六時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、クラス全体から溜息が洩れた。
 中間テストが近く、駆け足で黒板に書きなぐる英語教師に、ついていくのが精いっぱいだった。連日の練習のせいで、と言いたいところだけれど、練習のせいにしていたら、人一倍練習し、成績もよかった入江先輩は説明がつかない。
「明日の午後は校内校外一斉清掃です。勝手に帰ったら明後日の朝、校内放送で職員室まで呼び出します」
 掃除のために椅子を机に載せていると、担任が丁寧な言葉遣いの割に厳しい目つきで、クラスの中を見渡していた。背中に聞きながら、一番後ろまで机を押す。
 同じく教室掃除担当の男子から箒とちりとりを受け取り、協力して隅から隅までざっと掃いて中央に寄せた。今度は黒板担当以外の全員で机を前に寄せ、同じ要領で掃いた。そして机を元に戻し、終わり。
 ユニフォームやグローブが入った四角くかさばる鞄を担ぎ、
「いつまでもダレてんなよ」
 今日の練習メニューをマネージャーから教えてもらったあと、机の上にうつ伏せになった、陸上部の宮川の背中を軽く叩いた。
「しょうがねぇ。行くか」
 三階にある教室から、階段へ。
「秋の大会は集まりそうか?」
「無理。部ですらないから」
「そっか。来年に期待だな。でもまあいいじゃん、可愛いマネと二人きりで練習とか」
「お前、真木さんのこと知らねぇだろ」
「達吉の話にときどき出てくるけど、その話だけでも可愛い感じがする」
 人でごった返す階段をだらだら下り昇降口、そこで上履きからスニーカーに履きかえ、部室棟まで歩く。
「真木さん、最近はぼーっとしてるときが多いんだよなぁ。声かけるとすごいびっくりされるし」
「進路のことで悩みでもあるとか?」
「そうかも」
「相談に乗ってあげれば?」
「俺が?」
「お前が」
「俺が乗ったってしょうがないだろ」
「なーに言ってんだよ。お前は野球バカだから、練習さえできればそんなん気にしねぇだろうけどさ……。普通だったら、男女二人の部活なんて、気まずくって日が沈むまでなんてやってらんねぇよ」
 部室棟と、特別教室の入った校舎との境目で、宮川は足を止めた。いつもそれぞれの部活に散る場所だ。
「例えば、俺が藤枝さんと二人きりのところ、想像してみろよ。マネと選手なんて、同じ部活に携わってるってだけで、俺と藤枝さんくらいの……クラスメートの距離間よりちょっと近いくらいだろ? 二人で黙々と準備とか、片づけとか、練習メニュー調整とか、世間話とか……。俺なら二人になったその日で音を上げる自信があるね。けどお前と真木さんは違う。むしろうまく行ってるみたいだしな。そっから考えると……」
「お前さ、立ち話してる余裕あんの? グラウンドにもうみんな出てきてるっぽいけど」
 俺は建物の隙間から微かに見えるグラウンドに、陸上部員が用具を運んでいるのを認め、顎でしゃくった。
「うあ、マジか! えーっと、結論言うと、そのマネさんはお前のこと、部活の可愛い後輩、なんてくくりじゃ説明つかない感情を持ってるかもしんないから、相談に乗ったら喜んでくれんじゃね? ってこと。じゃ、急ぐから、また明日な」
「結論も長ぇよ」
 俺はそう呟いて、踵を返した。部室棟へ向かっていく生徒がほとんどで、歩けば歩くほど人の気配がなくなった。
 真木さんも俺と同じ人間だと言ったら、宮川は納得するだろうか。宮川に説明する暇がなかったが、真木さんはとにかく野球が好きでしょうがない人だ。たった二人でも諦め悪く活動を続けているから、周りからみればそういう関係に見えるのかもしれない。けれど、俺が、練習のせいで、真木さんと二人きりでも意識している暇がないのと同じように、真木さんも、大好きな野球に関わっていられるのなら、後輩と二人きりだろうが関係ない人だと思う。
