地面に頭を擦りつけたままでいると、突然体を支え上げられた。
 凛は抵抗せず、ゆっくりと立ち上がった。
「……そんなことされても、なんていうか……困るんだけど」
 あおいがすっかり勢いを失くした口調で、ぶっきらぼうに言った。
「どうして……あたしみたいな年下の女に、顔殴られて、罵倒されてまで。どうして土下座までして、一緒に行動したいの? そんなに、法を侵したくない? プライド、高いんでしょ? それなら、こんな奴とは一緒に行動できないって、さっさとどっかに行けばいいじゃない。そんなに、他人の人生を壊すことが怖い?」
 あおいの口調が迷いから、明らかな当惑の色へと転換を始めた。無表情だったあおいの顔が歪んで見えた気がした。
 必死に溜め込んでいた涙が、つい溢れ出てしまったせいだろうか。
 慣れないことはするものじゃない。彰も未由も、呆然として自分のことを見つめている。
「……そうやって、涙が出るほど悔しいのに。なんでそんなに、他人のことを考えられるの? ……凛も、彰も、拓真も……。分からない。私には……私は……」
 言葉を詰まらせたあおいが、目の前に居る。
 疑問に思い黙って見つめていると、彼女は徐々に顔を歪ませていき、それから外套の袖で目元を乱暴に拭った。
「……何故、君まで泣いているんだ?」
「なっ、泣いてなんかない! 泣くわけないじゃない……。いま、あんたらの態度に苛立ってるんだから、あたしはっ!」



   ◇



 どんなに追い詰められても、他人を考えられるその姿勢。数ヶ月間の労働を慮って、老婆一人が住む一軒の農家を襲う事も出来ず、空腹にひたすら耐え続けるその姿勢。人として生きたいと、弟たちの前で年下の女に土下座をするその姿勢。何も見返りを求めず、自分の食料を投げだすその姿勢が、この上なく、羨ましいと感じてしまった。
 そして自分は、いくら拓真に感化され丸くなったと言っても、まだ、平気で他人の人生を不幸にすることができるだろう。この三人と比べもう後戻りが出来ないほど罪を重ねて、心の大事な部分が麻痺してしまった。自分が善意の正論に苛立つたびに、そう、改めて思い知らされたような、そんな気がして、唐突に、涙が溢れ出すほど悲しくなった。
 思想も、理想もなく、ただ、殺してきた。生きるために、と尤もらしい理由をつけて。人を殺してきた時の感覚が、胸を駆け巡る。
 銭湯の浴槽に広がった血だまりが、瞼の裏には浮かんでいた。
「……いや、どう考えても泣いているだろう」
 目の前で呆然としている凛が、言った。
「あー、もう、ほっといてよ!」
 まさか、初対面の人間の目の前で泣いてしまうとは思ってもみなかった。それも、つい先程まであれだけ苛立たされていた相手の目の前でだ。
 もう一度外套の袖で涙を拭いて、背を向けると、拓真と俊介があおいの様子を驚いたように見つめてきた。完全に見られた。恥ずかしくなってもう一度凛に向き直る。
 どこを向いても、全員が自分を見つめていた。あおいは泣き顔を見られたくなくて、顔を俯けた。
「……土下座にトラウマでもあるのか? それなら、すまないことをした」
 遠慮がちに話しかけてきた凛の声が聞こえた。
「……なわけないでしょ。やっぱバカ……」
 あおいは鼻を啜って大きく息を吸い込んでから、軽く吐き出し、
「……でも、悪い奴じゃ、ない、かも」
 顔を上げて、言った。
 ――少なくともあたしよりは、ね。自嘲気味に繋げかけたこの言葉は、無理矢理呑み込んだ。
 凛がしばらく口を開けて固まっていたが、彼女は言葉の意味を理解すると、嬉しそうに笑った。
「はは。そうだろう? 強情だがちゃんと見る目もあるんじゃないか! そっか、悪い奴じゃない、か……」
「それは、同行してもいいってことなのか?」
 二人のやりとりを見守っていた彰が、おずおずと切り出した。
「……勝手にすれば」
 呟くように彰の疑問に答え、熱くなってきた頬を掻こうと右手を上げると、その手を掴まれ、両手で包むように握られた。 
「ありがとう。本当に、ありがとう」
 湿布を貼り付けまだ少し頬の腫れている彼女は、嬉しそうな笑顔のままだったが、どこか熱を帯びた目で真摯に言った。


 それからあおいは、もう一度、呟くようにして言った。
「……さっきは殴ったりして、ごめん」




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