冬(最終話)

「今日も、多野で、練習?」
 五時間目と六時間目の間の休み時間、一人でぼうっと窓の外を見ていると、右の方で声がした。見ると、藤枝だった。藤枝は、俺の目の前の席に座った。教室の一番左端、一番前の席。その席の女子は、他の女子と喋っていて、今はいない。
「ああ。練習」
「大変だね」
「好きでやってるから」
 藤枝が茶化すように笑った。
「かーっこいい」
「いまは藤枝のほうが、練習、きついだろ。ソフトボール部全国選抜大会出場! って横断幕、校舎にぶら下がってる」
「私はかろうじて、ベンチ入りだけどね。練習にはどうにか、へばりついてくしかない」
「その体のどこにそんな体力が」
「あ、ひど。チビって言った」
「言ってない」
「何いちゃついてんだよ、お前らは」
 宮川が、藤枝の隣の席に座った。隣といっても、間には広めのスペースが空いている。
「聞いて、ミヤちゃん。この男は私の身長を嘲笑ったんだよ。自分が大きいからって」
「相変わらず失礼だな、達吉は」
「だよねー」
 藤枝が、嬉しそうに宮川を見る。そして、宮川と、雑談に興じ始めた。
 ……どう見ても、お前らの方がいちゃついてるけどな。
 俺はまた、窓の外に視線を移した。体格的に恵まれていない藤枝は、死に物狂いで、ベンチ入りメンバーに入った。宮川だって、普段はだるそうにしているが、陸上に関しては本当にまじめだ。二人には、負けていられない。 

 野球部の備品がすべて処分されてから、俺は、同地区の公立校、多野高校の野球部に、合同練習という形で参加させてもらっている。
 多野という地名が表す通り、多野高校は、平坦な道や田んぼに延々と取り囲まれている。俺の学校から多野までは、自転車で片道三十五分の距離。授業が終わったらすぐに駐輪場へ向かい、自転車に飛び乗り、一秒でも早く練習に合流できるようにする。そして練習後は、一時間ペダルを漕ぎ続け、帰宅するのが日課だ。今までから三十五分、帰宅の時間が遅れただけだったが、睡眠時間がそのぶん減り、慣れるまでは、なかなか辛かった。
 多野は、夏に真木さんと試合を見に行ったとき、神西にコールド負けをしていたチーム。真木さんはその時、ベンチの雰囲気の良さと、割と近場にあるという点で多野に目をつけた。多野の監督は頭の柔らかい人格者で、俺と真木さんで訪ねて行った初めての交渉で、すんなり受け入れてくれた。
 ただ、十二月一日から三月八日までのオフシーズン中は、他校との合同練習や練習試合は原則禁じられている。そのため、多野に迷惑がかからないよう、その点を事前に高校野球連盟に確認した。どの部活にも所属していない俺の問い合わせは、極めて特殊な部類に入るそうで、高野連の管轄対象外だそうだ。問題ないんですね、と念を押すと、管轄の対象外です、と返ってきた。素直に問題ないと言えばいいのに、余計な火の粉が降りかからないよう、管轄の対象外、とわざわざ言い換えるあたりが、お役所的な対応だった。
 管轄外、という頼りない結果を多野の監督に告げたが、監督はそれでも、応諾してくれた。おかげで俺は、停学期間中にも体を鈍らせることなく、野球の練習を続けることが出来た。ただ、中間テストは全て零点扱いになったので、勉強にあてる時間は、増やさなければならなくなったが。
 初めの頃は、多野の部員との距離感も掴みかねていた。それは、部外者が一人だけ混じることになった、部員側にも言えただろう。しかし実戦形式の守備練習でマウンドに上ったとき、多野の不動のレギュラー、一番でショートを守っている北島を三球三振に仕留めてから、周りの見る目が変わった。
「いい球放るなぁ、長谷川。これで一人でやってるとか、確かに勿体ねえわ」
 そう話しかけてきた北島をきっかけに、少しずつ、話す相手が増えていった。
 入江先輩が卒業してから、真木さんは良くしてくれたが、ただ一人の選手として野球を続けてきた俺は、緩慢なプレーをして監督に叱られることや、多野の正捕手、里美(さとみ)にアドバイスをもらうといったことが、いちいち嬉しかった。
 多野で練習できるアイディアを与えてくれた真木さんの自宅は、浦部第一よりも、多野のほうに近い。受験が終わってからはよく、練習を見に来てくれる。真木さんが来た日は、ただ真木さんがいるというだけで、練習に熱が入った。
「ネットのニュースで読んだんだ。人数が九人に満たない高校が、他の高校との合同練習で実戦形式の練習をしてるっていう記事。多野は別に困ってないけど、達吉くんの球を見たら絶対、受け容れてくれると思ってた。レベルの高い選手が入ると、刺激されて全体の底上げができるかもしれないから。オフシーズン中の合同練習が禁止って話は、達吉くんに合同練習の提案をしてから知って、血の気が引いたけどね」
 合同練習を思い付いた理由を聞くと、そう答えた真木さんは、第一志望の私立大学に合格した。そこは首都圏の大学リーグの一部に参加している野球強豪校で、そこでも、マネージャーをやるかもしれない、と言っている。高校で既に奨学金を活用している俺は、就職するつもりだったが、その言葉を聞いて、ぐらついた。停学の後から始めた勉強が予想以上にはかどっていて、国公立を、狙えるかもしれないからだ。母親がフルタイムで働き始めたので、それに無利子奨学金を上乗せできれば、大学には通える。
 大学リーグの強豪相手に、自分の力がどれほど通用するのか試してみたい気持ちも、ある。それに……卒業のぎりぎりまで練習に付き合ってくれている真木さんとの繋がりを、断ちたくない。近いところで、野球がしたい。

「練習試合の解禁日が、近づいているが……。なんとあの神西から、練習試合を組んでくれないかと連絡が入った。夏にはベスト4、秋季大会でも、優勝した誠新に一点差で負けてベスト4の、あの神西からだぞ。夏に当たった時のことをあっちの監督さんが覚えてくれていて、お前たちが試合に臨む姿勢を、今のチームに見習わせたいという話だった」