 それに、入江先輩のこともある。
 特別棟裏の練習場にたどり着くまでに、急ピッチで感情の防波堤を建て直した俺は、真木さんがまだ来ていないのを確認して軽く息を吐き、ユニフォームに着替えた。
 ウォームアップをしていると、真木さんが恒例の謎の歌を口ずさみながら姿を現した。
「おはよー」
「ちわす」
「今日も頑張ろうね」
 真木さんはそう言って、無断練習場の端にある机に、歩み寄った。あの机は、夏休み明け、真木さんが教師に無断で、特別棟の倉庫から引っ張りだしてきたものだ。机には、家から持ってきたという簡易スタンドライトが備え付けられている。真木さんは机の脇の取っかかりに鞄をかけ、勉強道具を広げていく。
「いつも気になるんですけど、その鼻歌、真木さんのオリジナルですか?」
「んーん。違うよ。実在するバンドの歌」
「バンドですか」
「うん。四人ともそれぞれが個性的でね。だから音楽性をすり合わせるのが大変そうだけど、他の三人がいるから良い音楽になってるの。達吉くんも、一人では野球はできないんだから、仲間がいなくていいなんて思っちゃだめだよ」
「俺は別に一人が好きな訳じゃないです。部員が入らなかっただけ」
「へへへ……。知ってるよ。達吉くん、野球やってるときは本当に険しい顔してるから、知ってても、あえて一人でやってるのかと錯覚しそうになるんだよ」
「あえて一人で練習するのが好きなんて、求道者ですか、俺は」
「来年、部員集め、頑張ってね。絶対、九人集めて」
「それは高望みでしょう。四人入れば、俺の友達以外に一人集めるだけで試合に出れます」
「四人……。そっか、こんな状況なんだから、何も常識にこだわる必要はないんだ」
 真木さんはそこでペンを一度回した。

 朝練と、一時限から四時限の授業をこなして、昼休み。俺は宮川と一つの机を分けあって、弁当を食べた。矢島と橋本はテニス部のミーティングのあと、部の連中と一緒に食べるらしい。
 クラスの女子が、肌を見せずにうまいことジャージへと着替えている。いつも同じように着替える真木さんを思い出していると、携帯電話の無料ウェブゲームで遊んでいた宮川が、顔を上げた。
「そういや、先輩の相談に乗ってみたか?」
「乗ってない」
「聞いてみりゃいいじゃん。最近元気ないですねー、って」
「野球以外のことはほとんど話さないから、きっかけがない」
「チキンが」
「なんでそうなる」
 俺の言葉を無視して、宮川はロッカーにジャージを取りに行った。俺も自分の鞄から取り出し、手早く着替えた。男女別の更衣室なんて贅沢なオプションは、この県立高校にはついていない。
 宮川が着替え終わるまで待ってから、校庭に出た。今日は出席名簿順でいくつかのグループに分かれ、校内校外の一斉清掃日だそうだ。そんなことをしている暇があるなら練習に向かいたいが、勝手に帰って呼び出されたら面倒なので、仕方なく参加することにした。
 俺は名字が長谷川で、名簿の近い前田と宮川、藤枝と同グループ。いつも放課後の掃除をしているメンバーより、二人少ない。掃除場所は特別棟周辺。他の人間に、ビニールシートのかかった備品を見られたくなかったので、担任に頼んで変えてもらった。
 宮川と一緒に特別棟の入り口に行くと、既に前田が竹箒で玄関先を掃いていた。
「遅いよ」
 前田が少しイライラした様子で言った。
「ごめん、前田さん。ゆっくりしすぎた」
「長谷川くんはいいんだよ。どうせ、宮川くんのせいで遅れたんだろうから」
「酷くねぇ、それ?」
「信用の差だよ。じゃあ、片方は窓拭きお願いね。もう、藤枝さんがやってくれてるから。もう片方は私と掃き掃除」
