プロローグ

 母に抱えられた子供はえずくと、そのまま吐いた。母の肩に吐瀉物がかかった。しかし彼女は走るのをやめない。死臭と硝煙が入り混じり、場は酷い臭いに包まれていた。侵攻してきたのは誰か。何故このような状態になったのか。
 そんなことを考えている暇はなかった。

 良くある話として聞かされてはいた。しかしこうして襲撃されて初めて、子供はその話を現実として認識していた。
 一通り吐き終えた子供は、次の瞬間、母の背にビルのコンクリートの破片が落ちて来るのを見た。避けて、と叫ぶ前に、それは母を押し潰した。
「どうしてみんなたたかっているの?」
 マレー語を使う子供は、頭を強く打ち倒れこんだ母親に抱えられながら呟いた。
「生きるためよ」
 母はかすれた声で、言葉を返した。
「どうしてほかのひとがいきるために、ぼくたちがころさなければならないの?」
 母の呼吸が段々と小さくなっていく。
「どうして……? どうして、ころさなければいきられないの?」
 小さな呟きは戦闘の騒乱にかき消され、答えを得ることはなかった。




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