 練習前に集合をかけた監督が、嬉しそうに言った。
「そこでだ。先発には、長谷川を起用しようと思ってる」
「え」
 驚きのあまり、監督の話の途中で声を上げてしまった。
「松林の肩の怪我が、長引きそうなんだ。代わりに控えの桂も考えたが、去年の主戦だった倉ですら、コールドに持ち込まれた相手だ。桂にとっては厳しい言い方になってしまうが……まだ一年で、おまけに、本職が外野手の桂では、試合にならないと判断した。そこで、長谷川がいいんじゃないかと思い付いてな。高野連、それに松林と桂にはもう、許諾を貰っている。先方にも話を通した。お前が懸命に練習をしているのを、見込んでの話だ。どうだ、長谷川。投げてみないか」
「投げます」
 願ってもない言葉に、被せ気味に答えた。監督は頷いた。
「よし。練習の成果をぶつけられるようにしておけ」
「ありがとうございます!」
 俺は監督に対し、深く、深く頭を下げた。
 今日は祝日で、練習時間もいつもより長かった。その間、真木さんはアスリートの栄養管理に関する、難しそうな本を読んで時間を潰していたようだった。三月の上旬は、暦の上では春めいているが、気温が真冬よりも厳しいときがある。昼休憩のときに挨拶に行き、カイロを渡しておいた。
 帰り際。すっかり日が落ちて暗くなったグラウンドの隅のベンチで、真木さんがひとり、ぼうっと地面を見つめて、咳き込んでいた。何か考え込んでいるように見えた。
 宮川にせっつかれ、悩みがないのか、何度か、問い質した。しかし結局、はぐらかされるままに月日が過ぎ去り、受験が終わった。受験が終わっても、真木さんが物思いにふける回数は減らなかった。進路のことではないらしい。家庭環境の悩みだろうか。
「風邪気味なんですか?」
 真木さんはイヤホンをつけている。大きめの声で話しかけると、真木さんはびくりと肩を震わせた後、座っていたベンチの上に立ち上がった。部屋でくつろいでいたら、ゴキブリが近くを通ったから思わず机の上に乗った、という感じだ。
 驚いているつもりなのか、それで。俺は堪え切れずに笑った。
「びっくりしたぁ。いきなり話しかけないでよ」
 ベンチに土足で立ったままの真木さんは、俺を見下ろしている。
「この間、そう言われて、肩叩いたら、もっとびっくりしましたよね」
 ひとしきり笑った俺は、突っ込みを入れた。
「こんな暗闇の中、一人で待つ女の子の身になって考えて」
「風邪引くから、先に帰ってくださいって、いっつも頼んでるのに」
「だって達吉くんが練習してるのに帰ったら、なんだか卑怯じゃない。マネージャーとして」
「今まで十分すぎるほど、付き合ってくれてますよ」
 口ではこう言うが、本当は、律儀に練習の上がりを待ってくれているのが、嬉しくて仕方なかった。
「そんなことはいいから、早く帰ろうよ。本当に風邪ひいちゃう」
 マフラーを巻き直した真木さんが、ベンチから飛び降りた。ちょうど降りた所に縁石があり、そのまま転びそうになった真木さんの腕を咄嗟に引いた。
「ありがとう」
 真木さんが、照れ笑いした。支えが必要なくなったところで離し、駐輪場に向かった。
 俺は、自分の自転車を引っ張り出して、真木さんのほうを見た。このごろは、途中まで真木さんと一緒に帰ることが多い。その真木さんは、「あれー」「おかしいな」と言いながら、自転車を漁っている。
「鍵かけ忘れた。やられたかも。休みだからって油断した。先帰っていいよ、達吉くん」
 神妙な顔でそう呟いた真木さんは、俺の自転車に荷台がついていないのを、知っている。
 俺は自転車に乗らず、そのまま歩き始めた。
「送っていきます。こんなに遅くなったのは俺が練習してたせいなので」
「え、いいよ、自分で帰れるよ」
「痴漢多発注意の看板、見なかったんですか? ここら辺、寂れてるから、歩きで帰ったりしたら被害に遭うかもしれませんよ」
「う……痴漢は、怖いなぁ。痴漢ってどういう格好してるんだろ。全裸でクラウチングスタートの構えしてて、私を見つけた瞬間にこっちに向かって走り出したりするのかな。そんなの見たら、お腹がよじれて元に戻らなくなるかも」
「真木さんのお腹の心配はしてません。心配してるのは被害に遭うことです。とにかく、家まで送ります」
 俺は真木さんの言う痴漢を想像してしまい、笑いながら、念を押した。
 歩道のない道路を、真木さんが先に歩き、俺が後ろを歩いた。自転車の駐輪証明ステッカーが、後ろから走ってくる車へ俺たちの存在を知らせる、反射板の役割を果たす。
「そういえば昼休憩のときに言いそびれたんですけど、俺、神西との練習試合で投げることになりました」
「うそ!」
 前を歩いていた真木さんが、俺を見た。彼女はそのまま後ろ向きで歩く。
「ホントです。松林と桂も了解済みだそうです。俺、てっきり、真木さんが提案してくれたのかと思ってたんですけど」
「しないしないしない。他校の監督さんに、そこまでは言えないよ。でもやったじゃん! 一年半ぶりの試合!」
 真木さんが跳びはねんばかりの勢いで言葉を続ける。
「しかもあの神西と! 因縁だね。燃えるね! 絶対見に行くからね! いつ? どこで?」
「三月十三日の午前十時から、多野のグラウンドで」
「わかった。絶対、行くから。朝、念のため、メールして!」
 前を向いた真木さんは、神西との試合の事ばかり考えて始めているんだろう。俺はというと、ああ、本当にこの人のこと、大好きだなあ、と野球とは全く関係ないことを思って自転車を押していた。
 これまでの部活や、今月末に開幕するプロ野球の話、真木さんの新生活の話などをしているうちに、あっという間に時間は過ぎた。真木さんが住んでいる家の前で、俺は、足を止めた。
「じゃあ、また、試合の日に」
「あ、達吉くん」
 真木さんが家に入るまで見送ろう、と思って突っ立っていると、門に手をかけた真木さんが、思い出したように振り返った。