「じゃあ、俺が窓やってくる。藤枝さん、手が届かない所がありそうだから」
 特別棟入口の窓は、普段から用務員さんが掃除してくれているのか、大して汚れてはいなかった。庇が出っ張っているので、雨粒の跡もない。
 そこで、藤枝がスプレータイプの洗剤を窓に吹きかけている。見たところ百五十あるかないかの藤枝は、上の方に手が届いていない。
「俺、やるよ」
 藤枝の手から、力を抑えて、洗剤を引き抜いた。
「あ、長谷川くん」
 俺はそれなりに身長が高く、それなりに腕も長い。楽に吹きかける事が出来た。藤枝から雑巾を受け取り、割合綺麗に保たれているガラスに、汚れの目立つ雑巾を押し当てる。特に会話もなしに、藤枝は下半分、俺は上半分、という役割分担が自然とできた。洗剤の跡がついて、何枚かあるガラスは次々に汚くなっていく。
「なんか、やるだけ無駄って感じだね」
「俺も思った」
 しゃがんで隅の方を拭いている藤枝は、苦笑いでこちらを見上げた。上のほうの隅を拭いていた俺も、苦笑いで返す。
 藤枝の方が先に、内側のガラスまで拭き終えた。視線を感じて振り向くと、藤枝は傘立ての骨組みの上に座って、俺を見ていた。
「長谷川くんって、野球やってるよね?」
「ああ、うん」
 俺は適当に最後の仕上げをして、雑巾を玄関口のコンクリートの上に放った。
「ふうん。じゃあ、やっぱり、長谷川くんか。美保さんと一緒に野球やってる人は」
 美保は確か、真木さんの下の名前だ。フルネームを初めて知ったのは、春の部員集めで、アドレスを交換した時だった。未だに、練習や野球以外の話題に触れたことはない。……触れるのが怖い、と言った方が正確かもしれない。真木さんと野球以外の話をしようとするたび、入江先輩とのことが頭に過ぎる。入江先輩と付き合っているなら、今まで通り、接することができる。けれど、付き合っていない場合は。きっと、気持ちが抑えられなくなる。
「真木さんのこと、知ってんの? 藤枝さん」
「塾で一緒なんだ。私ね、プロ野球選手名鑑を毎年買っちゃうくらいには野球が好きで……。今年の夏期講習で、美保さんが、高校野球の雑誌を広げてるのを見つけて、隣に座ってみたの。制服がうちのだったし、友だちになれたら楽しそうだったから」
「へえ」
 学校の外でも、野球の雑誌、読んでるのか。野球バカにもほどがある。
 あの人は本当に野球が好きなんだな……。
「美保さんと話してると、本当に楽しい。詳しすぎて引かれそうだから、野球のこと、学校ではあんまり話さないようにしてるんだけど、美保さんは私より詳しいから気兼ねする必要ないし。その美保さんが、時々、ぽろっと零すんだ、長谷川くんとの練習のこと。うちの野球部は廃部になったはずなのに、何で、部があるみたいに話すのかなーって不思議に思ってた。美保さんはいつも『その野球やってる子が』とかで話して、名前言わないから、この間、ちゃんと名前聞いたの。そしたら、タツヨシくん、って返ってきてね。それですぐ、長谷川くんだって分かって……」
「よく俺と繋がったね。確かに、達吉って名前は、あんまり聞かないけど」
「筋肉のつき方とか、手のマメのでき方とか、投手みたいだなあって、普段から見て、思ってたから」
「そんなに、分かりやすい? あんまり、そういうの、目立たないと思うけど……」
「あれ、私、いま、かなり気持ち悪いこと言った? まあ、どうでもいいじゃない、それは」
 藤枝は照れ笑い交じりに手を振り、言葉を遮った。
「美保さん、褒めてたよ。私以上の野球バカとか、練習しか興味がない変人とか」
「それ、褒め言葉じゃないよ」
「ちゃんとしたことも言ってたけど……美保さんの許可がないと、教えられないなぁ」
 藤枝はくすりと笑った。気になる。何、言ってたんだろ。
「頑張ってね。来年は絶対、良い年になるよ」