「ありがとね。送ってくれて。あと……今までも、いろいろ」
 今年の卒業式は、三月六日。卒業を三日後に控えていることを意識して、だろう。真木さんは小さな声で、呟いた。真木さんも、寂しそうにしてくれる。それだけで俺は十分だった。それにまだ、試合が残っている。
「俺も、感謝してもしきれないです。真木さんは、本当、一生懸命、マネージャーをやってくれて……俺、真木さんがいたから、腐らずに、練習ができたんです」
 真木さんは家の玄関と俺とを見比べ、門から手を離した。そして、隣家のモルタルづくりの塀に寄りかかった。いつもの真木さんからは想像もつかない、憂いと寂寥を帯びた表情を、月明かりと街灯が照らす。
「私、もともと、野球部のマネージャーなんて、やるつもりなかったの。ソフト部の強豪か、軟式野球がある高校に入って、選手として、やるつもりだった。中学まで、男子に混じって、野球部に入ってたし」
「前にも、そんなこと言ってましたね」
「けど、中二の夏に、アキレス腱やって。そこからはもう駄目。膝の前十字靱帯とか、ふくらはぎの肉離れとか、またアキレス腱とか。何もそこまで、っていうくらい、徹底的に足だけ怪我してね。医者から、これ以上怪我をすれば日常生活に支障が出る、たとえば、足を引きずらないと歩けないようになるかもしれない。そう言われて。いつもは怒ってばっかりの親が、私に、泣いて頼むの。もう野球はやめてくれ。運動部はやめてくれって」
 真木さんは、背中の後ろで手を組んだ。
「悔しかったなあ。下手くそでもいいから、やっぱり、自分で、ボールに触れていたかった。何もかも、やる気がしなくて、毎日、辛くて。でも、どうにか受験は頑張って、この高校に入ったら、真悟がいた。『マネージャーいないから、やってくれない?』って。人の気も知らないで、って怒ったよ。けど、しつこく誘われて、折れて。惰性で一年やってたら、達吉くんが、入ってきた。いきなり真悟よりも速い球を投げ込んだ時は、びっくりした。なんでうちの高校にこんなのが来たんだろう? 達吉くんは知らないだろうけど、よく、部員の間では話題になってたよ」
「俺ぐらいの球を放る人間なら、いくらでもいると思います」
 中学までは硬球を扱うボーイズクラブに入っていたが、親が離婚して、ごたごたしてるときに、辞めた。部活は何かと金がかかるし、高校では野球をやらないつもりだった。母親が応援してくれたので、結局、入ることにしたが。
「謙遜しなくていいよ。達吉くんに刺激されて、真悟以外の部員も、みんな、真面目にやるようになったんだから。私も、達吉くんに会って初めて、マネージャーとしてのやりがいみたいなものを感じたな」
 でも、と真木さんが区切った。
「夏くらいからかな。達吉くんと打ち解けて話せるようになってから……毎日、後悔してた。マネージャーに、なったこと」
 真木さんは塀から背を離した。玄関に向けて歩き出し、表情が見えなくなった。
「この家から通うのは、今までと同じ。でも、卒業で、みんな、一人暮らしを始めたりして、ばらばらになって。ただでさえ、不安で。なのに、達吉くんとも離れなきゃいけなくて……。上手くやっていける自信、ない」
 真木さんは、門を開けて閉め、玄関の扉に手をかけた。俺は思うように応えられず、黙って、見送った。


 予報は晴れのち曇り。
 卒業式を無事に終えた真木さんは、俺のお祝いのメールにも、いつも通り返信してくれた。そして今日の練習試合にも来てくれた。十日前のことなんて、何も、なかったかのように。
「一年の時からとにかく走り込んできたから問題ないだろうけど、試合のスタミナと練習のスタミナは違うからね。達吉くんは試合経験が圧倒的に足りないから、飛ばし過ぎないように気をつけて」
「はい」
 試合は、一年夏の神西戦以来。俺は真木さんのアドバイスを頭に叩き込んで、試合前の投球練習をこなした。
 神西のメンバーは、遠征用のバスから降りて多野のグラウンドに入る前に、一礼した。きっと、俺が一年の夏に対戦したときのバッターは、一人もいない。神西は、一年と二年だけで部員が四十人を超える大所帯で、秋ならともかく、夏に、一年生がスタメンを張るようなことは、滅多にないからだ。
 俺のいる浦部第一が、二十二対一で負けた年の神西は、県ベスト16止まりだった。けれど、今回の遠征メンバーは、夏にベスト4を経験した人間も多く残っていて、秋も、県ベスト4だ。
 俺は密かに、この練習試合を、進路の目安にしようとしていた。この試合が、高校生活最後の、強豪校との試合になるかもしれないからだ。
 いくら神西が強いと言っても、練習試合でコールド負けのスコアまで打ち込まれるようなら、レベルの高い大学リーグでは通用しないだろう。だから、打ち込まれたら予定通りに就職する。上手く抑えられたら、大学への進学も、視野に入れる。

 神西が練習を終えると、お互いにベース付近に集まって、挨拶した。主審、一塁塁審、一塁線審は、多野の控えのメンバーが行う。二、三塁塁審、三塁線審は、神西の控えのメンバー。挨拶のあと、お互いのキャプテン、里美と脇屋が、じゃんけんで先攻と後攻を決めた。先攻は多野、後攻は神西になった。
 多野のグラウンドに場内アナウンスの設備はない。主審に呼ばれ、ネクストバッターズサークルにいた一番、ショートの北島が、自分用の金属バットを手に持ち、右バッターボックスに入った。真木さんの情報によれば、神西の先発、河合は、最速が百四十キロ台後半の、本格派右腕。変化球は、鋭く滑りながら落ちるスライダーと、打者のタイミングを外す大きなカーブ。たまに、ストレートをわざとシュート気味に放ることもあるらしい。
 北島は初球、インコースへシュート気味に食い込んできたストレートをバットの根元に引っ掛け、ピッチャー前にぽとりと落ちるゴロを打った。一塁までしっかりと全力疾走したが、余裕をもってアウト。北島は一塁をオーバーランし、ベンチに戻る前に、顔をしかめて右手を振った。その後の二人は一塁へのファールフライ、空振り三振。あっさりと攻守が変わった。
 スパイクの紐をきつく縛り直し、マウンドに向かおうとすると、音が出るほど強く、背中を叩かれた。守備に向かおうとしていたベンチ内の選手たちが、一斉に俺の後ろを見た。つられて俺も見る。マネージャーの補助としてベンチ入りを許された真木さんは、何も言わずに微笑んだ。俺も何も言わず、帽子のつばに手を当ててから、マウンドへ走った。俺の帽子は、つばの地の色が緑で、額は白地になっている。額には緑の刺繍で、アルファベットのU、その真ん中を縦に貫く数字の1が描いてある。飾り気のない白の無地で統一されたユニフォームの胸の辺りには、緑色で刺繍された『浦部第一』という漢字が入っている。
 各回の頭には、自由に放ってもいい球が三球、与えられている。俺はピッチャープレートを踏み、振りかぶり、投げた。ボールは、主審の頭上はるか、バックネットにぶち当たった。俺はにやけそうになるのを必死に堪えた。一年半ぶりの、真剣勝負。
 残りの二球ともすっぽ抜けて、キャッチャーの里美が不安げに俺を見る。俺はもちろん、不安を抱いてはいない。これは、俺と真木さんにしか分からない、儀式みたいなものだから。俺は尻ポケットに入れたロジンバッグを左手で触り、指先についた粉を息で吹き飛ばした。
 一番打者が、左バッターボックスに入った。去年の夏ベスト4も経験している、新チームのキャプテン、脇屋。サインは外角低めの直球。頷き、投げる。脇屋は見逃し、主審の右手が挙がった。投球練習のすっぽ抜けた球を見てか、余裕のあった脇屋の表情が、引き締まった。次からが本当の勝負。次の要求は同じコースから外へ落ちるスライダー。少しボール気味になってしまい、脇屋はあっさりと目を切った。俺の投げるスライダーには、ボール球を振らせるほどのキレはない。三球目はインコースを抉るストレート。ボールでもいい見せ球のはずが、打てるところにいってしまった。グローブを出す間もなく、顔のすぐ左横を、ボールが飛んでいった。センター前ヒット。今までに見たこともないスイングスピードだった。
 続く二番、左打者の木元は、バントの構えをした。まずはアウトが欲しい。バントをさせない配球を組み立てていた里美のサインに、首を振る。里美もそれを察し、次のサインでは意を汲んでくれた。頷く。バントするにはちょうどいい、遅めのストレートを、インコース高めに放った。
 しかし木元は、バントの構えを解き、ヒッティング。打球は三遊間に飛んだ。抜けるかと思ったが、北島が左手を伸ばして、かろうじて捕球した。しかしヒットエンドランのサインが出ていたらしく、二塁は間に合わない。北島は逆シングルの無茶な態勢から、強引に、一塁へ送球した。何やってんだよ、逸れたら三塁まで行くぞ、と思いながら一塁を振り返ると、その送球はショートバウンドとなって見事に木元を刺した。
 ワンナウト、二塁。ワンナウトも取れずに五点を失った、一年の夏が脳裏によぎった。今日は、取れた。
 俺は拍手代わりに、グラブを三度叩いた。
「ワンナウトー!」
 ファイプレーをした北島が、一際大きな声を出す。
 サイン交換のあと、二塁塁上の脇屋のリードを横目で確認し、セットポジションから、ストレートを放った。右打者の内角低め、ベースぎりぎりに決まった。今日一番のキャッチング音だった。三番で投手の河合が不満そうに主審を見た。あのコースにビシッと決まると、なんともいえない快感が体を突き抜ける。気持ちが試合に入り込んでいく音だ。俺はテンポよく次の球を放った。さっきよりは少し甘いが、またインコースにストレートが決まった。そして間髪いれずに放った三球目は外角低めのストレート。完全に振り遅れの、空振り三振に仕留めた。
 ロジンバッグを触り、四番の右打者、後藤と対峙する。今日のオーダーでは、一、四、五、六、七、九番打者が、夏ベスト4の時、既にスタメンを張っていた。打順が下がっていくとはいえ、油断をすればひとたまりもない。里美の要求はアウトコースの真ん中あたりから、ストライクゾーンへと落ちるカーブ。しかしこれは、アウトコースを意識しすぎて、ボールになった。後藤は微動だにしない。次はストライクを取りに行ったスライダー。しかしそれも真ん中低めに大きく外れた。後藤はまた、身じろぎもしない。ストレートを狙っているんだろうか。ボールが先行しての三球目のサインは、俺の得意なインコースへのストレート。
 一発もある後藤の、狙い球かもしれない。ここでストライクを取れないとランナーを溜めてしまう。そういったことを考えてしまい、慎重さが災いしてうまく腕が振れなかった。置きにいった棒球が、インコースの甘い所に吸い込まれていった。
 金属バットとボールがこすれ合う音が耳に微かに届いた。ライナー性の速い打球が、防護ネットで作ったホームランゾーンを、あっという間に超えた。ツーランホームラン。
 あっさりと、二点を取られた。俺は後藤がダイヤモンドを回る間、ずっと、地面と睨み合いをした。
 そして審判が得点をコールすると、ひとつ、息を吐いて顔を上げた。弱気になると、やられる。学習した俺は、徹底したインコース攻めで、五番打者を打ち取った。
 二回表の攻撃もあっさりと終わってしまった。けれど、県内屈指の剛腕、河合の前では予想の範囲内だ。いちいち落胆はしない。
 一回裏で、やれるという自信を掴んだ俺は、人より恵まれた手の長さを存分に生かし、角度のある球を放っていく。後藤に打たれた後から制球が安定して、ストライクが面白いように取れた。厳しいコースへの速球を中心にストライクを先行させた後、ボールゾーンに落ちるチェンジアップを織り交ぜると、さすがの神西の打者も打ちにくいようで、凡退が増えていった。 