 俺は、黙々と練習していることが報われた気がして、
「ありがとう。藤枝さんも、ソフト部の練習、頑張って」
 藤枝は嬉しそうに頷き、傘立てから腰を上げ、雑巾と洗剤を拾った。玄関先に出て前田に声をかけた。俺も後を追った。
 前田が言うには、校舎の裏手の雑草も、抜かないとならないらしい。
「俺、この校舎の裏で練習してるから。雑草は定期的に抜いてる」
 めんどーだねと言い合う藤枝と前田に、教えた。宮川は前に覗きに来たことがあるので、もう知っている。
 前田が、俺の肩を叩いた。
「よくやった、長谷川くん。じゃあさっさと帰ろう、みんな」
「最後の確認まで残ってないと呼び出しだけど?」
「あれ。そうだっけ。でも呼び出しくらいならいいじゃん。四人とも帰れば……」
 箒に顎をくっつけている前田が、俺の方を見て、言葉を切った。わけのわからない虫を口に突っ込まれた顔をした。
 振り向くと、百八十四ある俺よりも高い長躯に、柄の悪い目つきをくっつけた教師が歩いてくる所だった。生活指導の、小野田。サッカー部の鬼監督としても知られ、特に優等生ばかりというわけでもないこの学校でも、彼に反抗しようという人間はいない。格好つける為に反抗して見せるのと、あの強面を更に怒らせることのほうを比べたら、後者の方がより面倒だからだ。
「何やってんだお前ら。ちゃんと掃除しろ」
「してます」
 前田が、澄ました声で切り返す。
「どこがだ」
 小野田が不愉快そうに声を大きくした。
「いえ、あの、終わったんです、指定された所は、一通り」
 藤枝が、小さな声で、付け加える。
「確かここの担当は、玄関の掃除と、校舎裏の整備、だったな。玄関は……」
 小野田が玄関先に向かった。四人ともしばらく無言で、小野田が掃除場所をチェックするのを見つめた。
「大丈夫だな。あとは校舎裏か」
 まずい。
「あ、大丈夫です。もう終わってるんで」
「終わったなら、抜いた雑草はどうした? ゴミ置き場にはまだ、雑草の入った袋なんて運びこまれていなかったが?」
 小野田が意地悪く笑った。小野田は、しつこく野球部を立て直そうとしていた俺のことを、毛嫌いしている。真木さんによると、野球部の暴力事件の影響を受けて、サッカー部へも、疑惑の目が向けられたからだそうだ。
「見せてもらうぞ」
 仕方ない。備品にはビニールシートが被せてあるし、うまくいけば、見逃してくれるかもしれない。それに、ここで事を荒立てれば、こんなくだらない掃除のせいで、他の三人の内申点にまで影響する。
「わりぃ、フォローできなかった」
 近づいてきた宮川が申し訳なさそうに、囁いた。
「大丈夫だよ。これ、俺の問題だし」
 小野田は校舎裏に着くなり、立ち止まった。
「なんだ。綺麗じゃないか」
 拍子抜けした声音でそう呟いたあと、小野田は校舎裏から出っ張っているコンクリートの部分に首を向けた。
 そこでは、ジャージ姿の真木さんが膝の上にノートパソコンを載せ、イヤホンを耳につけ、画面を見つめていた。全体清掃は一年、二年だけ。三年は早期帰宅で受験勉強、ということになっていた。
「真木、こんなところで何やってる」
 イヤホンを外してこちらを見た真木さんが、気だるげにこちらを見、固まった。
「こんなところで何をしてると聞いてるんだ。三年は部活も引退してるはずだろう、早く帰って勉強しろ」
「あ、いやぁ、ここ、誰も来ないから、一人で過ごすのにうってつけで」
「机まで勝手に持ち出しやがって……お前は、いつもいつも、何なんだ。お前に比べたら、茶髪やピアスのほうがまだマシだ」
 真木さんは、春先、俺に対してよく見せた、あの苦笑いをした。
「このビニールシートはなんだ?」
「それは、別に、大したものじゃ」