 それから俺は、神西打線を相手に七回の裏までゼロを刻ませた。打順が回ってくる八回表の攻撃に備えて、バッティンググローブを手にはめつつ、横目でスコアボードを眺める。一回裏に二点が入って以降は、お互いにゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ。俺は、夢でも見ているような心地で、多野の女子マネージャーが紙コップに注いでくれた温かいお茶をすすった。半分ほど飲んで、席を立つ。紙コップをパイプ椅子へ置き、ベンチの端にある、傘立てのような粗末な収納場所から、自分のバットを引き抜いた。
 多野の六番、サードの紀藤が、右打席に入った。俺はヘルメットを被り、石灰で円を描いたネクストバッターズサークルにしゃがんだ。河合は、疲れた様子もなく、淡々と一球目を投げた。しかし、あまりにも淡々と投げ過ぎたのか、これまでヒットを打たれていないことで油断したのか。極甘のスライダーがど真ん中に入ってきた。これまで二つの三振に終わっていた紀藤は、あまりの絶好球に興奮したのか、スライダーを待ち切れずに早いタイミングでボールを叩いた。しかし多少のタイミングのズレも帳消しにするような甘さのボールは、ライン際をきちんと締めていなかったサードの右手側を抜いた。神西のレフト、木元の、素早いクッションボールの処理と返球はさすがだったが、それでも間に合わず、紀藤は悠々と二塁を陥れた。
 七番打者の俺は、左バッターボックスへ向かう。河合にとっては今日初めての、セットポジションからの投球。河合はマウンドの土を足で入念に固めたり、帽子を被り直したりして、少し落ち着かない。俺は足元を軽く固めてから、監督を見た。サインは送りバント。ヘルメットのつばに手を当て、バントの構えをする。バントの練習ももちろんしているが、高校になってからは一度も試合でやったことがない。その上、難しい三塁へのバント。否応なしに鼓動が高鳴った。
 初球。三塁線にボールを転がそうと出したバットに、ボールは当たってくれなかった。ボールゾーンだったが、引っ込めるのが間に合わず、スイングを取られ、ワンストライク。次のサインもバントだった。俺は同じように腰を屈めた。今度は当てられる場所にボールが来て、当てた。しかしボールは、ライナーとなって浮き上がり、一塁側の神西ベンチの前に落ちた。ツーナッシング。追い込まれたことに小さな罪悪感を覚えつつ、監督を見た。
 少し呆れ顔で、打て、のサインが出された。俺は心の中で謝り、二度ほど素振りした後で、打席に入り直す。バント失敗を取り返さなければと、気負うと失敗する。いつものように、甘い球が来るまで粘る打ち方でいい。目を閉じ、開く。肩の力を抜いた。
 左足を軸に、バッターボックスの後方に立った。位置は、ホームプレート側のラインのぎりぎり。インコースをさばく自信があるからの打法でもあるが、相手が人間なら、投手への内角球は多かれ少なかれ気を遣うことを考えての打ち方でもある。脇を締め、右足の爪先を地面に押し付ける。右足のかかとを微細にゆらしてタイミングを計る。
 ボール球は見極め、見極めが難しい所に入ってきたらカットで逃げる。甘い球は打つ。このカウントでは、変に配球を読むよりも、今までの練習が、基本に忠実な反応を促してくれることを、信じるしかない。
 球が、河合の右手から吐き出された。全体の動きがほんの少し緩い。前打席までの感覚では、ストレートよりも振りが少し緩いのがカーブ、振りがほんの少し緩いのがスライダーだ。ボールカウントなしでのスライダーなら、絶対にストライクゾーンには投げない。バットを動かさずに、見送った。
「ボォッ」
 キャッチャーは、地面についたボールを擦って土を落としている。スライダーが曲がり過ぎて地面についてしまったらしい。曲がり過ぎて地面につくことを警戒しないとならないなんて、俺のスライダーの変化やキレからすれば羨ましい限りだ。
 テンポのいい河合に引きずられないよう、すぐに構えた。次の球が来る。今度は腕の振りが少し緩い。右打者にとっては、のけぞりたくなるほど肩口から入ってくる、昔のピッチャーがよく使っていたカーブ。しかしまだインコースを攻められていない、左打者の俺にとっては、そこまで怖さがない。振り抜く。打った瞬間にバットを放って走り出したが、打球は一塁コーチャーの足元を抜けて行くファウルだった。
 バットを拾い、仕切り直し。こうなれば、配球は読める。インコース低めへのストレートだ。ここでそこへのストレートを一球使っておかなければ、カーブのブレーキ感と、スライダーの変化量は十分に生かせない。俺を追い込んでからの二球で、そのことに気付いたはずだ。ヤマが外れても、コース違いのストレートなら、カットで逃げられる。変化球も同じ。リリースの違いが隠しきれていないから、かろうじて当てられる可能性が高い。
 絶対に、インコースのストレートしかない。俺はホームプレートに被さるぐらい、寄った。来い、インコース。七回表、ノーアウト二塁、最初で最後かもしれない、絶好のチャンス。ベンチは声を張り上げている。しかし、言葉が意味を伴って、耳に届かない。
 河合が投球モーションを終えようとした瞬間、俺は足のステップを使って、内角打ちの態勢に切り替えた。河合が気付いたようだがもう遅い。ボールは手から離れてしまった。
 快音。絶好の感触。駆け出し、バットを放る。打球はやや前進守備だったライトの上を軽々と超え、長打コースになった。
 全力疾走で一塁を蹴る。
 特別校舎の裏で、ベースランニングの真似ごとに、真剣に取り組んだ日々。あれは、無駄なんかじゃなかった。何度も繰り返し足に刻み込んだ成果が軽やかに足を運ぶ。二塁を蹴る前に、三塁コーチャーを見る。手をめいいっぱい広げ、俺を呼び込んでいる。彼は手を横に払っていた。スライディングをしろとのジェスチャーだ。
 速度を落とさず三塁目掛けて突っ込んだ。滑り込む。足がベースについたと同時に、サードのグラブがヘルメットを思い切り叩いた。いてぇ、と思いながら、後ろ手をついて審判を見上げる。
「セーフ! セーフ!」
 神西の控え選手が、二度、大きく手を横に広げた。
「しゃぁ!」
 これで一点差だ。俺は荒い息を吐き出しながら、ベースに足を載せて立ち上がり、三塁ベンチに向かって大きく拳を突き上げた。砂埃が目に入って、ベンチの様子は良く見えない。けれど、声からして、盛り上がっているのは確かなようだった。
 審判に向け、両手でアルファベットのTの形を作ってタイムを要求し、左腕にあてていたレガースを外す。それを三塁コーチャーに渡した。
「ナイバッチです」
 三塁コーチャーが、嬉しそうに口もとを緩めた。俺も軽く笑んで返す。
 ずれたヘルメットを直し、三塁塁上から河合を見ると、目の色が変わっていた。フォアボールのランナーを二人出しただけで、ヒットのランナーは出さず、ノーヒッターペースで抑えて上機嫌だった所を、打たれた。しかも、夏にコールドで破ったチームの、下位打線に。真木さんによれば、負けん気を真っ向から表現するタイプということらしい河合は、憎しみにも似た目を、次のバッター、八番キャッチャーの里美へ注いでいる。
 形だけ見れば、ノーアウト三塁。放っておいても一点は入りそうな場面だ。俺のように、感情を出さずに投げ込む投手が、苛立ちを顔に出したのならば、一気呵成に打ち崩すチャンスでもある。無駄にアウトカウントを稼がせてやる必要はない。だが河合のような投手は逆だ。気持ちが入り込めば入り込むほどいい球を放る。そう思ってベンチを見ると、俺に向けて、サインが出ていた。監督も、俺と同じ思いだったらしい。俺は了解のサインを返し、河合が投球動作に入るのを待った。
 河合が何度も首を横に振る。そして五回目のサイン交換でようやく頷き、俺を、目で牽制した。そしてセットポジションから、初球。俺は地面を蹴った。これまでで一番の剛球に見えたそれは、ストライクゾーンに入った。里美がヒッティングからバントの構えに切り替え、かろうじて当てる。マウンドを下りるピッチャーと、駆け出したファーストと、その場に留まるキャッチャーのちょうど中間点に、ボールが飛んだ。俺はホームにがっちり待ち構えるキャッチャーの股を抜き、足をホームプレートに差し入れる。そのあと、左肩にグラブが当てられた。左足全体に、筋が伸びるような、小さな痛みが走った。
「セーフ!」
 けれど、主審が、三塁打のときと同じように両手で素早く空を切っているのを見て、そんな痛みはすぐに消えた。立ち上がり、三塁ベンチに向かって駆け出す。ベンチで出迎える選手とハイタッチを交わし、最後に待っていた、笑顔の真木さんとハイタッチをして、手を絡ませ合った。
「すごいよ、達吉くん! 本当にすごい!」
 真木さんは本当にうれしそうに、俺の左手を両手で包み、称えてくれた。試合の途中、まだ同点に追いついただけなのに、嬉しすぎてどうしようかと思った。俺は真木さんの手をしっかりと握り返した。俺の手だけが汗ばんでいたのか、真木さんの手も汗ばんでいたのか。その感触に、名残惜しさを感じながらも手を外し、ベンチの自分の席へ戻った。
 興奮がだんだんと冷めてくると、ベースを全速力で走り回った疲れが、少しだけ足に来た。バッターを見るともう、三球三振で仕留められていた。河合はスイッチが入ってしまったらしい。俺はろくに休めないまま、ベンチから出て、控えの選手とキャッチボールを始めた。そして一番の北島がアウトコースのスライダーを振らされて三振に倒れたのを確認し、そのままマウンドに走った。
 表の攻撃では、はしゃぎすぎたが、ベース間の全力疾走くらいで投球に支障をきたすほど、ぬるい走り込みはしてきていない。俺と里美は今まで散々内角を突いてきた"貯金"を利用し、徹底してボールをアウトコースに集めた。そして六番から始まった打線を三者凡退に仕留めることに成功した。
 二対二の同点。練習試合だから、延長戦はない。多野が勝つには九回表の攻撃で一点を勝ち越すしかなかったが、情け容赦ない河合の投球術に翻弄され、あっという間に三者凡退に終わった。
 多野の勝ちがなくなったのをベンチから見届けた俺は、放置していて冷めてしまったお茶を口に運び、紙コップをゴミ袋へ放った。グラブを掴み、ベンチを出る。その際、軸足の左足に、痛みが走った。ぴんと張り詰めるような、痛み。
 しかし些細なものだったので気にせず、マウンドに上った。投球練習を済ませ、軽い屈伸運動。そこでも、左足に痛みがあった。なんだか、突っ張るというか……嫌な、痛みだ。スクイズで、ベースに滑り込んだ時から、のような気がする。どうして今日に限って。
「あとアウトみっつ!」
「同点で終わろー!」
「落ち着いて放れよ!」
 内野陣から、外野陣から、ベンチから、様々な声が飛んでくる。
 そうだ。
 俺は今、マウンドにいる。この一年半、どれだけ願っても、立てなかった、試合のマウンドに。
 相手にとっては練習試合でも、俺にとっては、真剣勝負だ。大学で野球を続けるか、そのまま就職するか。判断基準にするための、大事な、試合。少しくらいの痛みなんて、気にしていられない。
 九番の川原が立つ左バッターボックスに、目を向けた。左足の爪先で、マウンドの、硬い土を叩いた。大丈夫、やれる。
 サインに頷き、両手を頭上に掲げ、左足だけで立ち、右膝を腰よりも高く上げる。重心をかけた左足が、また、痛んだ。その痛みが感覚を狂わせ、狙ったアウトコースとは間逆の、インコースへ、ストレートがいった。バッターがくの字に腰を曲げて、ボールを避けた。里美は慌ててミットを動かし、どうにか捕球した。
 俺は、バッターがベンチへ目を向けた隙に、軽く手を上げて謝意を示した。
 ……なんだ、この感覚?