 小野田は、すぐ近くにある、マウンドに被せられた青のビニールシートに手を掛けた。
「待って」
 真木さんが、パソコンを放ってこちらへ走ってくる。途中で、ビニールシートが舞い上がった。
 俺はマウンドから目を逸らした。
「他の三人は表に戻っていいぞ。元野球部二人は残れ」
 三人とも、俺を見た。俺は、大丈夫、というニュアンスを込めて軽く苦笑いしてみせた。真木さんの、まね。
 三人が戻るのを確認したあと、小野田は、備品にかけられたビニールシートをめくっていった。最後に、防護ネットにかぶさっていたビニールシートをめくりあげた。
「ここで怪我した人間が居たらどうするつもりだった? 練習中に、たまたま覗いたら、硬球が顔に当たった。重体になった。そのときいったい誰が責任を取る?」
「ボールは、防護ネットに向けて、投げたり、打ったりするだけです。万が一、ボールが逸れても、その後ろは、壁になるように配置してあります」
「お前は硬球の危険性を分かってねえんだ!」
 小野田は、防護ネットのフレームを蹴っ飛ばし、マウンドに戻ってきた。 
「で」
 と、小野田が言った。
「これも一体、どういう了見だ。学校内にこんなもの、無許可で作りやがって」
 小野田がマウンドを、蹴りつけた。砂が巻き上がる。倒された防護ネットがその砂の向こうに見えた。入江先輩たちから、部を託されて、受け継いだ備品。部がなくなってから今日まで、真木さんと二人で、いろいろな練習を行ってきた、大切な、備品だった。
「その上から、どけ」
 沸点の低いはずの真木さんよりも先に、俺は、そう呟いていた。俯いていた真木さんが、弾かれたように顔を上げた。
「今、なんつった?」
「そこからどけって言ったんですよ、先生」
 胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、小野田が近づいてくる。しかし小野田は決して、体罰はしない。野球部の前例が身に沁みているからだ。
「いい度胸してんな、てめぇ」
「教師がそんな言葉遣いしていいんですか」
「生意気言うじゃねぇか。俺が体罰はしない、と思ってるからか」
「はい」
 言った直後、ジャージの襟元を掻きあわされ、引っ張り上げられた。首が締まり、一瞬、息ができなくなった。
「馬鹿が。お前は片親だろうが。体罰をしないのは、両親が居て、どっちもそれなりに口うるさい人間だった時の話だ。お前みたいに母親の出来が悪くて、奨学金でどうにか授業料払ってる人間は、対象外なんだよ」
「やめて、先生」
 こわばった顔をした真木さんが、小野田の腕にすがりついた。
「お前は引っ込んでろ」
 小野田が、左手を俺から離し、その手で、真木さんの頭を掴み、地面へ向けて勢いよく押し飛ばした。真木さんが、マウンドに足を取られ、受け身も取れずに、背中を地面に打ちつけた。真木さんは痛そうに目を閉じ、眉根を寄せた。
 俺は小野田の右腕を、左手で掴み、思い切り爪を食いこませた。小野田が顔をしかめて腕を離す。俺は少しよろめいた後、体勢を立て直し、利き腕の左、ボールを投げるときに使う左拳を、小野田に向けて振りかぶった。
「やめろ!」
 そこで怒鳴り声。上半身を起こした真木さんだった。その声が、一瞬にして真っ白になった頭に、冷静さを運び込んでくれた。俺は動きを止めた。
 避けようとも、防ごうともせず、立ったままだった小野田が、笑った。
「惜しかったな。退学まであと一歩。停学、一ヶ月」
 いいように挑発されたのだ、と気付いたときにはもう、小野田は、校舎裏を後にしていた。
「バカ達吉」
 マウンドにへたりこんだ真木さんが、ぽつりと、言った。そうですね、と心の中で同意した。

 その後、小野田から事を引き継いだ担任に自宅謹慎を命じられ、夕方、担任から改めて電話を受けた。職員会議の結果、教師へ殴りかかろうとしたことは問題だが、実際に殴ったわけではないことを勘案され、とりあえずは、停学十日で済むことになったと伝えられた。停学期間中は中間テスト期間とも重なるが、それを全て欠席することになった。原因が停学のため追試も行われず、全教科が零点扱いになる、ということだった。反省文を原稿用紙二十枚分書いて持ってきなさい、とも言われた。
 職場から帰宅した母に話すと、とにかく叱られた。あまりの怒りように、持病の高血圧が悪化してしまうのではないかと気遣ったら、余計に怒られた。母の事を馬鹿にされたから殴りかかった、という状況なら反論して大喧嘩になったかもしれないが、実際には、真木さんが突き飛ばされたことも、引き金だった。
 互いに無言の夕食を食べ終え、少し食休みしたあと、外を走ってくる、と言って家を出た。
 信号や横断歩道、車が通る道を避けるようにしてとにかく全力で走った。何キロ走ったとか、何時間走った、とかは覚えてない。冬を感じさせる冷たい風に、喉を焼きつかせながら、とにかく、走った。そして汚水の流れる側溝に吐瀉物をぶちまけた所で、走るのをやめた。
 そこからは、歩いて家に帰った。
 母親に苦労をかけない程度に勉強はするが、野球以外の事は、今、俺の中では重要じゃない。それなのに、自分から面倒を増やした。何であのくらいのことで、頭に血が上ったのか、分からない。真木さんの短気がうつったんだろうか。
 それにしても、二十枚か。ごめんなさいを二十行書いて、それを二十枚……じゃあさすがに、駄目だよな。
「馬鹿みてぇ」
「そうだよ、馬鹿だよ」
 独り言のつもりで呟き、アパートの郵便受けを覗いたとき、後ろから声がした。
「うわ」
 真木さん。
「何、その、うわ、って。せっかく様子を見に来てあげた先輩に向かって失礼じゃない?」
「いつからそこに。ていうか、家、どうして」
「さあ、いつからかな。住所は野球部があったころの名簿。とりあえず、これ」
 アパートの入口の夜灯に照らされた真木さんは、学校用のサブバッグから、ボールを取り出した。
「あげる。備品、全部処分されたけど、一つだけ、無事だったから」
「全部、処分、ですか」
「一斉清掃なんかで部が完全に潰されるなんてね。冗談みたい。真悟に申し訳ないなぁ、本当……」
 真悟は、入江先輩の名前。胸がきりきりした。
 真木さんは手首だけを動かして、ボールを俺の方に投げた。俺は左手でそれを掴んだ。真木さんが何度も修繕してくれ、使ってきたボールのひとつ。真木さんの表情は、いつになく険しい。駐輪場で軽い口喧嘩になった時よりも、ずっと。
「達吉くん。私、今日の達吉くんには、がっかりした。一人なのに、一日も練習休まないで、手を抜かないで、野球ばっかりやってて、面白い後輩だとは思ってたけど、少し挑発されたくらいで、すぐ人に暴力を振るおうとする後輩だとは、思ってなかった」
 胸の痛みが、増した。
「備品が見つかったくらいだったら、処分なんてされなかったかもしれない。真悟とか、他の先輩とか、もっともっと前から、大切に、うちの野球部で使ってきた備品を……。全部、取られるなんてことは、なかったかもしれないんだよ?」
 この一年、練習を続けてきた俺の目標は、入江先輩だった。ボール球とストライクの見極めが下手で、明らかに見逃し三振なのに、フォアボールだと思って一塁に走っていく先輩。俺が「三振です!」と怒鳴ると、照れ笑いでベンチに戻ってくる先輩。そんな一面もある入江先輩が、練習中は私語をせず、黙々と野球に向き合うその姿を見て、俺は、この高校に入って良かったと思えた。決して腐らず、この高校で、三年間をやり抜くことを決めたのは、入江先輩がいたからだ。