 次の球も、その次の球も、狙った所にいかない。一球、一球、投げるたび、痛みが増していく。立っていられないほどではないが、地面に足をつくと痺れるような痛みが走る。
「フォアボール!」
 結局、一球もストライクが入らないまま、九番打者の川原を歩かせてしまった。
 次のバッターは、初回に、尋常でないスイングスピードを見せつけてくれた、キャプテンの脇屋だ。甘い所に行くとやられる。
 俺は、深呼吸しようとして、自分が肩で息をしていることに気付いた。
 おかしくなったのは、足が痛みだしてからだ。八回までは、なんともなかったのに。
 顔に出さないよう、平静を装って、セットポジションに入る。しかし、脇屋の鋭い視線と目がかち合い、嫌な空気を感じた。プレートから足を外し、一塁に牽制するふりをした。右袖で汗を拭きながら帽子を被り直し、また、サインの確認をする。
 八回までは次の球を早く投げたい一心でテンポよく放っていたけれど、今は少しでも休む時間が欲しい。だが間が空きすぎると、相手に異変を悟られる。俺は無理やり振りかぶった。しかし、左足がまっすぐ伸びてくれず、投球フォームを制御できないまま、ボールが手もとから離れた。それはバッターの後ろを通るとんでもない大暴投になった。一塁ランナーの川原が次の塁に進む。俺はマウンドから降りて、里美の近くまでボールを受け取りに行ったが、そのときにも、左足は違和感の主張をやめない。
 ボールを受け取ってマウンドに戻ると、監督が、タイムを取った。内野陣が集まってくる。里美が、グラブで俺の太ももを軽く叩いたあと、グラブを口にあてた。俺もグラブを口にあてる。
「どうした? どっか痛めたのか?」
「疲れが足にきてる。俺、試合経験少ないから、消耗が早いのかも」
「けど、八回まではスタミナ切れの雰囲気もなかった。スッと投げてたじゃないか」
 ベンチから、伝令の一年生が走ってきた。練習試合でも、グラウンドに入る際に、きっちり一礼した。
「監督が、左足痛めたのか、聞いてこいということです。痛めたなら、無理をしないで桂と代われということです」
「痛めてない。大丈夫。監督にそう伝えてくれ」
「浦部第一のマネージャーさんも、屈伸するときと、左足に体重をかけたとき、顔をしかめていたって、言っていましたよ」
「大丈夫。真木さんは大げさなだけだから」
「おい、練習試合だぞ。確かに神西と引き分けたら自信になるけど……怪我してまでやることねぇよ」
「大丈夫だって言ってんだろ!」
 俺は思わず、大きな声を出した。内野陣全員が、驚いた様子で俺を見つめる。伝令の一年生選手は、冷静に、言葉を繋いだ。
「とにかく、一旦ベンチに下がりましょう。少しくらい待たせても、平気です」
「分かった」
 俺は大丈夫だということをアピールするため、走ってベンチに戻った。ノーアウト二塁、一点入ればサヨナラ負け、バッターは脇屋という絶体絶命の場面で、マウンドを譲るわけにはいかない。
 ベンチの手前に、真木さんが立っていた。俺を睨むようにして。
「大丈夫ですよ、ほら、走ってここまでこれたんですから」
 しかし真木さんは、俺の左足を指差した。
「今、左足、引きずってたよ。気付かなかった?」
「え」
 見ると、無意識に、左足のかかとが地面につくのを避けていた。無理につこうとしたら、明らかにおかしい、今までに感じたことのない、張りがあった。
「交代、お願いします」
 真木さんは、監督に、そう告げた。監督が、ベンチを出て、主審役の選手に、交代を告げに行こうとする。
「待ってください。あと三つです。あと、三つで、神西に!」
 俺は食い下がった。
 一年半、必死に耐え続けた成果が、勝利とはいかなくても、引き分け、県ベスト4のチームとの引き分けという結果に終わろうとしている。しかも、一年の夏に、観客席の人間にゴミ扱いされた試合の相手に、自分の打点つきで。引き分けに終われば、大学でやっていける自信もつく。でも、ここで降板したら、ここで負けたら。
「駄目」
「何で、どうしてですか! 何の権利があって、そんな!」
「たかが練習試合で、後輩の大事な身体に怪我をさせるわけにはいかない。今、達吉くんが感じているのが、痺れるような痛み、張るような痛みなら、それは、肉離れの一歩手前。前兆に気付けた分だけ、達吉くんはついてるよ。気付かないで、突然、肉離れになってもおかしくないんだから」
 真木さんは、背を向け、ベンチに戻った。
「それでも降板したくないなら、私がマネージャーになった理由、思い出して」

 
 結局、試合は、サヨナラ負けだった。控えの桂が、俺と交代してすぐ、脇屋を敬遠し、神西の二番打者、木元に、右中間へのヒットを打たれた。
 俺は、左ふくらはぎのアイシングをいったん中断し、片足跳びで試合後の整列に加わった。里美と脇屋、キャプテン同士の号令でお互いに礼をした。
「浦部第一って、秋、出てましたっけ。長谷川くんみたいなのがいたら、話題になってたと思うんスけど」
 さっさとベンチに戻ろうとしていると、神西のピッチャー、河合に、声をかけられた。
「人数がいなくて廃部になったんです。人数が集まれば、来月、部を作り直すつもりです」
「一年の夏に、俺らと当たりましたよね? 初めてベンチ入りした試合だったから、覚えてるんスよ。あの時とはえらい違いでしたよ。俺、次は絶対、打たれるつもりないんで。夏、また、やりましょう」
「そうなるといいっすね。次までに、俺も、もっと練習しときます」
 そう応え、俺はまた、片足跳びでベンチに向かった。河合の、直球か変化球かで差が出る投球モーションについては、あえて指摘しなかった。夏までに、部を再興でき、試合に必要な人数を集める事ができ、河合のモーションの癖がそのままで、しかも神西と、公式戦で、当たる。そんな可能性は、限りなくゼロに近い。けど、ゼロじゃない。