 けれど、いま、真木さんが、親しげにその名前を呼ぶと、どうしようもない、苛立ちが沸き上がってくる。
「なら、先輩は、一斉清掃って聞いて、何かしましたか? 三年生は、先に帰っていいことになってましたよね。その間に、備品を別の場所に移すとか、できたんじゃないですか」
「備品が見つかったことが悪いなんて言ってない。達吉くんが小野田を殴ろうとして、備品が没収になって、停学になったことを責めてるの」
「俺が悪いんですか?」
「小野田を殴ろうとしたことはね」
「けど、大切な備品を足蹴にして、母の事を馬鹿にして、真木さんまで突き飛ばしたんですよ、小野田は」
「だから、違うよ、そういうことが言いたいんじゃなくてさあ……」
 急に歯切れの悪くなった真木さんは、口を尖らせて俺から目を逸らした。
 アパートの二階から洩れる光が、ここまで届いていた。真木さんの視線の先は、アパートの端にある、庇のついた駐輪場。そこには、真木さんの自転車と、俺の自転車が、並んで置いてあった。苛立ちのぶつけどころがなくなり、気持ちが静まっていく。
 真木さんはなかなか続きの言葉を発しなかった。俺は真木さんの横顔や、自転車の車輪をじっと見つめたり、アパート二階の自室を見上げたりした。居間は電気が点いていて、バラエティ番組の笑い声が洩れてきている。
 無茶なランニングの疲れが足に来ていて、立っているのが辛くなってきた。帰ろうか迷い始めた時、ようやく、真木さんが続きの言葉を吐いた。
「達吉くんが退学になってたら、私は残りの高校生活、受験だけしかすることがなくなってたんだよ。そんなの、つまんないよ」
 小さな、呟き。
「俺がいなくたって、友達がいるじゃないですか。それに入江先輩とも、まだ続いてるみたいですし」
「続いてる? 何が?」
「入江先輩との、付き合い」
 真木さんが、ぽかんと口を開けた。そのあとすぐ我に返り、くすくす笑いながら、側頭部の髪を掻きあげ、耳にかける素振りをした。
「えーとね。達吉くん。それは、先輩たちに騙されたんだよ」
「は?」
 今度は俺が口を開ける番だった。
「真悟と私は、小学校からの知り合いってだけ。学年は違うけど、地区ごとの集団登校の時、ずっとグループが一緒でね。要するに、ただの幼馴染。何回も言ってるのに、先輩たちは、『ただの幼馴染は相手の事を下の名前で呼んだりしません!』とか、ふざけて、からかってきて……。例の暴力事件のせいで同学年の部員はいなかったし、実害もないから、放っておいたんだけど」
「そう、ですか」
 さっきの俺は、真悟、と親しげに呼ぶ真木さんを見て、勝手に勘違いして嫉妬して、苛々していた。なんだか恥ずかしくなってきて、顔が熱くなった。
「ああ、でも、勘違いしてたなら、納得。達吉くん、私と、野球以外の話、ほとんどしないよね。私が日常的な話題に変えようとすると、強引に捻じ曲げるんだもん。あれ、真悟に義理立てしてたんだ。変なとこで律儀だなあ」
「わ、悪いですか? 俺、入江先輩のこと、ホントに尊敬してるんです」
「私と話したくないだけかと思ってたよ」
「それはないです。話したいです、知りたいです、真木さんのこと。もっと、いろいろ……」
 焦って訂正した俺は、驚いたような真木さんの視線に気づき、更に焦った。今のは、直接的に言いすぎた。
「や、変な意味はないっすよ。部活の先輩として」
 真木さんがまた、小さく笑った。真木さんは右手小指を唇にあてた。下唇をなぞったり、引っ掻いたり、小指はせわしなく動く。
「停学中、様子、見に来てあげるから。これからの練習の事は、明日、まとめて話すね。実はもう、目処はつけてあるんだ」




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