 途中で、真木さんが近づいて来て、肩を貸してくれた。真木さんの首を抱きかかえるような格好になった。真木さんは、制服の上から、スポーツ用のウィンドブレーカーを羽織っているので、肌の接触はない。それでも俺は、真木さんのほうを、頑なに見ないようにして、ベンチに座らせてもらった。
 手の空いている部員は全員、試合の後片付けに奔走していて、今のベンチには誰もいない。試合が終わって、熱が引いていくと、真冬のような寒さが肌に沁みた。今年の三月は、やっぱり、冬だ。真木さんは手をカイロとすり合わせながら、俺のすぐ左隣に座った。そしてポケットからもう一つのカイロを取り出し、俺に、手渡してくれた。俺は礼を言い、一旦、カイロを脇に置いた。ふくらはぎに、アイシングを施し直すためだ。うまくサポーターを巻けずに手こずっていると、見かねた真木さんが、俺の足もとにしゃがんだ。ユニフォームをまくりあげているので、真木さんの髪が、膝に直接かかった。くすぐったい。冷たい手も、ふくらはぎに触れている。俺がそんなことに気を取られている間に、真木さんは、しっかりと処置を終わらせた。
「言うこと聞いてくれて、ありがとう」
 真木さんは俺の左隣にもう一度座り直した。そして自分の足もとを見ながら、小さな声で、言った。
「いえ。俺の方こそ、わがまま言って、すいませんでした。嫌なことも、言わせてしまって」
「どうして、最初は、拒んだの? 自分で、この痛みはまずいとか、思わなかった? いくら相手が神西だからって、達吉くんは変なプライドで冷静さを失うような人じゃないでしょ?」
 俺は、カイロを手に取った。ついさっきまで真木さんが使っていたのか、温かい。
「俺、自分で自分に、賭けてたんです。今度の試合、神西を上手く抑えたら大学の主要リーグを狙う。逆に、点差をつけられたら就職。そんな風に。で、上手く抑えたら、欲が出てきて。大学で通用する確信が欲しくて。続投、したかったんです」
「達吉くん、就職も考えてるんだ」
「というか、就職しか考えてなかったんです。つい最近まで。けど、真木さんが、強豪校に行くって言うから」
「私?」
 無防備な、疑問形。
 卒業したら、道がそれぞれ分かれて、真木さんも、俺のことなんか忘れて、大学生活を楽しむんだろう。俺は、そう感じてきた。きたからこそ、いつも、閉じ込めてきた言葉が、あった。別れを寂しいと思ってくれるだけで充分だと、感じてきた。気持ちを伝えたとして、受け容れられなくても、相手も同じように想ってくれていても、どちらにしても、悲しくなるだけだから。
 だがこの前の……十日前の言葉が、頭から離れない。県外の大学に通う真木さんは、簡単には会えない場所で一人暮らしを始めるのだと、勝手に勘違いしていた。だけど、家から通う、と十日前の真木さんは言った。
 それなら少しは、繋がりを残せる可能性があるんじゃないか。そう思うと、駄目だった。
「俺、真木さんと、もっと一緒に、野球をやりたいです。離れたくないです」
 真木さんの顔が、少し、赤くなった。
「ん? どういう、意味?」
「真木さん、このあいだ、自宅から通うって、言いましたよね?」
「そう、だけど。ずいぶん前に、言わなかった?」
 言ってませんよ、と不機嫌な声を出しそうになったが、堪えた。入江先輩のことと同じように、きちんと確認もせず勘違いしていたのは、俺自身のせいだ。
「来てくれませんか、これからも。教えてくれましたよね。みんなと離れて、やっていく自信がないって。だったら、来年も、一緒に、やりましょうよ。俺は、来年も、この街で暮らしてますから。本当に、暇で暇で仕方なくなったらでいいんで、練習、見に来て下さい。真木さんがいないと、俺、頑張れないです」
「頑張れない? 私がいないと?」
「はい」
「待って待って待って」
 真木さんは、少し整理する時間が欲しいというように、手のひらを俺へ向けた。
 しばらくその体勢で固まってから、手を下ろして、俺のほうを見た。真木さんの頬は、なんだか火照っているようだった。
「あ。里美くん、が」
 真木さんは、何かを言おうとしてやめ、その言葉を代わりに発した。真木さんの視線を追って振り返ると、ベンチ内の椅子の隅に、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲み下している里美が座っていた。足元には、ファスナーの開いた、部活用の大きなバッグがある。
「里美。いつから、いた?」
「水、飲みにきただけ。心配すんなよ、冷やかしたりしねえから。お前はとにかく、足を心配してればいい」
 里美は飲み干したペットボトルを放って、ベンチを後にした。
 聞かれたのが里美でよかった。安堵の溜息を吐き、真木さんをもう一度、見た。
「私も、手伝ってくる」
 間が空いたせいで、真木さんは、頬の火照りも収まったらしく、いつもの様子に戻っていた。立ち上がり、カイロを握り締め、ベンチの外へと歩いて行く。
「さっきの話。いいよ。練習も、見に来てあげる」
 真木さんが、途中で、立ち止まった。帰ってきてから続きを話そう、と思っていた俺は、急に振り向いた真木さんに、不意をつかれた。
「けど、練習っていう理由がないと、会えない?」
「りっ、理由なんて、どうでもいいです! これからも会えれば、それで」
 俺の言葉を聞いた真木さんの口元に浮かんだのは、これまでよく見た苦笑でもなく、普段の楽しげな笑みでもなく。触れると壊れてしまいそうな、それでいて慈愛に満ちているような、不思議な笑みだった。
 それから真木さんは、両手をウィンドブレーカーのポケットに突っ込み、灰色のスカートをなびかせながら、軽い足取りで片付けに向かった。
 俺は、数瞬前の真木さんが零した、蠱惑(こわく)的な微笑に惹きつけられ、その背中からしばらく、目が離せなかった。





(2011/4/19)
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